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第二章 『断罪の丘』
七話
しおりを挟む山から落ちてきた深い霧が監獄塔を覆っていた。
小鳥の囀りが狭い独房の中に設置された窓から鳴り響く。
硬く冷たい石が積み上げられた牢屋の一室。
鉄格子が阻む小さな部屋の中で佇むのは、異端の神託を左手に刻んだ少年。
牢獄の中に、昨夜と同じ嫌な音が伝う。
その後に続くのは、死を告げに来た死神の足音。
入ってきたのは、白と金で織り成された全身鎧に身を包んだ二人の騎士。
一人は、腰に白鞘に収まった直剣を携えている。
もう一人は、神秘的としか形容できない見事な装飾が施された槍を手にしていた。
「ルシル=ルークス。迎えに上がりました。出なさい」
槍を手にする聖騎士が一人。テレシア=シアバターは声を上げる
同時に鉄格子の鍵を開け、牢屋の中に足を踏み入れる一人の聖騎士。
剣を腰に刺す聖騎士は、背が高く大柄だった。
顔は防護帽で覆われていて見る事は叶わないが、男だという事は誰にでも解る。
明らかに洗練された力を感じさせる鎧装備は、二人とも全く同じものだ。
言うまでもなく法王直属騎士、聖騎士の一人。
「……」
ルシルは一言も言葉を発する事なく、手枷に鎖を繋がれ監獄塔を後にする。
深い峡谷に作られた橋を歩く足取りは、今までに無いくらい重いものだった。
一歩一歩、自分が死に向かって近づいているのが解る。
昨夜は、当たり前のように一睡もできなかった。
ルシルの精神は抗えない現実と耐え難い負荷で、今にも崩れ落ちそうになっている。
それでも完全に壊れ切れない。狂ってしまわない自分が、些か馬鹿らしくも思えた。
脱獄の手段も考えた。けれど、全て無下に終わった。
手に嵌められた枷は特殊な物だったからだ。
自分が得意としている筈の導術は、封じ込められたように一切使う事ができない。
出来る事は全て試したが、自分の非力な力では手首に嵌められた枷を脱ぐ事は不可能だった。
手枷には、生々しい血を滲ませている。腕を引きちぎるつもりで傷つけたからだ。
歯を食いしばり力を入れる度に、異端の神託が目に入った。
逆十字架の紋章。
これさえ無ければ……と憎む自分が確かに存在していた。
ルシルはゆっくりと、けれど確実に自分の死に向かって歩みを進める。
どれだけの距離を歩いたのか覚えてはいない。
気がつくとルシルは、小高い丘に立っていた。
霞みがかっている空から、雲を切り裂くように光が差している。
自分が死する事、そのものを祝福するかのように輝く十字架の磔台。
そこまでの道には、神託授与の時と同じ顔ぶれが列をなして集まっていた。
鎖に繋がれたまま、ルシルは前を引く聖騎士の後ろを歩く。
向けられる視線は、哀れみと恐怖を混ぜ合わせたようなものだ。
人数が少ないのは、恐らく法王が戒厳令を敷いているからだろう。
世界を滅ぼす神託を、その身に宿す異端の処刑。
好き好んで集まる奴がいない分だけ、少し救われた気になった。
ルシルは光が照らす、十字架の前に立つ。
それは、神が己を裁く最後の審判にも思えた。
大司教が手枷に鍵を差し込むと、枷が別れ腕が一瞬自由になる。
だが、そのまま鎖を持つ聖騎士の手によって、直ぐに磔台に縛られた。
両手を大きく広げ、手足を太い鎖でしっかりと固定される。
そこから見た光景は、些か滑稽にも見えた。
手を重ね合わせ、慈悲を乞うように祈りを捧げる司教たち。
己の職務を全うしようと、心に誓いを立てた顔をしている大司教。
左右に分かれて立つのは、その顔すら見えない聖騎士の二人。
「ルシル=ルークス。最後に何か言い残す言葉はあるか?」
「…………」
ルシルは俯いたまま、微動だにしなかった。
言い残す言葉を言ったからといって、何かが変わるわけじゃない。
自分の人生が終わりを告げる。
それも信じられないような理不尽に見舞われて。
精一杯生きてきた。たった十六年だと言われれば、そうなのかもしれない。
けれど、それでも自分たちが生きるために最善を尽くしてきた。
ーーそれが、こんな結果で終わるのか……
世界はいつだって残酷で理不尽だ。自分の身を守れるのは自分だけ。
一時でも神に祈った、過去の自分に嫌気がさす。
ーーこの世界に神は存在しない……
どれだけ祈りを捧げても、どれだけ願いを込めても、自分の思いが叶えられる事は一度足りともなかった。
それどころか、今まさに神はその名に於いて自分を殺す。
「ルミス……」
最後の最後に脳裏に過ぎったのは、最愛の妹の事だった。
既に枯れ果てたと思っていた深紫の瞳から、頬を伝う雫が零れ落ちる。
「……ルシル=ルークス。其方に罪状を言い渡す。汝はその身に世界を滅ぼす魔王の紋章を宿す罪人。神に仇なす者を、生きとし逝ける者たちが住まう大地に存在する事は許されない。よって汝に死を宣告する。執行人はロザリア法国大司教、グレゴリオ=ハイネスーー」
グレゴリオが声高々に、予め決められている文章を口にする。
その時、宣言を掻き消すほどの大きな声が丘に響き渡った。
「異議あり!! ルシル=ルークスは死なせない!!」
断罪の丘に集まった全員が声に驚き、反射的に後ろを振り返る。
自分の名を呼ぶ、どこか酷く懐かしい声を耳にしたルシルは初めて顔を上げた。
そこに立つ少年の姿を前にして、大きく目を見開き思わず名前を口にする。
「ッッ……アルム!」
突如として現れたのは、紛れもない大切な友人の姿。
ルシルの死んでいた瞳に、再び光が灯った。
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