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序章
しおりを挟む生き物は、いずれ死を迎えるものだ。そんなこと、分かっていたはずなのに。
由奈は夕暮れの畦道を歩きながら、夢の中にいるような気分だった。
見慣れたはずの風景からは、まるで色が抜けてしまったかのようだ。草鞋から伝わる地面の感触も、どこか不確かなものに感じる。だが、それらは全て由奈の幻想だ。
これが夢だったら良かったのに、と思う。しかし、体に染み付いた線香の匂いが、由奈を現実に引き戻した。そして、たった一人の肉親だった祖母が死んだという事実を彼女に突きつける。
両親が死んでから十二年間、祖母と二人で暮らした家。元は納屋だったところを住居にしたため、玄関先に竃を作ると、二人並んで眠るのがやっとの広さしかない。ボロいせいで、すきま風は吹き荒ぶし、快適とは言えなかったけれど、祖母と二人なら辛くなかった。でももう、その家に帰っても温かく迎えてくれる祖母はいない。いないのだ。
「由奈」
ずっと足元を見つめて歩いていた由奈は、声をかけられるまで家の前に立つ人影に気が付かなかった。だが、その人物を見るなり、由奈の眉間にシワが寄る。そんな由奈の表情を見て、彼女を待っていたらしい地主の息子・権田孝一郎は眉を潜めた。
「そんな顔するなよ」
「何の用です、若さま」
次期地主となる孝一郎のことを、村の人間は「若」と呼ぶ。彼は由奈と同じ十五歳で、いわば幼馴染みだ。そして幼くして両親を亡くした彼女を「親無し子」と呼び、いじめていた村のガキ大将でもある。
「お前……」
「用があるならさっさと言ってくれませんか。忙しいので」
葬儀が終わったとはいえ、これからのことなど考えることは山程ある。由奈としては、孝一郎に構っている暇などないのだ。第一、こいつに絡まれるとろくなことがない。
「つれないな……まぁいい。ばあさんのこと、残念だったな」
戸を開けて家に入ろうとしていた由奈は、反射的に孝一郎を見た。
「……驚いた。あんたでもそんなこと言うんだ」
「お前、俺をなんだと思ってる」
「ガキ大将のワガママな若さま」
「なんだそれ……」
由奈の返答に孝一郎の表情が歪む。何故だかショックを受けている様子だが、由奈としては聞かれたことに答えただけだ。
「で、若さまが何の用?」
家の中に入った由奈は、手にしていた祖母の戒名を書いた板を仏壇に置く。祖母の遺体はすでに土の下。これは、寺の住職がくれる故人の代わりだ。
仏壇といっても簡素なものだけれど、多少の慰めはなる。小さな木箱に並んだ三つの板に手を合わせると胸が痛んだが、気付かぬふりをして土間に下りる。
「白湯しか出せませんが?」
「いや、いい……手だけ合わせていいか」
玄関先で視線をさ迷わせていた孝一郎は、由奈の許可を得ると体を縮ませながら入ってきた。そして、仏壇に手を合わせ、目をつぶったまましばらく動かなくなる。
亡くなった由奈の祖母・梅子は、村唯一の産婆だった。当然、孝一郎も梅子の手で取り上げられた一人だ。だから由奈のことはからかっても、梅子のことまではからかうことはなかった。といってもそれは、十歳になってからのことだが。
「……お前、これからもここにずっといるつもりか?」
「それは、あんたのお父さんが許してくれればね。他に行くところなんてないし」
この家は、梅子が地主から借りているに過ぎない。産婆には常に血の穢れが付きまとう。命を救う尊い仕事だと、梅子は誇りを持って仕事をこなしていたし、村人も梅子には感謝している。だが、血の穢れとなると話は別だ。隣近所に住んでいるとなると、いい顔をする者はいない。そんな村人の心の安寧を思って、梅子は自ら地主に頼み、納屋だったここに住むようになったと聞いている。
「家のこともそうだけど、畑のことも聞かないとって思ってる。葬儀の時にはそんな話できなかったから、明日にでも話をしに……」
「その心配はない」
由奈がこの村で暮らしていくためには、家が必要だ。だが、今さら集落に家を借りるつもりはない。何より、祖母と暮らした家を出ることなど考えられない。それに家のすぐ脇には小さいが畑もある。自分たちが食べていくために、祖母と二人、毎日手入れしてきた大事な畑だ。できればこのままここで生活を続けたいが、そのためには何かしら地主に支払わねばならないだろう。それは相談してみるしかない。すると、由奈の言葉を遮った孝一郎は、いつになく真剣な表情で由奈を見た。
「お前、俺の嫁になれ」
「……は?」
竃に火をいれようとしていた由奈は、孝一郎の言葉に驚いて手を止めた。
「俺の嫁になって権田の家に来い。別にこの家を取り壊そうって訳じゃないし、畑はお前がしたいなら俺も手伝う。あ、家って言っても俺が暮らしてるのは離れだから、家族に気兼ねはいらない」
「ちょっと、何言ってるの」
捲し立てるように言葉を続ける孝一郎に、由奈が思わず振り返ると、彼はいつの間にか彼女の傍らに立っていた。
「由奈、俺の嫁になれ」
「ちょっ……」
しゃがみ込んでいた由奈の腕を掴むや否や、引っ張りあげるように立たせた孝一郎は彼女を抱き締める。勢い余って彼の胸に飛び込んだ由奈は、慌ててその胸板を押したがびくともしなかった。
いつも、声をかけられる前に逃げるため、こんなに間近で、しかも密着するなんて初めてだ。抱き締められるのも孝一郎はおろか、梅子以外の人間にされたことはないのでパニックになる。
「放して……っ」
それでも精一杯の力を込めて胸板を押すと、孝一郎の腕が解かれた。肩で息をしながら睨み付ける由奈に、孝一郎はバツが悪そうに視線を反らす。
「何なのよ、急に。今までさんざん私のことからかってきたくせに」
「それは……」
「着物の丈が短いだの、はだけて見苦しいだの。いちいちいちゃもんつけてきて」
「それはお前が……!」
「ああ、そうよね。私が悪いのよね? 親無し子で、目障りなんでしょう? だったらほっとけばいいじゃない」
「違う!」
一段と大きくなった孝一郎の言葉に、由奈の肩が震える。目を丸くする由奈を見た孝一郎の瞳は、怒っているように見えた。
「違う……由奈、俺は……」
言いかけた孝一郎が口をつぐむ。由奈は驚いて跳ね上がった心臓を押さえながら、彼の次の言葉を待った。だが、また視線を反らした孝一郎は頭をガシガシと掻きながら、ため息を吐いた。
「悪い、言い合いをしたくて来たんじゃないのに……今日は帰る」
言いながら家を出ていこうとした孝一郎は、戸を閉めようとしてチラリと由奈を見る。
「俺、お前のこと嫌いじゃないからな」
ポツリと呟かれた一言。そして軽い音を立てて戸が閉まると、由奈はよろめくようにその場に膝を折った。
「何なの……もう……」
抱えるようにした膝に顔を埋め、呻き声と共にため息を吐く。いろんなことがありすぎて、もう何をする気も起きなかった。考えなくてはならないこと、やらなければならないことは山程あるのに。もう考えることさえ放棄したくなった。
だが、すきま風の吹きすさぶ元納屋の粗末な家ではじっとしていると、寒さに身体が耐えきれなくなってくる。由奈はため息を吐くと、食事を諦め、布団を敷いて横になることにした。
両親がいなくても何とかやってこれたのは、祖母がいたからだ。支え合って何とか立っていた。それが、祖母がいなくなった今、身に染みて分かる。
いつもより寒く感じる布団の中で、由奈は小さく丸まって固く目を閉じ寂しさに耐えるしかなかった。
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