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四章【赤い波を越えて】
影より出る(1)
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「メルスラ地区が壊滅しました!」
「へ、兵達が逃げ出して行きます! 私達も逃げなくては!」
「もうそこまで怪物が迫っておるのですよ!?」
「教主様! あの方の説得を! もっと、もっと強い雨を!」
「教主様!」
――続々と凶報が届く。当然のことだと思いながら聞き流す。第六大陸の実質的な支配者として君臨し続けた陽母教会の長、教主ミューリスは大聖堂の自室でぼんやりと椅子に座っている。
報告を聞いたからと言って、お飾りの教主に過ぎない自分に何ができる? 何もできない。明白な事実なのに教会の者達は次から次にやって来て縋りつく。きっと考える力を失ってしまったのだ。ずっと同じことばかりを繰り返してきて脳が硬直してしまっている。
鬱陶しいので、それらしい言葉を練って返してやった。もしかしたら追い払えるかもしれない。
「これは試練です、耐えなさい。神は私達が救うに値するかどうかを試しているのです。背教者や呪われた娘の力を借りて生き延びたとしても結局は地獄に落ちる。ただ一心に陽母の慈悲を信じて祈っていれば、きっと救われます。少なくとも死後の安寧は約束される」
もちろん、そんな奇跡起こるはずがない。第六大陸の能力者は全員がこの聖都にいる。でも彼等は実戦経験など無いし戦いに向いた能力でもないのだ。この状況はどうにもできまい。
そういえば彼等はここにいない。戦っているのか、それとも逃げたか、殺されたか。
兵士達も同じ。ガス抜きのために人間同士の争いはさせていたが、怪物との戦闘経験がある者はほとんどいない。せいぜいが怪塵狂いの獣を仕留めた程度。そういうそこそこの実力者でさえ大半は辺境に配備されている。馬鹿な話だ、この期に及んでも守るべき民を一ヵ所に集めず各地に分散させてあるのだから。十分に守りを固める時間はあったと言うのに。
――ミーネラージス修道院の悲劇を思い出す。正確に何が起きたかは知らない。空から赤い光が落ちて来て、しばらく後に様子を見に行った者達が何もかも無くなってしまっていたと教会に報告した。修道院にいたはずの者達の人数分、簡素な墓が作られていたとも。
凶報を聞いた教会は混乱し、その動揺は聖都全体へ広まり、一時的に教会の信用を失墜させかねない事態にまで発展しかけた。ニャーン・アクラタカが起こした奇跡を見たことで聖都の民からも彼女とアイム・ユニティを支持する声が上がり始めていたのだ。そこにニャーンと縁のある修道院で起きた悲劇。
様々な憶測が行き交い、彼女への同情と、彼女を破門にした教会への反発が日々高まって行く。
そこでミューリス達は騒動を鎮静化させるため、都合の良い話をでっち上げた。全ては呪われた娘ニャーン・アクラタカの仕業だと公表したのだ。修道院を壊滅させた赤い光は彼女が作り出した怪物。教会を追放された娘が逆恨みからやったことだと事実を捻じ曲げた。当然アイム・ユニティも荷担していることにして罪を着せた。それによって怒りと不信の矛先は教会から逸れ、再びあの二人に向けられた。
だから報いを受けたのだ。あんなことをしておいてニャーンの力に頼れるはずも無い。彼女から防衛機構を配備したいという申し出を受けたが、再三繰り返されたそれをミューリスは全て不要と言って突っぱねた。第六大陸は独自に我が身を守ると。
その当てもないのに。
「ふざけるな! もう貴様の詭弁にはうんざりだ! 何が教主だ女狐め!」
「……」
とうとう怒り狂った兵士が剣を抜き眼前で振り上げても、ミューリスの心は動かなかった。ただ、あの少女のことだけを考えている。
嫉妬していた、自由に空を飛ぶことができる彼女に。突然大きな責任を背負うことになったのに、自分とは逆に日向を歩いている存在に。光そのものであるかのような少女に憧れて、妬み、視界の外へと追いやった。
「当然の報いです」
自分に対して言ったのだが、兵士はそう取らなかった。
「こんな、こんな女のせいで妻が……息子が……地獄に落ちろ! 永遠に炎で焼かれよ!」
剣が振り下ろされる。その瞬間不意にミューリスは笑う。ああ、やっとこれで楽になれるのだと破顔した。
けれど、そうはならなかった。彼女が斬られるより先に兵士の胸から刃が飛び出す。
「ミゼルに何をするの!」
「あ……ぐ……」
信じられないものを見て、口から血を吐き出しながら倒れる兵士。そういえばこの都を守る兵達の長だったはずだが、名前すら覚えていないことにミューリスは気付く。まあ、どうでもいい。
死に損なった。それも、よりにもよってこの女に助けられて。
「大丈夫、ミゼル!?」
「もしかしたらとは思っていたけど、本当に来るとはね……」
幽鬼のように痩せ細って顔色の悪い女、雨の聖者マリス。この教会の第二位の座に四百年居座り続ける祝福されし者。
今、最も会いたくなかった女が血まみれの剣を握ったまま殺意と憎悪で濁った目を周囲に向ける。
「マ、マリス様……」
「部屋から、お出でに……ひいっ!」
ミューリスが斬られそうになっても一歩も動かなかった者達が彼女に一瞥されただけで部屋から逃げ出してしまった。こんな女、彼等なら簡単に殺せただろうに。権威と精霊の祝福のせいで実像からかけ離れた恐怖を感じたのだろう。三百年以上も部屋から出て来なかった女がいきなりここに現れたのだから混乱しても仕方ないが。
二人きりになってしまった部屋でマリスは剣を捨て、やはりミューリスに縋りついて来る。
「ごめん……ごめんね、ミゼルを危険な目に遭わせるなんて。どうしてなの? わた、私は能力を使ってるのよ。ちゃんとやってるの。なのに、どうして、どうしてこんな……」
左手の親指の爪を噛み、右手で頭をかき毟る。この女の精神の均衡が崩れている時の癖だ。
外では雨が降り続いている。宇宙から舞い落ちる怪塵を洗い流そうと、この女の能力が凄まじい豪雨を聖都全体に降り注がせる。雨の精霊に祝福されし者。この力が四百年間この都の安全を保ち続けた。だから教会には権威があった。
けれど無意味だ。今回はあまりにも怪塵の量が多すぎる。この雨でも洗い流しきれず、どこかで一定量を超えて蓄積され怪物になった。今のところ、まだ数体。でも、そのたった数体にさえ抗うことができない。それが自分達の現実。これまでのツケを一気に払わされている。
どこから間違えたのだろう? ミューリスという便利な能力者に頼り切ったことか? それともアイム・ユニティと些細なことで決裂して忌み嫌うようになったことか? あるいはこの教会そのものの設立が重大な誤りだったのか。
わからない。わかるはずもない。自分は数年前に無理矢理この教主の座に据えられただけの小娘なのだ。マリスのかつての恋人の血を引き、祖先に顔が似ているというそれだけの理由で。
以前は別の街に住んでいた。聖都より危険で汚らしい街。だけど多少の自由と安らぎならあった。あの街で食堂の給仕をしていた頃の方がずっと幸せだった。
本当にどうしてこうなった? またニャーンの姿が脳裏に浮かんで来る。彼女と自分と何が違うのか。どちらも無知で愚かな子供。突然望んでもいない力と立場を与えられた。なのに何故彼女は人類の希望となり、自分はここで絶望している?
その時、窓の外に光が見えた。強烈な眩い白光が夜空を駆けあがって行く。女神自身が姿を現し語りかけたことで何が起きているのかは知っていた。きっと彼女は、あのニャーン・アクラタカはまた試練を乗り越えたのだ。
あの日のように、自分はそれを見ているだけ。飛び去って行く白い光を見送ることしかできない。亡霊のような女に抱かれながら。
「へ、兵達が逃げ出して行きます! 私達も逃げなくては!」
「もうそこまで怪物が迫っておるのですよ!?」
「教主様! あの方の説得を! もっと、もっと強い雨を!」
「教主様!」
――続々と凶報が届く。当然のことだと思いながら聞き流す。第六大陸の実質的な支配者として君臨し続けた陽母教会の長、教主ミューリスは大聖堂の自室でぼんやりと椅子に座っている。
報告を聞いたからと言って、お飾りの教主に過ぎない自分に何ができる? 何もできない。明白な事実なのに教会の者達は次から次にやって来て縋りつく。きっと考える力を失ってしまったのだ。ずっと同じことばかりを繰り返してきて脳が硬直してしまっている。
鬱陶しいので、それらしい言葉を練って返してやった。もしかしたら追い払えるかもしれない。
「これは試練です、耐えなさい。神は私達が救うに値するかどうかを試しているのです。背教者や呪われた娘の力を借りて生き延びたとしても結局は地獄に落ちる。ただ一心に陽母の慈悲を信じて祈っていれば、きっと救われます。少なくとも死後の安寧は約束される」
もちろん、そんな奇跡起こるはずがない。第六大陸の能力者は全員がこの聖都にいる。でも彼等は実戦経験など無いし戦いに向いた能力でもないのだ。この状況はどうにもできまい。
そういえば彼等はここにいない。戦っているのか、それとも逃げたか、殺されたか。
兵士達も同じ。ガス抜きのために人間同士の争いはさせていたが、怪物との戦闘経験がある者はほとんどいない。せいぜいが怪塵狂いの獣を仕留めた程度。そういうそこそこの実力者でさえ大半は辺境に配備されている。馬鹿な話だ、この期に及んでも守るべき民を一ヵ所に集めず各地に分散させてあるのだから。十分に守りを固める時間はあったと言うのに。
――ミーネラージス修道院の悲劇を思い出す。正確に何が起きたかは知らない。空から赤い光が落ちて来て、しばらく後に様子を見に行った者達が何もかも無くなってしまっていたと教会に報告した。修道院にいたはずの者達の人数分、簡素な墓が作られていたとも。
凶報を聞いた教会は混乱し、その動揺は聖都全体へ広まり、一時的に教会の信用を失墜させかねない事態にまで発展しかけた。ニャーン・アクラタカが起こした奇跡を見たことで聖都の民からも彼女とアイム・ユニティを支持する声が上がり始めていたのだ。そこにニャーンと縁のある修道院で起きた悲劇。
様々な憶測が行き交い、彼女への同情と、彼女を破門にした教会への反発が日々高まって行く。
そこでミューリス達は騒動を鎮静化させるため、都合の良い話をでっち上げた。全ては呪われた娘ニャーン・アクラタカの仕業だと公表したのだ。修道院を壊滅させた赤い光は彼女が作り出した怪物。教会を追放された娘が逆恨みからやったことだと事実を捻じ曲げた。当然アイム・ユニティも荷担していることにして罪を着せた。それによって怒りと不信の矛先は教会から逸れ、再びあの二人に向けられた。
だから報いを受けたのだ。あんなことをしておいてニャーンの力に頼れるはずも無い。彼女から防衛機構を配備したいという申し出を受けたが、再三繰り返されたそれをミューリスは全て不要と言って突っぱねた。第六大陸は独自に我が身を守ると。
その当てもないのに。
「ふざけるな! もう貴様の詭弁にはうんざりだ! 何が教主だ女狐め!」
「……」
とうとう怒り狂った兵士が剣を抜き眼前で振り上げても、ミューリスの心は動かなかった。ただ、あの少女のことだけを考えている。
嫉妬していた、自由に空を飛ぶことができる彼女に。突然大きな責任を背負うことになったのに、自分とは逆に日向を歩いている存在に。光そのものであるかのような少女に憧れて、妬み、視界の外へと追いやった。
「当然の報いです」
自分に対して言ったのだが、兵士はそう取らなかった。
「こんな、こんな女のせいで妻が……息子が……地獄に落ちろ! 永遠に炎で焼かれよ!」
剣が振り下ろされる。その瞬間不意にミューリスは笑う。ああ、やっとこれで楽になれるのだと破顔した。
けれど、そうはならなかった。彼女が斬られるより先に兵士の胸から刃が飛び出す。
「ミゼルに何をするの!」
「あ……ぐ……」
信じられないものを見て、口から血を吐き出しながら倒れる兵士。そういえばこの都を守る兵達の長だったはずだが、名前すら覚えていないことにミューリスは気付く。まあ、どうでもいい。
死に損なった。それも、よりにもよってこの女に助けられて。
「大丈夫、ミゼル!?」
「もしかしたらとは思っていたけど、本当に来るとはね……」
幽鬼のように痩せ細って顔色の悪い女、雨の聖者マリス。この教会の第二位の座に四百年居座り続ける祝福されし者。
今、最も会いたくなかった女が血まみれの剣を握ったまま殺意と憎悪で濁った目を周囲に向ける。
「マ、マリス様……」
「部屋から、お出でに……ひいっ!」
ミューリスが斬られそうになっても一歩も動かなかった者達が彼女に一瞥されただけで部屋から逃げ出してしまった。こんな女、彼等なら簡単に殺せただろうに。権威と精霊の祝福のせいで実像からかけ離れた恐怖を感じたのだろう。三百年以上も部屋から出て来なかった女がいきなりここに現れたのだから混乱しても仕方ないが。
二人きりになってしまった部屋でマリスは剣を捨て、やはりミューリスに縋りついて来る。
「ごめん……ごめんね、ミゼルを危険な目に遭わせるなんて。どうしてなの? わた、私は能力を使ってるのよ。ちゃんとやってるの。なのに、どうして、どうしてこんな……」
左手の親指の爪を噛み、右手で頭をかき毟る。この女の精神の均衡が崩れている時の癖だ。
外では雨が降り続いている。宇宙から舞い落ちる怪塵を洗い流そうと、この女の能力が凄まじい豪雨を聖都全体に降り注がせる。雨の精霊に祝福されし者。この力が四百年間この都の安全を保ち続けた。だから教会には権威があった。
けれど無意味だ。今回はあまりにも怪塵の量が多すぎる。この雨でも洗い流しきれず、どこかで一定量を超えて蓄積され怪物になった。今のところ、まだ数体。でも、そのたった数体にさえ抗うことができない。それが自分達の現実。これまでのツケを一気に払わされている。
どこから間違えたのだろう? ミューリスという便利な能力者に頼り切ったことか? それともアイム・ユニティと些細なことで決裂して忌み嫌うようになったことか? あるいはこの教会そのものの設立が重大な誤りだったのか。
わからない。わかるはずもない。自分は数年前に無理矢理この教主の座に据えられただけの小娘なのだ。マリスのかつての恋人の血を引き、祖先に顔が似ているというそれだけの理由で。
以前は別の街に住んでいた。聖都より危険で汚らしい街。だけど多少の自由と安らぎならあった。あの街で食堂の給仕をしていた頃の方がずっと幸せだった。
本当にどうしてこうなった? またニャーンの姿が脳裏に浮かんで来る。彼女と自分と何が違うのか。どちらも無知で愚かな子供。突然望んでもいない力と立場を与えられた。なのに何故彼女は人類の希望となり、自分はここで絶望している?
その時、窓の外に光が見えた。強烈な眩い白光が夜空を駆けあがって行く。女神自身が姿を現し語りかけたことで何が起きているのかは知っていた。きっと彼女は、あのニャーン・アクラタカはまた試練を乗り越えたのだ。
あの日のように、自分はそれを見ているだけ。飛び去って行く白い光を見送ることしかできない。亡霊のような女に抱かれながら。
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