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第1章
魔女
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「メアリーが赤毛だった頃を覚えていて?」
リリィが訊《たず》ねた。
アレックスが一瞬答えあぐねて、苦々しい笑みを浮かべる。
「覚えてるよ。あの頃からひどいお転婆だった。メアリーのせいで、僕もリリィも面倒なことになったんだ」
どうやらアレックスにとって思い出したくない記憶らしい。どこかよそよそしい口調だ。
それは忘れようのない事件だった。メアリー九歳。金髪への憧れと赤毛への嫌悪がどうしようもないくらい高まって、いても立ってもいられない状態に陥っていた。よく下唇を噛んでいたっけ。
イリヤ城の岸からほど遠くないところに、魔女の住む小島が浮かんでいる。島自体はなんの変哲《へんてつ》もない。全体に青草が生え、くすんで灰色になった小屋が中心に一軒だけ建っている。ただものすごく狭く、塀もなく、木一本生えていない土地なので、小屋が嵐で吹き飛ばされないのが不思議だった。ジョンはふざけ半分にこの島を「まるはげの島」と呼んだものである。
どうやって九歳の女の子が魔女の噂を聞きつけたのだろう。メアリーは皇女付きの侍女として教育を受けていた身分だったし、その辺の野育ちの子どもとは違ったのだ。魔術や魔女の存在を公然と信じるのは平民のすることであって、高貴な者のすることではない。民衆の間では、魔女は村や町の治療師の手に負えない病気を癒《いや》すのに不可欠だった。
イリヤでは昔から魔術師や魔女、魔法の類《たぐい》は忌《い》み嫌われており、しばしば迫害《はくがい》の対象になった。今でも魔女の排斥《はいせき》は変わらず、現皇帝のリチャードが魔女狩りを取り仕切ることもあった。魔女(あるいは魔法使い)の逮捕も裁判も、火刑もしょっちゅう行われる。逮捕し、火炙《ひあぶ》りにされた者の中で、実際どれほど本物の魔女がいたかは定かではない。中には単に薬学や病の治療に秀でていただけの者もいただろう。リチャードは信心深い男だったので黒魔術の横行《おうこう》を阻止しようと真剣に考えていた。
「メアリーはリリィの嫁入りについていくつもりらしいぞ」
アレックスがそう言って妹を見やった。
二人は馬を木に繋いで歩き回るにまかせ、自分たちは原っぱに寝っ転がっている。木の根元にすみれの花が咲いていた。紫の可愛らしいすみれだ。馬たちは仲良く草をはみ、鼻面《はなづら》をすみれにくっつけている。
この原っぱは〈競技場〉と天文台の塔の間に広がっていた。乗馬やピクニックに打ってつけの場所である。平時には城門が開いていて、そのまま城壁の外と繋がっている。本来ならリリィがこの原っぱに来るのは禁じられていた。だが、アレックスと行動すると制限もゆるくなるのだ。
「私は嬉しいわ。どこに行くかわかんないですもの。気のおけない人がいなくちゃ。でもメアリーがいなくなったらイリヤ城も随分《ずいぶん》と寂しくなるでしょうね」
リリィが晴れやかな声でいった。
限りなく自由な気がした。アレックスは外国土産に持ち帰った悩ましげな表情なんかせずに、朗らかな様子だ。鼻歌まで歌っている。リリィは澄みわたった青空を眺めて、幸福な未来を思い描いた。
まずリリィに夫はいない。船に乗っているはずだ。メアリーやアレックスも一緒の船に乗っている。二人は恋人同士になっているかもしれない。リリィは二人を祝福し、熱烈に愛するだろう。大海原《おおうなばら》を越え、さらに遠くへ……。
夜は皆で人魚の歌声を聴こう。船室に戻れば、簡易な寝台の上で(それか、ハンモックの上で!)、明日着くかもしれない港や新しい土地のことを夢見る……
「リリィはメアリーか好きかい?」
アレックスが不審な表情をした。
「ええ、好きよ。たまに我慢ならない時もあるけれど、彼女って素晴らしいもの!」
リリィが迷わずに言う。
不意に、アレックスとメアリーは最近何かあったのではないかと心配になった。喧嘩でもしたのではないか。でもアレックスだってよっぽど真剣に取り合わないというのに。
「我慢がならないって。いっそ彼女は城の地下牢に捕らえておくべきだよ。なんたって九歳の頃から魔女と取り引きするような子だ。あれじゃあ、母親もさぞ苦労するだろうな。将来魔女になったっておかしくない」
アレックスらしくない、攻撃的な口調だ。リリィもそれは言い過ぎだと思った。魔女になるなんてありえない。どうしてアレックスはメアリーのことでこんなに腹を立てるのだろう。
小島の苫屋《とまや》に暮らす魔女のもとに行って秘薬をもらうのには、メアリーにだって勇気の要することだった。当時からわがままで、規律にも従わず、周りを困らせていた。だが、そんなメアリーも、何か人智《じんち》を超えたもの、神秘的といっていいものには、本能的な敬意と恐れを感じていたのだ。
魔女は一人暮らしで、胡散臭《うさんくさ》いお婆さんだった。肌は灰色で、何重にも刻まれた皺《しわ》のせいで老木のように見える。メアリーは心の中で魔女を嫌悪した。
なんて醜いんだろう。私だったら、こんな姿で生《い》き永《なが》らえるくらいなら死んでしまうわ!
その頃、老いや醜さとは不気味で得体の知れないものでしかなかった。
魔女はどんな髪も美しい金髪にしてくれるという秘薬に法外な値段をつけた。
「無理よ。私子どもなのよ。そんな値段、払えるわけないでしょう?」
メアリーが言い張る。
魔女は低い声で笑って、そうはなるまいと言った。メアリーが癇癪《かんしゃく》を起こしかけても、魔女は笑い続ける。老婆の歯は全部で二本しかなかった。他に笑った口の中に見えるのは紫に変色した歯茎《はぐき》と黒い空間だけ。
もう少しで癇癪玉《かんしゃくだま》を爆発させて、シワシワの婆さんの横《よこ》っ面《つら》を張るところだった。
だけど、いきなり魔女が恐ろしくなった。この不気味な小屋の中に囚われて、もうイリヤ城に、アレックスやリリィのもとに戻れないかもしれない。そう思うと身がすくむのだ。
魔女だってメアリーが怯えているのをわかっていたはずだ。しかし、メアリーは虚勢《きょせい》を張って引き下がろうとしなかった。こんなんで諦めるなんて、恥さらしもいいところだ。
魔女の婆さん、背中はひん曲がって、頬もこけているのに、巨人のような風采《ふうさい》だ。かなりの大柄《おおがら》だったのだ。メアリーは一瞬、この魔女、ずっと前に小屋の中に入ったきり、戸口から出たことがないんじゃないんかしら、と思った。戸口を通れるほどの背格好には見えなかった。
メアリーはほんの小さな子どもだった。小さい鼻に、薄いそばかすが散らばっている、愛らしい少女だ。しかし、魔女だって見かけの可愛いさに騙《だま》されはしない。容赦しなかった。
「子どもだって言ったって、あんたは立派な貴族の娘で、友だちは皇女さまじゃないのかい?頼めばなんとか用意してくれるだろうね」
魔女はぞんざいな物言いをした。脅しつけ、嘲笑うような口調である。
わざわざ村娘の服装を借りて、扮装《ふんそう》してきたというのに。魔女はメアリーの身分を言い当てたのだ。ますます不気味で人間離れして見える。
結局メアリーがその日のうちに秘薬を手に入れることはなかった。帰りの舟で、漁師の筋骨逞《きんこつたくま》しい腕が櫂《かい》をこぐのを見ながら、唇をかんでいた。水面《みなも》に光がさざめいてまぶしい。波が時々はねて鮮やかな赤毛に、月のように青白い肌にかかった。口の中では潮のしょっぱい味がした。
その日から、メアリーの「りんごの木通い」が始まった。アレックスは庭のりんごの木の上で読書するのを習慣にしていた。
天気のいい午後、爽やかな風を受けながら読書していると、メアリーがやってきて赤毛や金髪や、魔女のことをがなりたて、アレックスが相手にしないのを見ると、木を激しく揺さぶりだす。
慌てて木から飛び降りて、メアリーを叱りつける。ところがメアリーは憎々しげにこちらを見て、反省の色一つ示さない。また明日同じことの繰り返しだ。
皇子は既に十八歳になっていた。十五歳になると同時に自由にしてよい財産が渡されていたので、魔女に代金を払うことだってできたのだ。ところが、アレックスは魔女のこと全てがまやかしだと思っていた。
「あなたが薬の代金を払ってくれるか、魔女を説得するまでやめない!」
小悪魔みたいな少女が今度は目を潤ませて言う。
アレックスは平和な読書の時間を邪魔されるは、泣き落としに遭うはで閉口してしまった。
「一体なんだってそんな秘薬が欲しいんだ?効果があるかも怪しい。それにどうして金髪にこだわる?赤毛だって綺麗じゃないか。君にはよく似合ってるはずさ。鏡を見てごらんよ」
アレックスがメアリーをさとそうとする。するとメアリーが泣き真似をぴたりと止めて、赤い目でこちらを睨んだ。
「いやよ。赤毛は気に入らない」
リリィが訊《たず》ねた。
アレックスが一瞬答えあぐねて、苦々しい笑みを浮かべる。
「覚えてるよ。あの頃からひどいお転婆だった。メアリーのせいで、僕もリリィも面倒なことになったんだ」
どうやらアレックスにとって思い出したくない記憶らしい。どこかよそよそしい口調だ。
それは忘れようのない事件だった。メアリー九歳。金髪への憧れと赤毛への嫌悪がどうしようもないくらい高まって、いても立ってもいられない状態に陥っていた。よく下唇を噛んでいたっけ。
イリヤ城の岸からほど遠くないところに、魔女の住む小島が浮かんでいる。島自体はなんの変哲《へんてつ》もない。全体に青草が生え、くすんで灰色になった小屋が中心に一軒だけ建っている。ただものすごく狭く、塀もなく、木一本生えていない土地なので、小屋が嵐で吹き飛ばされないのが不思議だった。ジョンはふざけ半分にこの島を「まるはげの島」と呼んだものである。
どうやって九歳の女の子が魔女の噂を聞きつけたのだろう。メアリーは皇女付きの侍女として教育を受けていた身分だったし、その辺の野育ちの子どもとは違ったのだ。魔術や魔女の存在を公然と信じるのは平民のすることであって、高貴な者のすることではない。民衆の間では、魔女は村や町の治療師の手に負えない病気を癒《いや》すのに不可欠だった。
イリヤでは昔から魔術師や魔女、魔法の類《たぐい》は忌《い》み嫌われており、しばしば迫害《はくがい》の対象になった。今でも魔女の排斥《はいせき》は変わらず、現皇帝のリチャードが魔女狩りを取り仕切ることもあった。魔女(あるいは魔法使い)の逮捕も裁判も、火刑もしょっちゅう行われる。逮捕し、火炙《ひあぶ》りにされた者の中で、実際どれほど本物の魔女がいたかは定かではない。中には単に薬学や病の治療に秀でていただけの者もいただろう。リチャードは信心深い男だったので黒魔術の横行《おうこう》を阻止しようと真剣に考えていた。
「メアリーはリリィの嫁入りについていくつもりらしいぞ」
アレックスがそう言って妹を見やった。
二人は馬を木に繋いで歩き回るにまかせ、自分たちは原っぱに寝っ転がっている。木の根元にすみれの花が咲いていた。紫の可愛らしいすみれだ。馬たちは仲良く草をはみ、鼻面《はなづら》をすみれにくっつけている。
この原っぱは〈競技場〉と天文台の塔の間に広がっていた。乗馬やピクニックに打ってつけの場所である。平時には城門が開いていて、そのまま城壁の外と繋がっている。本来ならリリィがこの原っぱに来るのは禁じられていた。だが、アレックスと行動すると制限もゆるくなるのだ。
「私は嬉しいわ。どこに行くかわかんないですもの。気のおけない人がいなくちゃ。でもメアリーがいなくなったらイリヤ城も随分《ずいぶん》と寂しくなるでしょうね」
リリィが晴れやかな声でいった。
限りなく自由な気がした。アレックスは外国土産に持ち帰った悩ましげな表情なんかせずに、朗らかな様子だ。鼻歌まで歌っている。リリィは澄みわたった青空を眺めて、幸福な未来を思い描いた。
まずリリィに夫はいない。船に乗っているはずだ。メアリーやアレックスも一緒の船に乗っている。二人は恋人同士になっているかもしれない。リリィは二人を祝福し、熱烈に愛するだろう。大海原《おおうなばら》を越え、さらに遠くへ……。
夜は皆で人魚の歌声を聴こう。船室に戻れば、簡易な寝台の上で(それか、ハンモックの上で!)、明日着くかもしれない港や新しい土地のことを夢見る……
「リリィはメアリーか好きかい?」
アレックスが不審な表情をした。
「ええ、好きよ。たまに我慢ならない時もあるけれど、彼女って素晴らしいもの!」
リリィが迷わずに言う。
不意に、アレックスとメアリーは最近何かあったのではないかと心配になった。喧嘩でもしたのではないか。でもアレックスだってよっぽど真剣に取り合わないというのに。
「我慢がならないって。いっそ彼女は城の地下牢に捕らえておくべきだよ。なんたって九歳の頃から魔女と取り引きするような子だ。あれじゃあ、母親もさぞ苦労するだろうな。将来魔女になったっておかしくない」
アレックスらしくない、攻撃的な口調だ。リリィもそれは言い過ぎだと思った。魔女になるなんてありえない。どうしてアレックスはメアリーのことでこんなに腹を立てるのだろう。
小島の苫屋《とまや》に暮らす魔女のもとに行って秘薬をもらうのには、メアリーにだって勇気の要することだった。当時からわがままで、規律にも従わず、周りを困らせていた。だが、そんなメアリーも、何か人智《じんち》を超えたもの、神秘的といっていいものには、本能的な敬意と恐れを感じていたのだ。
魔女は一人暮らしで、胡散臭《うさんくさ》いお婆さんだった。肌は灰色で、何重にも刻まれた皺《しわ》のせいで老木のように見える。メアリーは心の中で魔女を嫌悪した。
なんて醜いんだろう。私だったら、こんな姿で生《い》き永《なが》らえるくらいなら死んでしまうわ!
その頃、老いや醜さとは不気味で得体の知れないものでしかなかった。
魔女はどんな髪も美しい金髪にしてくれるという秘薬に法外な値段をつけた。
「無理よ。私子どもなのよ。そんな値段、払えるわけないでしょう?」
メアリーが言い張る。
魔女は低い声で笑って、そうはなるまいと言った。メアリーが癇癪《かんしゃく》を起こしかけても、魔女は笑い続ける。老婆の歯は全部で二本しかなかった。他に笑った口の中に見えるのは紫に変色した歯茎《はぐき》と黒い空間だけ。
もう少しで癇癪玉《かんしゃくだま》を爆発させて、シワシワの婆さんの横《よこ》っ面《つら》を張るところだった。
だけど、いきなり魔女が恐ろしくなった。この不気味な小屋の中に囚われて、もうイリヤ城に、アレックスやリリィのもとに戻れないかもしれない。そう思うと身がすくむのだ。
魔女だってメアリーが怯えているのをわかっていたはずだ。しかし、メアリーは虚勢《きょせい》を張って引き下がろうとしなかった。こんなんで諦めるなんて、恥さらしもいいところだ。
魔女の婆さん、背中はひん曲がって、頬もこけているのに、巨人のような風采《ふうさい》だ。かなりの大柄《おおがら》だったのだ。メアリーは一瞬、この魔女、ずっと前に小屋の中に入ったきり、戸口から出たことがないんじゃないんかしら、と思った。戸口を通れるほどの背格好には見えなかった。
メアリーはほんの小さな子どもだった。小さい鼻に、薄いそばかすが散らばっている、愛らしい少女だ。しかし、魔女だって見かけの可愛いさに騙《だま》されはしない。容赦しなかった。
「子どもだって言ったって、あんたは立派な貴族の娘で、友だちは皇女さまじゃないのかい?頼めばなんとか用意してくれるだろうね」
魔女はぞんざいな物言いをした。脅しつけ、嘲笑うような口調である。
わざわざ村娘の服装を借りて、扮装《ふんそう》してきたというのに。魔女はメアリーの身分を言い当てたのだ。ますます不気味で人間離れして見える。
結局メアリーがその日のうちに秘薬を手に入れることはなかった。帰りの舟で、漁師の筋骨逞《きんこつたくま》しい腕が櫂《かい》をこぐのを見ながら、唇をかんでいた。水面《みなも》に光がさざめいてまぶしい。波が時々はねて鮮やかな赤毛に、月のように青白い肌にかかった。口の中では潮のしょっぱい味がした。
その日から、メアリーの「りんごの木通い」が始まった。アレックスは庭のりんごの木の上で読書するのを習慣にしていた。
天気のいい午後、爽やかな風を受けながら読書していると、メアリーがやってきて赤毛や金髪や、魔女のことをがなりたて、アレックスが相手にしないのを見ると、木を激しく揺さぶりだす。
慌てて木から飛び降りて、メアリーを叱りつける。ところがメアリーは憎々しげにこちらを見て、反省の色一つ示さない。また明日同じことの繰り返しだ。
皇子は既に十八歳になっていた。十五歳になると同時に自由にしてよい財産が渡されていたので、魔女に代金を払うことだってできたのだ。ところが、アレックスは魔女のこと全てがまやかしだと思っていた。
「あなたが薬の代金を払ってくれるか、魔女を説得するまでやめない!」
小悪魔みたいな少女が今度は目を潤ませて言う。
アレックスは平和な読書の時間を邪魔されるは、泣き落としに遭うはで閉口してしまった。
「一体なんだってそんな秘薬が欲しいんだ?効果があるかも怪しい。それにどうして金髪にこだわる?赤毛だって綺麗じゃないか。君にはよく似合ってるはずさ。鏡を見てごらんよ」
アレックスがメアリーをさとそうとする。するとメアリーが泣き真似をぴたりと止めて、赤い目でこちらを睨んだ。
「いやよ。赤毛は気に入らない」
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