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ジェロームを説得し、私はナディエだけを連れてエルキュールが住んでいるとされる村へ向かいました。その村は王家直轄領の端にあり、到底豊かとは言えない土地にあります。
道中の街に足を踏み入れると、湿った土の匂いと老朽化した建物の匂いとが混ざり合い、陰鬱な空気が漂っていました。
「エルキュールは……こんな地域に住んでいるのね……」
私はゴミがあちこちに散らばっている狭い街道を歩きながら、ナディエにこう話しかけました。みすぼらしいあばら家が連なっていて、その陰から痩せ細った少年たちが私たちを静かに観察しています。ナディエも周りを警戒しながら歩いていて、緊張しているようでした。
「そうですね……。エルキュール様は華やかな場所でずっと生きてこられましたから、厳しい生活が根付く土地には馴染みがないでしょうね」
「どうしてこんなに廃墟になっているのかしら。それに……王家の警備兵もいちおういるけど、覇気がないし、飢えていそうな人たちもちらほらいるし……」
「わたくしもあまり詳しくありませんが……たぶんここは日雇い労働者が集う地域です」
「日雇い?」
「定職をもたず、安定した収入源を持たない民衆のことです。おそらく……王家が行う公共工事が命綱になっていて、ぎりぎりの生活を送っているのでしょう」
「なるほど。一国一城の主だったエルキュールが……そんな場所に放り込まれたのね。屈辱にまみれている顔が目に浮かぶようだわ、ふふふふ」
「これでは爵位を失わなかったにしても……エルキュール様に耐えられるでしょうか。この地域が悪いと言っているわけではありませんが――健康な魚だって、住む池が変われば弱ることがあります」
「城の優雅な生活からここまで転落したのだから、さすがにどうにかなってしまうでしょう。耐えられないなら耐えられないで……それまでのことよ。自業自得」
「…………」
ナディエは何も言わず、視線を落として寂しげに唇を噛んでいました。やはりエルキュールの生活や健康が気になるようです。私とは違い、ナディエはエルキュールを幼少期から知っているので、感じ方も異なるだろうと思われました。
「ナディエ。あなたはやっぱり……エルキュールのことが心配?」
「いえ、その……そういうわけでは……」
「いいのよ別に。気を遣わなくても。あなたは長い間エルキュールを見てきたんだし……気になるのは当然よ」
「エルキュール様は不倫を繰り返し、ベアトリス様を傷つけました。それに加えて、庶民への罪を重ね、結果的に城を追いやられました。それについてはしかたないと思うんですけど……」
「けど……?」
「わたくしはエルキュール様が小さい頃、両親や周りの人たちにどれほど可愛がられていたか知っています。賢くて、天真爛漫な性格で、接する人たち皆を笑顔にするような方でした。そのような御方が今、こんな物悲しい場所に住んでいるかと思うと……」
「そうなのね……」
「はい。でももちろん、罪を犯した人間にはそれなりの罰があっていいと思います。そうでなければ、誠実に生きる者たちが報われません」
「浮気なんてせずに、正直に生きる人たちこそ幸せになってほしいわ」
「そう思います。それが理想的です。……しかし、罪を犯した人間も反省の心さえあれば、新たな道を歩んで、幸せになってほしいと思うのです」
「……人であれば誰だって間違いを犯す。私だってそう思うわ。でもそれが犯罪か犯罪じゃないのかは、大きな差じゃないかしら? たとえば、人に嘘をついて後悔することと、詐欺罪で捕まることとは別でしょ?」
「おっしゃるとおりです。古今東西、罪とされる罪がはっきりあります。殺人、暴行、窃盗、詐欺……」
「でも、どうせ神様はすべての人間を許してくださるのよね。だったら、どうしても許せない人間に対して、私たちが無理してまで許してあげる必要なんてないんじゃない?」
「そうかもしれません。許せないという感情に苦しむのもまた人です。しかし……神様を試すような発言をなさってはいけません」
私とナディエはしばらく無言で歩きました。物乞いが物を乞う元気すら失ってしまっていて、何人もが打ちひしがれて道に寝ています。どこを歩いてもかすかなうめき声が耳について離れず、その哀れな響きが胸を締めつけます。
ナディエがぽつりとつぶやきました。
「わたくしはエルキュール様を長年見てきたからこそ、情がわいているのでしょう。罪人であったとしても、直接その人間を知っているのと知っていないのとでは……全然違いますから……」
「そうね……。恵まれた環境で育ってきたはずのエルキュールですら道を踏み外すくらいなら、世界ではどれだけの人たちが過ちに苦しんでいるのかしらね」
「はい。エルキュール様のご両親のお顔を思い出すと……当時の温かい光景が目に浮かび……」
目を赤くしたナディエとこうして話しているうちに、エルキュールが住む家まで辿り着きました。家――というよりそこは長屋で、今にも壊れそうな古い板に蜘蛛の巣がまとわりつく、おんぼろ建物でした。村の人たちと共同で住んでいそうなことだけはわかりました。
二人とも心の中で(本当にこんな場所に住んでいるの?)と疑問を抱きつつ、部分部分が虫に食われた玄関の扉をノックしたのでした。
道中の街に足を踏み入れると、湿った土の匂いと老朽化した建物の匂いとが混ざり合い、陰鬱な空気が漂っていました。
「エルキュールは……こんな地域に住んでいるのね……」
私はゴミがあちこちに散らばっている狭い街道を歩きながら、ナディエにこう話しかけました。みすぼらしいあばら家が連なっていて、その陰から痩せ細った少年たちが私たちを静かに観察しています。ナディエも周りを警戒しながら歩いていて、緊張しているようでした。
「そうですね……。エルキュール様は華やかな場所でずっと生きてこられましたから、厳しい生活が根付く土地には馴染みがないでしょうね」
「どうしてこんなに廃墟になっているのかしら。それに……王家の警備兵もいちおういるけど、覇気がないし、飢えていそうな人たちもちらほらいるし……」
「わたくしもあまり詳しくありませんが……たぶんここは日雇い労働者が集う地域です」
「日雇い?」
「定職をもたず、安定した収入源を持たない民衆のことです。おそらく……王家が行う公共工事が命綱になっていて、ぎりぎりの生活を送っているのでしょう」
「なるほど。一国一城の主だったエルキュールが……そんな場所に放り込まれたのね。屈辱にまみれている顔が目に浮かぶようだわ、ふふふふ」
「これでは爵位を失わなかったにしても……エルキュール様に耐えられるでしょうか。この地域が悪いと言っているわけではありませんが――健康な魚だって、住む池が変われば弱ることがあります」
「城の優雅な生活からここまで転落したのだから、さすがにどうにかなってしまうでしょう。耐えられないなら耐えられないで……それまでのことよ。自業自得」
「…………」
ナディエは何も言わず、視線を落として寂しげに唇を噛んでいました。やはりエルキュールの生活や健康が気になるようです。私とは違い、ナディエはエルキュールを幼少期から知っているので、感じ方も異なるだろうと思われました。
「ナディエ。あなたはやっぱり……エルキュールのことが心配?」
「いえ、その……そういうわけでは……」
「いいのよ別に。気を遣わなくても。あなたは長い間エルキュールを見てきたんだし……気になるのは当然よ」
「エルキュール様は不倫を繰り返し、ベアトリス様を傷つけました。それに加えて、庶民への罪を重ね、結果的に城を追いやられました。それについてはしかたないと思うんですけど……」
「けど……?」
「わたくしはエルキュール様が小さい頃、両親や周りの人たちにどれほど可愛がられていたか知っています。賢くて、天真爛漫な性格で、接する人たち皆を笑顔にするような方でした。そのような御方が今、こんな物悲しい場所に住んでいるかと思うと……」
「そうなのね……」
「はい。でももちろん、罪を犯した人間にはそれなりの罰があっていいと思います。そうでなければ、誠実に生きる者たちが報われません」
「浮気なんてせずに、正直に生きる人たちこそ幸せになってほしいわ」
「そう思います。それが理想的です。……しかし、罪を犯した人間も反省の心さえあれば、新たな道を歩んで、幸せになってほしいと思うのです」
「……人であれば誰だって間違いを犯す。私だってそう思うわ。でもそれが犯罪か犯罪じゃないのかは、大きな差じゃないかしら? たとえば、人に嘘をついて後悔することと、詐欺罪で捕まることとは別でしょ?」
「おっしゃるとおりです。古今東西、罪とされる罪がはっきりあります。殺人、暴行、窃盗、詐欺……」
「でも、どうせ神様はすべての人間を許してくださるのよね。だったら、どうしても許せない人間に対して、私たちが無理してまで許してあげる必要なんてないんじゃない?」
「そうかもしれません。許せないという感情に苦しむのもまた人です。しかし……神様を試すような発言をなさってはいけません」
私とナディエはしばらく無言で歩きました。物乞いが物を乞う元気すら失ってしまっていて、何人もが打ちひしがれて道に寝ています。どこを歩いてもかすかなうめき声が耳について離れず、その哀れな響きが胸を締めつけます。
ナディエがぽつりとつぶやきました。
「わたくしはエルキュール様を長年見てきたからこそ、情がわいているのでしょう。罪人であったとしても、直接その人間を知っているのと知っていないのとでは……全然違いますから……」
「そうね……。恵まれた環境で育ってきたはずのエルキュールですら道を踏み外すくらいなら、世界ではどれだけの人たちが過ちに苦しんでいるのかしらね」
「はい。エルキュール様のご両親のお顔を思い出すと……当時の温かい光景が目に浮かび……」
目を赤くしたナディエとこうして話しているうちに、エルキュールが住む家まで辿り着きました。家――というよりそこは長屋で、今にも壊れそうな古い板に蜘蛛の巣がまとわりつく、おんぼろ建物でした。村の人たちと共同で住んでいそうなことだけはわかりました。
二人とも心の中で(本当にこんな場所に住んでいるの?)と疑問を抱きつつ、部分部分が虫に食われた玄関の扉をノックしたのでした。
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