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第三部(後編)
十三章・信雷(1)
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もうアサヒの精神は限界だった。両手両足を引き千切られ、体内に侵入した幾千本の髪により神経を直接弄ばれている。数ヶ月ぶりに蘇った痛覚に与えられる刺激は、精神的に普通の少年でしかない彼にとって耐えがたいほど強烈だ。今や苦痛に喘ぐことも無く茫洋とした表情で涎を垂らしている。
周囲を埋め尽くす髪と、その隙間から覗く無数の目は彼の様子をじっくり眺め、やがて完全に無力化できたと結論付けた。
──大人しくなった。
──可哀想な子や。
──迎え入れたってください。
亡者達の声が囁き、視線が別の一点に集まる。
すると髪が蠢き、何かを持ち上げた。青と紫の入り混じる不気味な光に包まれ、それは姿を現す。
ドクロだ。人間の頭蓋骨。それが“蒼黒”という怪異の“核”だった。
彼はアサヒに近付き、口を開く。声帯など無く、水中なのに、その声はやけにはっきり周囲に響き渡った。
「ついて来なさい。一緒に帰ろう……」
優しい声。まるで我が子に語りかける父親のような、そんな声。ドクロを中心に海水の一部が銀色に発光して人の姿を形作る。
それは、三十代くらいの若い警官。
右手を差し伸べ、穏やかに笑む。
そして、その顔を──
【舐めるな、人間】
赤い腕が、鷲掴みにした。
「なっ!?」
【やっと来てくれたな。待っていたぞ、この瞬間を】
アサヒの失われた四肢の代わりにドラゴンの手足が生える。顔と胴も鱗に覆われ変形し、体内に侵入した髪を炎で焼き尽くした。全身から怒気と共に高熱を発し、海水を煮え滾らせて牙を剥く。
そう、彼等は待っていた。蒼黒の核となっている何かが、自ら手の届く範囲へ近付いてくれる、その時を。
【もう逃がさん!】
力づくで強引に突破することもできた。だが、万が一にも取り逃がせば、敵の体内とも言えるこの環境下で二度目のチャンスは訪れない。むしろこちらの力を知り警戒したこの敵は二度と姿を見せなくなってしまう。広大な海のどこかに潜み、じわじわ自分達の抵抗力を削ぐ方針へ切り替えただろう。
敵には想像以上の力と知恵が備わっている。その事実を確認した時、ライオが提案した作戦がこれだった。あえて敵の懐に飛び込み、いたぶられて油断を誘う。必勝の機を待ち、一気に勝負を仕掛ける。
当然、彼は躊躇しなかった。蒼黒の核を破壊すべく満身の力を込める。
ところが──
(硬い!?)
たかが人間の骨が信じられない強度を誇っていた。砕くどころかヒビの一つも入らない。さらに不気味な蒼紫の輝きが膨張し、彼の指を強引にこじ開けようとする。
【させるか!】
左手も使い、両の手の平を合わせ再び封じ込める。
なのに、それでも押し返される。
【ぐ、ぬ……ううッ!?】
これは魔力だ。それも凄まじい量の。
【おのれ……貴様も“開門”しているのか!】
おそらくこれも術士を取り込んだがゆえ。彼女達の知識を使い“門”を開いた。術には変換できず、単純に放出するだけのようだが、それでも量と出力は桁違い。魔力とは精神から湧き出ずるもの。数十万もの死者の思念が集合した蒼黒は、必然膨大な力を引き出すことが可能。
さらに、しばし戸惑いたゆたっていた“髪”も再び絡み付いて来た。咄嗟に炎を吐いて蹴散らそうとするも、一瞬早く口を縛られ不発に終わってしまう。
「邪魔をしないでくれ」
膨張する力に抗しきれず、僅かに開いた指の隙間から、拳銃が突き出された。躊躇無く発射される弾丸。それは無数の肉食魚と化し、ライオの全身に喰らいつく。
【ン……グ、ウッ!!】
「私は帰るんだ」
指の間から憎らし気に見上げて来る警官。その目が落ち窪み、ただの暗いウロと化して血の涙を流した。
「帰らなきゃならないんだ!」
叫び、今度は口から大量の虫を吐き出す。虫共は髪に縛られ身動きが取れないライオの目や耳にまとわりつき、体内に侵入して肉を食い荒らした。やはりアサヒ同様、強制的に痛覚を蘇らされたドラゴンは苦痛に顔を歪める。
すると彼の力が弱まった瞬間を見逃さず、さらに手の中で膨張する魔力の圧が高まった。こんなもの長く抑えつけてはいられない。本来の巨体に戻ったとしても無理だろう。
(やはり、お前の力が必要だ──アサヒ!)
あの夢の中で互いに認め合った存在、戦友の魂に向かって呼びかける巨竜。けれど反応は無かった。敵を誘き出すための作戦だったが、やはりあまりに過酷すぎたのだ。完全に心を砕かれてしまったらしい。
否、そんなはずがない。
己が想像を否定する。
(お前はまだ生きている。そうだろうアサヒ、約束したはずだ!)
自分とではなく、彼女と。
瞬間、彼自身の意思とは関係無く、指先が僅かに震えた。
呼びかけに応えたのか? 一瞬そう考えたが、やはり違う。
少年の魂が反応したのは、彼の言葉にではなかった。
遅れて、その気配を感知する。
(この魔力は!?)
『アサヒ!』
障壁越しにくぐもった声が響く。海中に響き渡ったそれが彼等の“心臓”を高鳴らせる。力強くリズムを刻み、鼓動を轟かせる。
そうだ、ライオは笑った。実に愉快。髪に縛られ、塞がれた口の隙間から赤い光が漏れ出す。
(それでこそ、我が半身よ!)
口の内部で火球を爆裂させ、絡み付いた髪を吹き飛ばし大笑する。
同時に“心臓”が、いっそう眩い輝きを放った。
【やれ、アサヒ!】
『任せろ!』
ライオの体が爆裂する。肉食魚と虫共を消し飛ばし、髪を押し退け、周囲に放射された高圧の魔素の輝きの中、少年が一人駆け抜ける。
『オオオオッ!!』
「!?」
ライオの腕も消し飛んでしまったが、代わりに彼の右手が亡霊の腹へ深く突き刺さった。そこにあった“核”のドクロを鷲掴み、渾身の力を込めるアサヒ。
それでもやはり砕けない。あまりに硬すぎる。血涙を流し、口からも血を吐いた警官は震える手で拳銃を構え、銃口をアサヒの額に押し当てた。
引き金が引かれ、発射される弾丸。それは虫でも魚でもなく“記憶”の結晶。
──始まりは崩界の日。彗星が月に衝突してから三二時間後、地上への帰還を望む一部の人々の声に負け、府知事は一時帰宅の許可を出した。
彼は反対していた。けれど一介の巡査の意見で府の決定が覆るはずもない。彼等警官は一時帰宅する人々の護衛として同行し、地上へ上がった。
それからさらに数時間後、あれが起こった。二〇五〇年七月十日一九時四九分。北東の方角に天まで届く光の柱が現れ、大阪には突如発生した大津波が押し寄せて来た。それがこの地で観測された最初の“記憶災害”である。
彼は、大勢の人々と共に波に飲み込まれた。幸いにも水面に浮上して生き延びることができたものの、あっという間に大阪市全体を飲み込んだ激流は一転、引き波となって彼等を沖合へ連れ去った。
板切れに掴まり、流されるまま、必死に手を伸ばす。体中に色々なものがぶつかり、傷ついて、それでもなお必死に脚を動かし続けた。
戻りたかった。地下都市に残っている家族に、妻と娘に、また会いたかった。
やがて波が収まり、疲労困憊した体でさらに懸命に泳いだ。その瞳には津波でダメージを受けた大阪の街が、さらに炎上していく姿が映った。炎の中にいくつもの巨大な異形の姿も見えた。
『絶対に帰る! 帰るからな!!』
妻と子に向かって呼びかける。自分が助けに行くから、そこで待っていてくれと。
でも、大阪へ辿り着く前に彼の人生は終わった。ちょうど真下に洋上風力発電で作った電力を大阪へ送電するケーブルが走っていたのだ。その電力が怪物を生み出し、彼の願いを打ち砕いた。
それでも、死してなお彼の想いだけは生き続けた。
必ず帰る。家族の待つ大阪へ──
(そう、か……)
脳に達した銃弾から流れ込んで来る、目の前の警官の記憶。彼がどうしてこうなったか、何を目的としているのかを瞬時に理解するアサヒ。
彼は優しい人だった。困っている人間を放っておけなかった。そんな彼の魂に、同じく大阪への帰還を望む死者達が同調し寄り集まった。そうして蒼黒が生まれた。
けれど、アサヒは手を離さない。
「はなせ、はなせ、はなせはなせはなせはなせえっ!!」
さらに何度も撃ち込まれる“記憶”の弾丸。崩界の日に犠牲となった人々の嘆き。あの地獄を生き延びたのに、蒼黒に飲み込まれてしまった人々の苦痛。怒り、悲しみ、一人の人間では到底抱えきれない感情の渦が無理矢理頭へ流し込まれる。
(まずい!)
このままでは、今度こそアサヒの心は砕け散る。蒼黒の一部と化してしまう。ライオがそう危惧した、その瞬間だった。
周囲を囲む“髪”の一部が盛り上がり、突き破って閃光が飛び出す。
『アサヒ!』
再び響き渡る声。少女は何故かホウキに跨っていて、アサヒの姿を見つけるなり迷わず手を離し、慣性のまま海中を駆けて彼の背中にしがみつく。
彼女には今ここで何が起きていたのかなど知りようがない。そして、それに一切興味も無かった。
何も言わず、ただ黙って手を回し、力一杯抱きしめる。
それだけで、想いは十分伝わった。
──帰るんだ。
巨大な思念の渦に翻弄されていた少年の魂が、ようやくそこから抜け出すための光明を見出す。奇しくも蒼黒の核となった警官と同じ想い。
目の前で輝く、誰よりも愛しい星に向かって手を伸ばした。
その手を、差し伸べられた二つの腕が掴んで引っ張る。
少女と巨竜が、彼を悪夢から救い出してくれた。
警官の亡霊は狼狽する。
「な、何故……どうして同化しない? 同じなのに……我々と同じなのに!」
「あんたの気持ちは、よくわかる」
朱璃の障壁に包まれた彼は、眼前の怯える亡霊を睨みつけた。記憶を見たことで同情の念は湧いている。
けれど、それ以上の怒りが込み上げていた。
「俺も帰りたい。母さんがいた頃に、朱璃達がいる場所に! みんな、そうだったんだよ。なのにあんたは殺した! 自分の願いの為に、たくさんの人を巻き込んだ! その人達にだって帰りたい場所が、大切な誰かの待つ場所があったのに!」
ドクロを掴んだ手に魔素を集束させる。この距離では自分もただでは済まない。だから使わなかった最終手段。
でも今なら信じられる。共にある二人のことを。
朱璃とライオが、必ず守ってくれると。
「やめ、やめろ! 私は──」
「帰れよ! あんたを待ってる、家族のところへ!」
苦し紛れに引き金を引く警官。しかし再び撃ち込まれた記憶の弾丸はアサヒの脳へ届く前に蒸発した。
右手から放たれた光は頭蓋骨を砕き、こびりついていた妄念を剥き出しにする。警官の幻が消え、代わりに絶叫が上がった。
【あ、ああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!?】
この輝きの源は魔素。接触したものの記憶を保存する物質がドクロに代わって男の思念を吸収し、閉じ込めた。アサヒの激しい怒りと共に。
魔素の内部で両者の思念がぶつかり合う。一瞬収縮した光は、その短い時間に白と黒のどちらかへ何度も変色を繰り返す。
だが、やがて白が勝った。そこから再び膨張が始まる。
「ッ!」
アサヒは素早く後方へ退った。自らの攻撃で自滅すまいと魔素障壁を多重展開して身を護る。
けれど、彼の怒りは魔素に込めた“破壊”のイメージを予想以上に強めた。福島のエレベーターシャフト内で放った時と同じように、またも彼自身の防御能力を大きく上回ってしまう。
あの時は桜花に助けられた。そして、今ここに彼女はいない。
それでも──
「力を貸して!」
朱璃がアサヒの肩越しに右手を伸ばす。その手の平に、さっき手放したホウキが勝手に戻って来て吸い付いた。
ホウキと朱璃の両者が青白い輝きを放つ。霊力の光。それが新たな障壁を展開して彼女と彼を包み込む。
さらにアサヒの両腕が巨大化して赤き竜のものとなった。本来の彼そのもののサイズに膨れ上がったそれが、眼前で交差して二人を守る。
光が爆発した。
蒼黒の“髪”も巻き込まれ、海水と共に消し飛んでいく。
天まで届く柱が現れ、アサヒ達はその輝きの中、寄り添いながら互いを護った。
「!」
月華は蒼黒の“核”が消滅したことに気付く。
しかし、同時に誤算をも知った。
「まずい!」
満身創痍の友軍。すでに数名の死者も出ている。蒼黒が送り込んで来た敵は未だ数多く残っており、闘志が尽きかけている彼等を見下ろしていた。
だが、それはいい。追加が無ければ、ここまで力を温存してきた自分が一気にあれらを片付けて決着。そういう算段を付けていた。なのに──
絶叫が上がる。いや、それは悲鳴ではなく、もっと混沌とした何か。
頭上の結界を覆う海水がさらに黒く濁り、渦を巻いて暴れ出した。これまで核となっていた魂が失われたことにより瓦解する、わけではない。どうやら新たな核を決めるべく死者達による争いが始まったようだ。
このままでは、結局蒼黒は無くならない。別の魂を中心に据えて存在し続ける。中心核を破壊するだけでは駄目だったのだ。
「か、母様!?」
「結界を維持しなさい!」
異様な展開を察し、うろたえた風花に指示を出す。
こうなったらもう、あれを使うしかない──大阪を大結界で守ったまま、あの術を行使するには大きな代償が必要となるだろう。それでも、今ここで使わなければ全てがご破算だ。
決意した月華は歌を歌い始める。誰も聴いたことが無い言語で。
その右目は青に、左目は藍に輝き始めた。
周囲を埋め尽くす髪と、その隙間から覗く無数の目は彼の様子をじっくり眺め、やがて完全に無力化できたと結論付けた。
──大人しくなった。
──可哀想な子や。
──迎え入れたってください。
亡者達の声が囁き、視線が別の一点に集まる。
すると髪が蠢き、何かを持ち上げた。青と紫の入り混じる不気味な光に包まれ、それは姿を現す。
ドクロだ。人間の頭蓋骨。それが“蒼黒”という怪異の“核”だった。
彼はアサヒに近付き、口を開く。声帯など無く、水中なのに、その声はやけにはっきり周囲に響き渡った。
「ついて来なさい。一緒に帰ろう……」
優しい声。まるで我が子に語りかける父親のような、そんな声。ドクロを中心に海水の一部が銀色に発光して人の姿を形作る。
それは、三十代くらいの若い警官。
右手を差し伸べ、穏やかに笑む。
そして、その顔を──
【舐めるな、人間】
赤い腕が、鷲掴みにした。
「なっ!?」
【やっと来てくれたな。待っていたぞ、この瞬間を】
アサヒの失われた四肢の代わりにドラゴンの手足が生える。顔と胴も鱗に覆われ変形し、体内に侵入した髪を炎で焼き尽くした。全身から怒気と共に高熱を発し、海水を煮え滾らせて牙を剥く。
そう、彼等は待っていた。蒼黒の核となっている何かが、自ら手の届く範囲へ近付いてくれる、その時を。
【もう逃がさん!】
力づくで強引に突破することもできた。だが、万が一にも取り逃がせば、敵の体内とも言えるこの環境下で二度目のチャンスは訪れない。むしろこちらの力を知り警戒したこの敵は二度と姿を見せなくなってしまう。広大な海のどこかに潜み、じわじわ自分達の抵抗力を削ぐ方針へ切り替えただろう。
敵には想像以上の力と知恵が備わっている。その事実を確認した時、ライオが提案した作戦がこれだった。あえて敵の懐に飛び込み、いたぶられて油断を誘う。必勝の機を待ち、一気に勝負を仕掛ける。
当然、彼は躊躇しなかった。蒼黒の核を破壊すべく満身の力を込める。
ところが──
(硬い!?)
たかが人間の骨が信じられない強度を誇っていた。砕くどころかヒビの一つも入らない。さらに不気味な蒼紫の輝きが膨張し、彼の指を強引にこじ開けようとする。
【させるか!】
左手も使い、両の手の平を合わせ再び封じ込める。
なのに、それでも押し返される。
【ぐ、ぬ……ううッ!?】
これは魔力だ。それも凄まじい量の。
【おのれ……貴様も“開門”しているのか!】
おそらくこれも術士を取り込んだがゆえ。彼女達の知識を使い“門”を開いた。術には変換できず、単純に放出するだけのようだが、それでも量と出力は桁違い。魔力とは精神から湧き出ずるもの。数十万もの死者の思念が集合した蒼黒は、必然膨大な力を引き出すことが可能。
さらに、しばし戸惑いたゆたっていた“髪”も再び絡み付いて来た。咄嗟に炎を吐いて蹴散らそうとするも、一瞬早く口を縛られ不発に終わってしまう。
「邪魔をしないでくれ」
膨張する力に抗しきれず、僅かに開いた指の隙間から、拳銃が突き出された。躊躇無く発射される弾丸。それは無数の肉食魚と化し、ライオの全身に喰らいつく。
【ン……グ、ウッ!!】
「私は帰るんだ」
指の間から憎らし気に見上げて来る警官。その目が落ち窪み、ただの暗いウロと化して血の涙を流した。
「帰らなきゃならないんだ!」
叫び、今度は口から大量の虫を吐き出す。虫共は髪に縛られ身動きが取れないライオの目や耳にまとわりつき、体内に侵入して肉を食い荒らした。やはりアサヒ同様、強制的に痛覚を蘇らされたドラゴンは苦痛に顔を歪める。
すると彼の力が弱まった瞬間を見逃さず、さらに手の中で膨張する魔力の圧が高まった。こんなもの長く抑えつけてはいられない。本来の巨体に戻ったとしても無理だろう。
(やはり、お前の力が必要だ──アサヒ!)
あの夢の中で互いに認め合った存在、戦友の魂に向かって呼びかける巨竜。けれど反応は無かった。敵を誘き出すための作戦だったが、やはりあまりに過酷すぎたのだ。完全に心を砕かれてしまったらしい。
否、そんなはずがない。
己が想像を否定する。
(お前はまだ生きている。そうだろうアサヒ、約束したはずだ!)
自分とではなく、彼女と。
瞬間、彼自身の意思とは関係無く、指先が僅かに震えた。
呼びかけに応えたのか? 一瞬そう考えたが、やはり違う。
少年の魂が反応したのは、彼の言葉にではなかった。
遅れて、その気配を感知する。
(この魔力は!?)
『アサヒ!』
障壁越しにくぐもった声が響く。海中に響き渡ったそれが彼等の“心臓”を高鳴らせる。力強くリズムを刻み、鼓動を轟かせる。
そうだ、ライオは笑った。実に愉快。髪に縛られ、塞がれた口の隙間から赤い光が漏れ出す。
(それでこそ、我が半身よ!)
口の内部で火球を爆裂させ、絡み付いた髪を吹き飛ばし大笑する。
同時に“心臓”が、いっそう眩い輝きを放った。
【やれ、アサヒ!】
『任せろ!』
ライオの体が爆裂する。肉食魚と虫共を消し飛ばし、髪を押し退け、周囲に放射された高圧の魔素の輝きの中、少年が一人駆け抜ける。
『オオオオッ!!』
「!?」
ライオの腕も消し飛んでしまったが、代わりに彼の右手が亡霊の腹へ深く突き刺さった。そこにあった“核”のドクロを鷲掴み、渾身の力を込めるアサヒ。
それでもやはり砕けない。あまりに硬すぎる。血涙を流し、口からも血を吐いた警官は震える手で拳銃を構え、銃口をアサヒの額に押し当てた。
引き金が引かれ、発射される弾丸。それは虫でも魚でもなく“記憶”の結晶。
──始まりは崩界の日。彗星が月に衝突してから三二時間後、地上への帰還を望む一部の人々の声に負け、府知事は一時帰宅の許可を出した。
彼は反対していた。けれど一介の巡査の意見で府の決定が覆るはずもない。彼等警官は一時帰宅する人々の護衛として同行し、地上へ上がった。
それからさらに数時間後、あれが起こった。二〇五〇年七月十日一九時四九分。北東の方角に天まで届く光の柱が現れ、大阪には突如発生した大津波が押し寄せて来た。それがこの地で観測された最初の“記憶災害”である。
彼は、大勢の人々と共に波に飲み込まれた。幸いにも水面に浮上して生き延びることができたものの、あっという間に大阪市全体を飲み込んだ激流は一転、引き波となって彼等を沖合へ連れ去った。
板切れに掴まり、流されるまま、必死に手を伸ばす。体中に色々なものがぶつかり、傷ついて、それでもなお必死に脚を動かし続けた。
戻りたかった。地下都市に残っている家族に、妻と娘に、また会いたかった。
やがて波が収まり、疲労困憊した体でさらに懸命に泳いだ。その瞳には津波でダメージを受けた大阪の街が、さらに炎上していく姿が映った。炎の中にいくつもの巨大な異形の姿も見えた。
『絶対に帰る! 帰るからな!!』
妻と子に向かって呼びかける。自分が助けに行くから、そこで待っていてくれと。
でも、大阪へ辿り着く前に彼の人生は終わった。ちょうど真下に洋上風力発電で作った電力を大阪へ送電するケーブルが走っていたのだ。その電力が怪物を生み出し、彼の願いを打ち砕いた。
それでも、死してなお彼の想いだけは生き続けた。
必ず帰る。家族の待つ大阪へ──
(そう、か……)
脳に達した銃弾から流れ込んで来る、目の前の警官の記憶。彼がどうしてこうなったか、何を目的としているのかを瞬時に理解するアサヒ。
彼は優しい人だった。困っている人間を放っておけなかった。そんな彼の魂に、同じく大阪への帰還を望む死者達が同調し寄り集まった。そうして蒼黒が生まれた。
けれど、アサヒは手を離さない。
「はなせ、はなせ、はなせはなせはなせはなせえっ!!」
さらに何度も撃ち込まれる“記憶”の弾丸。崩界の日に犠牲となった人々の嘆き。あの地獄を生き延びたのに、蒼黒に飲み込まれてしまった人々の苦痛。怒り、悲しみ、一人の人間では到底抱えきれない感情の渦が無理矢理頭へ流し込まれる。
(まずい!)
このままでは、今度こそアサヒの心は砕け散る。蒼黒の一部と化してしまう。ライオがそう危惧した、その瞬間だった。
周囲を囲む“髪”の一部が盛り上がり、突き破って閃光が飛び出す。
『アサヒ!』
再び響き渡る声。少女は何故かホウキに跨っていて、アサヒの姿を見つけるなり迷わず手を離し、慣性のまま海中を駆けて彼の背中にしがみつく。
彼女には今ここで何が起きていたのかなど知りようがない。そして、それに一切興味も無かった。
何も言わず、ただ黙って手を回し、力一杯抱きしめる。
それだけで、想いは十分伝わった。
──帰るんだ。
巨大な思念の渦に翻弄されていた少年の魂が、ようやくそこから抜け出すための光明を見出す。奇しくも蒼黒の核となった警官と同じ想い。
目の前で輝く、誰よりも愛しい星に向かって手を伸ばした。
その手を、差し伸べられた二つの腕が掴んで引っ張る。
少女と巨竜が、彼を悪夢から救い出してくれた。
警官の亡霊は狼狽する。
「な、何故……どうして同化しない? 同じなのに……我々と同じなのに!」
「あんたの気持ちは、よくわかる」
朱璃の障壁に包まれた彼は、眼前の怯える亡霊を睨みつけた。記憶を見たことで同情の念は湧いている。
けれど、それ以上の怒りが込み上げていた。
「俺も帰りたい。母さんがいた頃に、朱璃達がいる場所に! みんな、そうだったんだよ。なのにあんたは殺した! 自分の願いの為に、たくさんの人を巻き込んだ! その人達にだって帰りたい場所が、大切な誰かの待つ場所があったのに!」
ドクロを掴んだ手に魔素を集束させる。この距離では自分もただでは済まない。だから使わなかった最終手段。
でも今なら信じられる。共にある二人のことを。
朱璃とライオが、必ず守ってくれると。
「やめ、やめろ! 私は──」
「帰れよ! あんたを待ってる、家族のところへ!」
苦し紛れに引き金を引く警官。しかし再び撃ち込まれた記憶の弾丸はアサヒの脳へ届く前に蒸発した。
右手から放たれた光は頭蓋骨を砕き、こびりついていた妄念を剥き出しにする。警官の幻が消え、代わりに絶叫が上がった。
【あ、ああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!?】
この輝きの源は魔素。接触したものの記憶を保存する物質がドクロに代わって男の思念を吸収し、閉じ込めた。アサヒの激しい怒りと共に。
魔素の内部で両者の思念がぶつかり合う。一瞬収縮した光は、その短い時間に白と黒のどちらかへ何度も変色を繰り返す。
だが、やがて白が勝った。そこから再び膨張が始まる。
「ッ!」
アサヒは素早く後方へ退った。自らの攻撃で自滅すまいと魔素障壁を多重展開して身を護る。
けれど、彼の怒りは魔素に込めた“破壊”のイメージを予想以上に強めた。福島のエレベーターシャフト内で放った時と同じように、またも彼自身の防御能力を大きく上回ってしまう。
あの時は桜花に助けられた。そして、今ここに彼女はいない。
それでも──
「力を貸して!」
朱璃がアサヒの肩越しに右手を伸ばす。その手の平に、さっき手放したホウキが勝手に戻って来て吸い付いた。
ホウキと朱璃の両者が青白い輝きを放つ。霊力の光。それが新たな障壁を展開して彼女と彼を包み込む。
さらにアサヒの両腕が巨大化して赤き竜のものとなった。本来の彼そのもののサイズに膨れ上がったそれが、眼前で交差して二人を守る。
光が爆発した。
蒼黒の“髪”も巻き込まれ、海水と共に消し飛んでいく。
天まで届く柱が現れ、アサヒ達はその輝きの中、寄り添いながら互いを護った。
「!」
月華は蒼黒の“核”が消滅したことに気付く。
しかし、同時に誤算をも知った。
「まずい!」
満身創痍の友軍。すでに数名の死者も出ている。蒼黒が送り込んで来た敵は未だ数多く残っており、闘志が尽きかけている彼等を見下ろしていた。
だが、それはいい。追加が無ければ、ここまで力を温存してきた自分が一気にあれらを片付けて決着。そういう算段を付けていた。なのに──
絶叫が上がる。いや、それは悲鳴ではなく、もっと混沌とした何か。
頭上の結界を覆う海水がさらに黒く濁り、渦を巻いて暴れ出した。これまで核となっていた魂が失われたことにより瓦解する、わけではない。どうやら新たな核を決めるべく死者達による争いが始まったようだ。
このままでは、結局蒼黒は無くならない。別の魂を中心に据えて存在し続ける。中心核を破壊するだけでは駄目だったのだ。
「か、母様!?」
「結界を維持しなさい!」
異様な展開を察し、うろたえた風花に指示を出す。
こうなったらもう、あれを使うしかない──大阪を大結界で守ったまま、あの術を行使するには大きな代償が必要となるだろう。それでも、今ここで使わなければ全てがご破算だ。
決意した月華は歌を歌い始める。誰も聴いたことが無い言語で。
その右目は青に、左目は藍に輝き始めた。
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人の才能が見えるようになりました。~いい才能は幸運な俺が育てる~
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突如として変わった世界。
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なろう、カクヨムその他サイトでも掲載。
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アロマおたくは銀鷹卿の羽根の中。~召喚されたらいきなり血みどろになったけど、知識を生かして楽しく暮らします!
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大学生の理咲(りさ)はある日、同期生・星蘭(せいら)の巻き添えで異世界に転移させられる。その際の着地にミスって頭を打ち、いきなり流血沙汰という散々な目に遭った……が、その場に居合わせた騎士・ノルベルトに助けられ、どうにか事なきを得る。
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