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茶色の袋がなくなっている引き出しを見て、心臓が激しく揺れ動くのを感じました。他の物はなくなっていないようなので、袋だけがピンポイントに消えています。
これだけ部屋を荒らしているのだから、実行したのはおそらく複数の使用人で、もしかしたら夫が主導したのかもしれません。いずれにせよ、毒薬を誰かが持ち去ったことだけは事実です。
冷たい汗が脇腹を流れました。
毒薬を隠し持っていたとなると、あらぬ疑いをかけられ、こちらが追い詰められる可能性があります。あくまで自分の精神衛生上持っていたにすぎませんが、夫を恨んで使おうとしていたのだろうと問われると、言い逃れする術はありません。
ただ、捕らわれずに城に入れているので、大事には至っていないように思いました。毒薬がどこに行ったのか、誰が持っているのかなどを確かめねばなりません。
(そういえば……ナディエはどこかしら……?)
城の敷地はかなり広いので会わない日もあるのは当然なのですが、今日に限ってナディエが姿を見せていないのは変だと感じました。
自室を出ると、横並びで廊下を歩いている使用人二人の後ろ姿を見かけました。
「ねえ、ナディエはどこにいるか知ってる? 今日は何を担当してるかしら?」
私がこう尋ねると、彼女たちは一瞬こちらを振り返りましたが、やはり無視してそのまま行ってしまいました。数歩歩いた彼女たちは互いに顔を見合わせ、意味ありげにクスクス笑っています。
馬鹿にされているような感じがして、気分のよいものではありません。結婚して以来こんなに雑な扱いを受けたことは初めてで、悲しみは湧いてきませんが、子どもの頃に受けたイジメを思い出しました。
使用人たちが無視してくるのであれば、あとは侍従長のメリッサと直接話すしかありません。夫は普段、朝から出かけますし、いたとしても口を利いてもらえないでしょう。使用人を束ねるメリッサと何とか話をして、少なくとも部屋ぐらい掃除してもらいたいものです(掃除したところで、使えないかも……)。
その後しばらく城中を歩き回ってメリッサを探したのですが、まったく見つかりません。すれ違う使用人たちにも全員に無視されたので、もはやどうすることもできず、外に出ました。
力なくふらふらと歩き、庭園のベンチに腰を下ろしました。
異常な事態にもかかわらず、いい天気でした。ぼうっと空を眺めて雲の動きを目で追ったり、庭園に舞う蝶の種類を数えたりしながら、テレジア様のことを思い出しました。もはや、明日の祈りの会に出席するしか、私に生きる道はないように思います。
「奥様……どうなさったのです?」
不意に話しかけられたので、びくっとしました。あまりにも無視されすぎたせいか、自分が幽霊になったのではないかと疑うほどでしたが、他人に見えているようでよかったです。
声がした方へ視線を移すと、モートンがいました。
「……あなたは普通に話してくれるのね」
モートンは庭園整備係を務めている使用人です。背中が曲っていて、かなりの高齢です。よく仕事をサボってコーヒーを飲んでいるのですが、草花についての知識が深く、美的感覚にも優れています。この城で私が頼りにしている使用人のうちの一人です。
「当たり前じゃないですか。何をおっしゃっているんです?」モートンは不思議そうな顔をしています。
「あなただって、私を無視するように指示を受けているでしょ?」
「……最近、耳が悪くなりましてな。朝礼なんか、よく聞こえないんですわ」
そう言ってモートンは耳をほじりながら、冗談ぽく微笑みました。
モートンの屈託のない笑顔を見ると、胸の内が温かくなります。
「なによそれ、大丈夫なの? 私の声は聞こえてる?」
「はい。今、耳くそが取れたようで、調子がよくなりました。奥様の声がはっきり聞こえます」
私は笑ってしまいました。意識的に笑顔を作らなくても、勝手にそうなったのです。
「ふふふ。私に都合のいい耳をしてくれてるのね。……せっかく帰ってきたのに誰とも話せなかったから、寂しかったの」
「さようでございますか。わしでよければいつまでもお話相手になります」
「ありがとう。私ね……夫を裏切ろうかどうか迷ってた。こんなことを考える時点で、妻失格よね」
「悩まれているのですね」
「うん。もう引き返せないところまで来ているのに、自分でもいまさらって感じ。どんな選択をすればいいのかなって。モートンは悩んだとき、どうやって選んでる?」
モートンは「難しい質問をなさいますの……」とつぶやきながら、頬をかきました。
「わしにも、若い頃がありました。そのときは、うんと悩んだ気がします。でも、悩んだかいのある選択ができたかと言われると……そんなでもありませんでしたな」
「悩んでも意味ないってこと?」
「いえいえ、そんなことはありません。あれこれ考えるのは、前向きに人生を生きたいからでございましょう」
「前向きだったら、もっと明るい気持ちでいられてると思うわ」
「世の中には、後ろ向きで明るい方も多くいらっしゃるように思いますよ」そう言いながらモートンは「はっは」と笑いました。
太陽の光に心地よく照らされたベンチに、爽やかな風が吹きました。モートンは草花に目をやりながら、過去を思い出すようにして話を続けてくれます。
「よい選択をしたと思っても、そのあと失敗することもたくさんありました」
「それってどうしてなのかしら?」
「たぶん……よい選択ができたことだけに満足したからでしょう。ある時点で悪い選択をしたとしても、そのあとがんばっていれば、結果的によい選択になるんです。不思議ですなあ」
「なるほど……選んだ後のほうが大事ってことね」
「さすが奥様です。わしのとりとめもない話を、ありがたい教訓のように解釈してくださる」
「からかわないでよ」
「久しぶりに、コーヒーでもいれましょうか?」
モートンのせっかくの提案ですが、私は首を横に振りました。
「……ありがとう。でも、あなたに迷惑をかけちゃいけないから、気持ちだけ受け取っておくわ」
「迷惑だなんて……そんなことを気になさる必要はありません。わしはもう、周りからどう思われるかなんて気にする歳でもありません」
「年齢はきっと、関係なくてよ? あなたが優しいだけ」
モートンが照れ笑いをしたとき、私の視界の端に侍従長メリッサの姿が映りました。王者のように悠々と庭園を横切っています。城に戻っている途中のようで、私は長年追い求めていた獲物を見つけたように興奮しました。
「ごめんねモートン! メリッサと話してくるから、また今度ね!」
モートンはこれでもかというほどの笑顔を作り、私を送り出してくれました。
あとから振り返ってみると、これが私とモートンの最後の会話になったのでした。
これだけ部屋を荒らしているのだから、実行したのはおそらく複数の使用人で、もしかしたら夫が主導したのかもしれません。いずれにせよ、毒薬を誰かが持ち去ったことだけは事実です。
冷たい汗が脇腹を流れました。
毒薬を隠し持っていたとなると、あらぬ疑いをかけられ、こちらが追い詰められる可能性があります。あくまで自分の精神衛生上持っていたにすぎませんが、夫を恨んで使おうとしていたのだろうと問われると、言い逃れする術はありません。
ただ、捕らわれずに城に入れているので、大事には至っていないように思いました。毒薬がどこに行ったのか、誰が持っているのかなどを確かめねばなりません。
(そういえば……ナディエはどこかしら……?)
城の敷地はかなり広いので会わない日もあるのは当然なのですが、今日に限ってナディエが姿を見せていないのは変だと感じました。
自室を出ると、横並びで廊下を歩いている使用人二人の後ろ姿を見かけました。
「ねえ、ナディエはどこにいるか知ってる? 今日は何を担当してるかしら?」
私がこう尋ねると、彼女たちは一瞬こちらを振り返りましたが、やはり無視してそのまま行ってしまいました。数歩歩いた彼女たちは互いに顔を見合わせ、意味ありげにクスクス笑っています。
馬鹿にされているような感じがして、気分のよいものではありません。結婚して以来こんなに雑な扱いを受けたことは初めてで、悲しみは湧いてきませんが、子どもの頃に受けたイジメを思い出しました。
使用人たちが無視してくるのであれば、あとは侍従長のメリッサと直接話すしかありません。夫は普段、朝から出かけますし、いたとしても口を利いてもらえないでしょう。使用人を束ねるメリッサと何とか話をして、少なくとも部屋ぐらい掃除してもらいたいものです(掃除したところで、使えないかも……)。
その後しばらく城中を歩き回ってメリッサを探したのですが、まったく見つかりません。すれ違う使用人たちにも全員に無視されたので、もはやどうすることもできず、外に出ました。
力なくふらふらと歩き、庭園のベンチに腰を下ろしました。
異常な事態にもかかわらず、いい天気でした。ぼうっと空を眺めて雲の動きを目で追ったり、庭園に舞う蝶の種類を数えたりしながら、テレジア様のことを思い出しました。もはや、明日の祈りの会に出席するしか、私に生きる道はないように思います。
「奥様……どうなさったのです?」
不意に話しかけられたので、びくっとしました。あまりにも無視されすぎたせいか、自分が幽霊になったのではないかと疑うほどでしたが、他人に見えているようでよかったです。
声がした方へ視線を移すと、モートンがいました。
「……あなたは普通に話してくれるのね」
モートンは庭園整備係を務めている使用人です。背中が曲っていて、かなりの高齢です。よく仕事をサボってコーヒーを飲んでいるのですが、草花についての知識が深く、美的感覚にも優れています。この城で私が頼りにしている使用人のうちの一人です。
「当たり前じゃないですか。何をおっしゃっているんです?」モートンは不思議そうな顔をしています。
「あなただって、私を無視するように指示を受けているでしょ?」
「……最近、耳が悪くなりましてな。朝礼なんか、よく聞こえないんですわ」
そう言ってモートンは耳をほじりながら、冗談ぽく微笑みました。
モートンの屈託のない笑顔を見ると、胸の内が温かくなります。
「なによそれ、大丈夫なの? 私の声は聞こえてる?」
「はい。今、耳くそが取れたようで、調子がよくなりました。奥様の声がはっきり聞こえます」
私は笑ってしまいました。意識的に笑顔を作らなくても、勝手にそうなったのです。
「ふふふ。私に都合のいい耳をしてくれてるのね。……せっかく帰ってきたのに誰とも話せなかったから、寂しかったの」
「さようでございますか。わしでよければいつまでもお話相手になります」
「ありがとう。私ね……夫を裏切ろうかどうか迷ってた。こんなことを考える時点で、妻失格よね」
「悩まれているのですね」
「うん。もう引き返せないところまで来ているのに、自分でもいまさらって感じ。どんな選択をすればいいのかなって。モートンは悩んだとき、どうやって選んでる?」
モートンは「難しい質問をなさいますの……」とつぶやきながら、頬をかきました。
「わしにも、若い頃がありました。そのときは、うんと悩んだ気がします。でも、悩んだかいのある選択ができたかと言われると……そんなでもありませんでしたな」
「悩んでも意味ないってこと?」
「いえいえ、そんなことはありません。あれこれ考えるのは、前向きに人生を生きたいからでございましょう」
「前向きだったら、もっと明るい気持ちでいられてると思うわ」
「世の中には、後ろ向きで明るい方も多くいらっしゃるように思いますよ」そう言いながらモートンは「はっは」と笑いました。
太陽の光に心地よく照らされたベンチに、爽やかな風が吹きました。モートンは草花に目をやりながら、過去を思い出すようにして話を続けてくれます。
「よい選択をしたと思っても、そのあと失敗することもたくさんありました」
「それってどうしてなのかしら?」
「たぶん……よい選択ができたことだけに満足したからでしょう。ある時点で悪い選択をしたとしても、そのあとがんばっていれば、結果的によい選択になるんです。不思議ですなあ」
「なるほど……選んだ後のほうが大事ってことね」
「さすが奥様です。わしのとりとめもない話を、ありがたい教訓のように解釈してくださる」
「からかわないでよ」
「久しぶりに、コーヒーでもいれましょうか?」
モートンのせっかくの提案ですが、私は首を横に振りました。
「……ありがとう。でも、あなたに迷惑をかけちゃいけないから、気持ちだけ受け取っておくわ」
「迷惑だなんて……そんなことを気になさる必要はありません。わしはもう、周りからどう思われるかなんて気にする歳でもありません」
「年齢はきっと、関係なくてよ? あなたが優しいだけ」
モートンが照れ笑いをしたとき、私の視界の端に侍従長メリッサの姿が映りました。王者のように悠々と庭園を横切っています。城に戻っている途中のようで、私は長年追い求めていた獲物を見つけたように興奮しました。
「ごめんねモートン! メリッサと話してくるから、また今度ね!」
モートンはこれでもかというほどの笑顔を作り、私を送り出してくれました。
あとから振り返ってみると、これが私とモートンの最後の会話になったのでした。
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