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5花の名前
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ユリウスに抱き締められ、二度寝をしたリゼルだったが、目を覚ますと彼の姿はどこにもなかった。そしてその朝、侍女のマイラから告げられたのは、二週間の夫の不在。
その二週間を、リゼルはもやもやしながら過ごしていた。
「リゼル様、お上手ですわ」
一緒に刺繍をしていたマイラが、リゼルの手元を見て感嘆の声を上げる。小さな手によって生み出された刺繍は細かく、美しいピンク色の花を咲かせていた。
「ドーズ国の庭園に咲いていた花なの。異母兄が会いに来る度に摘んできてくれて」
「優しいお異母兄様ですね」
マイラに微笑み、リゼルは刺繍の花を指でなぞる。
地下に閉じ込められた彼女の唯一の心の支えとなった花。それは庭園の東屋一帯に咲く可憐な花は、本当ならドーズ国では育たない。
原産は南の暖かい国で、海の側に咲く花。それを先代の王である、リゼルの祖父が気に入り持ち帰ったそうだ。科学力を駆使し、ようやく花開くまで五十年かかったと聞かされていた。
幼いあの日、自分を助けてくれた人と出会ったあの東屋を彩っていたこの花が、いつも力をくれた。
顔はいまいち思い出せないが、手を引いてくれた力強さは覚えている。
「この花、何て言うんです?」
カイセ国にはない花だと言うマイラに、リゼルは少し悪戯っぽく笑った。
「さて、何でしょう? ヒントはね、知らない名前ではない、かしら」
「えー? ヒントになってません!」
クスクスと二人で笑い合いながら、マイラはホッと胸を撫で下ろす。最初からどこか遠慮がちに見えたリゼルが、笑ってくれている。しかも、今までの固い表情ではなく、弾けるような笑みで。
ようやく打ち解けてきたことに安心しながらも、マイラの中では不安もあった。それは、肝心なユリウスとリゼルの関係に進展がないことだった。
* * *
湯殿から部屋へと入ったリゼルは、長椅子にもたれているユリウスを見て、心臓が跳ね上がった。月明かりだけが差し込む部屋。どうやら眠っているらしいユリウスは、一枚の絵画のようで一瞬見とれてしまう。
リゼルは椅子に掛けていた膝掛けを手に取ると、眠るユリウスの上にそっと掛ける。そして、彼の乱れた前髪を横へ払ってやった。
よほど疲れているのか、全く起きる気配はない。リゼルはずっと気になっていたユリウスの髪を、まじまじと見つめた。
漆黒の髪は艶やかで、月の光を受けると少し青みがかって見えた。その美しさに、先日、眠るユリウスの顔を間近で見た時にも、触れたい衝動にかられたのだ。
リゼルはユリウスが起きないことを半ば祈りつつ、そっと肩から胸へ流れる髪を一房、手に掬い上げた。
王族の男性がよくしている、後ろ髪を伸ばしたスタイル。そんなに長さはないにしろ、三つ編みはできそうだな、と手を動かす。
滑らかで指触りが心地良い髪で遊んでいたリゼルは、しばらくユリウスが起きたことに気付かなかった。
「……面白いか?」
「っ! ご、ごめんなさ……」
慌てて引っ込めようとした手を掴まれ、リゼルは困惑する。そんな彼女の手を、ユリウスはまた自分の髪へと導いた。
「怒っていない。触っていい」
「え……?」
戸惑いながら、リゼルが髪に触れると、彼女の手を離したユリウスはまた目を閉じた。
お許しが出たので、今度は心置きなく触っていたリゼルだったが、ふいに思い付き、彼の頭を撫でてみた。
「……?」
触られ方の違いに、一瞬目を開けたユリウスだったが、何も言わずされるがままになっている。
「……髪を触るのが好きなのか?」
しばらくして問われ、リゼルは首をかしげた。
髪を触るのが好きという訳ではない。現に、異母兄やマイラの髪に触れたい衝動にかられたことはなかった。
「……ユリウス様の髪が綺麗だな、と思っておりましたら、触りたくなりました。誰の髪でも……というわけではありません」
正直にそう言うと、ユリウスはそうか、と言って向こうを向いてしまった。気を悪くしただろうか、と心配するリゼルは、彼が緩んだ顔を見られまいとしていることなど、梅雨ほども知らなかった。
* * *
翌日、朝の支度を手伝うためやって来たマイラは驚いた。椅子に腰掛け資料に目を通す主の姿はいつものことだが、その後ろに立ち、主の妻がブラシを手に主の髪を解いていたのだ。
「お、はよう、ございます」
声を掛けると、リゼルが笑みを浮かべる。
「おはよう、マイラ」
「あの……ユリウス様の髪を、リゼル様が……?」
戸惑うマイラに、照れ臭そうに笑いながら、リゼルはユリウスの髪を束ね始めた。
「ユリウス様の髪を触りたいとお話ししたら、毎朝、結んでいいって」
至極楽しげなリゼルに微笑み返しながら、マイラはチラとユリウスを見やる。
無表情を貫いている主だが、残念ながら口の端に喜びが溢れている。それが背後にいるリゼルに見えないのが、せめてもの救いだろうか。緩みきっている主の表情は、何とも言いがたい。
「はいっ、できました」
「……ありがとう」
リゼルの方を見もせず、もごもごと礼を言うユリウスにマイラは歯痒く思う。しかし、一仕事を終えて満足げに微笑むリゼルを見ると、この二人はこれでもいいか。と思ってしまった。
「……これは?」
ユリウスが目を止めたのは、テーブルの上に畳んで置かれた一枚のハンカチ。それはリゼルが花の刺繍を施していたものだった。
「リゼル……」
「はい、それはリゼル様が……」
「違う。この花の名前だ」
淀みなく刺繍の花を指差すユリウスに、マイラは驚く。同じく驚いていたリゼルが、声を上げた。
「ご存知なのですか?」
「……」
あからさまにリゼルから目をそらすユリウスの表情が、しまった、と語っている。マイラはそれに気付かぬふりをし、リゼルに声をかけた。
「この花、リゼルというのですか?」
「ええ。原産は海に面したトルマン王国だそうなのだけど、お祖父様が気に入って持ち帰ったそうなの。ドーズ国の厳しい環境下でも花開くよう、科学者たちに改良させていて、私が生まれる頃にようやく庭園でも育つようになったそうよ。その頃に私が産まれて……お祖父様が、私にその花の名前を付けてくださったと聞いたわ」
リゼルの説明を聞きながら、マイラはユリウスの顔が赤みがかっているのを見て、笑いを堪えるのに必死だった。
だから一目で分かったのか。愛する妻の名の由来となった花ならば、彼が知らないわけはない。彼の初恋の相手が誰なのか、把握しているマイラは一人納得した。
長年仕えるユリウスの性格を熟知している。だからこそ、リゼルに対して上手く接することが出来ないのだろうことも。
いまいち素直になれない夫と、遠慮がちな妻の様子に少々心配は募るが、これは当人たちの問題だ。
ゆっくりとでも進展することを願いながら、マイラは自分の仕事を始めた。
ところが、この数日後。二人の関係を脅かす嵐が吹き荒れることなど、この時誰も予想だにしなかったのである。
その二週間を、リゼルはもやもやしながら過ごしていた。
「リゼル様、お上手ですわ」
一緒に刺繍をしていたマイラが、リゼルの手元を見て感嘆の声を上げる。小さな手によって生み出された刺繍は細かく、美しいピンク色の花を咲かせていた。
「ドーズ国の庭園に咲いていた花なの。異母兄が会いに来る度に摘んできてくれて」
「優しいお異母兄様ですね」
マイラに微笑み、リゼルは刺繍の花を指でなぞる。
地下に閉じ込められた彼女の唯一の心の支えとなった花。それは庭園の東屋一帯に咲く可憐な花は、本当ならドーズ国では育たない。
原産は南の暖かい国で、海の側に咲く花。それを先代の王である、リゼルの祖父が気に入り持ち帰ったそうだ。科学力を駆使し、ようやく花開くまで五十年かかったと聞かされていた。
幼いあの日、自分を助けてくれた人と出会ったあの東屋を彩っていたこの花が、いつも力をくれた。
顔はいまいち思い出せないが、手を引いてくれた力強さは覚えている。
「この花、何て言うんです?」
カイセ国にはない花だと言うマイラに、リゼルは少し悪戯っぽく笑った。
「さて、何でしょう? ヒントはね、知らない名前ではない、かしら」
「えー? ヒントになってません!」
クスクスと二人で笑い合いながら、マイラはホッと胸を撫で下ろす。最初からどこか遠慮がちに見えたリゼルが、笑ってくれている。しかも、今までの固い表情ではなく、弾けるような笑みで。
ようやく打ち解けてきたことに安心しながらも、マイラの中では不安もあった。それは、肝心なユリウスとリゼルの関係に進展がないことだった。
* * *
湯殿から部屋へと入ったリゼルは、長椅子にもたれているユリウスを見て、心臓が跳ね上がった。月明かりだけが差し込む部屋。どうやら眠っているらしいユリウスは、一枚の絵画のようで一瞬見とれてしまう。
リゼルは椅子に掛けていた膝掛けを手に取ると、眠るユリウスの上にそっと掛ける。そして、彼の乱れた前髪を横へ払ってやった。
よほど疲れているのか、全く起きる気配はない。リゼルはずっと気になっていたユリウスの髪を、まじまじと見つめた。
漆黒の髪は艶やかで、月の光を受けると少し青みがかって見えた。その美しさに、先日、眠るユリウスの顔を間近で見た時にも、触れたい衝動にかられたのだ。
リゼルはユリウスが起きないことを半ば祈りつつ、そっと肩から胸へ流れる髪を一房、手に掬い上げた。
王族の男性がよくしている、後ろ髪を伸ばしたスタイル。そんなに長さはないにしろ、三つ編みはできそうだな、と手を動かす。
滑らかで指触りが心地良い髪で遊んでいたリゼルは、しばらくユリウスが起きたことに気付かなかった。
「……面白いか?」
「っ! ご、ごめんなさ……」
慌てて引っ込めようとした手を掴まれ、リゼルは困惑する。そんな彼女の手を、ユリウスはまた自分の髪へと導いた。
「怒っていない。触っていい」
「え……?」
戸惑いながら、リゼルが髪に触れると、彼女の手を離したユリウスはまた目を閉じた。
お許しが出たので、今度は心置きなく触っていたリゼルだったが、ふいに思い付き、彼の頭を撫でてみた。
「……?」
触られ方の違いに、一瞬目を開けたユリウスだったが、何も言わずされるがままになっている。
「……髪を触るのが好きなのか?」
しばらくして問われ、リゼルは首をかしげた。
髪を触るのが好きという訳ではない。現に、異母兄やマイラの髪に触れたい衝動にかられたことはなかった。
「……ユリウス様の髪が綺麗だな、と思っておりましたら、触りたくなりました。誰の髪でも……というわけではありません」
正直にそう言うと、ユリウスはそうか、と言って向こうを向いてしまった。気を悪くしただろうか、と心配するリゼルは、彼が緩んだ顔を見られまいとしていることなど、梅雨ほども知らなかった。
* * *
翌日、朝の支度を手伝うためやって来たマイラは驚いた。椅子に腰掛け資料に目を通す主の姿はいつものことだが、その後ろに立ち、主の妻がブラシを手に主の髪を解いていたのだ。
「お、はよう、ございます」
声を掛けると、リゼルが笑みを浮かべる。
「おはよう、マイラ」
「あの……ユリウス様の髪を、リゼル様が……?」
戸惑うマイラに、照れ臭そうに笑いながら、リゼルはユリウスの髪を束ね始めた。
「ユリウス様の髪を触りたいとお話ししたら、毎朝、結んでいいって」
至極楽しげなリゼルに微笑み返しながら、マイラはチラとユリウスを見やる。
無表情を貫いている主だが、残念ながら口の端に喜びが溢れている。それが背後にいるリゼルに見えないのが、せめてもの救いだろうか。緩みきっている主の表情は、何とも言いがたい。
「はいっ、できました」
「……ありがとう」
リゼルの方を見もせず、もごもごと礼を言うユリウスにマイラは歯痒く思う。しかし、一仕事を終えて満足げに微笑むリゼルを見ると、この二人はこれでもいいか。と思ってしまった。
「……これは?」
ユリウスが目を止めたのは、テーブルの上に畳んで置かれた一枚のハンカチ。それはリゼルが花の刺繍を施していたものだった。
「リゼル……」
「はい、それはリゼル様が……」
「違う。この花の名前だ」
淀みなく刺繍の花を指差すユリウスに、マイラは驚く。同じく驚いていたリゼルが、声を上げた。
「ご存知なのですか?」
「……」
あからさまにリゼルから目をそらすユリウスの表情が、しまった、と語っている。マイラはそれに気付かぬふりをし、リゼルに声をかけた。
「この花、リゼルというのですか?」
「ええ。原産は海に面したトルマン王国だそうなのだけど、お祖父様が気に入って持ち帰ったそうなの。ドーズ国の厳しい環境下でも花開くよう、科学者たちに改良させていて、私が生まれる頃にようやく庭園でも育つようになったそうよ。その頃に私が産まれて……お祖父様が、私にその花の名前を付けてくださったと聞いたわ」
リゼルの説明を聞きながら、マイラはユリウスの顔が赤みがかっているのを見て、笑いを堪えるのに必死だった。
だから一目で分かったのか。愛する妻の名の由来となった花ならば、彼が知らないわけはない。彼の初恋の相手が誰なのか、把握しているマイラは一人納得した。
長年仕えるユリウスの性格を熟知している。だからこそ、リゼルに対して上手く接することが出来ないのだろうことも。
いまいち素直になれない夫と、遠慮がちな妻の様子に少々心配は募るが、これは当人たちの問題だ。
ゆっくりとでも進展することを願いながら、マイラは自分の仕事を始めた。
ところが、この数日後。二人の関係を脅かす嵐が吹き荒れることなど、この時誰も予想だにしなかったのである。
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