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課題3:僕とボクの体調管理
4:僕の出した、今の所最善の答え
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「――……」
目が、覚めた。
身体が酷く重い。重力に身を任せて布団に沈んでいたい。そんな感覚。
だけどそうはいかない。なんとか首だけ動かして時計を見ると、アラームが鳴る数分前だった。
随分朝に強くなったもんだ。なんて。そんな言葉すら笑えない。
最近は目覚ましひとつ止めてしまえばそれで事足りるようになってしまった。全てはあの夢のせいだ。ああ……苛々するのも体力を使う。
重い身体を引きずるように着替える。鞄を持って部屋を出ると、トーストの匂いがした。
「おはよう、ございます」
今日は具合どうですか? としきちゃんがそっと声を掛けてくる。
少しだけ視線を向けても彼女の姿は見えないが、カウンタの上には既にお弁当箱が包まれていた。
「うん……大丈夫」
ソファに鞄を置いて洗面台へ向かう。
台所を見ることはしなかったけど、スクランブルエッグを焼いているらしい。フライパンを箸でかしかしと混ぜる音と卵の匂いがした。
顔を洗って鏡を見る。ああ。これは具合が悪いと人から心配されるのも無理はない。
目の下のクマが酷い。
顔色も結構酷かった。元々色白ではあるけれども、それを通り越して貧血でも起こしそうな色だった。
とりあえず朝食を食べれば少しは持ち直すだろう。……彼女と顔を合わせて消耗する分とどっちが大きいかは分からないけれど。ヘアクリップを外し、髪を手櫛でさっさと整えて食卓へ向かう。
僕が戻ってくる頃には、テーブルの上に食事の準備ができていた。
皿の上に乗ったサラダとベーコン。それからスクランブルエッグ。
テーブルの真ん中にはトーストとマーガリン。
しきちゃんがぱたぱたとコップに注いだ牛乳を持ってきて、それぞれの席に置いた。
「いつも。ありがとうね」
「いいえ。ボクは、これくらいしか……できませんから」
ふるふると首を横に振ったらしく、肩で揃えられた髪が揺れたのだけが視界に入った。
朝食を食べながらニュースを聞き流し、天気予報だけ把握して。食べ終えた食器を片付ける。
「あ。お皿はボクが洗います」
流しに立った僕の袖を、彼女がそっと引いた。
「――っ!」
思わず彼女を見下ろす。そのまま硬直してしまう。
腕を振り払うなんて行動も思いつかなかった。
随分久しぶりに見る彼女の目は、こんなに赤かっただろうか。
肌の色。揺れる髪。僕の袖を掴むその指は――こんなにも細くて、華奢で。美味しそうで。おいしそう、で……。
色んな感想と感情がぐるぐると回る。なんだかくらくらする。胸がぎゅっと締められたような感じもする。これは良くない。
「え。っと……うん。お願い。していいかな」
学校行かなきゃ……、と視線を逸らす口実に壁掛け時計を見ると、「はい」という返事と共に袖が解放された。
少しだけ残念な気が……いや。何を考えているんだか。
僕はソファに置いていた鞄を手に、玄関へ向かう。
見送りにとついてきた彼女は、靴を履く僕の背に「あの」と声をかけてきた。
「お兄さん……お休みしなくても、大丈夫ですか?」
「ん。大丈夫」
体力的にはちょっと自信ないけれど。
ここで一日彼女と過ごすのもまた、自信がない。
「無理はしないから。それじゃあ――行ってきます」
「はい。いってらっしゃい」
そして僕は、ドアに鍵を掛けて学校へと向かった。
□ ■ □
学校生活は平和そのものだ。
授業を受けて、昼食を食べて。授業を受ける。
柿原とは授業が重なってなかったけど、校内ですれ違った。
曰く「お前ホント顔色悪いぞ」とのことで、ブロック状の栄養補助菓子と野菜ジュースを投げつけてきた。
空き時間はぼんやりとして過ごした。校内を行き交う人々を眺めてみたり、図書室で本を探してみたり。いつも通りと言えばいつも通りに過ごした。違う事と言えば、この体力の心許なさだろうか。
人は少ないけれども男女共に歩き回っているこの空間。
それが別に苦痛じゃなかったと気付いたのは、夕方――帰宅間際になってからだった。
気付いたって僕の身体はしっかり家に帰るようになっている。
なんでかって言われても、単なる癖だ。
元々外で一晩過ごすという事はあまりなく、何があっても必ず一度は家に帰るようにしていた。そんな生活が長年の間にすっかり染み付いてしまっていた。
外で過ごすのは、落ち着かない。
けど。今この状況で家に帰るのも辛い。
「しばらく……家を離れようかな……」
ぽつりと零れたそれは、とても良い考えのように思えた。
彼女を追い出す気にはなれなかった。外で過ごすなら僕の方が色んな意味で適してるだろうし、最近は寝泊まりをする所なんて山ほどある。最悪柿原に事情を……いや、無理だ。話せない。
彼のことだから詳しい事情なんて聞かずに泊めてくれそうな気もするけど、巻き込みたくはない。
そんなこんなで、具体的にどうするかは決めないまま。
とりあえず数日家を離れよう、という結論だけ出した。
とはいえ。荷物をまとめるためには、一度は家に帰らなくてはならない。
いつも通りに食材を買って、いつも通りを装って。
玄関を開けて。のろのろと靴ひもを解く。
「おかえり、なさい」
しきちゃんの声がする。それだけで手元が狂って、指先が紐に絡まる。
「……うん。ただいま」
靴紐に集中する。はあ、と溜息が零れた。
「お兄さん……やっぱり具合悪いですか?」
「……ん」
落ち着けと言い聞かせる。ようやく解き終えた靴を揃えて立ち上がると、そこにはしきちゃんがいつものように立っていた。
見上げるその目が、悲しげな色に見える。
悲しませてるのはきっと。いや、確実に僕だ。
平気そうな顔をしてみたけれど、彼女の反応を見るに失敗したのは明らかだった。
僕にできたのは、彼女から目をそらして、どうにかこうにか自分の言葉を探そうとするだけ。手の平を口に押し当てて、見つかりそうにない言葉を。言い訳を。探す。
いくら探しても、出てくるのは情けないの一言。それから、どう表現すれば良いか分からないこの気持ち。
「あ……あの」
しきちゃんがそっと、声をかけてきた。
酷い態度を取ってると自覚している。なのに、彼女は変わらず僕を心配してくれているのが分かる。
それは、座敷童だからかもしれない。
僕の体調不良は自分に原因があるのかもと、責任を感じているのかもしれない。
だから。せめて。
やっと見つかった言葉を。
膝をついて、ぐっと顔をあげる。彼女と視線を重ねる。
「ごめん。体調……心配させて」
「……」
ああ。僕はこれ以上何か口にしたらいけないような気がする。
その。と、僕の視線があっという間に足元に落ちる。
そこに有意義な何かなんて存在しない。あるのは言い訳だけだ。
「季節の変わり目だから、かな……疲れが、取れなくて」
僕は嘘をつく上手さには割と自信があったんだけど。今この瞬間においてそれはあっけなく砕けたし、なんだか酷い罪悪感があった。ああ、早く離れてしまいたい。
けれども彼女は「そう、ですか」とだけ言った。
そうなんだ、と頷くのがやっと。
僕は立ち上がって「だから」となんとか言葉を繋ぐ。
「夕飯は……いいや。材料はあるから、食べてて。僕、もう寝るよ」
「……はい」
鞄と買い物袋を拾い上げて、彼女から視線を逸らしたまま通り過ぎると「あの」と小さな声が僕の足を引き止めた。
「……何?」
振り返らずに答える。自分で声のトーンが落ちたのが分かる。
また悲しい顔をさせただろうかと心配になる。同時に、一刻も早くここから立ち去りたくてたまらない。混乱した感情は次第に苛立ちへと変わっていく。いや、この感情に対応できない自分への苛立ちなのかもしれない。
「明日の、お弁当は」
「イラナイ」
思わず強く出た言葉に、彼女が息を飲んだのが分かった。
こんな時でも僕の昼食の心配をする。どうして。こんなにも八つ当たりに近い言葉に、反論のひとつもせずに居られるのか。
なんて思ってるのに。
「あの……お兄さんの体調、やっぱり、ボクの――」
「違うから!」
まだ君はそう言うのか。これ以上、何も言わないでくれ。
僕の血が、ざわりと騒ぐ。夢の中の僕が、にたりと嗤って肩を抱く。そんな気がする。
それを全部握り潰す。
「ごめん。……ごめんね。今、ちょっと辛いんだ。だからちょっと……、いや、しばらく。ほっといてくれるかな」
ぽつりと零れたこの言葉は、彼女にどんな顔をさせたのだろう。「はい」という小さな返事でなんとなく察する事はできたけれども、表情を見る事はできなかった。
「あの、ボク……リビングに居ますから」
何かあったら呼んでください、と言い残すような声がした。
掠れた悲しい悲しい声に、心臓が掴まれたような感覚がする。
その感覚も、彼女の声も全部無視して、僕は足早に部屋へと戻った。
□ ■ □
後ろ手にドアを閉めて、ずるずると座り込む。頭を抱えて、深い深い溜め息をついた。
もう自分が分からなくなってきていた。
苛々する。
僕は。私は。一体彼女をどうしたいと言うのだろう。悲しませたい? 自分のものにしたい? 一緒に居たい? ああ、分からない。どれもが正解のようで、どれもが間違っている気がする。
とりあえず分かったのは、僕は自分自身を過大評価しすぎていたって事だ。
これまで飲み込んだ命の数なんて物ともしない程の感情。しきちゃんを安心させるために言った言葉は、僕自身にも言い聞かせたものだったのかもしれない。なんて無意味で、馬鹿で、愚かなんだろう。
彼女に謝りたい。でも、今の僕は彼女と顔を合わせることができない。こんなにも自分の感情を整理できないままじゃあ、言葉をいくら重ねても足りない。
どうすれば良いんだろう。どうすれば。どうすれば。どうすれば。
「――ああ」
しばしの自問の後。帰る前に思いついた答えをようやく思い出す。
そうだ。この家を出て行けば良いんだ。
しばらく。しばらくでいい。
その間にこの感情と向き合うことができれば儲けもの。
解決できれば最高だ。
……できる気は、あまりしないけど。
これ以上、彼女にあんな顔させたくないし、見たくない。やれるだけやってみよう。
のろのろと立ち上がって、クローゼットを覗く。
服を数着。隅に転がっていたスポーツバッグに詰める。
玄関からは出て行けない。
ならば。窓だ。
そっと窓を開けて、ベランダに出る。
夜風が部屋に吹き込んで、カーテンを巻き上げた。
もしかしたら気付かれたかもしれない。
そうでなくても、いつかは気付かれる。
でも。今はこれが最善のような。そんな気がした。
「いってきます」
いつかちゃんと帰ってくる。それだけは約束して。
僕はそっと、窓を閉めた。
月は雲に覆われている。隠れるには良い夜だった。
そしてそのまま、僕は彼女の前から姿を消した。
目が、覚めた。
身体が酷く重い。重力に身を任せて布団に沈んでいたい。そんな感覚。
だけどそうはいかない。なんとか首だけ動かして時計を見ると、アラームが鳴る数分前だった。
随分朝に強くなったもんだ。なんて。そんな言葉すら笑えない。
最近は目覚ましひとつ止めてしまえばそれで事足りるようになってしまった。全てはあの夢のせいだ。ああ……苛々するのも体力を使う。
重い身体を引きずるように着替える。鞄を持って部屋を出ると、トーストの匂いがした。
「おはよう、ございます」
今日は具合どうですか? としきちゃんがそっと声を掛けてくる。
少しだけ視線を向けても彼女の姿は見えないが、カウンタの上には既にお弁当箱が包まれていた。
「うん……大丈夫」
ソファに鞄を置いて洗面台へ向かう。
台所を見ることはしなかったけど、スクランブルエッグを焼いているらしい。フライパンを箸でかしかしと混ぜる音と卵の匂いがした。
顔を洗って鏡を見る。ああ。これは具合が悪いと人から心配されるのも無理はない。
目の下のクマが酷い。
顔色も結構酷かった。元々色白ではあるけれども、それを通り越して貧血でも起こしそうな色だった。
とりあえず朝食を食べれば少しは持ち直すだろう。……彼女と顔を合わせて消耗する分とどっちが大きいかは分からないけれど。ヘアクリップを外し、髪を手櫛でさっさと整えて食卓へ向かう。
僕が戻ってくる頃には、テーブルの上に食事の準備ができていた。
皿の上に乗ったサラダとベーコン。それからスクランブルエッグ。
テーブルの真ん中にはトーストとマーガリン。
しきちゃんがぱたぱたとコップに注いだ牛乳を持ってきて、それぞれの席に置いた。
「いつも。ありがとうね」
「いいえ。ボクは、これくらいしか……できませんから」
ふるふると首を横に振ったらしく、肩で揃えられた髪が揺れたのだけが視界に入った。
朝食を食べながらニュースを聞き流し、天気予報だけ把握して。食べ終えた食器を片付ける。
「あ。お皿はボクが洗います」
流しに立った僕の袖を、彼女がそっと引いた。
「――っ!」
思わず彼女を見下ろす。そのまま硬直してしまう。
腕を振り払うなんて行動も思いつかなかった。
随分久しぶりに見る彼女の目は、こんなに赤かっただろうか。
肌の色。揺れる髪。僕の袖を掴むその指は――こんなにも細くて、華奢で。美味しそうで。おいしそう、で……。
色んな感想と感情がぐるぐると回る。なんだかくらくらする。胸がぎゅっと締められたような感じもする。これは良くない。
「え。っと……うん。お願い。していいかな」
学校行かなきゃ……、と視線を逸らす口実に壁掛け時計を見ると、「はい」という返事と共に袖が解放された。
少しだけ残念な気が……いや。何を考えているんだか。
僕はソファに置いていた鞄を手に、玄関へ向かう。
見送りにとついてきた彼女は、靴を履く僕の背に「あの」と声をかけてきた。
「お兄さん……お休みしなくても、大丈夫ですか?」
「ん。大丈夫」
体力的にはちょっと自信ないけれど。
ここで一日彼女と過ごすのもまた、自信がない。
「無理はしないから。それじゃあ――行ってきます」
「はい。いってらっしゃい」
そして僕は、ドアに鍵を掛けて学校へと向かった。
□ ■ □
学校生活は平和そのものだ。
授業を受けて、昼食を食べて。授業を受ける。
柿原とは授業が重なってなかったけど、校内ですれ違った。
曰く「お前ホント顔色悪いぞ」とのことで、ブロック状の栄養補助菓子と野菜ジュースを投げつけてきた。
空き時間はぼんやりとして過ごした。校内を行き交う人々を眺めてみたり、図書室で本を探してみたり。いつも通りと言えばいつも通りに過ごした。違う事と言えば、この体力の心許なさだろうか。
人は少ないけれども男女共に歩き回っているこの空間。
それが別に苦痛じゃなかったと気付いたのは、夕方――帰宅間際になってからだった。
気付いたって僕の身体はしっかり家に帰るようになっている。
なんでかって言われても、単なる癖だ。
元々外で一晩過ごすという事はあまりなく、何があっても必ず一度は家に帰るようにしていた。そんな生活が長年の間にすっかり染み付いてしまっていた。
外で過ごすのは、落ち着かない。
けど。今この状況で家に帰るのも辛い。
「しばらく……家を離れようかな……」
ぽつりと零れたそれは、とても良い考えのように思えた。
彼女を追い出す気にはなれなかった。外で過ごすなら僕の方が色んな意味で適してるだろうし、最近は寝泊まりをする所なんて山ほどある。最悪柿原に事情を……いや、無理だ。話せない。
彼のことだから詳しい事情なんて聞かずに泊めてくれそうな気もするけど、巻き込みたくはない。
そんなこんなで、具体的にどうするかは決めないまま。
とりあえず数日家を離れよう、という結論だけ出した。
とはいえ。荷物をまとめるためには、一度は家に帰らなくてはならない。
いつも通りに食材を買って、いつも通りを装って。
玄関を開けて。のろのろと靴ひもを解く。
「おかえり、なさい」
しきちゃんの声がする。それだけで手元が狂って、指先が紐に絡まる。
「……うん。ただいま」
靴紐に集中する。はあ、と溜息が零れた。
「お兄さん……やっぱり具合悪いですか?」
「……ん」
落ち着けと言い聞かせる。ようやく解き終えた靴を揃えて立ち上がると、そこにはしきちゃんがいつものように立っていた。
見上げるその目が、悲しげな色に見える。
悲しませてるのはきっと。いや、確実に僕だ。
平気そうな顔をしてみたけれど、彼女の反応を見るに失敗したのは明らかだった。
僕にできたのは、彼女から目をそらして、どうにかこうにか自分の言葉を探そうとするだけ。手の平を口に押し当てて、見つかりそうにない言葉を。言い訳を。探す。
いくら探しても、出てくるのは情けないの一言。それから、どう表現すれば良いか分からないこの気持ち。
「あ……あの」
しきちゃんがそっと、声をかけてきた。
酷い態度を取ってると自覚している。なのに、彼女は変わらず僕を心配してくれているのが分かる。
それは、座敷童だからかもしれない。
僕の体調不良は自分に原因があるのかもと、責任を感じているのかもしれない。
だから。せめて。
やっと見つかった言葉を。
膝をついて、ぐっと顔をあげる。彼女と視線を重ねる。
「ごめん。体調……心配させて」
「……」
ああ。僕はこれ以上何か口にしたらいけないような気がする。
その。と、僕の視線があっという間に足元に落ちる。
そこに有意義な何かなんて存在しない。あるのは言い訳だけだ。
「季節の変わり目だから、かな……疲れが、取れなくて」
僕は嘘をつく上手さには割と自信があったんだけど。今この瞬間においてそれはあっけなく砕けたし、なんだか酷い罪悪感があった。ああ、早く離れてしまいたい。
けれども彼女は「そう、ですか」とだけ言った。
そうなんだ、と頷くのがやっと。
僕は立ち上がって「だから」となんとか言葉を繋ぐ。
「夕飯は……いいや。材料はあるから、食べてて。僕、もう寝るよ」
「……はい」
鞄と買い物袋を拾い上げて、彼女から視線を逸らしたまま通り過ぎると「あの」と小さな声が僕の足を引き止めた。
「……何?」
振り返らずに答える。自分で声のトーンが落ちたのが分かる。
また悲しい顔をさせただろうかと心配になる。同時に、一刻も早くここから立ち去りたくてたまらない。混乱した感情は次第に苛立ちへと変わっていく。いや、この感情に対応できない自分への苛立ちなのかもしれない。
「明日の、お弁当は」
「イラナイ」
思わず強く出た言葉に、彼女が息を飲んだのが分かった。
こんな時でも僕の昼食の心配をする。どうして。こんなにも八つ当たりに近い言葉に、反論のひとつもせずに居られるのか。
なんて思ってるのに。
「あの……お兄さんの体調、やっぱり、ボクの――」
「違うから!」
まだ君はそう言うのか。これ以上、何も言わないでくれ。
僕の血が、ざわりと騒ぐ。夢の中の僕が、にたりと嗤って肩を抱く。そんな気がする。
それを全部握り潰す。
「ごめん。……ごめんね。今、ちょっと辛いんだ。だからちょっと……、いや、しばらく。ほっといてくれるかな」
ぽつりと零れたこの言葉は、彼女にどんな顔をさせたのだろう。「はい」という小さな返事でなんとなく察する事はできたけれども、表情を見る事はできなかった。
「あの、ボク……リビングに居ますから」
何かあったら呼んでください、と言い残すような声がした。
掠れた悲しい悲しい声に、心臓が掴まれたような感覚がする。
その感覚も、彼女の声も全部無視して、僕は足早に部屋へと戻った。
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後ろ手にドアを閉めて、ずるずると座り込む。頭を抱えて、深い深い溜め息をついた。
もう自分が分からなくなってきていた。
苛々する。
僕は。私は。一体彼女をどうしたいと言うのだろう。悲しませたい? 自分のものにしたい? 一緒に居たい? ああ、分からない。どれもが正解のようで、どれもが間違っている気がする。
とりあえず分かったのは、僕は自分自身を過大評価しすぎていたって事だ。
これまで飲み込んだ命の数なんて物ともしない程の感情。しきちゃんを安心させるために言った言葉は、僕自身にも言い聞かせたものだったのかもしれない。なんて無意味で、馬鹿で、愚かなんだろう。
彼女に謝りたい。でも、今の僕は彼女と顔を合わせることができない。こんなにも自分の感情を整理できないままじゃあ、言葉をいくら重ねても足りない。
どうすれば良いんだろう。どうすれば。どうすれば。どうすれば。
「――ああ」
しばしの自問の後。帰る前に思いついた答えをようやく思い出す。
そうだ。この家を出て行けば良いんだ。
しばらく。しばらくでいい。
その間にこの感情と向き合うことができれば儲けもの。
解決できれば最高だ。
……できる気は、あまりしないけど。
これ以上、彼女にあんな顔させたくないし、見たくない。やれるだけやってみよう。
のろのろと立ち上がって、クローゼットを覗く。
服を数着。隅に転がっていたスポーツバッグに詰める。
玄関からは出て行けない。
ならば。窓だ。
そっと窓を開けて、ベランダに出る。
夜風が部屋に吹き込んで、カーテンを巻き上げた。
もしかしたら気付かれたかもしれない。
そうでなくても、いつかは気付かれる。
でも。今はこれが最善のような。そんな気がした。
「いってきます」
いつかちゃんと帰ってくる。それだけは約束して。
僕はそっと、窓を閉めた。
月は雲に覆われている。隠れるには良い夜だった。
そしてそのまま、僕は彼女の前から姿を消した。
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