75 / 103
三章・長い夜へ
たった一つの光(2)
しおりを挟む
アイズの剣の切っ先は、たしかに魔素結晶まで届いていた。表面に小さな傷が生じている。
なのにどうして? 心臓を貫かれたのはアイズの方。アリスは胸に微かな痛みを感じながらまだ生きている。逆に倒れ込んで来たアイズを受け止め、支えきれず尻餅をついた。
「なん、で……」
あの瞬間アイズは剣を引いた。全力で突き出した一撃を強引に止めたのだ。そのせいで彼女自身の肩や膝の関節が破壊されてしまっている。己の身を擲ってまでアリスの命を選んだ。
女神の殺意で黒く染まり、黒化していた体が元の姿に戻っていく。その表情は激痛に耐えながらも穏やか。
「アイズ……?」
アリスには一連の流れが見えていた。なのに何が起きたのかわからない。どうして自分の手が血に塗れている? どうしてアイズが倒れることになった?
死ぬべきは自分だったのに。
「さい、ごに……」
「え?」
か細い声で囁く彼女。何かを言い遺そうとしている。アリスの深度は女神の彼女にさえ致命傷を与えてしまった。もう長くない。
「わた、し……で、おわり、に……」
「終わり? 終わりって、どういうこと?」
「……」
アイズの両手が動く。きっと最後の力を振り絞ったのだ。それでも、あまりに弱々しくアリスの体を抱く。
「すまない……ころし、たく……ない……」
「そんな……嫌、嫌、嫌、嫌っ!」
だったらどうしたらいい? この苦しみを、繰り返し再現される恐怖と絶望を抱えたまま永遠に生きろと? そんな罰を自分に与えたいと?
「殺してよ! 貴女にしかできない! もう、貴女にしか殺せないのに!」
置いて行くのか? こんな形で自分勝手に置き去りにするのか?
「だったら生きて一緒にいてよ! そしたら、貴女と一緒なら耐えられるのに、どうして!? 置き去りにしないで!」
「……」
アイズは沈黙した。言いたいことはたくさんある。なのに時間が残されていない。だから必要なことだけを伝える。
「恨んで、いい……わたし、を……」
彼女の苦しみはこれからも続く。終わらせてやることもできたのに、そうしなかった。恨まれて当然の選択。だからそれでいい。そうして欲しい。
「わたし……だけに、しろ……もう、ほかの、だれも……」
息が続かない。胸を貫かれたのだから、まだこうして声を出せているだけで奇跡に近い。
ああ、人の身を捨てて良かった。おかげで、この言葉を伝えられる。
「うら、め……わたし……だけ、を――」
「……アイズ?」
アリスの声が耳に届く。でも、もう返事はできない。
思い出が蘇って来る。彼女と、そしてリリティアと出会ってからの日々の記憶。
後悔も押し寄せる。最初の頃にずいぶん酷いことをしてしまった。冬の間、寂しい思いもさせた。挙句こんな仕打ちまでして別れる。
だから恨んで欲しい。憎んで欲しい。その代わり、他の誰も二度と傷付けるな。
(ずっと傍にいる。約束通り傍で見守っているから)
アリスはたくさんの人を騙した。傷付け、殺した。到底許される罪ではない。それでも自分には彼女を殺すことはできない。許すことしかできない。
彼女の絶望が理解できる。なのに、どうして責められよう?
「アイズ、ねえ、やめて……返事をして……貴女は神様でしょ、こんなことで死ぬはずがないのよ。死なないと言って、お願いだから……」
呼びかけながらアリスも理解してしまった。この願いは届かないと。どんどん足下の血溜まりが広がり、逆にアイズの体からは熱と生命力が失われていく。
もう彼女は返事をしない。二度と、こうして抱き合いながら眠ることもない。アリスもまた思い出す。リリティアを通して彼女を観察した日々を。計画のための駒を、操り、利用しているに過ぎなかった少女を妬んで羨み続けた時間を。
ああ、馬鹿だった。もっときちんと伝えるべきだったのに。そうしたらきっと彼女は受け入れてくれた。共に歩んで行けた。
「お願い……大好きなの……一緒にいてよ……」
(私もだ)
アイズにはまだ意識があった。けれど、その言葉は声にならず、少女に届かない。そこで彼女の命は完全に途切れ、そしてアリスは泣き崩れた。
何もかも破壊し尽くしてしまった廃墟に、取り残された少女の泣き声が木霊する。
――どれだけ時間が経ったのだろう? アイズの体を抱きしめ、泣き続けるアリスの前に一人の男が立つ。
ブレイブだ。彼は千切れかけたままの右腕の代わりに左手でアイズの剣を拾い上げ、訊ねる。
「どうしたい?」
死にかけたが、死に損なった。天士となった彼は神であるアルトルの命の一部を与えられている。だから簡単には死ねない。
アイズとアリスの最後の会話も聞いた。だから確認しておきたい。
「まだ、人を殺すか……?」
「……」
アリスは首を左右に振った。もう、それだけはできない。どんなに憎くても悲しくてもアイズの最後の望みには背きたくない。
でも、いつまた殺戮を望んでしまうかわからない。だから――
「殺して……貴方でも、今の私なら殺せるかもしれない……」
深度は精神状態によってある程度変動する。アイズを喪ったこの悲しみも、時が経てばやがては薄れてしまうだろう。そうなる前のこの状態でなら彼等にも十分殺し得る。
ブレイブだけではない。次々に天士達が蘇り、立ち上がった。怒りと殺意に満ちた眼差しで睨み、傷付いた体を引きずって一歩一歩にじり寄って来る。
もう抵抗はしない。むしろ早く殺して欲しい。
「アイズと一緒にいさせて……」
「そうか……」
ブレイブは剣を振り上げる。さらに刃を風が包み込んだ。一撃では殺せないかもしれない。なら何度でも攻撃しよう。相手もそれを望んでいる。殺せるまで繰り返すしかない。
脳裏にアイズとノーラの顔が浮かんで来た。歯を食い縛って堪える。許してしまいそうな自分を鼓舞する。
(怒るだろうな……だが、今は憎しみを忘れていても、いつかまた同じことを繰り返すかもしれん。それだけは看過できん)
こうなったのは自分の責任。リリティアを疑いつつ、厳しく対応できなかった自分が悪い。
これはその責任を取るだけ。そう自分に言い聞かせて剣を――
【待ってください!】
「!」
突然、その場の全員の頭に響いた声。ブレイブも他の天士達も動きを止めて発生源を探る。
エアーズだ。彼もまた生きているのが不思議な姿で近付いて来た。左の肩から先が無く、左耳も削げ落ちてしまっている。右の脇腹に穴が開いていて、そこからの出血はまだ止まっていない。左の太ももには鋭く尖った鉄片が突き刺さったまま。顔色も悪い。
なのに彼だけは違った。アリスを見る目に一片の殺意も無い。それどころではないからだ。必死の形相でアイズを見据え、他の面々が硬直してる間に彼女の遺体へ縋りつく。
【まだです、団長。まだ助けられる】
「エアーズ、お前……!」
声を出さず能力を使って喋っているのは甲冑がひしゃげて呼吸できないからだと気付いた。急ぎ、それを脱がせてやるブレイブ。青紫になりかけていたエアーズの顔が徐々に元に戻り始める。
「あ、ありがとうござい、ます……この腕では、上手く外せなくて……」
「いいから聞かせろ、どうやって助ける?」
ブレイブにとってもアリスの処遇よりアイズの救命の方が重要。問い質した彼にエアーズは彼女の顔を見つめながら答える。
「私の能力は『声』です。音ではなく、想いを相手に伝える。これを使って語りかけてみます」
「何? まさか……」
「はい……副長の中にいらっしゃるんですよね、アルトル様が」
「えっ?」
「アルトル様……?」
困惑する天士達。彼等にはアリスとアイズのやり取りは聞こえていなかった。しかしエアーズは能力で全て聞き取った。だからもう知っている。アイズは天士でなく女神。自分達を人間から天士にしてくれた存在だと。
「どんな願いにも対価が必要になる……でも、それは裏を返せば、願いに見合う対価さえ支払えば叶えてもらえる……少なくとも、その可能性が生じるということです」
だったら自分はそれに賭ける。迷わず全てを注ぎ込む。
「私に差し上げられるものなら、全てお渡しします。だから神様、どうか――」
アイズの額に自分の額を重ねる。そのまま瞼を閉じて集中する。能力を彼女の中に、そこにいるはずの貴人へと向ける。
「どうか、私の大切な人を返してください」
青い光が接触した場所から生じて溢れ出す。驚きに目を見張るアリスとブレイブ、そして十八人の天士達。周囲に広がった光は彼等を包み込み、そしてその精神を共に同じ場所へ導いた。
なのにどうして? 心臓を貫かれたのはアイズの方。アリスは胸に微かな痛みを感じながらまだ生きている。逆に倒れ込んで来たアイズを受け止め、支えきれず尻餅をついた。
「なん、で……」
あの瞬間アイズは剣を引いた。全力で突き出した一撃を強引に止めたのだ。そのせいで彼女自身の肩や膝の関節が破壊されてしまっている。己の身を擲ってまでアリスの命を選んだ。
女神の殺意で黒く染まり、黒化していた体が元の姿に戻っていく。その表情は激痛に耐えながらも穏やか。
「アイズ……?」
アリスには一連の流れが見えていた。なのに何が起きたのかわからない。どうして自分の手が血に塗れている? どうしてアイズが倒れることになった?
死ぬべきは自分だったのに。
「さい、ごに……」
「え?」
か細い声で囁く彼女。何かを言い遺そうとしている。アリスの深度は女神の彼女にさえ致命傷を与えてしまった。もう長くない。
「わた、し……で、おわり、に……」
「終わり? 終わりって、どういうこと?」
「……」
アイズの両手が動く。きっと最後の力を振り絞ったのだ。それでも、あまりに弱々しくアリスの体を抱く。
「すまない……ころし、たく……ない……」
「そんな……嫌、嫌、嫌、嫌っ!」
だったらどうしたらいい? この苦しみを、繰り返し再現される恐怖と絶望を抱えたまま永遠に生きろと? そんな罰を自分に与えたいと?
「殺してよ! 貴女にしかできない! もう、貴女にしか殺せないのに!」
置いて行くのか? こんな形で自分勝手に置き去りにするのか?
「だったら生きて一緒にいてよ! そしたら、貴女と一緒なら耐えられるのに、どうして!? 置き去りにしないで!」
「……」
アイズは沈黙した。言いたいことはたくさんある。なのに時間が残されていない。だから必要なことだけを伝える。
「恨んで、いい……わたし、を……」
彼女の苦しみはこれからも続く。終わらせてやることもできたのに、そうしなかった。恨まれて当然の選択。だからそれでいい。そうして欲しい。
「わたし……だけに、しろ……もう、ほかの、だれも……」
息が続かない。胸を貫かれたのだから、まだこうして声を出せているだけで奇跡に近い。
ああ、人の身を捨てて良かった。おかげで、この言葉を伝えられる。
「うら、め……わたし……だけ、を――」
「……アイズ?」
アリスの声が耳に届く。でも、もう返事はできない。
思い出が蘇って来る。彼女と、そしてリリティアと出会ってからの日々の記憶。
後悔も押し寄せる。最初の頃にずいぶん酷いことをしてしまった。冬の間、寂しい思いもさせた。挙句こんな仕打ちまでして別れる。
だから恨んで欲しい。憎んで欲しい。その代わり、他の誰も二度と傷付けるな。
(ずっと傍にいる。約束通り傍で見守っているから)
アリスはたくさんの人を騙した。傷付け、殺した。到底許される罪ではない。それでも自分には彼女を殺すことはできない。許すことしかできない。
彼女の絶望が理解できる。なのに、どうして責められよう?
「アイズ、ねえ、やめて……返事をして……貴女は神様でしょ、こんなことで死ぬはずがないのよ。死なないと言って、お願いだから……」
呼びかけながらアリスも理解してしまった。この願いは届かないと。どんどん足下の血溜まりが広がり、逆にアイズの体からは熱と生命力が失われていく。
もう彼女は返事をしない。二度と、こうして抱き合いながら眠ることもない。アリスもまた思い出す。リリティアを通して彼女を観察した日々を。計画のための駒を、操り、利用しているに過ぎなかった少女を妬んで羨み続けた時間を。
ああ、馬鹿だった。もっときちんと伝えるべきだったのに。そうしたらきっと彼女は受け入れてくれた。共に歩んで行けた。
「お願い……大好きなの……一緒にいてよ……」
(私もだ)
アイズにはまだ意識があった。けれど、その言葉は声にならず、少女に届かない。そこで彼女の命は完全に途切れ、そしてアリスは泣き崩れた。
何もかも破壊し尽くしてしまった廃墟に、取り残された少女の泣き声が木霊する。
――どれだけ時間が経ったのだろう? アイズの体を抱きしめ、泣き続けるアリスの前に一人の男が立つ。
ブレイブだ。彼は千切れかけたままの右腕の代わりに左手でアイズの剣を拾い上げ、訊ねる。
「どうしたい?」
死にかけたが、死に損なった。天士となった彼は神であるアルトルの命の一部を与えられている。だから簡単には死ねない。
アイズとアリスの最後の会話も聞いた。だから確認しておきたい。
「まだ、人を殺すか……?」
「……」
アリスは首を左右に振った。もう、それだけはできない。どんなに憎くても悲しくてもアイズの最後の望みには背きたくない。
でも、いつまた殺戮を望んでしまうかわからない。だから――
「殺して……貴方でも、今の私なら殺せるかもしれない……」
深度は精神状態によってある程度変動する。アイズを喪ったこの悲しみも、時が経てばやがては薄れてしまうだろう。そうなる前のこの状態でなら彼等にも十分殺し得る。
ブレイブだけではない。次々に天士達が蘇り、立ち上がった。怒りと殺意に満ちた眼差しで睨み、傷付いた体を引きずって一歩一歩にじり寄って来る。
もう抵抗はしない。むしろ早く殺して欲しい。
「アイズと一緒にいさせて……」
「そうか……」
ブレイブは剣を振り上げる。さらに刃を風が包み込んだ。一撃では殺せないかもしれない。なら何度でも攻撃しよう。相手もそれを望んでいる。殺せるまで繰り返すしかない。
脳裏にアイズとノーラの顔が浮かんで来た。歯を食い縛って堪える。許してしまいそうな自分を鼓舞する。
(怒るだろうな……だが、今は憎しみを忘れていても、いつかまた同じことを繰り返すかもしれん。それだけは看過できん)
こうなったのは自分の責任。リリティアを疑いつつ、厳しく対応できなかった自分が悪い。
これはその責任を取るだけ。そう自分に言い聞かせて剣を――
【待ってください!】
「!」
突然、その場の全員の頭に響いた声。ブレイブも他の天士達も動きを止めて発生源を探る。
エアーズだ。彼もまた生きているのが不思議な姿で近付いて来た。左の肩から先が無く、左耳も削げ落ちてしまっている。右の脇腹に穴が開いていて、そこからの出血はまだ止まっていない。左の太ももには鋭く尖った鉄片が突き刺さったまま。顔色も悪い。
なのに彼だけは違った。アリスを見る目に一片の殺意も無い。それどころではないからだ。必死の形相でアイズを見据え、他の面々が硬直してる間に彼女の遺体へ縋りつく。
【まだです、団長。まだ助けられる】
「エアーズ、お前……!」
声を出さず能力を使って喋っているのは甲冑がひしゃげて呼吸できないからだと気付いた。急ぎ、それを脱がせてやるブレイブ。青紫になりかけていたエアーズの顔が徐々に元に戻り始める。
「あ、ありがとうござい、ます……この腕では、上手く外せなくて……」
「いいから聞かせろ、どうやって助ける?」
ブレイブにとってもアリスの処遇よりアイズの救命の方が重要。問い質した彼にエアーズは彼女の顔を見つめながら答える。
「私の能力は『声』です。音ではなく、想いを相手に伝える。これを使って語りかけてみます」
「何? まさか……」
「はい……副長の中にいらっしゃるんですよね、アルトル様が」
「えっ?」
「アルトル様……?」
困惑する天士達。彼等にはアリスとアイズのやり取りは聞こえていなかった。しかしエアーズは能力で全て聞き取った。だからもう知っている。アイズは天士でなく女神。自分達を人間から天士にしてくれた存在だと。
「どんな願いにも対価が必要になる……でも、それは裏を返せば、願いに見合う対価さえ支払えば叶えてもらえる……少なくとも、その可能性が生じるということです」
だったら自分はそれに賭ける。迷わず全てを注ぎ込む。
「私に差し上げられるものなら、全てお渡しします。だから神様、どうか――」
アイズの額に自分の額を重ねる。そのまま瞼を閉じて集中する。能力を彼女の中に、そこにいるはずの貴人へと向ける。
「どうか、私の大切な人を返してください」
青い光が接触した場所から生じて溢れ出す。驚きに目を見張るアリスとブレイブ、そして十八人の天士達。周囲に広がった光は彼等を包み込み、そしてその精神を共に同じ場所へ導いた。
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
3
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる