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54.ヤンデレ化した弟との対峙がはじまった件。

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 今聞こえたのは、控えめにドアをノックされる音だけだ。
 本来ならばそこには、なにひとつ恐れるべき要素はなんてないはずなのに。
 それでも一度あたえられた屈辱的な記憶は、必要以上に相手への警戒心を強めてしまう。

 ……大丈夫、いくらヤンデレ化したといっても、相手は血を分けた双子の弟なんだ、決して恐ろしい相手なんかじゃない。
 それにあのときは不意を突かれただけで、今度は油断をしなければ、そもそも夏希が俺を物理的に制圧できる要素はない。

 仮にまたスタンガンを手にしていたところで、長年たしなんできた護身術のなかには、武器を持つ相手と対峙したときを想定したものもある。
 プロのそれならばともかく、素人の襲撃くらいなら、冷静になれば十分に余裕をもっていなせると思う。

 そう自分自身へ言い聞かせ、意識的に大きく息を吸って、ゆっくりと吐いた。
 そうすれば、パニックを起こしたように『どうしよう!?』という意識のみに占められていた思考も、少しだけ自由を取りもどすことができた。

「……兄さま、起きてる?」
 扉の向こうから聞こえてきたのは、予想したとおり夏希なつきの声だった。
「夏希か……あぁ今、起きたところだ」
 どうにか声色はおびえを見せることなく、なんてことないふうに装えたのだと思う。

「入ってもいい?」
「……あぁ、かまわない。入れ」
 わずかな逡巡ののちに、断る理由がとっさに思いつかなくて、そのまま許可をする。
 というか、こんなときはどんな顔をして相手をむかえいれるのが正解なんだ……?

 この世界があのBLゲームの続編の世界だというのなら、今の俺のえらび得る言動のすべては、きっと画面上ではそれぞれ選択肢として提示されるものになるのだろう。
 そこから導き出せることと言えば───それはすなわち、その選択肢のなかには必ず『正解』と『不正解』とが存在しているということくらいだった。

 ───そう『恋愛シミュレーションゲーム』だからこそ、正しい選択肢をつかむことができれば相手からの好感度はあがり、ハッピーエンドへの道が近づく。
 一方で、あやまったものを選んでしまえば相手からの好感度は下がり、また一歩バッドエンドへと近づいてしまうことになるのだ。

 この場合、俺が目指すべきは夏希の好感度を少しでもあげ、この監禁状態から抜け出すための道をつかみ取ることだった。
 だからその好感度をあげるための言動をしなければいけないのだろうけれど───本音を言えば、あんなふうに豹変した夏希のことが怖かった。

 それにそもそもが、これまでの自分がどこかで致命的な選択ミスをしていた場合、すでに夏希は取りかえしがつかないほどの危険な人物になり果てているという可能性も否定できないわけで……。
 その懸念があるからこそ、こちらが了承の言葉をかえしてから入室してくるまでのわずかな瞬間にも、緊張から息は浅くなり、心臓は必要以上に激しく脈打つ。

 大丈夫だから落ちつけ、別に怖くなんてない。
 何度もくりかえし、必死に己に言い聞かせる。

 カチャ……

 ともすればこの一瞬が無限にも感じられるほどの極度の緊張感を強いられるなか、控えめな音とともにドアが開かれた。
 そうして顔を出した夏希は、こちらがおびえていたのがおかしくなるくらい、委縮した様子だった。

「おはよう、兄さま……」
 今にも消え入りそうな弱々しい声に、色白な肌が目立つ細い首と、華奢な肩のラインが際立つ細い手足。
 それになにより、ドアから顔を出した状態でこちらの顔色をうかがう上目づかいのひとみはうるみ、まるで小型の室内犬のような弱々しさだった。

 ───あぁ、この夏希は俺がよく知る原作ゲームのなかの彼とおなじだ。
 そう思った瞬間、からだの強ばりはスッと抜けていった。

「……あぁ、おはよう」
 動揺を隠そうとするあまりに感情のこもらない声になってしまうのを気にせず、必死に思考をかさねていく。

 昨日のが現実であったことはまちがいようもなく、起きてしまったことはくつがえしようもない。
 ならばいったい己は、それをふまえて夏希との関係をどうしたいんだ、と。

 でもこたえなんて、はじめから決まっていた。
 このこじれてしまった夏希との関係性を、正常にもどしたいという、ただそれだけだ。
 冬也とうやにとって因縁のある相手との関係性の正常化こそ、これまでもずっと変わらずにこの世界で取り組んできたことだったのだから。

 それはさておき、公式設定からしてやさしすぎるくらいの夏希だからこそ、一度は愛想を尽かして白幡しらはたとともに出ていったものの、後になってひとり残された俺の存在を気にすることは十分に考えられることだった。

 まして、いちばん俺を恨んでいたであろう白幡の態度が軟化し、そこへさらに悪意を持ってアレクが夏希のトラウマをくすぐるような闇オークションの話をもちかけたのだとしたら、俺のことを今度は自分が『保護』しようと考えるであろうことは、容易に想像がつく。

 ゲーム的に考えるなら、きっと夏希による監禁を受けているという今の状況は、白幡の誤解が解けたからこそ分岐したルートなのだろう。
 ならばこの監禁行為の根底にあるのは、ただの執着というよりも、もっと深い愛情なんじゃないだろうか?

 それなら、この状況で自分ができることは、いったいなんだ?
 そう己の心のなかへと問いかければ、うっすらと先に光が見えてくる。

 あぁそうだ、今必要なのは───夏希との対話だ。

 そもそも夏希がここまでこじらせて、こんな状況に陥ってしまったのは、おそらくおたがいに抱く深い愛情に気づけずにいたことからはじまったのだから。
 俺が夏希をこの世にひとりっきりの大切な弟と思う気持ちがあるように、きっと夏希にもおなじような気持ちはあるのだろう。

 それを口にせずとも伝わるはずだなんて思うのは、いくら血を分けた双子の兄弟だとしても、ただの甘えでしかない。
 たとえ気がつくとしても、きちんと言葉にして伝えることにもちゃんと意味があるというのは、これまでにさんざん思い知らされてきたことだしな。
 そう覚悟が決まったところで、ようやく夏希の目をまっすぐに見ることができた

「あのね兄さま!その、昨日の夜はごめんね……からだ、ツラくない?」
「あぁ、問題ない───まぁ気分は最悪だがな」
 おそらく夏希は本心からこちらを心配しているというのに、どうしてもかえす言葉は皮肉めいたものになってしまう。
 案の定、夏希はビクリとその華奢な肩をすくめていた。

「怒ってるの、兄さま?」
 肩をふるわせ、涙目でこちらを見上げてくる夏希は、いかにも庇護欲をかきたてる様子を見せる。
 気をゆるめれば、つい『もう怒っていないから安心しろ』と言ってやりたくなるほどに心がゆらぎかけているものの、まだここで折れるわけにはいかなかった。

「あたりまえだ!───だがおまえにも、少しはひどいことをしたという自覚があるようだな?」
「でも、あれは兄さまを思ってのことで……っ!」
 おどおどした様子で言いわけをはじめる夏希に、ほんの少しだけ怒りが増していく。
 言葉にはしていないものの、語尾には『だから僕は悪くない』とでもつづきそうな気配を察したと言うべきか。

「っ、まぁいい……とりあえずこっちへきて、少し話そう」
「………うん、わかった」
 こちらからの呼びかけに相手がすなおに応じたところで、必死に怒りを飲み込み、努めておだやかな声を出そうと心がける。

 よし、相手はようやく交渉のテーブルについた!
 ここからが本番だ。
 己の腰かけるベッドの上にちょこんと座る夏希に、ホッと息をつく。

 ここを乗り切れるか否かで、俺の今後が決まる。
 目指すは、愛するものとともにある未来ハッピーエンドだ。
 そんな緊張感から、ふたたび口のなかは干上がりそうになり、心臓もまた激しく脈打つのだった。
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