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15.小さな一歩でも自分にとっては大きな決断がいった件。
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元から低血圧気味で、寝起きはボンヤリとすることが多かったけれど、それにしても油断していた。
せっかく、うまく隠せていたと思っていたのに。
至近距離から腕をつかまれ、まじまじとその赤い筋と血のにじんだ傷とを見られた。
「あ…………」
どうしよう、あのことを山下にだけは知られたくなかったのに、よりによってその本人に見られてしまったなんて……!
とたんに視野は狭窄しはじめるし、なにより心臓は、さっきからうるさいくらいに脈打っている。
「というか、よく見るとそのネクタイも、朝からお召しだったものとはちがうものですね?」
気づかれたくなかったことにまで、言及されてしまった。
わりと似ている色味だったから、よほどのことがないかぎりは、気づかれないと思っていたのに……。
「こ、れは……その、コーヒーをこぼして……」
鷲見社長と合わせた口裏のとおりに言ったところで、もはやそれはウソであることが明白なほど、動揺が隠せなくなってしまっていた。
「まさか、社長……まさか本当に鷲見社長に……っ!?」
半ば目を血走らせた状態の山下に迫られ、その姿に鷲見社長のあのときの姿がかぶって見えた。
相手は山下だとわかっているはずなのに、俺に迫る自分よりも大柄な男という、ただそれだけのことが恐怖でからだを縛ってくる。
「あ………やめろ…っ、俺にさわるなっ!」
ギュッと目をつぶり、ドンと突き飛ばすように目の前の山下の胸板を押して拒絶する。
もはやそれは、条件反射のようなものだった。
口のなかは緊張で渇いていき、からだはあのときの恐怖を思い出したかのように強ばっていく。
理性のうえではあのときとはちがうとわかっているのに、感情が追いついてくれない。
そのせいで、からだはカタカタと勝手にふるえ出す。
……わかってる、これこそ過剰反応だ。
こんな態度を見せてしまっては、ナニかがあったことなんて明白だ。
幻滅、されただろうか?
会社の危機は俺がなんとかすると言いながら、結局これじゃ、はたから見たらからだを売って支払い猶予をしてもらっただけにしか見えないだろ。
そういう取引を、世間では『枕営業』と呼ぶ。
実際には、もっと複雑な感情のもつれがあって、その結果として無理やり犯されただけだし、支払い猶予の代償として求められた仕事だってちゃんとしてきたけど。
でも、一度でもそんなふうに見られてしまったら、きっと過去の実績もすべて、それでどうにかしてきたんじゃないかと疑念を持たれてしまってもおかしくない。
自分がそんな社長だったと、山下に誤解されたくないのに!
でも、そう誤解を受けてもおかしくない態度を取ってしまった。
その後ろめたさのあまりに、まともに相手の顔が見られなかった。
「───社長、警察に通報しましょう」
「~~~っ、待ってくれ、俺に訴える気はない……」
ジャケットの内ポケットからスマホを取り出す山下に、あわてて腕をつかんでやめさせる。
「しかし……!」
「頼む!知らないふりをしてくれ!」
通報なんてして、イーグルスター社になにかあってみろ、向こうも苦しくなるだろうけど、それより先に今度こそ資金繰りが苦しくなって、うちの会社はつぶれてしまうだろう。
そうなったら、俺を信じてついてきてくれた社員たちが路頭に迷ってしまうじゃないか!
そんなことは、絶対にさせたくない。
これは俺が黙っていれば、済む話なんだから……。
会社を守るのは、社長である俺の責任であって、山下たち社員にはなんの責任もないんだ。
だから、安心してほしい。
そう思うだけなのに。
「お前には関係のない話だ」
「社長!!」
結局俺は、そんなふうに突き放すようなことしか言えなかった。
長年こじらせすぎた鷹矢凪冬也という男の不器用さは、こうして人を傷つけるようなことばかりしてしまう。
それが原因で俺を兄と呼んで慕ってくれた夏希を傷つけ、白幡にまで愛想を尽かされたというのに、まだ変わることができないでいる。
「~~~っ!失礼しました!自分ごときが社長に意見を申し上げるなど、おこがましいことでした……」
「あ、いや……その……」
ちがうんだ、そうじゃない。
お前はなにも悪くなくて、こっちが勝手に後ろめたさのあまりに過剰反応を示しているだけなんだ。
そう言いたいのに、なぜか言葉はのどの奥につまって出てきてくれない。
山下はなにも心配しないでいい、ただそう言いたいだけなのに……。
うまく伝えられないもどかしさに、鼻の奥がツンとなる。
「それでは、本日のご出勤はお昼すぎからで大丈夫ですので、どうぞ、それまではごゆっくりお休みください」
一線を引いたような、事務的な声。
先に拒絶したのは自分なのに、山下のその態度に胸が痛みを訴えていた。
本当に、このままでいいのか?
誤解をさせて傷つけたまま、俺を心配して夜どおし待機しててくれた相手をかえしてしまっても───?
───いや、それじゃダメだ!
このままじゃ、きっと俺は一生変われない。
ボタンのかけちがいのようなまま、すれちがうなんて、もうまっぴらだった。
なら、どうすればいい?
心のなかで、もうひとりの俺が問いかけてくる。
気がつけば、からだは勝手に動いていた。
「待っ……!」
とっさに深々とあたまを下げてこの場を辞そうとする山下のジャケットのすそをつかんでしまってから、ハッとする。
「社長……?」
気づかわしげなその視線は、しかしやはりどことなくよそよそしかった。
言わなくちゃ、ちゃんと理由を告げなくちゃ!
そう思う気持ちははやるのに、そのひとことを口にするのが、なかなかできないでいる。
───でも、このまま白幡のときのような失敗をまたくりかえすのか?
相手ならきっとわかってくれるだなんて、そんなの『信頼』じゃなくて、ただの『甘え』だ。
自問する心の声は、怖じ気づきそうな俺の弱い心を叱咤する。
「今のは、俺が悪かった……お前はただ心配してくれただけなのに……」
白幡のときには、どうしても口にすることができなかった謝罪の言葉は、しかし今はつっかえながらでも、なんとかしぼり出すことができた。
これまでの俺は、親から受けた呪いのように深く刺さる教育方針のせいで、己の部下にたいしてあやまることなどしてはならないことだと思い込まされてきた。
けれど、決してそんなことはない。
だって相手は、自分とおなじひとりの人間だ。
冷たい態度をとられれば傷つくし、明確な拒絶をされたなら、相手を気づかうからこそ距離を取ろうとしてしまう。
ましてこちらがまちがえたなら、あやまるのは当然だった。
もし、この状況を改善したいと願うのなら、少なくともあのゲーム本編とおなじ失敗をくりかえしちゃいけないってことだけは、まちがいなかった。
だから今の俺は、どれだけ気まずかろうが、なんとしてでも相手の誤解を解かなくちゃいけない。
「社長、自分のほうこそ、ぶしつけでした!ですが、あなたのことを心の底から心配しているのは、まちがいありません」
「あぁ山下のその気持ちは伝わっているし、ありがたいと思ってる」
泣きそうな顔をした山下が、グッとこぶしをにぎりしめて言うのに、うなずいてその目を見る。
その目に浮かぶのは、手を差しのべたいのに届かない、そんな己の力不足を嘆く色だった。
それがどんな言葉よりもストレートに、こちらの心に突き刺さる。
侮蔑でもなく、俺の言葉で傷ついたのでもなく、ただ己の力不足を嘆いているなんて。
いったい山下は、どれだけ俺に心を寄せてくれていたんだろうか?
そんな大事なことが、これまでの俺の目には見えてなかったってことか……。
きっと気づかずにいただけで、これまでもこんなことは多々あったはずだ。
俺が山下のような───つまりは俺を慕ってくれるような人たちを、頼ろうとしてこなかったから。
───上に立つものは、下のものに決して弱みを見せてはならない───
幼いころから、くりかえし両親に植えつけられた意識はあまりにも根深く、そう簡単には変えられない。
原因がわかったところで、なかなか解消はできそうにないけれど……。
それでも一度大きな失敗をした俺だからこそ、今こそ変わっていけるチャンスなんだと思いたい。
山下のまっすぐな気持ちに勇気をもらい、後押しをされるように、グッとこぶしをにぎりしめた。
せっかく、うまく隠せていたと思っていたのに。
至近距離から腕をつかまれ、まじまじとその赤い筋と血のにじんだ傷とを見られた。
「あ…………」
どうしよう、あのことを山下にだけは知られたくなかったのに、よりによってその本人に見られてしまったなんて……!
とたんに視野は狭窄しはじめるし、なにより心臓は、さっきからうるさいくらいに脈打っている。
「というか、よく見るとそのネクタイも、朝からお召しだったものとはちがうものですね?」
気づかれたくなかったことにまで、言及されてしまった。
わりと似ている色味だったから、よほどのことがないかぎりは、気づかれないと思っていたのに……。
「こ、れは……その、コーヒーをこぼして……」
鷲見社長と合わせた口裏のとおりに言ったところで、もはやそれはウソであることが明白なほど、動揺が隠せなくなってしまっていた。
「まさか、社長……まさか本当に鷲見社長に……っ!?」
半ば目を血走らせた状態の山下に迫られ、その姿に鷲見社長のあのときの姿がかぶって見えた。
相手は山下だとわかっているはずなのに、俺に迫る自分よりも大柄な男という、ただそれだけのことが恐怖でからだを縛ってくる。
「あ………やめろ…っ、俺にさわるなっ!」
ギュッと目をつぶり、ドンと突き飛ばすように目の前の山下の胸板を押して拒絶する。
もはやそれは、条件反射のようなものだった。
口のなかは緊張で渇いていき、からだはあのときの恐怖を思い出したかのように強ばっていく。
理性のうえではあのときとはちがうとわかっているのに、感情が追いついてくれない。
そのせいで、からだはカタカタと勝手にふるえ出す。
……わかってる、これこそ過剰反応だ。
こんな態度を見せてしまっては、ナニかがあったことなんて明白だ。
幻滅、されただろうか?
会社の危機は俺がなんとかすると言いながら、結局これじゃ、はたから見たらからだを売って支払い猶予をしてもらっただけにしか見えないだろ。
そういう取引を、世間では『枕営業』と呼ぶ。
実際には、もっと複雑な感情のもつれがあって、その結果として無理やり犯されただけだし、支払い猶予の代償として求められた仕事だってちゃんとしてきたけど。
でも、一度でもそんなふうに見られてしまったら、きっと過去の実績もすべて、それでどうにかしてきたんじゃないかと疑念を持たれてしまってもおかしくない。
自分がそんな社長だったと、山下に誤解されたくないのに!
でも、そう誤解を受けてもおかしくない態度を取ってしまった。
その後ろめたさのあまりに、まともに相手の顔が見られなかった。
「───社長、警察に通報しましょう」
「~~~っ、待ってくれ、俺に訴える気はない……」
ジャケットの内ポケットからスマホを取り出す山下に、あわてて腕をつかんでやめさせる。
「しかし……!」
「頼む!知らないふりをしてくれ!」
通報なんてして、イーグルスター社になにかあってみろ、向こうも苦しくなるだろうけど、それより先に今度こそ資金繰りが苦しくなって、うちの会社はつぶれてしまうだろう。
そうなったら、俺を信じてついてきてくれた社員たちが路頭に迷ってしまうじゃないか!
そんなことは、絶対にさせたくない。
これは俺が黙っていれば、済む話なんだから……。
会社を守るのは、社長である俺の責任であって、山下たち社員にはなんの責任もないんだ。
だから、安心してほしい。
そう思うだけなのに。
「お前には関係のない話だ」
「社長!!」
結局俺は、そんなふうに突き放すようなことしか言えなかった。
長年こじらせすぎた鷹矢凪冬也という男の不器用さは、こうして人を傷つけるようなことばかりしてしまう。
それが原因で俺を兄と呼んで慕ってくれた夏希を傷つけ、白幡にまで愛想を尽かされたというのに、まだ変わることができないでいる。
「~~~っ!失礼しました!自分ごときが社長に意見を申し上げるなど、おこがましいことでした……」
「あ、いや……その……」
ちがうんだ、そうじゃない。
お前はなにも悪くなくて、こっちが勝手に後ろめたさのあまりに過剰反応を示しているだけなんだ。
そう言いたいのに、なぜか言葉はのどの奥につまって出てきてくれない。
山下はなにも心配しないでいい、ただそう言いたいだけなのに……。
うまく伝えられないもどかしさに、鼻の奥がツンとなる。
「それでは、本日のご出勤はお昼すぎからで大丈夫ですので、どうぞ、それまではごゆっくりお休みください」
一線を引いたような、事務的な声。
先に拒絶したのは自分なのに、山下のその態度に胸が痛みを訴えていた。
本当に、このままでいいのか?
誤解をさせて傷つけたまま、俺を心配して夜どおし待機しててくれた相手をかえしてしまっても───?
───いや、それじゃダメだ!
このままじゃ、きっと俺は一生変われない。
ボタンのかけちがいのようなまま、すれちがうなんて、もうまっぴらだった。
なら、どうすればいい?
心のなかで、もうひとりの俺が問いかけてくる。
気がつけば、からだは勝手に動いていた。
「待っ……!」
とっさに深々とあたまを下げてこの場を辞そうとする山下のジャケットのすそをつかんでしまってから、ハッとする。
「社長……?」
気づかわしげなその視線は、しかしやはりどことなくよそよそしかった。
言わなくちゃ、ちゃんと理由を告げなくちゃ!
そう思う気持ちははやるのに、そのひとことを口にするのが、なかなかできないでいる。
───でも、このまま白幡のときのような失敗をまたくりかえすのか?
相手ならきっとわかってくれるだなんて、そんなの『信頼』じゃなくて、ただの『甘え』だ。
自問する心の声は、怖じ気づきそうな俺の弱い心を叱咤する。
「今のは、俺が悪かった……お前はただ心配してくれただけなのに……」
白幡のときには、どうしても口にすることができなかった謝罪の言葉は、しかし今はつっかえながらでも、なんとかしぼり出すことができた。
これまでの俺は、親から受けた呪いのように深く刺さる教育方針のせいで、己の部下にたいしてあやまることなどしてはならないことだと思い込まされてきた。
けれど、決してそんなことはない。
だって相手は、自分とおなじひとりの人間だ。
冷たい態度をとられれば傷つくし、明確な拒絶をされたなら、相手を気づかうからこそ距離を取ろうとしてしまう。
ましてこちらがまちがえたなら、あやまるのは当然だった。
もし、この状況を改善したいと願うのなら、少なくともあのゲーム本編とおなじ失敗をくりかえしちゃいけないってことだけは、まちがいなかった。
だから今の俺は、どれだけ気まずかろうが、なんとしてでも相手の誤解を解かなくちゃいけない。
「社長、自分のほうこそ、ぶしつけでした!ですが、あなたのことを心の底から心配しているのは、まちがいありません」
「あぁ山下のその気持ちは伝わっているし、ありがたいと思ってる」
泣きそうな顔をした山下が、グッとこぶしをにぎりしめて言うのに、うなずいてその目を見る。
その目に浮かぶのは、手を差しのべたいのに届かない、そんな己の力不足を嘆く色だった。
それがどんな言葉よりもストレートに、こちらの心に突き刺さる。
侮蔑でもなく、俺の言葉で傷ついたのでもなく、ただ己の力不足を嘆いているなんて。
いったい山下は、どれだけ俺に心を寄せてくれていたんだろうか?
そんな大事なことが、これまでの俺の目には見えてなかったってことか……。
きっと気づかずにいただけで、これまでもこんなことは多々あったはずだ。
俺が山下のような───つまりは俺を慕ってくれるような人たちを、頼ろうとしてこなかったから。
───上に立つものは、下のものに決して弱みを見せてはならない───
幼いころから、くりかえし両親に植えつけられた意識はあまりにも根深く、そう簡単には変えられない。
原因がわかったところで、なかなか解消はできそうにないけれど……。
それでも一度大きな失敗をした俺だからこそ、今こそ変わっていけるチャンスなんだと思いたい。
山下のまっすぐな気持ちに勇気をもらい、後押しをされるように、グッとこぶしをにぎりしめた。
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