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私と彼氏と『家族』のジレンマ

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 午後8時。映画館を出たらまだまだ深夜とも言いがたい時間帯。
 隣を見れば腕時計を見ながら歩く彼氏――鉄くんがいる。

「映画おもしろかったな。どこかで飯食ってくか。未知は何食いたい?」

 鉄くんは優しい。小柄な私の歩幅に合わせてゆっくり足を動かしてくれる。

「銀くんはお留守番?」
「銀なら家にいるよ。あ、じゃあ今日うちに泊ま――」
「解散しよう!」
「はあ?」

 鉄くんは優しい。家族相手ならなおさら。

「鉄くんのこと待ってるよ。早く帰ってあげて」
「じゃ、じゃあせめて家まで送、」
「今日楽しかった! またね!」
「おい! 未知!」

 手を振って駆け出す。今日はデートだったから少しヒールが高いけど気にせない。早くこの場を動かないと優しい鉄くんは「家まで送る」と腕を掴んでしまうから。

 


 鉄くんとは大学の時から付き合っている。
 彼は若干強面でガタイもいい。口調もぶっきらぼう。初見のイメージは『怖い人』。
 だけど内面の暖かさに触れる度に、不器用なだけでいい人だと知った。初めて慣れない手つきで私の頭を撫でてくれた彼の表情はずっと覚えているだろう。
 そして、私のどこを気に入ってくれたのかは分からないけど鉄くんから告白されて、社会人になった今でも続いている。

 そんな鉄くんのおうちには、『銀くん』と言うわんちゃんがいる。

 鉄くん曰く、おそらく柴犬。元々捨て犬だったらしいけど、見せてもらった写真ではそんなこと分からなかった。毛並みはツヤツヤ、目も黒目が大きくて愛されて育った子の表情だった。
 鉄くんは一人暮らしだから、銀くんがそこまで育ったのは鉄くんの愛情のおかげだろう。

「いいなあ……私ももう少し、一緒にいたい」

 口から溢れた本音に、慌てて首を横に振る。

「わんちゃんは家族……最優先……家族……」
 
 自分に言い聞かすように言葉を繰り返す。

(高校時代を忘れるな、未知)

 愛犬家の同級生。
 同じ部活だったからよく話してたけど、急に何日も部活を無断欠席した。
 その日も帰ろうとするその子に「部活来ないの?」と尋ねた、ら。その子は怒鳴った。

 「飼ってる犬が具合悪いのに部活なんて行けるわけないじゃん!」って。

 そうなんだ。そういうもんなんだ。
 ペットを飼ったことのない私には、怒鳴られた悲しさよりも、知った価値観の新しさが心に残った。

(あの子は他の家族も一緒に住んでいたのにすごく心配してた。一人暮らしの鉄くんは、きっともっと心配なはず)

 ポコンと届いたメッセージ。
 『今日はありがとう』と鉄くんに送った返事かも。

「メッセージのやり取りと週末のデート。これで十分だよね。十分」

 『ちゃんと家帰れてよかった。こっちこそありがとう』。案の定鉄くんからの返信が開いた画面にはあった。




「――え、銀くん平気?」

 次の土曜日。デートの準備をしてたら電話が来た。
 メッセージのやり取りが多いのに珍しいなと思ったら、銀くんの体調がよくないと言われ、ドクドクと心臓が嫌な音を立てた。

『うん……そこまでじゃないんだけど、これから病院行ってくる』
「早く治るといいね。じゃあ……銀くん治るまで連絡しないようにするよ」

 自分は犬の病気について知らない。でも自分で意思表示ができないなら、銀くんに意識を向けてたほうが銀くんも鉄くんも安心なのは分かる。
 一人納得しながら「お大事に」と電話を切ろうとしたら、通話口から大声が飛び出した。

『はあ?!それって俺と距離置くってことかよ』
「違う違う! 銀くんの体調悪いのに私のことまで気にかけてられないでしょ。だから、銀くんが元気になるまでは銀くんに集中してほしいなあってこと」
『あ……そうか、うん、そうだよな。ありがとう未知。……じゃあ病院開く時間だから切るな。絶対埋め合わせするから、希望あったら教えて』
「いいよいいよ、気にしないで。銀くんお大事に。病院いってらっしゃい」
『うん……またな』

 鉄くんの声が、ツーツーと機械音に変わる。

「銀くん、大丈夫かなあ」

 細かい銀くんの容態は聞かなかったけど、切り際、鉄くんは何か言いたげだった。……気がする。
 それだけ銀くんのほうに意識がいってたのかも。
 私はただ、早く治りますようにとお祈りするだけだ。




「もしもし?」
『未知! なんか声久しぶりに聞いた気する』

 金曜日の夜。六日振りに聞いた声は心なしか前回より元気に聞こえる。

「銀くんの体調どう?」
『今もめっちゃご飯食べてる。すげえ元気』
「それはよかったあ!」

『明日休みだろ? 銀もよくなったし、デートの埋め合わせさせてよ』
「銀くん病み上がりなのに、一緒にいなくて平気なの?」 

 楽しげに話す鉄くんに、反射的に返事が出た。悪気はこれっぽっちもなかった、本当に反射的に。

『……お前さあ』

 ああ間違えた。
 低くなった声音に肩が跳ねる。

『病み上がりって言っても、こっちは何日も経過観察して大丈夫そうだって言ってんだよ』
「あ、うん、そうだよね……」
『前から思ってたけどなんなのお前。銀を引き合いに出して、俺の意見否定してばっかじゃん』
「違う! 引き合いになんて」
『違わねえだろ! デートも早い時間に切り上げるし、家にすら送って行かせねえで、現地解散。連絡だってメッセージだけで電話はしてこないし、極めつけは家に誘ったら「銀くんに悪いから」だっけ? 俺のこと嫌いなら嫌いって言えばいいだろ。銀をだしに使うのやめろよな。……おい、なんか言ったらどうなんだ』

 溜め込んでいたんだろう。止まらない私への不満に、頭がうまく回らない。

『未知? 聞いてんのか?』
「ごめ……鉄くん、私、良かれと思って……ごめん、あの、今日は切るね」
『はあ? お前、ちょっ、切るな――』

 頭が回らない。おまけに目が熱くなってきた。
 再度かかってきている電話を見ない振りして、スマホの電源を切る。

「鉄くん呆れただろうなあ」

 言い争いから逃げて、自分でも情けなく思う。

(でも私、そんなに悪いことをしたのかな)

 銀くんには、鉄くんしかいない。
 
 銀くんも鉄くんが早く家に帰ってきたら嬉しいだろう。
 電話をかけたら銀くんと遊んでいる時間を邪魔するかもしれない。
 『よそ者』の私が家に入るのを銀くんは良しとしないかもしれない。
 
 全部自分なりに二人に配慮したつもり。今日だってその延長線上だった。
 鉄くんがお休みで、やっと一日一緒にいられるのに、私のせいで家でひとりぼっちなんて銀君は心細いはず。
 それはきっと鉄くんも同じ。本当は私とデートするより銀くんに付いていたいのかと思ったのに。
 ベッドに潜り込んでさっきの電話を思い返すと、そんな場面じゃないのに口角が上がる。

「ちょっと嬉しかったなんて、最低だな自分」

 鉄くんが私のことも気に掛けてくれていたのが嬉しい。
 病み上がりの子を差し置いて私のことを。
 ダメなのにふにゃふにゃ上がる口を無理やり押さえて、目を閉じる。
 明日はそう、気分転換にスーパーでがっつり買い出ししてこよう。

 


 平日よりちょっと遅めに起きたけど、まだ午前。
 昨日適当に置いたらしい。スマホが床に落ちていた。

「……買い物」

 寝て起きても、鉄くんに何を言えばいいのかまとまらない。
 スマホを見つめててもしょうがない。とりあえず買い出しに行ってしまおう。
 電源を入れてないスマホを机の上に置き直す。
 メイクするのはめんどくさくて、適当に日焼け止めだけ。それから干した状態でハンガーにかかってた服を着る。
 朝ごはんも気分じゃない。昼と合わせてスーパーで買っちゃおう。
 エコバッグと財布。最後に鍵を持って玄関を出る。
 天気予報は見てなかったけど、カーテンを開けなかった室内からだと、目を細める程度には晴れている。
 ぼんやり目を慣らしてると、足音が聞こえて通路の端に寄る。

「未知」
「……て、つくん?」

 足音の正体。逆光じみた位置にいて一瞬誰か分からなかったけど、何故か鉄くんがそこにいる。

「よっ! 家の住所は前教わってたからな。今から買い物? 休みはいつも早いうちに買い物行くって言ってたもんな。俺が荷物持ちするから一緒に行こう」
「なんでここにいるの」

 せっかく色々鉄くんが言ってるのに、自分でも冷たく聞こえるほど、平坦な言葉を吐き出した。

「お前に会いに来たに決まってんだろ」

 私の声音の冷たさに気づかなかったのか、鉄くんは普通に返してくれた。
 内心ホッとしつつ、鍵をしていないドアをまた開ける。

「散らかってるけど、どうぞ」
「えっ、部屋入っていいの? 初じゃん。あ、でも買い物は?」
「後から行くから大丈夫だよ」
「んー?……そっかそっか。じゃあお邪魔するな」

 鉄くんどころか、家族と業者さんぐらいしか部屋に入れたことはない。
 取り急ぎ、ハンガーに下げっぱの下着類を隠したり、カーテンを開ける。
 大して広くない部屋でバタバタしてると、鉄くんが部屋を見回してるのが視界に入って、気恥ずかしい。
 
「なんか未知っぽい部屋だな」
「ごめん、そんな綺麗じゃなくて」

 私の部屋はお世辞にもオシャレとは言いがたい。
 使ってる家具や家電は機能性重視で買ったせいで、全体の統一感もない。鉄くんを招くならもう少し気を遣っておけばよかったと今さら後悔した。
 私の表情から何か悟ったのか、鉄くんは手を左右に振った。

「ははっ、汚いわけじゃねえよ。たしかに、この机とか長く使ってそうではあるけど、すげえ綺麗。丁寧に使ってんだな」
「すごい。そう見える?」

 驚いた。たしかにこの机は実家から持ってきてるから十年は使ってる物だ。
 見る人が見ると分かるんだ。それか鉄くんの目がいいんだ。
 不思議だなあと鉄くんのほうに視線を戻すと、いつの間にか真横にいて思わず半歩後ろに下がった。

「未知、あのさ、」
「ど、どうしたの鉄くん」
「……ごめん!!」

 鉄くんの声量に、もう半歩後ろに下がると何かに当たった。「壁かな」と後ろを確認しようとしたら、その前に両肩を掴まれ鉄くんを見上げる形で固定された。

「昨日俺、一方的にひどいこと言ったよな。あんな言われたら反論しずらいって分かってんのに」
「ううん、鉄くんは別に。私が余計なこと言っただけだから」

 見上げた顔は眉が下がって今にも泣いちゃいそう。
 怒られたわんちゃんみたいな姿に、昨日は避けたくせに、腕を伸ばして頭を撫でてしまう。

「未知ぃ……俺は、お前が気ぃ遣い屋で、懐が広いことを知ってる……だからさ、だから、せめてお前が銀にいつも遠慮してる理由を教えてくれよ」
「銀くんは、家族でしょう?だから一番なのかなって」

 撫でやすいように傾けられた頭を撫で続けてたら、あれだけ出なかった言葉が簡単に出てきた。

「銀くんには鉄くんしかいないし、鉄くんが優先するのは普通なんだと思ったの」

 出てきた言葉が理由の全て。言っちゃえば何文字にもならないのに、なんで昨日は言えなかったんだろう。
 黙ってしまった鉄くんの髪の毛で遊んでいると、大きなため息。
 手を止めると、鉄くんは口を尖らせ睨んできた。

「お前なあ……ペット飼ったことねえだろ」
「うん」
「いいか。アイツと俺は家族だ。人間相手よりも気にかけなきゃいけないのも事実。だけどな、お前が遠慮する理由にはなんねえんだよ」

 鉄くんの顔を見返しながら瞬きをしてると、また大きなため息をつかれた。

「お前は彼女だ。俺から告白したの忘れたのかよ」
「覚えてる、けど」
「けどってなんだ。彼女なんだから、できるだけ一緒にいたいし喋ってたい。銀……家族にも紹介したいって思うのは普通だろ」
「普通?」

 「普通」ってなんだろう。
 思わずオウム返しすると、バツが悪そうに鉄くんは口を尖らせた。
 
「あー……いや、悪い。お前の普通は、俺の普通と違ったんだもんな。付き合うときに、もっとちゃんと話しときゃよかった」
「こっちこそ、ごめんね鉄くん」

(まぶしい人だなあ)

 朝から家まで来てくれて、先に謝って。
 まっすぐ気持ちを伝えてくれるこの人が私の彼氏なのだと、改めて思い知らされた。
 
「まあ?未知が優しさから言ってくれてんのは分かってたけど? 俺としては、もう少し恋人っぽいことしたいって言うか……はっ、未知また泣いてんのか? 泣くなって」

 目の前にあった胸に頭を預ける。困惑している気配に顔を上に向ければ、鉄くんのほうが泣きそうな顔をしてる。
 
「……ん、笑って、る?」
「なんか、緊張が解けたみたい」
「そっか」
「じゃあこれから買い物行くから、また今度デートしよう」

 さっきまで余裕がなかったから気にしてなかったけど、今の私はボロボロだ。目はしょぼしょぼだし、メイクもしてない。服も適当。デートするならもっと可愛くしたい。
 せっかく来てくれた鉄くんには悪いけど、今日は一回帰ってもらおう。
 両肩を掴む腕を外そうと、腕を掴み返すけどまるで動かない。掴まれている肩は痛くないのにおかしい。
 指を一本ずつ引き剥がす作戦に変えた私に、鉄くんは呆れたように自分から両手を離してくれた。

「何言ってんだお前は」
「何って」
「ここで帰るわけねえだろ。こちとら今日は泊まりに来てんだよ」
「泊まり?」
「あっ、心配すんな。急に来ちゃったしお前の部屋じゃなくても一緒に外泊……も難しいなら、深夜解散でいい。もっとお前と一緒にいたい」
「お泊まりって、銀くんいるでしょ? ダメだよ」
「そこは心配すんな。アイツはペットホテルに預けてきた。初めて利用したけど設備も色々あるんだぞ。ほら見ろ、カメラで様子も……って、アイツくつろぎすぎじゃねえか?」
「へー、ホテルにドッグランなんてあるんだね」

 自慢気に見せられたスマホには、ドッグランを疾走している銀くんが映っている。
 銀くんの残像が見える駿足を見ていると、わざとらしい咳払い。画面から視線を外すとスマホはしまわれ、代わりにぎこちなく抱きしめられた。

「ほらっ、銀も楽しんでるんだからさ、俺だって楽しみたいじゃん? まあ、お前さえよければ、だけど」

 後半ごにょごにょと小声で言われた言葉は聞き取りずらかったけど、0距離には関係ない。
 
「部屋、こんな感じでもよければ。泊まっていいよ」 
「ありがと。いいの? ヤバ……未知と朝までいられるのすげえ嬉しい」
「大げさ」

 頭の上に鉄くんの顔があるから表情は見えないけど、たぶん穏やかな顔をしてると思う。
 お客さん用の布団はどこにあったっけ。持ってはいた気がするから探さないと。
 抱きしめられたまま布団の在処に想いを馳せていると、腕の拘束が強くなった。
 
「未知」
「うん?」
「明日、ペットホテルにさ、一緒に銀を迎えに行きたい」
「お迎え」
「銀に未知を紹介したい。ダメ?」

 強くなった拘束が一気に弱まって、鉄くんと向き合う。今日はよく見せる怒られたわんちゃんみたいな顔。

「ご家族に会うなら手土産買わなきゃね」

 しゅんとしてた顔が、徐々に明るくなった。私の言葉を処理した課程が手に取るように分かる表情変化だ。

「手土産なんていらねえよ。お前がいればそれだけで十分……んじゃ、買い物行くか。俺が持つからなんでも買っていいぞ」
「えー? じゃあお米でも持ってもらおっかな」
「ははっ、いいよ。なんでも運んでやる」

 優しい鉄くん。家族相手はなおさら優しいけど、彼女の私にもとびきり優しい。
 だから私は、鉄くんには内緒でこっそり手土産を買っておこう。買い物メモの最後に『ご家族への手土産』と書き足した。






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