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外伝・箒神新話
女神との出会い
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「私、アルバル・ノクラティスがニャーン・アクラタカと出会ったのは第六大陸の修道院へ警備兵として赴任した時だった……」
今日も原稿にペンを走らせるアルバル。現在の彼は五十五歳。しかし文章の中の彼は二十二歳とまだ若く、ニャーンにいたっては十五歳の子供だった。
アルバルがあの修道院にいた理由は、上官の命令に対し反抗的だったからである。若さゆえに元いた部隊の慣習や間違っていると思った命令に迎合することができなかった。
地方の修道院送りになった時には流石に少し後悔したものの、年経た今となっては改めて自分は間違っていなかったのだと思える。だって、そのおかげでニャーンに出会えたのだから。
「私の話はこのくらいにしておこう。読者が知りたいのはニャーン・アクラタカについてのはずだ。先に断っておくが私は彼女の敬虔な信徒であり、後述する内容を彼女への侮辱とは受け取らないで欲しい。真実を語りたいだけだ。それをあなたがたが知っても彼女の輝きが曇ることはないと断言できる……」
この出だしの部分が気に入らず、何度も書き直している。多くの人に正しくニャーンのことを知って欲しい。そのための回顧録なのだから最初で読者を躓かせてしまってはならない。
できる限り軽妙に、それでいて軽薄にはならないようにバランスを取りながら文章を練り上げたい。これがなかなか難しいのだ。
「文才が無いな、俺は……」
と、呟いてから彼は気付く。そうだ、自分の中でだけこねくり回しているからいけないのだ。やはり自分とは異なる視点を持つ誰かに読んでもらってこそ、より多くの問題点に気が付けるというものだろう。
よしと頷いた彼は娘を呼んだ。
「おーい、クアルナン」
「なに?」
呼ばれてすぐにやって来たのは、今年で二十八になる娘。すでに嫁入りしているものの、最近旦那と喧嘩して実家に戻って来た親不孝な子だ。もう一ヶ月近くこの家に留まっているが、一応まだ離婚はしていない。
ちなみにクアルナンとは『ニャーンに祝福されし子』という意味である。実際にこの子が生まれた時に大喜びしてもらえたので、こう名付けた。
――だというのに、本人は発音しにくい名前だと親を恨んでいる。本当に親不孝な娘だ。
「ちょっとお前、原稿を読んでみてくれ。自分では気が付けない問題があるかもしれない」
「はあ? まあいいけど……」
午前中に家事もあらかた済ませたのだろう。暇そうにしていたクアルナンは案の定、父の提案に乗ってきた。
そして椅子に座り、受け取った原稿を読み進めて「ふ~ん」などと言いながら軽く頷く。
「ニャーンちゃん、昔はこんなに引っ込み思案だったんだ」
「ああ、出会った頃はまだすごく大人しくてな」
今の彼女しか知らない人間には意外に思われるだろうが、少女時代のニャーンはとても大人しい子だった。要領も悪く失敗してばかり。そのせいで年下の子達にまで馬鹿にされていた。
当時、アルバルもそんな彼女を見下してしまっていた。見た目だけならもう大人だし顔立ちも整っている。なのにそれ以外の部分で損をしているなと。臆病で泣き虫でドジで不器用。容姿以外の長所が何一つ無い。
逆に彼女より幼く、それでいて大人顔負けの見識を持つプラスタ・ローワンクリスは凄い子だと思った。あの子なら、こんな掃き溜めからでものし上がっていけるかもしれないと。
「私は愚かだった……そうなの? このプラスタって子は実際には大したことなかったとか?」
「いや、本当に凄い子だったよ。だがな、その秀才は何故かいつもニャーンちゃんを気にかけていた。最初は単に世話焼きな性格なのかと思ったよ。でも、そうじゃなかったんだ」
――ある時、アルバルはプラスタに言った。いつもお守りで大変だなと。あんな大きな赤ん坊の世話を任されて苦労してるだろうなどとも。
するとプラスタは激昂した。普段ニャーンに対して怒っている時など比較にならないほど怒りを燃え上がらせ怒鳴りつけた。何もわかってない人が好き勝手言わないで!
「ずっと彼女達は世話係と手のかかる子供のような関係だと思っていた。でも、そうじゃない。彼女達は友達で、互いを大切にしていた」
ちょっとした騒ぎになったため院長先生に呼び出され説明を受けた。
プラスタはニャーンのおかげで変われたのです。あの子は先ほどご覧になった通り、ここに来るまでは全く他者を気遣うことのできない性格だった。
当然、そんな彼女を他も遠ざけたがる。実際にあの子が一番苦しい思いをしていた時、ほとんどの子達は話しかけようともしなかった。
ニャーンだけが違ったのです。プラスタの苛烈な性格によって一番強く苛まれていたあの子だけが、真っ先にプラスタを許し、彼女の涙を止めようとした。
アルバルさん、貴方は不条理に反抗してここへ来ることになったのでしょう? 過ちから目を逸らさなかった。
でしたら、今回の過ちからも目を逸らさないでください。貴方は間違ったのです。
ニャーンが駄目な子に見えますか? 今やこの院の子供達の最年長者なのに他の子達から馬鹿にされていると。
もっと、よく見てあげてください。そんなことはありませんから。あの子は皆の姉らしく、とても慕われているのですよ。
「……院長先生は的確に見抜いていた。俺は第一印象で間違った物の見方をしてしまったのだよ。先入観で目が曇っていたんだ」
ニャーンはたしかに頼りない。でも、そんな彼女を他の子達が支えてくれる。そうしたいと思ってもらえることが彼女の才能。
たしかに無知で臆病で不器用だ。けれど、そんな欠点などものともしない優しさを持っていた。無知なりに必死に考え、臆病でも諦めず、不器用ながらも皆の力を借りて難題に取り組み、最終的にはなんだかんだで解決してしまう。
それは周りの人間が彼女に知恵や力を貸しているからだが、彼等がそうしてくれる理由は彼女が優しい少女だからなのである。その優しさに彼等も救われているのだと、よく観察してみてやっと理解できた。
「そういえばアイム様に聞いたことがある。神様は自分への信仰を力に変えられるんだって。ニャーンちゃんもそうなのかな?」
思い出す時のクセで小首をかしげるクアルナン。二十八の出戻り娘とはいえ、親の目にはやはり子のそういう仕草は可愛らしく映る。アルバルはシワの増えた顔をくしゃっと歪めて微笑んだ。
「うむ、そうらしい。彼女のような人が神様になったことは必然だったのかもしれないな」
「愛され上手ほど強い神様になれるってことだもんね」
「強いのかは知らんが、良い神様なのは間違い無い」
アルバルにとっては、ニャーンもやはりあの頃の頼りない少女の面影を残している。そんな彼女が神として苦難に立ち向かい、人々を守り続けてくれていることは心配でもある。
だが、大丈夫だろうとも思うのだ。あの修道院の人々が彼女を支えてくれていたように、今もニャーンの周りには心強い味方がたくさんいる。大英雄アイム・ユニティに、かつてこの星を汚染していた怪塵が姿を変えた白鳥のキュート。ニャーンの夫であり第四大陸の王となったズウラ。その妹でニャーンの親友でもあるスワレ。
信じがたいことだがプラスタの魂のようなものも怪塵によって保存され一緒にいるのだと言う。ならば、どんな問題もまたなんだかんだで解決していけるのだろう。
それにアルバルは、いや、アルバルだからこそ知っているのだ。あの少女自身もけっして弱くはないのだと。今もなお自信が無くておどおどしているが、他人のためになら彼女は驚くほどの勇気を振り絞れるのだ。
瞼を閉じれば、今もはっきりと思い出せる。あの日の光景――
修道院を襲った怪塵狂いの熊に、彼は深手を負わされてしまった。右足がおかしな方向に曲がり、腹部にも裂傷。口から血を吐いて怯えながら必死に後退った。
周りには他の兵士達もいたし、修道院の人々も不安な眼差しで自分を見ていた。だが誰にも助けられはしない。仲間達もすでに満身創痍だったし、女子供にあんな大型獣をどうにかできようものか。
しかし、たった一人だけ後先考えずに飛び出して来た者がいた。ニャーン・アクラタカが熊の背中にしがみつき必死に訴えかけたのだ。
『だめ! 帰って!』
獣に言葉が通じるはずはない。しかも怪塵に狂わされた動物は正気すら失っている。それでも彼女は落ちていた武器を拾って攻撃しようなどとは考えなかったし、だからといって目の前で死にかけている知り合いを放っておくこともできなかった。
愚かだったが、奇跡とは愚か者だからこそ起こせるのかもしれないと思った。怪塵狂いの熊の傷口から溢れ出していた赤い塵が動き出し、檻を形成した。暴れた熊にニャーンは弾き飛ばされ隙間から外へ出たが、あの熊は逃げ出すことができなかった。
アルバル達の頑張りは無駄ではなかったのだ。ニャーンが稼いでくれた時間のおかげで全身が怪塵化して崩れ落ちた。そうでなければ、あと何人かは犠牲になっていたはずである。
信じられないことが起きて、皆が呆然としている中、塵となって消えた獣のために祈ったニャーンは突然逃げ出した。後に本人から聞いたところによると、自分が怪塵を操ったのだとすぐに理解できたらしい。
呪われた力。皆に嫌われる。そう思ったから、もう修道院にはいられないと決めつけてしまった。やっぱり彼女は賢い子では無かったのである。
愛されるべき存在だが、彼女自身は自分に向けられた愛情に対し鈍感だ。自分なんかが愛されるわけがないと卑下している。悲しいことだ。
「――だから、箒の女神の信徒達よ。私と同じ信仰を持つ家族達。諦めずに彼女を愛し続けなさい。きちんと伝わるまでには時間がかかるだろう。私達の神様は自己肯定感が低い。それでもいつかはわかってくれるはずだ。愛されるに相応しい存在なのだと……か。うん、この締め方はいいんじゃない?」
ニャーンとの出会いについて書かれた章を読み終わったクアルナンは、そう評して顔を上げる。
ところが、父はいつの間にか椅子に座ったまま眠ってしまっていた。
「ったくもう、いい歳なのに張り切りすぎるから」
父は強い使命感をもってこの原稿の執筆に取り掛かっているらしい。まあ、ひょっとしたらこの本がいつか聖典のような扱いを受けるのかもしれないし、気持ちはわからなくもないけれど。
娘としては、あまり無理はしないでほしい。
父に毛布をかけてやって、原稿の束をきちんと机の上に戻してから部屋を出ると、玄関のドアがノックされた。多分彼だろう。
案の定、そこに立っていたのは夫。同じ街の別の区画で大工をしている。
「ほら、これ。頼まれてたやつ」
「ありがと」
「お義父さんは?」
「寝たわ」
「こんな時間に? まだ昼前だぞ」
「きっと徹夜でもしたのよ。ニャーンちゃんのこととなると人が変わるんだもの。娘より大切なのよ」
「ははっ、誰よりも熱心な信者だもんな。まあ、二番目には愛されてるだろ?」
「どうだかね。まあアンタの一番なら、私はそれでいいわ」
クアルナンと夫は実は仲違いなどしていない。あの頑固な父を納得させるための方便である。夫婦喧嘩の果てに飛び出して来たとでも言わなければ、嫁いだ娘が帰って来るななどと言うような人なのだ。
「寂しいでしょうけど、しばらく我慢してね。母さんがいない今、私が父さんを見てあげなきゃ」
「一緒に住んでくれたら早いんだけどなあ」
「母さんの思い出が多い家から離れたくないのよ」
色々と問題はあるが、それでも幸せな人生だと彼女も思う。父や自分達にこの幸せをくれたのが誰なのかももちろん知っている。だから気が済むまで執筆に打ち込ませてあげたい。
だって、あの女神様には未来永劫愛されていて欲しいから。
「ま、凄い勢いで書き続けてるからそんなに時間はかからないわよ。その間にも説得はしとくし、そのうち一緒に暮らしてくれるでしょ」
「なんならオレがこっちに引っ越してきてもいいけど?」
夫に言われて、その手もあるかと考え込むクアルナン。
でも、すぐに父の呼ぶ声が聞こえてきた。どうやら目を覚ましたらしい。名残惜しいが夫と素早く口づけを交わし、家の中に戻る。
さーて、今夜は彼が持って来てくれた鍋で美味しいスマルダンを作ってやろう。甲斐のある仕事をさせて、これからも元気に長生きしてもらわなければ。
クアルナンはまた頭の片隅でニャーンに感謝の祈りを捧げつつ、はいはいと父の呼び声に応えてドアを開けるのだった。
今日も原稿にペンを走らせるアルバル。現在の彼は五十五歳。しかし文章の中の彼は二十二歳とまだ若く、ニャーンにいたっては十五歳の子供だった。
アルバルがあの修道院にいた理由は、上官の命令に対し反抗的だったからである。若さゆえに元いた部隊の慣習や間違っていると思った命令に迎合することができなかった。
地方の修道院送りになった時には流石に少し後悔したものの、年経た今となっては改めて自分は間違っていなかったのだと思える。だって、そのおかげでニャーンに出会えたのだから。
「私の話はこのくらいにしておこう。読者が知りたいのはニャーン・アクラタカについてのはずだ。先に断っておくが私は彼女の敬虔な信徒であり、後述する内容を彼女への侮辱とは受け取らないで欲しい。真実を語りたいだけだ。それをあなたがたが知っても彼女の輝きが曇ることはないと断言できる……」
この出だしの部分が気に入らず、何度も書き直している。多くの人に正しくニャーンのことを知って欲しい。そのための回顧録なのだから最初で読者を躓かせてしまってはならない。
できる限り軽妙に、それでいて軽薄にはならないようにバランスを取りながら文章を練り上げたい。これがなかなか難しいのだ。
「文才が無いな、俺は……」
と、呟いてから彼は気付く。そうだ、自分の中でだけこねくり回しているからいけないのだ。やはり自分とは異なる視点を持つ誰かに読んでもらってこそ、より多くの問題点に気が付けるというものだろう。
よしと頷いた彼は娘を呼んだ。
「おーい、クアルナン」
「なに?」
呼ばれてすぐにやって来たのは、今年で二十八になる娘。すでに嫁入りしているものの、最近旦那と喧嘩して実家に戻って来た親不孝な子だ。もう一ヶ月近くこの家に留まっているが、一応まだ離婚はしていない。
ちなみにクアルナンとは『ニャーンに祝福されし子』という意味である。実際にこの子が生まれた時に大喜びしてもらえたので、こう名付けた。
――だというのに、本人は発音しにくい名前だと親を恨んでいる。本当に親不孝な娘だ。
「ちょっとお前、原稿を読んでみてくれ。自分では気が付けない問題があるかもしれない」
「はあ? まあいいけど……」
午前中に家事もあらかた済ませたのだろう。暇そうにしていたクアルナンは案の定、父の提案に乗ってきた。
そして椅子に座り、受け取った原稿を読み進めて「ふ~ん」などと言いながら軽く頷く。
「ニャーンちゃん、昔はこんなに引っ込み思案だったんだ」
「ああ、出会った頃はまだすごく大人しくてな」
今の彼女しか知らない人間には意外に思われるだろうが、少女時代のニャーンはとても大人しい子だった。要領も悪く失敗してばかり。そのせいで年下の子達にまで馬鹿にされていた。
当時、アルバルもそんな彼女を見下してしまっていた。見た目だけならもう大人だし顔立ちも整っている。なのにそれ以外の部分で損をしているなと。臆病で泣き虫でドジで不器用。容姿以外の長所が何一つ無い。
逆に彼女より幼く、それでいて大人顔負けの見識を持つプラスタ・ローワンクリスは凄い子だと思った。あの子なら、こんな掃き溜めからでものし上がっていけるかもしれないと。
「私は愚かだった……そうなの? このプラスタって子は実際には大したことなかったとか?」
「いや、本当に凄い子だったよ。だがな、その秀才は何故かいつもニャーンちゃんを気にかけていた。最初は単に世話焼きな性格なのかと思ったよ。でも、そうじゃなかったんだ」
――ある時、アルバルはプラスタに言った。いつもお守りで大変だなと。あんな大きな赤ん坊の世話を任されて苦労してるだろうなどとも。
するとプラスタは激昂した。普段ニャーンに対して怒っている時など比較にならないほど怒りを燃え上がらせ怒鳴りつけた。何もわかってない人が好き勝手言わないで!
「ずっと彼女達は世話係と手のかかる子供のような関係だと思っていた。でも、そうじゃない。彼女達は友達で、互いを大切にしていた」
ちょっとした騒ぎになったため院長先生に呼び出され説明を受けた。
プラスタはニャーンのおかげで変われたのです。あの子は先ほどご覧になった通り、ここに来るまでは全く他者を気遣うことのできない性格だった。
当然、そんな彼女を他も遠ざけたがる。実際にあの子が一番苦しい思いをしていた時、ほとんどの子達は話しかけようともしなかった。
ニャーンだけが違ったのです。プラスタの苛烈な性格によって一番強く苛まれていたあの子だけが、真っ先にプラスタを許し、彼女の涙を止めようとした。
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「……院長先生は的確に見抜いていた。俺は第一印象で間違った物の見方をしてしまったのだよ。先入観で目が曇っていたんだ」
ニャーンはたしかに頼りない。でも、そんな彼女を他の子達が支えてくれる。そうしたいと思ってもらえることが彼女の才能。
たしかに無知で臆病で不器用だ。けれど、そんな欠点などものともしない優しさを持っていた。無知なりに必死に考え、臆病でも諦めず、不器用ながらも皆の力を借りて難題に取り組み、最終的にはなんだかんだで解決してしまう。
それは周りの人間が彼女に知恵や力を貸しているからだが、彼等がそうしてくれる理由は彼女が優しい少女だからなのである。その優しさに彼等も救われているのだと、よく観察してみてやっと理解できた。
「そういえばアイム様に聞いたことがある。神様は自分への信仰を力に変えられるんだって。ニャーンちゃんもそうなのかな?」
思い出す時のクセで小首をかしげるクアルナン。二十八の出戻り娘とはいえ、親の目にはやはり子のそういう仕草は可愛らしく映る。アルバルはシワの増えた顔をくしゃっと歪めて微笑んだ。
「うむ、そうらしい。彼女のような人が神様になったことは必然だったのかもしれないな」
「愛され上手ほど強い神様になれるってことだもんね」
「強いのかは知らんが、良い神様なのは間違い無い」
アルバルにとっては、ニャーンもやはりあの頃の頼りない少女の面影を残している。そんな彼女が神として苦難に立ち向かい、人々を守り続けてくれていることは心配でもある。
だが、大丈夫だろうとも思うのだ。あの修道院の人々が彼女を支えてくれていたように、今もニャーンの周りには心強い味方がたくさんいる。大英雄アイム・ユニティに、かつてこの星を汚染していた怪塵が姿を変えた白鳥のキュート。ニャーンの夫であり第四大陸の王となったズウラ。その妹でニャーンの親友でもあるスワレ。
信じがたいことだがプラスタの魂のようなものも怪塵によって保存され一緒にいるのだと言う。ならば、どんな問題もまたなんだかんだで解決していけるのだろう。
それにアルバルは、いや、アルバルだからこそ知っているのだ。あの少女自身もけっして弱くはないのだと。今もなお自信が無くておどおどしているが、他人のためになら彼女は驚くほどの勇気を振り絞れるのだ。
瞼を閉じれば、今もはっきりと思い出せる。あの日の光景――
修道院を襲った怪塵狂いの熊に、彼は深手を負わされてしまった。右足がおかしな方向に曲がり、腹部にも裂傷。口から血を吐いて怯えながら必死に後退った。
周りには他の兵士達もいたし、修道院の人々も不安な眼差しで自分を見ていた。だが誰にも助けられはしない。仲間達もすでに満身創痍だったし、女子供にあんな大型獣をどうにかできようものか。
しかし、たった一人だけ後先考えずに飛び出して来た者がいた。ニャーン・アクラタカが熊の背中にしがみつき必死に訴えかけたのだ。
『だめ! 帰って!』
獣に言葉が通じるはずはない。しかも怪塵に狂わされた動物は正気すら失っている。それでも彼女は落ちていた武器を拾って攻撃しようなどとは考えなかったし、だからといって目の前で死にかけている知り合いを放っておくこともできなかった。
愚かだったが、奇跡とは愚か者だからこそ起こせるのかもしれないと思った。怪塵狂いの熊の傷口から溢れ出していた赤い塵が動き出し、檻を形成した。暴れた熊にニャーンは弾き飛ばされ隙間から外へ出たが、あの熊は逃げ出すことができなかった。
アルバル達の頑張りは無駄ではなかったのだ。ニャーンが稼いでくれた時間のおかげで全身が怪塵化して崩れ落ちた。そうでなければ、あと何人かは犠牲になっていたはずである。
信じられないことが起きて、皆が呆然としている中、塵となって消えた獣のために祈ったニャーンは突然逃げ出した。後に本人から聞いたところによると、自分が怪塵を操ったのだとすぐに理解できたらしい。
呪われた力。皆に嫌われる。そう思ったから、もう修道院にはいられないと決めつけてしまった。やっぱり彼女は賢い子では無かったのである。
愛されるべき存在だが、彼女自身は自分に向けられた愛情に対し鈍感だ。自分なんかが愛されるわけがないと卑下している。悲しいことだ。
「――だから、箒の女神の信徒達よ。私と同じ信仰を持つ家族達。諦めずに彼女を愛し続けなさい。きちんと伝わるまでには時間がかかるだろう。私達の神様は自己肯定感が低い。それでもいつかはわかってくれるはずだ。愛されるに相応しい存在なのだと……か。うん、この締め方はいいんじゃない?」
ニャーンとの出会いについて書かれた章を読み終わったクアルナンは、そう評して顔を上げる。
ところが、父はいつの間にか椅子に座ったまま眠ってしまっていた。
「ったくもう、いい歳なのに張り切りすぎるから」
父は強い使命感をもってこの原稿の執筆に取り掛かっているらしい。まあ、ひょっとしたらこの本がいつか聖典のような扱いを受けるのかもしれないし、気持ちはわからなくもないけれど。
娘としては、あまり無理はしないでほしい。
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案の定、そこに立っていたのは夫。同じ街の別の区画で大工をしている。
「ほら、これ。頼まれてたやつ」
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「きっと徹夜でもしたのよ。ニャーンちゃんのこととなると人が変わるんだもの。娘より大切なのよ」
「ははっ、誰よりも熱心な信者だもんな。まあ、二番目には愛されてるだろ?」
「どうだかね。まあアンタの一番なら、私はそれでいいわ」
クアルナンと夫は実は仲違いなどしていない。あの頑固な父を納得させるための方便である。夫婦喧嘩の果てに飛び出して来たとでも言わなければ、嫁いだ娘が帰って来るななどと言うような人なのだ。
「寂しいでしょうけど、しばらく我慢してね。母さんがいない今、私が父さんを見てあげなきゃ」
「一緒に住んでくれたら早いんだけどなあ」
「母さんの思い出が多い家から離れたくないのよ」
色々と問題はあるが、それでも幸せな人生だと彼女も思う。父や自分達にこの幸せをくれたのが誰なのかももちろん知っている。だから気が済むまで執筆に打ち込ませてあげたい。
だって、あの女神様には未来永劫愛されていて欲しいから。
「ま、凄い勢いで書き続けてるからそんなに時間はかからないわよ。その間にも説得はしとくし、そのうち一緒に暮らしてくれるでしょ」
「なんならオレがこっちに引っ越してきてもいいけど?」
夫に言われて、その手もあるかと考え込むクアルナン。
でも、すぐに父の呼ぶ声が聞こえてきた。どうやら目を覚ましたらしい。名残惜しいが夫と素早く口づけを交わし、家の中に戻る。
さーて、今夜は彼が持って来てくれた鍋で美味しいスマルダンを作ってやろう。甲斐のある仕事をさせて、これからも元気に長生きしてもらわなければ。
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