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第一章:始まりの契約
第35話叡智の魔眼の【契約者】
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赤い、赤い赤い、黄色味がかった赤い業火。
それは、赤眼瞳の中にまだ辛うじて残っていた戦意を焼き切るには十分過ぎる熱量を帯びていた。
視界には収まり切らない程の炎の奔流を前に、彼女は死の恐怖から、無意識に和灘悟の服の袖を掴んだ。
どうやってかは分からない。しかし、先程何らかの魔術を使って、眼前の物――恐らく第六、いや七位階級魔術の――よりも更に強力な炎を弾き返した少年は、背後から見ても満身創痍に見えた。
彼は、もう立っているのさえ辛いはずだ。期待などする方が間違っている。
とはいえ、倒れそうになるのを寸前の所で踏ん張って立っている。
決して諦めまいと。瞳はそんな背中に、最早何をしても無駄だと分かりながらも頼りたくなったのだろう。
あれだけの威力の魔術を、呼吸をするように発動させる【名無し】や悟がおかしいのだ。
今の彼女では逆立ちしてもその倍の時間は掛かる。
あの暴力的な熱量の攻撃は、もう防げない。いや、辛うじて防げたとしても、その次の炎までは対処が出来ない。回避しようとも同じ事。完全な詰み。
そう、発動までに時間を要する高威力魔術よりも、今必要とされているのは多少威力が落ちても直ぐに発動可能な魔術だ。連射が出来ればなお良い。それを分かっていてあの半神は魔術を放ったのだと思う。
……忌々しいにも、程があるッ。
「――…ッ!」
情けなくて、歯を食い縛った。
助けると、和灘悟を助けるのだとそう決意してこの体たらく。
当たり前だろう。周囲の嫉妬を恐れて、碌な鍛錬をせず今まで生きて来たツケが廻り巡って回って来ただけ。
終わりだ。闘志も、逃げる気力すら奪われ、迫る死から目を背けたくなった赤眼瞳は瞼をキュッと強く閉じた。
一秒、二秒、三秒……しかし、どれだけ待っても全身が灼熱に焦がされる事はなかった。
次の瞬間に待ち受けている光景に恐怖を覚える。けれど、瞳は閉じていた目を薄っすら開き――直後、大きく見開いた。
「えっ……?」
思わずそんな声が漏れた。
強烈な熱気を近くに感じながらも、彼女の瞳に映ったのは燃え盛る業火の塊。そして、その手前で佇む和灘悟の姿。
あまりにも巨大なその炎は、徐々にだが少年の元へと近付きつつある。動きを封じ込めている“何か”に抗うようにして。
――不意に、悟の右手が炎の前へ伸びる。
恐らく、炎の進行を阻んでいるのは彼の魔術なのだろう。それだけで【名無し】の攻撃が完全に止まる。
「さてと――かますぜノウズ!」
一瞬の出来事だった。
静止していた炎弾、それが悟の声に呼応するがごとく【名無し】を強襲したッ。
そう、向かい来る炎の勢いを反転させた魔術は【加速】。
今度こそ完全に敵を仕留めたのだと、半ば確信していた【名無し】にとっては正に虚を突かれた形。
突然の事で反応が遅れた、最早、対処の仕様がない程に。
「――――――ッ!!?」
強力な加速効果を付与された超高熱の一撃が、中空を一気に駆け抜け、半神の顔面に直撃した。
自ら生み出した特大の火球によって、炎の体が穿たれ焼かれて行く。
飛んで来た大きな鉄球に顔を殴られ、その後巨漢が手にした鑢で思い切り肌を削られるような感覚。もし仮に【名無し】が人間だったなら、そう表現したであろう激痛だ。
無論、死ぬような攻撃ではなかった。
肉体が炎であるが故に、傷らしい傷も見えない。
しかし、体は確かにあって痛覚もあるのだ。これまで感じた事のない程の苦痛に【名無し】は耐え切れず絶叫した。
二度……今日、この短時間で強烈な痛みを味わったのはもう二度目。
身悶え、何故こんなにも攻撃がこの身に通るのか理解の及ばない中、炎の半神は和灘悟を――人間を生まれて初めて恐れた。
不気味だ。一見、今まで見て来たどの【魔術師】よりも圧倒的に脆弱。
だというのに、まだ生きている、神に近い自分をまだ殺そうとしている。
殺される。
死の恐怖を感じ、だが――そこで、はたと気付く。
少年の中に、存在してはならない魔力反応がある。
それは古の時代、我が創造主たる神々がこの【迷宮】に封じ込めた魔眼。
名など知らない。けれど知っている、己の中に刻まれた神からの絶対の命令。
『決して魔眼を外へは出すな』
使命感が、怒りが【名無し】の全身を駆け巡る。
主に命じられた役目を果たす。眼前の人間はそれを邪魔する悪辣な侵入者。
「――――――――――――ッッ!!!」
激しい咆哮を上げた【名無し】。
荒ぶる半神の様子を見て、悟は余裕の笑みを零す。
しかし、それも一瞬の事。彼は力ある言葉を口にした。
「【加速】」
その一言が、命懸けの戦い二回戦目の合図だった。
悟が淡い魔力の光に包まれたと思った直後、放たれた弓矢のように駆け出した。
大きく弧を描くような疾走だ。とはいえ、見失う程の速度はない。
だが、それでいい。
【名無し】の注意は自分だけに向いてもらう必要がある。
駆けながら、悟は己の内に眠っていた圧倒的総量を誇る魔力の一部を呼び覚ます。
寿命を削って生み出したのではない。叡智の魔眼・ノウズから供給される魔力だ。
無論、それは【契約者】となった少年が得た力の片鱗でしかない。
「――ッ。悟!」
敵へ向かっていく少年の後ろ姿を呆気に取られながら見ていた赤眼瞳は、不意に、【名無し】が魔法陣を彼の視覚の外に展開する途中であるのに気付いた。
思わず声を上げ、悟の援護をしようと魔術の発動準備に移るも、そこで覚えのある声が彼女に待ったをかけた。
「問題はないさ、瞳」
「えっ……?」と、瞳の口から小さく声が漏れた。
静止の言葉が聞こえた方へと瞳の顔が向く。そうして、その目が大きく見開かれる。
彼女の眼が視界に捉えたのは、宙に浮く長い白銀色の髪をした少年、あるいは少女のような存在だった。
「その声、ノウズ……?」
「よく分かったね。……まぁ、ここで見ているといい。あんな見え見えな不意打ち、どうせ悟には掠りもしない」
一見、危機としか言えない状況だというのに、無謀にも圧倒的強者へと臆した風もなく向かっていく悟。次いで、不敵な笑みを浮かべた魔眼の言葉が、瞳に強烈な既視感を覚えさせた。
同じだ、悟が東条陽流真に挑み勝利したあの時と。
そして視線が再び少年の元へと向かった時、それは起こった。
構築された複数の魔法陣の中で、一際大きな物が輝きを強くし発動した。
荒ぶる火柱が真横に伸び、悟を襲った直後――彼は攻撃を避けるようにして上に跳躍した。
和灘悟には全てが見えていた。【名無し】の巨体が巻き上げた土煙も、この空間の隅で、これまでの戦いの余波により静かに欠けて地に落ちた壁の欠片も。
当然、周囲に生み出された魔法陣の存在だって見えていた。
魔眼の力で全方位へ拡張された視野と、飛躍的に引き上げられた視力が死角からの攻撃を良しとしなかったのだ。
「さて、肝心なのはここからだが……問題はなさそうだ」
ノウズの細やかな安堵の声。
その真意を、瞳は数秒も経たずに理解する事となる。
炎弾。火柱。小さな火炎の連続放射。
追撃として放たれた複数の魔術が牙を剥くその瞬間――世界の速度が、急速に鈍化した。
遅い、悟の目に映る全ての物の動きが。
あまりにも遅過ぎて止まって見える。
「【思考超加速】。この状況で早速【天眼】と同時使用とは、些か乱暴だね悟」
飛躍的に加速した少年の思考が、視界に広がる光景を置き去りにしていく。
その様子を前に魔眼が呟いた。
無論、小さく言った台詞が聞こえていたのは、近くにいた瞳だけ。
少年の意識は追撃の炎と【名無し】に向いていた。
全身が猛烈な火の塊であり、表情こそ読めない。しかし、魔術を放とうとする半神の様子は、落ち着きを若干取り戻しているように見える。
四方から魔術を浴びせるのだ。流石に対処しきれず死ぬ、とでも思っているのだろう。
が、決してそうはならない。
悟は徐々に思考速度を緩めていく。
少年の意識の中で確かに動き出した時間。
動き出した全て。
けれど、やはり…。
――遅ぇ……!
回避、回避、回避、回避ッ。
空中、【天眼】によって得た視覚情報を稲妻のような速度で処理し、【名無し】からの攻撃の悉くを悟は身のこなしだけで回避し始めた。
即興で用意したにしてはかなりの手数。
とは言っても、冷静に見ればその一切が魔術の乱発。
【名無し】の攻撃には、避ける隙間を作る余地が僅かながらに残っていた。
あまりに危険で、一秒も持たずに消えてしまうような、あまりに脆く小さな隙間だ。
だが、叡智の魔眼の【契約者】たる和灘悟にとって一秒は長すぎた。
直撃するかに思えた炎達が次々と少年の直ぐ横を通り過ぎていく。
そんな中、先の跳躍で、前方へと放物線を描きながら進んでいく悟。
彼の体が緩やかに落下を始めようとしたその時、あるいは攻撃の嵐が止んだその刹那、正面の【名無し】に目に見える変化が起きた。
「―――――……ッ」
"この男を、これ以上近付かせては駄目だ”、そう【名無し】の本能が告げていた。
途中から、下手な小細工では意味がないと理解した。力だ、欲しいのは、眼前の仇敵を一瞬で消し去る力。
ばれてはいけない。水面下で敵を焼く業火を蓄えろ。
それが分かっていて、だから半神は、捨て身の行動に出たのだ。
――【名無し】の口の間から、炎が僅かに漏れ出す。
腹の中で、密かに魔術の術式を展開し顕現させた炎だ。
炎こそ己の制御下にあるものの、灼熱に体内がジリジリと焼かれる感覚を覚えながら、時が来たと【名無し】は確信する。
直後、自らの内に溜め込んでいたその業火を和灘悟へ放ち――次の瞬間、炎が一気に逆流した。
ドゴオォォォォォォォォォォォオオンッ!
己が支配から離れた炎が口内を、腹の内部を、無遠慮に焼き焦がし、挙句体を魔術の衝撃で吹き飛ばし壁へ叩きつけた。
「っと……ざっとこんなもんか」
「ん?悟、準備運動はもういいのかい?」
「十分って訳じゃねぇけど、まぁ慣らしは一応済んだよ。実際、あの野郎の注意自分に引き付けて、全部の魔術受けてみたけど無傷だしな」
「ふふ、そうかい。なら構わないさ」
【加速】を使ったのだろう、気付いた時には悟の姿が瞳の直ぐ近くまで戻って来ていた。
しかし、驚くべきはノウズとの会話内容だ。
――アレが、準備…運動……?
まるで、敵の行動を全て見透かしたかのような動きだった。いや、さっきのは、ただ見えているだけでは不可能な芸当だ。人間技じゃない。
そんなのは誰が見たって明らかだっただろう。
恐らく、仮に今同じ事をしろと言われたとして、瞳も含め、第六魔法学院の人間では逆立ちしたって不可能だ。
それを準備運動だと?ふざけている、としか言いようがない。
けれど、悟の平然とした態度を見れば分かる。彼にとって、あるいはノウズにとって、さっきのは本当にその程度の物でしかなかったのだと。
不意に悟の視線がこちらに向き、目が合った。
「悪ぃな瞳、勝手に突っ走って」
「え……あ、ううん」
悟の突然の変化に毒気を抜かれた所為で、瞳は思わずそう返してしまった。
本当なら、何か文句の一つでも言ってやろうとしたはずなのに。
だが、一瞬流れた和やかな空気はそこで終わりだった。
「それで、どうだい勝算は?」
「……あぁ、ノウズ――やべぇ、このまま行ってもジリ貧だな」
「ふむ……やはりね」
「――ぇ…?」
瞳は困惑するしかなかった。原因は言わずもがな、悟の発言である。
勝てないと断言しておきながら、悲壮感がまるでないのだ。
加えて、ノウズも同様の態度でいる事も彼女の困惑を助長させた。
「何が一番不味いって、火力が足りねぇ。だろ?」
「確かに。君の攻撃手段は今の所、相手の力を利用した反撃だけ。【名無し】自身が神の加護を受けているのも厄介だが、そっちはボクと君で何とか出来るからね」
「ちなみに、加護ってどんな」
「君に授けた【天眼】で観察すればその内分かるだろうけど、全能力の底上げと、強力な自己再生能力だ。だから炎を吸収するし、瀕死の状態に追い込んでも恐らくすぐに回復するだろうね。もっとも、そこまであの半神を追い詰めた者なんていないんだけど」
「……ったく、何だって神レベルの化け物共はそんな反則能力持ってんだか」
「まぁ、兎に角、必要なのは強力な攻撃魔術だ」
「攻撃魔術、ねぇ」
沈黙。
しかし、その間に二人の視線が瞳に向く。
「偶然だな、ノウズ。俺も同じ事考えてた」
「いや、必然さ悟。言ったろ?君とは気が合うって」
そう言い合う両者には笑みが浮かんでいた。
――この二人はもう、誰にも止められない。
それは、赤眼瞳の中にまだ辛うじて残っていた戦意を焼き切るには十分過ぎる熱量を帯びていた。
視界には収まり切らない程の炎の奔流を前に、彼女は死の恐怖から、無意識に和灘悟の服の袖を掴んだ。
どうやってかは分からない。しかし、先程何らかの魔術を使って、眼前の物――恐らく第六、いや七位階級魔術の――よりも更に強力な炎を弾き返した少年は、背後から見ても満身創痍に見えた。
彼は、もう立っているのさえ辛いはずだ。期待などする方が間違っている。
とはいえ、倒れそうになるのを寸前の所で踏ん張って立っている。
決して諦めまいと。瞳はそんな背中に、最早何をしても無駄だと分かりながらも頼りたくなったのだろう。
あれだけの威力の魔術を、呼吸をするように発動させる【名無し】や悟がおかしいのだ。
今の彼女では逆立ちしてもその倍の時間は掛かる。
あの暴力的な熱量の攻撃は、もう防げない。いや、辛うじて防げたとしても、その次の炎までは対処が出来ない。回避しようとも同じ事。完全な詰み。
そう、発動までに時間を要する高威力魔術よりも、今必要とされているのは多少威力が落ちても直ぐに発動可能な魔術だ。連射が出来ればなお良い。それを分かっていてあの半神は魔術を放ったのだと思う。
……忌々しいにも、程があるッ。
「――…ッ!」
情けなくて、歯を食い縛った。
助けると、和灘悟を助けるのだとそう決意してこの体たらく。
当たり前だろう。周囲の嫉妬を恐れて、碌な鍛錬をせず今まで生きて来たツケが廻り巡って回って来ただけ。
終わりだ。闘志も、逃げる気力すら奪われ、迫る死から目を背けたくなった赤眼瞳は瞼をキュッと強く閉じた。
一秒、二秒、三秒……しかし、どれだけ待っても全身が灼熱に焦がされる事はなかった。
次の瞬間に待ち受けている光景に恐怖を覚える。けれど、瞳は閉じていた目を薄っすら開き――直後、大きく見開いた。
「えっ……?」
思わずそんな声が漏れた。
強烈な熱気を近くに感じながらも、彼女の瞳に映ったのは燃え盛る業火の塊。そして、その手前で佇む和灘悟の姿。
あまりにも巨大なその炎は、徐々にだが少年の元へと近付きつつある。動きを封じ込めている“何か”に抗うようにして。
――不意に、悟の右手が炎の前へ伸びる。
恐らく、炎の進行を阻んでいるのは彼の魔術なのだろう。それだけで【名無し】の攻撃が完全に止まる。
「さてと――かますぜノウズ!」
一瞬の出来事だった。
静止していた炎弾、それが悟の声に呼応するがごとく【名無し】を強襲したッ。
そう、向かい来る炎の勢いを反転させた魔術は【加速】。
今度こそ完全に敵を仕留めたのだと、半ば確信していた【名無し】にとっては正に虚を突かれた形。
突然の事で反応が遅れた、最早、対処の仕様がない程に。
「――――――ッ!!?」
強力な加速効果を付与された超高熱の一撃が、中空を一気に駆け抜け、半神の顔面に直撃した。
自ら生み出した特大の火球によって、炎の体が穿たれ焼かれて行く。
飛んで来た大きな鉄球に顔を殴られ、その後巨漢が手にした鑢で思い切り肌を削られるような感覚。もし仮に【名無し】が人間だったなら、そう表現したであろう激痛だ。
無論、死ぬような攻撃ではなかった。
肉体が炎であるが故に、傷らしい傷も見えない。
しかし、体は確かにあって痛覚もあるのだ。これまで感じた事のない程の苦痛に【名無し】は耐え切れず絶叫した。
二度……今日、この短時間で強烈な痛みを味わったのはもう二度目。
身悶え、何故こんなにも攻撃がこの身に通るのか理解の及ばない中、炎の半神は和灘悟を――人間を生まれて初めて恐れた。
不気味だ。一見、今まで見て来たどの【魔術師】よりも圧倒的に脆弱。
だというのに、まだ生きている、神に近い自分をまだ殺そうとしている。
殺される。
死の恐怖を感じ、だが――そこで、はたと気付く。
少年の中に、存在してはならない魔力反応がある。
それは古の時代、我が創造主たる神々がこの【迷宮】に封じ込めた魔眼。
名など知らない。けれど知っている、己の中に刻まれた神からの絶対の命令。
『決して魔眼を外へは出すな』
使命感が、怒りが【名無し】の全身を駆け巡る。
主に命じられた役目を果たす。眼前の人間はそれを邪魔する悪辣な侵入者。
「――――――――――――ッッ!!!」
激しい咆哮を上げた【名無し】。
荒ぶる半神の様子を見て、悟は余裕の笑みを零す。
しかし、それも一瞬の事。彼は力ある言葉を口にした。
「【加速】」
その一言が、命懸けの戦い二回戦目の合図だった。
悟が淡い魔力の光に包まれたと思った直後、放たれた弓矢のように駆け出した。
大きく弧を描くような疾走だ。とはいえ、見失う程の速度はない。
だが、それでいい。
【名無し】の注意は自分だけに向いてもらう必要がある。
駆けながら、悟は己の内に眠っていた圧倒的総量を誇る魔力の一部を呼び覚ます。
寿命を削って生み出したのではない。叡智の魔眼・ノウズから供給される魔力だ。
無論、それは【契約者】となった少年が得た力の片鱗でしかない。
「――ッ。悟!」
敵へ向かっていく少年の後ろ姿を呆気に取られながら見ていた赤眼瞳は、不意に、【名無し】が魔法陣を彼の視覚の外に展開する途中であるのに気付いた。
思わず声を上げ、悟の援護をしようと魔術の発動準備に移るも、そこで覚えのある声が彼女に待ったをかけた。
「問題はないさ、瞳」
「えっ……?」と、瞳の口から小さく声が漏れた。
静止の言葉が聞こえた方へと瞳の顔が向く。そうして、その目が大きく見開かれる。
彼女の眼が視界に捉えたのは、宙に浮く長い白銀色の髪をした少年、あるいは少女のような存在だった。
「その声、ノウズ……?」
「よく分かったね。……まぁ、ここで見ているといい。あんな見え見えな不意打ち、どうせ悟には掠りもしない」
一見、危機としか言えない状況だというのに、無謀にも圧倒的強者へと臆した風もなく向かっていく悟。次いで、不敵な笑みを浮かべた魔眼の言葉が、瞳に強烈な既視感を覚えさせた。
同じだ、悟が東条陽流真に挑み勝利したあの時と。
そして視線が再び少年の元へと向かった時、それは起こった。
構築された複数の魔法陣の中で、一際大きな物が輝きを強くし発動した。
荒ぶる火柱が真横に伸び、悟を襲った直後――彼は攻撃を避けるようにして上に跳躍した。
和灘悟には全てが見えていた。【名無し】の巨体が巻き上げた土煙も、この空間の隅で、これまでの戦いの余波により静かに欠けて地に落ちた壁の欠片も。
当然、周囲に生み出された魔法陣の存在だって見えていた。
魔眼の力で全方位へ拡張された視野と、飛躍的に引き上げられた視力が死角からの攻撃を良しとしなかったのだ。
「さて、肝心なのはここからだが……問題はなさそうだ」
ノウズの細やかな安堵の声。
その真意を、瞳は数秒も経たずに理解する事となる。
炎弾。火柱。小さな火炎の連続放射。
追撃として放たれた複数の魔術が牙を剥くその瞬間――世界の速度が、急速に鈍化した。
遅い、悟の目に映る全ての物の動きが。
あまりにも遅過ぎて止まって見える。
「【思考超加速】。この状況で早速【天眼】と同時使用とは、些か乱暴だね悟」
飛躍的に加速した少年の思考が、視界に広がる光景を置き去りにしていく。
その様子を前に魔眼が呟いた。
無論、小さく言った台詞が聞こえていたのは、近くにいた瞳だけ。
少年の意識は追撃の炎と【名無し】に向いていた。
全身が猛烈な火の塊であり、表情こそ読めない。しかし、魔術を放とうとする半神の様子は、落ち着きを若干取り戻しているように見える。
四方から魔術を浴びせるのだ。流石に対処しきれず死ぬ、とでも思っているのだろう。
が、決してそうはならない。
悟は徐々に思考速度を緩めていく。
少年の意識の中で確かに動き出した時間。
動き出した全て。
けれど、やはり…。
――遅ぇ……!
回避、回避、回避、回避ッ。
空中、【天眼】によって得た視覚情報を稲妻のような速度で処理し、【名無し】からの攻撃の悉くを悟は身のこなしだけで回避し始めた。
即興で用意したにしてはかなりの手数。
とは言っても、冷静に見ればその一切が魔術の乱発。
【名無し】の攻撃には、避ける隙間を作る余地が僅かながらに残っていた。
あまりに危険で、一秒も持たずに消えてしまうような、あまりに脆く小さな隙間だ。
だが、叡智の魔眼の【契約者】たる和灘悟にとって一秒は長すぎた。
直撃するかに思えた炎達が次々と少年の直ぐ横を通り過ぎていく。
そんな中、先の跳躍で、前方へと放物線を描きながら進んでいく悟。
彼の体が緩やかに落下を始めようとしたその時、あるいは攻撃の嵐が止んだその刹那、正面の【名無し】に目に見える変化が起きた。
「―――――……ッ」
"この男を、これ以上近付かせては駄目だ”、そう【名無し】の本能が告げていた。
途中から、下手な小細工では意味がないと理解した。力だ、欲しいのは、眼前の仇敵を一瞬で消し去る力。
ばれてはいけない。水面下で敵を焼く業火を蓄えろ。
それが分かっていて、だから半神は、捨て身の行動に出たのだ。
――【名無し】の口の間から、炎が僅かに漏れ出す。
腹の中で、密かに魔術の術式を展開し顕現させた炎だ。
炎こそ己の制御下にあるものの、灼熱に体内がジリジリと焼かれる感覚を覚えながら、時が来たと【名無し】は確信する。
直後、自らの内に溜め込んでいたその業火を和灘悟へ放ち――次の瞬間、炎が一気に逆流した。
ドゴオォォォォォォォォォォォオオンッ!
己が支配から離れた炎が口内を、腹の内部を、無遠慮に焼き焦がし、挙句体を魔術の衝撃で吹き飛ばし壁へ叩きつけた。
「っと……ざっとこんなもんか」
「ん?悟、準備運動はもういいのかい?」
「十分って訳じゃねぇけど、まぁ慣らしは一応済んだよ。実際、あの野郎の注意自分に引き付けて、全部の魔術受けてみたけど無傷だしな」
「ふふ、そうかい。なら構わないさ」
【加速】を使ったのだろう、気付いた時には悟の姿が瞳の直ぐ近くまで戻って来ていた。
しかし、驚くべきはノウズとの会話内容だ。
――アレが、準備…運動……?
まるで、敵の行動を全て見透かしたかのような動きだった。いや、さっきのは、ただ見えているだけでは不可能な芸当だ。人間技じゃない。
そんなのは誰が見たって明らかだっただろう。
恐らく、仮に今同じ事をしろと言われたとして、瞳も含め、第六魔法学院の人間では逆立ちしたって不可能だ。
それを準備運動だと?ふざけている、としか言いようがない。
けれど、悟の平然とした態度を見れば分かる。彼にとって、あるいはノウズにとって、さっきのは本当にその程度の物でしかなかったのだと。
不意に悟の視線がこちらに向き、目が合った。
「悪ぃな瞳、勝手に突っ走って」
「え……あ、ううん」
悟の突然の変化に毒気を抜かれた所為で、瞳は思わずそう返してしまった。
本当なら、何か文句の一つでも言ってやろうとしたはずなのに。
だが、一瞬流れた和やかな空気はそこで終わりだった。
「それで、どうだい勝算は?」
「……あぁ、ノウズ――やべぇ、このまま行ってもジリ貧だな」
「ふむ……やはりね」
「――ぇ…?」
瞳は困惑するしかなかった。原因は言わずもがな、悟の発言である。
勝てないと断言しておきながら、悲壮感がまるでないのだ。
加えて、ノウズも同様の態度でいる事も彼女の困惑を助長させた。
「何が一番不味いって、火力が足りねぇ。だろ?」
「確かに。君の攻撃手段は今の所、相手の力を利用した反撃だけ。【名無し】自身が神の加護を受けているのも厄介だが、そっちはボクと君で何とか出来るからね」
「ちなみに、加護ってどんな」
「君に授けた【天眼】で観察すればその内分かるだろうけど、全能力の底上げと、強力な自己再生能力だ。だから炎を吸収するし、瀕死の状態に追い込んでも恐らくすぐに回復するだろうね。もっとも、そこまであの半神を追い詰めた者なんていないんだけど」
「……ったく、何だって神レベルの化け物共はそんな反則能力持ってんだか」
「まぁ、兎に角、必要なのは強力な攻撃魔術だ」
「攻撃魔術、ねぇ」
沈黙。
しかし、その間に二人の視線が瞳に向く。
「偶然だな、ノウズ。俺も同じ事考えてた」
「いや、必然さ悟。言ったろ?君とは気が合うって」
そう言い合う両者には笑みが浮かんでいた。
――この二人はもう、誰にも止められない。
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