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「エルキュール!」
私はエルキュールの背中めがけて呼びかけました。
するとエルキュールはこちらをはっと振り返り、目を大きく見開きました。その顔はやつれ、目元は暗く窪み、全体的に色黒さを増していました。アンドレは”色白”と言っていましたが、かつてに比べると黒ずんでいます。結婚当時のはつらつとした雰囲気は、見る影もありません。
「ベアトリスじゃないか……どうしてこんなところに」
エルキュールのかすれた声を聞き、私はアンドレとナディエに対し、「私とエルキュールで話をさせてくれないかしら?」とお願いしました。二人はゆっくりうなずき、私だけがエルキュールに近づきます。
「あなたの家まで行ったのよ。留守だったから、こうしてわざわざ来たの」
エルキュールは生気のない目をしながら崖下を眺めていました。私に対して半身を向けただけで、それ以上動く様子がありません。粗末な麻織物を着ており、風貌だけでなくその衣服からも、生活の厳しさがうかがえました。
「君はもう、僕に用事はないはずだ。離縁は済んだし、話すこともない」
「私もそうよ。特に話したいことはないの。老婆との約束を守るために来ただけだから」
「老婆との約束? 占い師のか?」
「そうよ。好き好んでこんな山道を登ってくるわけないでしょ」
「それもそうだな。じゃあ……目的は達成したんだろ? ……気をつけて帰ってくれ」
エルキュールは絞り出すようにしてこう口にしたあと、再び体を動かし、私に背を向けました。
このまま離れてもよかったのですが、”気をつけて帰ってくれ”という何気ない気遣いの言葉が、私の足を引き止めました。想定外に感情が揺さぶられ、胸を裂かれるような心地がしました。
「……飛び降りるの?」
重たい沈黙が流れました。
エルキュールはこちらを振り向きもしません。
「君にはもう関係ないだろ?」
「聞きたいんだけど……爵位は残っているんだから、年金がもらえるはずでしょ? 家は……おんぼろ長屋だったけど……」
「……年金が無事に届けられたのは、最初の月だけ。あとは届かなくなった」
「どうして?」
「信じられないかもしれないが、年金を届ける役人がこのあたりの警備兵と結託して、山分けしているんだ。それで僕に届けたことになっている。僕の生活費はずっと……横取りされているんだ」
「なによそれ! ……ひどい話ね。王家はどんな管理体制なのかしら。カサンドラが助けてくれていたの?」
エルキュールは気まずそうな顔をしましたが、ある意味隠していても仕方ない事実だと思ったのか、ありのままを話してくれました。
「……そうだ。彼女だけがずっと通ってくれていた。家だって……初めからあのおんぼろだったわけじゃない。前の家を奪われた結果、あんなとこに移り住んだ。……なんとも情けない話さ」
「カサンドラは……もう来なくなったでしょ? 修道院に入ったから」
背を向けていたエルキュールが、再びさっとこちらへ体を向け直しました。一瞬、表情に力が戻ったように見えました。
「……そうか。突然来なくなったのは、そういう理由だったのか。とうとう僕との関係が辺境伯にバレてしまったんだな。本当に、悪いことをしてしまった」
「カサンドラの身分は知っていたのね?」
「最初からじゃないんだ。恥ずかしい話だけど、君と離縁したあと、カサンドラが辺境伯の娘だと知ったよ。でももういまさら……引き返せないところまで来ていた。僕は典型的な没落の一途を辿っていたし、そうなればなるほど、手放したくなかった。彼女だけが僕の味方でいてくれると思っていたから……」
「そうでしょうね。でも結局、カサンドラの未来も、あなたがめちゃくちゃにしたのよ」
キツい言葉を発しようと思っていたわけではありません。すでに追い詰められた人間をさらに追い詰める意味なんてありませんから。それなのにこういう言い方をしてしまったのは……おそらく……かつてのエルキュールの手応えを感じたかったからでしょう。私にとってエルキュールは、いつまでも倒すべき相手でいて欲しかったのです。それは私の……ただのわがままでした。
深刻な顔をしていたエルキュールは一転して、悟りきったような微笑みを浮かべました。
私はエルキュールの背中めがけて呼びかけました。
するとエルキュールはこちらをはっと振り返り、目を大きく見開きました。その顔はやつれ、目元は暗く窪み、全体的に色黒さを増していました。アンドレは”色白”と言っていましたが、かつてに比べると黒ずんでいます。結婚当時のはつらつとした雰囲気は、見る影もありません。
「ベアトリスじゃないか……どうしてこんなところに」
エルキュールのかすれた声を聞き、私はアンドレとナディエに対し、「私とエルキュールで話をさせてくれないかしら?」とお願いしました。二人はゆっくりうなずき、私だけがエルキュールに近づきます。
「あなたの家まで行ったのよ。留守だったから、こうしてわざわざ来たの」
エルキュールは生気のない目をしながら崖下を眺めていました。私に対して半身を向けただけで、それ以上動く様子がありません。粗末な麻織物を着ており、風貌だけでなくその衣服からも、生活の厳しさがうかがえました。
「君はもう、僕に用事はないはずだ。離縁は済んだし、話すこともない」
「私もそうよ。特に話したいことはないの。老婆との約束を守るために来ただけだから」
「老婆との約束? 占い師のか?」
「そうよ。好き好んでこんな山道を登ってくるわけないでしょ」
「それもそうだな。じゃあ……目的は達成したんだろ? ……気をつけて帰ってくれ」
エルキュールは絞り出すようにしてこう口にしたあと、再び体を動かし、私に背を向けました。
このまま離れてもよかったのですが、”気をつけて帰ってくれ”という何気ない気遣いの言葉が、私の足を引き止めました。想定外に感情が揺さぶられ、胸を裂かれるような心地がしました。
「……飛び降りるの?」
重たい沈黙が流れました。
エルキュールはこちらを振り向きもしません。
「君にはもう関係ないだろ?」
「聞きたいんだけど……爵位は残っているんだから、年金がもらえるはずでしょ? 家は……おんぼろ長屋だったけど……」
「……年金が無事に届けられたのは、最初の月だけ。あとは届かなくなった」
「どうして?」
「信じられないかもしれないが、年金を届ける役人がこのあたりの警備兵と結託して、山分けしているんだ。それで僕に届けたことになっている。僕の生活費はずっと……横取りされているんだ」
「なによそれ! ……ひどい話ね。王家はどんな管理体制なのかしら。カサンドラが助けてくれていたの?」
エルキュールは気まずそうな顔をしましたが、ある意味隠していても仕方ない事実だと思ったのか、ありのままを話してくれました。
「……そうだ。彼女だけがずっと通ってくれていた。家だって……初めからあのおんぼろだったわけじゃない。前の家を奪われた結果、あんなとこに移り住んだ。……なんとも情けない話さ」
「カサンドラは……もう来なくなったでしょ? 修道院に入ったから」
背を向けていたエルキュールが、再びさっとこちらへ体を向け直しました。一瞬、表情に力が戻ったように見えました。
「……そうか。突然来なくなったのは、そういう理由だったのか。とうとう僕との関係が辺境伯にバレてしまったんだな。本当に、悪いことをしてしまった」
「カサンドラの身分は知っていたのね?」
「最初からじゃないんだ。恥ずかしい話だけど、君と離縁したあと、カサンドラが辺境伯の娘だと知ったよ。でももういまさら……引き返せないところまで来ていた。僕は典型的な没落の一途を辿っていたし、そうなればなるほど、手放したくなかった。彼女だけが僕の味方でいてくれると思っていたから……」
「そうでしょうね。でも結局、カサンドラの未来も、あなたがめちゃくちゃにしたのよ」
キツい言葉を発しようと思っていたわけではありません。すでに追い詰められた人間をさらに追い詰める意味なんてありませんから。それなのにこういう言い方をしてしまったのは……おそらく……かつてのエルキュールの手応えを感じたかったからでしょう。私にとってエルキュールは、いつまでも倒すべき相手でいて欲しかったのです。それは私の……ただのわがままでした。
深刻な顔をしていたエルキュールは一転して、悟りきったような微笑みを浮かべました。
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