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第六景 愚者の臨む深淵

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第六景 愚者の臨む深淵

     1

 太刀を片手に、献之は廊下を急いでいた。
 おそらく、この廊下を歩いてくるだろうと踏んで。
「こんな夜更けにどちらへ?」
 献之が話しかければ、足早に歩を進める者が廊下の凝った闇の中で立ち止まった。ほのかな灯りしかなく、相手には献之の顔さえ見分けられない距離。しかし夜目のきく献之には、はっきりと見えている。
 声で献之とわかったのだろう。微かではあるが、相手の萎縮する気配が伝わってきた。
「……どこって、そんなものは決まって――」
「父上のところですか? 六年近く身体を重ねていないのに、今更、夫婦らしい営みでもするつもりですか?」
「なんっ……!」
「ちょうどよかった、訊きたいことがあったんです。大木師傅を見送ってくださったそうですが、邸を出たのは何人ですか? 俺は〝邸を出た〟ことしか門番に確認しなかったので」
 返事はない。
「連日連夜働きづめだった父上に酒を勧め、投壺までさせた。そりゃあ疲れて寝てしまうでしょうね、母上」
 向かい合っている登綺の肩が跳ねた。動揺は明らかだった。
 六年前とかわらない――嘘が下手なくせに嘘で塗り固めようとする暗愚な女。
「よかったですね、今宵は父上がお戻りになって。数日前は父上が戻らずに、やむを得ず計画を延期したでしょう?」
「……な……に?」
「ああいや、違うか。紘里は自力でからくりから脱出してしまった。人はね母上、そうそう思惑どおりに動かないものですよ」
 瞠目する登綺。
「ついでにもうひとつ教えて差し上げます。その日、大木師傅を呼ぶのを延期したのは俺の都合なんです。父上が挨拶をしたがっているのでと伝えましたけど、挨拶なんて次の機会で構わないでしょう? 大木師傅の測量は一日で終わるものでもないですしね」
 そこで一旦区切った献之は、ことさらゆっくりと口を開いた。
「俺はね、母上に是が非でも実行してもらいたかったんですよ、こうしてじっくりと話がしたかったので。だからあの日は大木師傅を呼ばなかった」
「……実行って……?」
「とぼけないでください。母上は、父上を殺したかったんですよね? 欲しかったのは序列三位の永という氏だけでしょう? 父上を消して、そのあとがまに若い男でも据える気でしたか? ちょうど今、邸には歳の釣り合う見目麗しい男が滞在していることですし、それが巫祝ともなれば、術も扱えて後々母上に有利に動いてくれるでしょうし」
 風水師にべたべたと触りまくる登綺を、献之は何度か目撃していた。その度に虫唾が走ったものだ。子どもが――延之が見ているかもしれないところで恥を知れ、と。
「あの大木師傅のうち五人は偽者ですよね? 父上が留守のときにこの五人に来られても意味がない。まだわかりませんか、俺はすべてを承知で邸に入れたんですが」
 登綺が、クッ、と息を呑んだ。
「もちろん、母上が大木師傅五人を邸に残したことも承知してました。都合がいいことに、この邸には身を隠すのにふさわしいからくりが多くありますから」
 からくりのひとつから屋根裏に潜んだ気配も、献之は気づいていた。
 気づいていながら放っておいたのだ。
 口唇を小刻みに震わせる登綺。
「……貴方、なんで――」
「なんで気づいていたか、って? 俺、ちょくちょく外出してたでしょう。なにをやってたと思います?」
 そこまで愚かではないのか、察したらしい登綺は更に目を見開いた。
 登綺と延之がこの邸に移ってからの日々、献之は邸に出入りする者の身辺調査を注意深く行ってきた。職業選択のできない時代、新顔が急遽五人も雇われれば裏があるに決まっている。実際、今日やって来た大木師傅は七人。うち顔馴染みの二人だけが邸から出ていった。おそらくこの二人は、賊である残りの五人に脅されていたのだろう。
「母上が殺風景な邸だと繰り返し嘆くから、心優しい父上は、貴女のために邸の増設を決めた。俺はそのときから大木師傅の動きには注意を払ってきましたよ」
「……貴方、本当に……献之?」
「そうですよ。ああ、父上に指摘されたとおりヌけてなくて別人に見えますか? もう隠すのも面倒なんで白状しますが俺、かなり裏表が激しいんです。貴女が見ていたのは裏の俺、こっちがホンモノで俺に言わせれば表です。こんなノが世に二人もいたら物騒でしょう? だから俺は本物の献之ですよ」
 すべては登綺に油断させるための演技。
 機転がきかず、トロくさく、出仕もせず、邸にいる間は日がな一日書に打ち込んでいる。ほぼ正反対の自分を演じ続けることが、どれほどの苦痛だったか。
「浅はかですね、母上。大金を積んで雇うなら、もっと頭が回って腕のたつ兇手を見つければよかったのに。太平五十余年、兇手の質も落ちたもんですよ」
「……わたくしはっ」
「ああ、違うか。どうせ色仕かけで落とした無頼の者を雇ったんでしょう? 貴女の身体と引き換えに値切りでもしましたか? 王都ではずいぶんとたくさんの男を周囲にはべらせていたそうで」
「貴方っ! 仮にも継母に向かって無礼でしょうッ」
「無礼? ああ、すいません。標的をとっとと殺さずさらっていってしまう――追えば必ず足がつく間抜けな兇手を雇った母上に、同情して差し上げたつもりだったんですけど」
「そう、あれはっ」
 思わずといったふうに登綺が口走った。
 たぶん登綺は、どこかで紘里がさらわれていくのを見たのだ。それで計画どおりにはいかないと判断し、自ら子雲のもとへと出向くことにした。
「父上を殺しにいくんですよね?」
「…………」
「誤解しないでください。俺は別に、貴女を止めに来たんじゃない」
「……このわたくしが恵州などという辺鄙なところへ移ってきてあげたのです。序列三位の永氏相手とはいえ下賜されただけでも屈辱なのに! これ以上、囚われたくありません。献之、……わたくしの気持ちをわかってくれませんか。州侯は貴方が継げばよいでしょう?」
「延之ではなく?」
「恵州は貴方にあげます。わたくしは王都の別邸でのんびり暮らせればそれでよいのです」
 少しずつ歩を詰めてきた登綺が、献之の胸にしなだれかかってくる。
 猫撫で声とともに繰り出される手管は継母としてではなく、もろに女のそれだった。
「母上――いえ登綺、俺に抱かれてみます?」
「いいわ、自由をくれるなら」
「じゃあ遠慮なく。――ああ、先に言っておきますが俺、鬼畜なんで。臥所で散々にしたらお前を斬り殺すけど文句はないよな?」
「な……ッ!」
 凄みを増した献之の声音に怯えるようにして、登綺が二歩後退った。
 献之は背に回していた左手を前へと突き出す。
「この環柄刀(かんへいとう)に見覚えはないか?」
 差し出したのは、片刃の直刀。柄に刀輪と呼ばれる環(わ)がついていることから環柄刀と呼ばれている。鞘には、それは見事な装飾が施されていた。
 朝な夕なにこれを抱え、このときがくるのを献之は待ち侘びていたのだ。
「華美を好むお前が憶えていないはずはない」
「……その刀剣は」
 もう何度目か、登綺が目を瞠る。それは献之の握る太刀から逸らされることはなく。
「宝刀六骸(りくがい)。遥か昔、王家の祖先――かつての江州侯が跋扈する妖魔を打ち倒し、その妖魔六体から、それぞれ首・胴・手・足の骸(ほね)を抜き取り、鍛えてつくられたという名刀だ」
「……貴方、やっぱり」
「暴虐の天子と恐れられた先王陛下は、六骸を王師三軍の中で最も信頼の厚かった将軍に与えていた」
 その将軍の名は――。

     2

 為す術もなく、紘里は賊の一人の肩に担がれたまま、荷物の如く運ばれていた。
「おろしてって言ってるのにッ」
 無駄と知りつつも、後ろ向きに担がれた状態でジタバタと暴れてみる。自由な両手で背中を叩きまくっても、やはり屈強な男にはかなわない。どれほど腕を振りほどこうともがいても、逃げられはしなかった。
 どうしよう、このままじゃホントに連れてかれて売り飛ばされちゃうかも――そう思い、何度か叫んで助けを請うてみたものの、邸が広いせいか声は虚しく反響するだけ。しんと静まりかえる邸内には濃い沈黙が漂うだけで、人の駆け寄ってくる気配はなかった。叫び続けたせいで喉は痛く、無理な体勢で担がれているから時折息が詰まってしまう。
 売られる女の末路は紘里も知っている。たとえ雑技に売られたとしても、やらされることはきっと一緒……。
 そうこうするうちに、賊は園林へと出てしまった。降り続く小雨が冷たく夜着を濡らした刹那、紘里はハッとした。
 そうか! あたしは雪女なんだから。
 先程の氷の術を使えばいいのだと、この土壇場でやっと気づいた。なにせ生まれてこのかた、自分が術を使えることを知らないできたので、紘里はそこまで頭が回らなかったのだ。
「ねえ、あんたっ。ここで止まらないと氷づけにしちゃうんだからッ」
 丁寧に忠告してあげたのに無視された。紘里はカチンとなる。
「さっきの、あんたも見てたでしょっ。あんなふうにされたいのッ」
 やってみろとばかりに男の腕に力が込められた。それが余計に紘里をムキにさせる。
 たぶん賊は、ここにまとまった水がないのをいいことに、聞く耳をもたないでいるのだ。
 悔しさに「くっ」と唸った紘里は、心に強く念じてみる。
 雨だって水なんだから、さっきのように武器がほしいと願えばなんとかなる。――はずだったのに……
「う、……ウソでしょう、なんでっ」
 なんともならなかった。
 雨は雨のまま、地に落ちていくだけ。
 なにが違うのかと、紘里は必死で延之を護ったときのことを思い出す。しかし思い出そうとすればするほど焦ってしまい、思考はカラカラと空回りした。
 このまま売られてしまったら、永遠に瑶に逢えなくなってしまうかもしれないのに!
「ヤだ、瑶と離れたくないッ」
 胸につかえるしこりを吐き出すようにして紘里が叫ぶと、ちょうどそこに重なる小さな声があった。
 声は四方から響いてくるようでいて、間近から聞こえるようでもある。
「天道畢(おわ)り――三五成り、日月倶(そな)わる。窈窈に出でて、冥冥に入る、気は道に布(し)き、気は神に通ず。気行けば、奸邪鬼賊、みな消亡せん。我を視し者は盲(めし)い、我を聴きし者は聾(みみな)ゆ。敢えて我を図り謀る者あらば、却ってその殃(わざわい)を受けん。我は吉にして、彼は凶なり」
 その呪文のようなものがやむと同時に、大気が一斉に震えた気がした。雨も大地も木も草花もドクンッと脈打ち、底知れぬ存在に支配されたようになる。しかし紘里がそう感じたのは、走っていた賊の身体がぴたりと固まった、その振動ゆえのこと。まるで金縛りにでもあったかのように。
「お前、なにをやっている」
 いつの間にか、至近に立っていたのは瑶。
「……あ? え!? なんで、……ええっと今」
 紘里は肩に担がれたままで、賊を見下ろした。やはり身体は硬直しているようだった。
 背を目一杯に反らせ顎を上向けた紘里は、賊の背後に立つ瑶に尋ねる。
「ね、瑶。あたし、術を使えるのっ!? てことは雪男の瑶も使えるんだよねっ、ねっ?」
「落ち着け馬鹿者が」
「だって……ハッ、そうだ! ここはあたしがなんとかするから」
「なんとかしたのは私だ。いい気になるな」
「ん、そうなんだけどっ。え!? そうなの??? ああっと、今はそれどころじゃなくて! これだけしてくれれば充分だよ、あたし必死で逃げるから、……あたしのことはいいから献之を助けて!」
 紘里の目の前で献之は二人の賊を斬った。それは不意討ちだから成功しただけで、まともに斬り合ったらあのドンくさい献之が勝てるとは到底思えない。房室に残った腕力のない献之が心配で、紘里の胸はつぶれそうに痛んだ。
 他人の心配ができるのは瑶が傍にいるからだと、それも紘里にはわかっている。
 そんな紘里を見下ろした瑶は、不機嫌丸出しに眉をひそめた。

 ――それは六年前。
 子雲に連れられ、継母への挨拶のため王都へ出向いたときのこと。
 その継母は、献之を見るなりムダに艶やかな紅唇を震わせた。
 献之は、その震えを勘違いした。
 紹介されて初めて気づいたが、献之がその継母を目にしたのは二度目だったから、そのせいと思い込んでいたのだ。
 しかし、今なら断言できる。
 継母にとって、六年前が献之との初対面だったのだ。
 この女は、俺(、)の(、)顔(、)を恐れたのだと。

「将軍の名は泰禄山。王師右軍将軍だった」
 登綺の口唇がぶるぶるとわなないた。それは六年前と同じに。
「泰右軍は若かりし頃に最愛の妻を亡くし、以来忠実に王家に仕えてきた。勤勉実直で、浮いた噂などひとつもなく、ただひたすらに先王を支えた。その愚直なまでの清廉さを認められて、右軍将軍に抜擢された……」
 泰氏は多くの武人を輩出した家柄ではあるが、位は中流の下。右軍将軍にまでのぼりつめたのは、破格の出世といってもいい。
「徐州と益州で日照りが続き、先王の暴虐に王師までもがその御世を見放しても、右軍将軍だけは先王を見捨てることはしなかった。二州への非道を嘆きながらも先王をかばい続け、王師将軍としての責務をまっとうしようとした。斃れるべきは無慈悲と蹂躙を繰り返した先王であって、決して泰右軍ではなかった!」
 我慢ならなくなり、献之は叫ぶ。その叫びには十六年分の想いがこめられていた。誰に告白することも許されなかった苦悩と悔恨が。
 手に握る宝刀六骸を登綺のふくよかな胸に押し当てる。まるで心臓をえぐりつぶすように。
「泰右軍は六骸を常に腰に佩いていた。お前なら見覚えがあるだろうッ」
「……貴方、その顔、……やっぱり禄山の息子、なの?」
 献之は片方の口角を吊り上げる。
「そうだ。泰禄山は我が父。髪を一つに結えば尚よく似ているだろう。この顔もあって、俺は文官としての出仕を断り続けてきた」
「そんなッまさか、……反逆者の子どもを筆頭貴族がかくまうなんて。……その事実を子雲は知らない……?」
 泰史の乱が勃発した当時、献之は七歳。幼い子どもの名は、貴族同士であっても知らないものだ。ゆえに、「献之」と正直に名乗ったその素姓を、あの時点の子雲が知っていたかどうか――未だに献之も確認せずにいた。
「我が父を反逆者呼ばわりされたくない。お前のその口、裂いてやろうか?」
 登綺の胸を更に強く押せば、呆気なくよろけた。
 それが献之にはひどく鼻についた。
 なんの力ももたぬか弱い女が、将来ある有能な人間の運命を、いともたやすくかえたのだから。
「十六年前、お前はなにをした?」
「……わたくしはなにも」
「なにをした? 言えば命だけはとらないでやる」
「いいえっ、わたくしはなにもしていないッ」
「そうか、なら俺が、書家になった本当の理由を教えてやろうか」
 書家――その言葉にハッとした登綺が身をひるがえす。逃げようとする登綺の肩をつかんだ献之は、振り向かせてすぐにその身体を壁に叩きつけた。妖艶な身体から骨の軋む音がしたがかまわずに、登綺の喉を押さえつける。
 逃げたことで己の罪を認めたようなものだが、あいにくと献之は、それで赦してやるほどできた人間ではない。その浅慮が、かえって怒りを増幅させただけだ。
「いいから聞け! 謀叛の咎をかぶせられ、泰家の邸は火攻めに遭った。仕方なく俺たちは都落ちした。そのとき、父・禄山から手渡されたものが二つある。一つはこの六骸。もう一つは、薛濤の五言詩が書かれた紙片。この、……たった一枚の紙切れが泰史の乱を引き起こした」
 後にそれは、貴妃である楊太真が書いたものだと風の噂で献之に伝えられた。
 しかし、今生の別れとなったあの日。
 父は確かに言ったのだ――「これは楊貴妃が書いたものではない」と。
「女好きの先王は、後宮のほかの女官に手を出していても、楊貴妃のもとへ通うことは怠らなかった。ある日先王は、楊貴妃の臥室でこの紙片を見つける。薛濤の詩は恋慕の情をしたためたもの、ゆえに思慮の足りない先王は、楊貴妃の姦通を疑った」
 楊貴妃は否定したが、ある女官の証言によって姦通は確定する。
「父は、一日でも先王の御世を長引かせようと努めていた。楊太真の献身によって朝政に目を向けさせるため、互いの意見を交わそうとして、聡明な貴妃のもとを訪れることもあった。すべては先王のためだったのに、それを利用した女官がいたッ。お前だ、范登綺!」
 范――それは楊太真が養女となる前の姓。
 登綺は、腹違いの太真の妹になる。これを献之が知ったのも、六年前のこと。子雲に下賜される際、その素姓を聞かされていた。
「お前は、貴妃に選ばれるべきは自分と思っていた。姉付きの女官として後宮へあがるのに、不満を抱いていた。多くの女官と高位の官吏に傅かれ、美しく着飾る姉を――楊貴妃を、妬んでいた。その存在を消したいほど恨んでいた、だからハメたッ」
「……そんなこと。わたくしは姉上のために懸命に働いたわ」
「ハッ。お前が懸命に働いたのは、贅沢な暮らしがしたいからだろう? 少しでも位の高い貴族に見初められたかった、いや、それ以上に陛下に抱かれたかった。永劫奢侈にふける、それしかお前の頭にはない」
「貴方っ、いい加減に――」
「俺が書家になったのは、まさしく人が押し隠す性格を見極め、書いた者の人物像を絞り込むため。派手好きな性格は、お前の綴る字に滲みでている。どれだけ楊貴妃の筆跡をマネて運筆をかえようとも、その癖は隠せはしない。俺は一日と上げず、父に手渡された紙片を見てきた。それと同じほど他人の字も見てきた。書家として大成した俺は誤魔化せない、あの薛濤の詩は慎み深い楊貴妃が書いたものじゃない!」
「言いがかりもはなはだしいわ。継母に向かっての乱暴狼藉、これ以上は許しませんよ」
 喉を押さえられているせいで、登綺が途切れ途切れに反論してくる。
 その姿を、献之は冷ややかに見下ろした。
 この期に及んでもシラを切れると信じている、これだから女には反吐が出るのだ。
「これを見ろ」
 喉を押さえていた手を放し、献之は胸元の合わせから一枚の紙片を引き出した。
「今日の午過ぎ、俺はこれを風水師から受け取った」
「……それはっ、……なぜ」
「ここにも薛濤の春望が書かれている。普段の筆跡とかえてあるが、風水師はお前から受け取ったと言った。この字、十六年前に父から手渡された紙片に綴られている字と癖がまったく同じだ」
「……うッ」
「愚かなお前のことだ。万が一、子雲に風水師との浮気が発覚しても、自分の書いたものではないと言い訳するために用心深く筆跡をかえたんだろうが。恋文に同じ薛濤の詩を引用するあたり、学のなさが知れるというもの。才気溢れる姉の楊貴妃とは比べるべくもない」
 手加減なく献之が罵れば、呆れるほど愚かしく登綺は髪を振り乱す。献之の双眸には、そのぬばたまの黒髪が登綺を捕らえるため、闇の深淵から伸びてきた触手に映った。
「なんでっ、……あのひとは……瑶様は、わたくしの傍にいると約束したのよッ」

     3

 憮然たる面持ちで動くことをしない瑶を待たず、紘里は賊の腕から逃れようともがいた。が、しかし、どういうわけか、賊は硬直したままなので、担がれた体勢からではその腕を振りほどくことは難しかった。
「もうッなんなのこの腕、固まってて動かないんデスけどっ」
 加えて、長く担がれていたからか、頭に血が逆流してきてクラクラするのだ。そのせいもあって、降り続く雨が肌を刺すようにして身体を濡らし、凍えさせていく。
 もたもたと暴れる紘里を見つめる瑶が、重い溜め息を吐き出した。
「あの男の心配をする前に、己の身を案じたらどうだ?」
「んん、……賊が動けないならあたしでもなんとかできるって! もう瑶ってば、ボッとしてないで早く献之を助けに行ってよっ」
 紘里の脳裏には、斬られて倒れる賊の姿が浮かんでいた。
 もし献之があんなふうに血を噴いて倒れたら――その姿を想像する度、術を使いこなせなかった自分が不甲斐なくなってくる。
「……あたし、心のどこかで雪女であることを未だに否定してたのかな? もっとちゃんと雪女であることに向き合っていたら、献之と延之くんを護れたかもしれないのに」
 これに瑶は応えなかった。
 さらさらとした雨音が沈黙を埋めてくれはしたものの、紘里にはそれがとても長く感じられて、いっそう落ち込んでしまう。
「まずは自分の身を護れるようになれ」
 すっと、瑶の手が伸ばされる。
「それにな、あの男はそうそうやられるタマじゃない。州侯の邸なのに護衛官が少ないのは、あの男が好き勝手に動くため。すべては腹黒男の目論見どおりなんだ」
「……へ?」
「ふん、まあいい。ほら、こっちに来い」
 伸ばされた瑶の手が、なんなく紘里の身体を受けとめる。あれほど締まっていた賊の腕が、瑶が触れるだけであっさりと緩んだ。
「ありがと、瑶――――って、ぅわ、わッッッ」
 紘里を抱えたまま、いきなり瑶が飛び退ったのだ。
「ちょ、なにっ?」
「何遍も言わせるな、お前は前を見ることを覚えろ」
「うへ?」
 言われたとおり首を捻って前を向けば、賊が抜刀していた。
 紘里は悲鳴をあげそうになる。
「久々で私も勘が鈍ったな、こうも術を解かれるとは。力加減がどうやらうまくいかないらしい」
 意味不明の呟きをぶつぶつと洩らした瑶は、すぐさま紘里をおろして背後にかばった。
「お前、しばらく耳をふさいでいろ」
 早くしろとせっつかれ、紘里はわけがわからないままに両手で耳を塞いだ。
 その間にも瑶は、右手の人差し指と中指を立てて手刀(しゅとう)をつくっている。
 背後からでは見えないが、なにか呪を唱えているようだった。
 と、その刹那――。
 耳をふさいでいても聞こえてくるほどの、ザアッという轟音が響き渡った。その轟音に大地が微かに揺れている。何事かと慌ててそちらに顔を向ければ、園林の池の水が渦を巻いて天空へと伸び上がり、降る雨を巻き込みながら一気に瑶の手許までおりてくる。瞬時に水の渦は、一口の剣へと変化した。
 鞘のないその刀身は、瑶の髪のように暗闇の中で銀に煌めいている。瑶が剣を握りなおせば、彼の動きに従うようにして、刃先に纏いつくいくつかの水滴が宙で踊った。
 あまりに現実離れしていて、紘里は茫然となるだけ――。

 髪を振り乱して動揺する登綺に、侮蔑の一瞥を献之はくれる。
「あの風水師は、お前如きがどうにかできる人間(、、)じゃ(、、)ない(、、)。そもそもからくりから紘里を導いたのは、風水師だ。風水師との縁を切らせるため、邪魔になる紘里を閉じ込めて賊に殺させようとしたんだろうが、その行為を狡智に長けた風水師が見逃すわけがない」
「そんなこと……だって、わたくしの力になってくださると約束したのよ」
「約束というものは、思いのほか口にした人間を縛るものだ。お前は約束を交わして相手を縛ったつもりだろうが、無意識のうちにお前もその約束事に囚われる。身体でタラしこんで利用しようとしたとしても、あの風水師相手では、利用されるのはお前のほうだ」
 きぃぃぃっ、と登綺が耳障りな唸り声をあげた。その声に逆撫でされて、献之は「ちっ」と舌打ちする。
「癇癖が強いお前のその性格、実の子の延之にすら慈愛なく向けていた。……それでは誰に愛されるはずもない」
 登綺の顔がぐにゃりとゆがんだ。それはとても醜く。
「加えて身分以上の贅沢を望む貪婪さ。お前、本当に醜いんだよ」
「お黙りなさいッ! 貴方になにがわかるというのッ、それなりの貴族に生まれた貴方に」
 己の胸元をグッとつかんで登綺は叫ぶ。
「うちは貴族とは名ばかりで、今日食べる物にも困るほどだったわ。調度も服も、金にかえられるものはほとんど売り払ってしまった。だから服が破れても、あてる布すらなくて。邸を修繕する貯えもないから、真冬は隙間風に凍え死にそうだった。いくら南の胡州といえど、冬が来る度に不安に駆られたわ。……貴方にはわからないでしょう? みるみる食料が減って、邸が荒れるのを目の当たりにする――それは己の命が削られていくのを目の当たりにするのと同じことなのよ」
 磨かれた登綺の爪が、つかむ力の強さのせいで白くなっていた。
「あの恐怖ったら、……たとえようがないわ。なのに父が女好きのせいで、そこらじゅうの妓楼に子をこしらえてくるから、どれほど節約しても、いつだって食い扶持に困るのよ。相手の女はうちが貴族だからって理由で子を押し付けてきて、父も矜持だけが高いからほいほいと引き受けて」
「お前だって、范氏がよそでつくった子だろう」
「そうよッ、だから頭にくるの! わたくしは女、貧しく身を整えられなくてもこんなに美しいのに。政略的な婚姻にこの美貌を利用しようともしない能無しの父を、何度絞め殺してやろうとしたことか。立身出世を目指すことなく、けれど微々たる給金を女にバラまくしか芸のない――あんな男のもとに生まれなければわたくしはッ」
 嫌々ながらに耳を傾けていた献之はふと、男を使い捨てにしようとする登綺の心理を垣間見た気になった。
 頼りない家長のもとに育ったせいで、男を見下すようになったとしたら……。――しかしそれが我を貫くため、他者を巻き込んでいい理由にはならない。
「先王の貴妃を捜すという名目で中央から官吏が訪ねてきたとき、やっとわたくしにも運が向いてきたと喜んだわ。貴方の言うとおり、わたくしこそが貴妃に相応しいのですもの。この水を弾くほどにハリのある白い肌膚(はだ)に、触れたくない男はいないでしょうから」
 けれど――と、口唇をゆがませた登綺が乾いた笑い声をあげた。胸元から離された指は、なにかをつかむようにして不気味な角度に折られている。
「官吏が選んだのは姉。姉はすでに出家していたのに、それを引き戻してまで王都へ連れていくという。……ありえないわ」
 献之は大笑いしたくなった。
 官吏たちが求めたのは、美貌と才気を併せもち、博識であって温順律儀な女人。登綺とは真逆の、一人の女として完成された存在なのだ。
 なのに、知ることを知らないこの女は……
「……十四になったばかりのお前は、王都へ行くことを望んだんだろう? 姉付きの女官としてでも」
「そうよ、陛下の目にとまりさえすればよかったの。わたくしを見れば、陛下はきっと、ご寵愛くださるだろうから」
 しかし登綺は、先王に寵愛されることなく女官を続け、やがて現王によって子雲のもとへと下賜されることになる。
 登綺の声を聞きながら、献之は瞑目した。

     4

 確かに登綺を初めて見かけたとき、美しいと思ったのだ。
 登綺は一度だけ、楊貴妃からの文箱を携えて、泰家の邸を訪れたことがあった。それは泰史の乱が勃発するひと月前のこと。父と話す登綺を献之が見たのは、たまたまだった。
 あのときすでに、父・禄山を巻き込むことを決めていたのか――そう思えば、献之は気が狂いそうになる。あそこでこの女を殺していればと、……時を過去へと戻せるならと。
 過去をこの手につかみたくて堪らない!
「禄山が悪いのよ」
 呟くように、登綺が言う。
 目蓋を上げた献之の双眸は雷光の如く憤怒に閃いた。
 登綺は胸元から短刀を引き出し、その刃を献之に向けていた。
「なんだとッ」
「わたくし、禄山を愛していたの。本気だったのよ」
「ハッ、笑わせるな! お前のような金のかかる小娘に、質実剛健の暮らしを好んだ父上が本気で相手をすると思うのか」
「うるさいうるさいうるさいッ」
 金切り声で叫ばれて、献之は絶句する。
 肩を震わせる登綺が、声を絞り出すようにしていた。
「そうよ禄山――あのヒト、あれだけ後宮に足を運んでいたのに」
「父上は政のことで、楊貴妃のもとを訪れていただけだ」
「そうだとしてもッ! たとえ姉のところへ来ていただけだとしても、側仕えのわたくしが目に入らなかったはずはないでしょう? なのにあのヒト、いつも素っ気なくて。お茶を差し上げるときだけは笑ってくれて、……それで好きになって――」
 更に続けられた言葉に、献之は再び絶句した。
「姉の使者として泰家の邸へ赴いたとき、わたくし、禄山にお願いしたの。わたくしのことを引き受けてくださいませんか、って。そうしたらあのヒト、〝貴女のように若くて美麗な方は私にはもったいない〟って言ったのよ」
 あの日か! ――唖然としながらも献之の記憶は過去へと引き戻されていく。
「若くて美しいことのどこがいけないのよッ。男なら手を出せばよいでしょう? もったいない、ってなに? 恥を忍んでわたくしから誘ってあげたのにッ。これほどの女の誘いに落ちないなんてどうかしているわッ」
 もったいない――父の言を、この女は履き違えていると献之は思った。それは遠慮したのではなく、質素な武人の妻には相応しくないと、はっきりと断りをいれたのだ。
 どこまでも愚かな……
「……お前は愛していると言ったが、とどのつまり、それは父上の位のことだろう。王師右軍将軍という、その肩書きだけに惹かれた」
「違うわ。……いいえ、たとえそうだとしても、それのなにが悪いのかしら? もう胡州でのような惨めな暮らしは嫌だったのよ。貧しさはわたくしには似合わない。わたくしは生まれながらの貴族、貴族は貴族らしく優雅で豪奢に生きて当然じゃないのッ!」
「お前は、本当に醜い。貴族でない庶民が、いいや、王都を追われた者がどうやって生きているか、一度でもその暮らしを考えたことはあるか?」
 都落ちした過去を想い、献之は奥歯を噛み締めた。
 まだ七歳だった。物心ついて、まだ数年だった。けれど先王の差し向けた大軍に追われ、生き延びねばならない。そんな中で子どもだからという甘えは許されなかった。
 刀剣の柄も握りきれないのに、それを手に戦った。何人も斬った。一つの刀剣の刃が血脂で滑って肉を切れなくなれば、死人の刀剣を奪ってまで応戦した。
日を追うごとに、父の同輩や麾下が落命する。遺体を埋葬したくても追撃されてその暇は与えられず、片手で死人を拝みながら、もう片方の手には武器をとるしかなかった。
 怪我人がいても薬は足りず、兵糧は不足して、みな疲弊した身体を引き摺って戦っていた。夜襲を警戒して眠ることもできない、それは生き地獄の殺伐とした日々。
 どこまで行けば血と肉の腐臭から逃れられるのか……、服や肌にこびり付いた血を眺め、それだけをひたすら考えて――。
「わたくしには関係ない。だって貴族なんですもの。選ばれるべき女なのですもの。女の幸せは、より位の高い男のもとへ嫁ぐこと。……貴方は誤解しているわ」
「誤解だと?」
「わたくしはね、もちろん姉もうとましかったけれど、本当に消したかったのは禄山よ」
「お前ッ」
「このわたくしに恥をかかせた。それだけで先王に追われるのに充分な理由だわ」
 反射的、献之は抜刀していた。
 下から上へと斜めに斬りつけられた登綺が倒れる。夜着を血潮に染めながら。
 痛みに呻く登綺の顔に、献之は嗜虐心をあおられる。
「そう簡単に殺しはしない。どうだ? 息ができず苦しいか? 父に振り向いてもらえない――たったそれだけの瑣末なことで、一国に内乱を起こした。その苦しみに、十六年前に命を落とした者たちの恨みを知れ。苦しみから逃れたいなら、己の握る短刀で命を絶てばいい」
 献之は片膝をついて、登綺を冷酷に見下ろした。傍には千切れ飛んだ登綺の左腕が転がっている。
「ああ、左手ならそこだ。自慢していただけあって、白い肌には鮮血がよく似合っている。お前をな、助けにくる者は誰もいない。賊は俺が斬り殺したから」
 この日のため、州内をぶらつくフリをして、腕を鈍らせないように献之は剣術の鍛練をしてきたのだ。
「……どうし、て? ……子雲は?」
 口から血を滴らせながら、登綺がきれぎれに訊いてくる。
「こんなときだけ都合よく夫に頼る気か? 義父はお前を愛してはいない。お前に興味もない。義父が生涯愛するのは前妻だけ。お前のやっていることを承知で、自由にさせていたんだ」
 驚愕に見開かれた登綺の目から涙が落ちた。
 それは自分のためだけに流す涙。
 知らずしらずのうち、献之は別の女の涙と比べてしまう。
「……なん、で? 男はわたくしを……愛さない?」
「己の栄耀栄華だけを求める女が愛されるわけはないだろう」
 最後の最期まで、登綺は献之を呆れさせた。
 男に媚びへつらうその過剰な欲望は、顔にも声にも品なく滲み出ている。こんな女にひっかかるのは、王都ではべらせていた男共のように、財産目当ての卑しい者だけ。情事を好む先王でさえも、この女には見向きもしなかった。
「お前は醜いな」
 その呟きが届いたかどうか。
 登綺はすでに息をしていなかった。
 やり場のない怒りをもて余し、献之は立ち上がる。
 六骸の柄を両手で握り、容赦なくそれを登綺の片目に突き刺した。登綺の〝目〟を父に手向けるために。
 そうしても尚、時は戻らない虚しさに耐えながら……。

 ドサリと重い音がした――ような気がした。
 瑶が賊を斬り倒したのだろうと、紘里には察しがついたが、その瑶の広い背にかばわれていては状況が見えはしない。耳をふさいだまま茫然と立ち尽くしていると、瑶が振り返った。
 不思議なことに、その手に先程の水の刀剣は握られていなかった。瑶の身体も返り血で汚れていることはなく……
「……瑶、……あの」
 普段とかわらぬ顔で近づいてきた瑶は、恐怖に震える声で尋ねた紘里を、長い袖で隠すようにして歩きだす。
 瑶がなにか言ったようだが、紘里には聞こえない。すると、瑶に手首をつかまれた。
「お前、いつまで馬鹿正直に耳をふさいでいるつもりだ」
 なるほど、瑶の声が聞きとれなかったわけだ。
 紘里は口唇を尖らせた。
「だって瑶が、もういい、って言ってくれないから」
 たくさんのことがありすぎて、紘里の頭は未だ半分も回っていなかった。
「もういいって言ったのに、聞いていなかったのはお前だろう」
「耳をふさいでたら聞こえるわけないじゃん!」
「アホか。口唇を読め」
「はあぁぁぁ!? なにそれ? 読唇術なんてできるわけないでしょ、それとも屁理屈?」
 くすりと、瑶が柔らかい笑みを洩らした。
 それで紘里は、瑶なりにこの場を和ませようとしてくれているのかな、と思った。
 背をやんわりと押してくれている、瑶の掌が心地いい。
 その手の感触に、やっと紘里は、瑶のもとへと帰れたのだと実感した。つと、瑶が足を止める。
「? ……どうしたの?」
 返事をもらえぬまま、天に掲げるようにして瑶に高く抱え上げられた。
「見てみろ、雪だ」
「うっそ!? うっわぁぁぁ、ホントに雪だ!」
 すくうようにして掌を差し出せば、雨が雪にかわりつつあった。
 どうりで冷えるはずだと、紘里は夜空を見上げる。季節は夏に向かっているのに、雨季に雪が降るなんて前代未聞の一大事だ。しかし、そんなことはどうでもよくなるほど、降る雪は美しく目を奪われる。
 それは人の純潔を結晶にしたようなほどの、眩い白。
「この雪、しっかりと目にやきつけておけ」
「んん、なんで?」
「いつか必ず、この夜を想うときがくる。お前にはこの雪を愛でる資格があるんだ」
 いつも謎々みたいなことを口にする瑶だが、今のは、いつも以上に謎めいていた。けれど、それを追求するのは後日にして、紘里は瑶の首に両腕を回して縋りつく。
 今夜の惨劇を少しだけ忘れて、今はただ、静かに瑶と雪を眺めていたかった。

 回廊を歩いていた献之は、その眩さに足を止めた。園林のほうへと首を巡らせれば、雪が降っている。……驚いた。本当に、風水師の言ったとおりになったのだ。
 その風水師は池の向こう側で、紘里を抱き上げている。
 二人を見つめながら、献之は父との今生の別れとなった日を想った。

 あと少しで王都の隣郡・大理(だいり)を出られる、そんなときだった。
 先王に差し向けられた軍の追尾をかわすため、行軍を止める余裕もなかったはずなのに、父・禄山はわずかな休息をとったのだ。
 献之は、父に呼ばれた。
「同輩の史惟明を巻き込んでしまった」
 父が言った。
 この数日後、中軍将軍であった惟明は、先王の計略にかかって毒殺されることになる。
「麾下までが私の無実を信じて付いてきてくれている」
 このときすでに、楊貴妃との密通の噂は流れていたのだ。先王はたかが女一人を寝取られた程度で怒り狂い、禄山を討伐する命を下していた。
 正直、献之は父を疑っていた。父はその相手、楊太真を連れて逃げてきたからだ。関係ないなら見捨てればいいものを、噂のもととなった女を連れて逃げるなど、許せなかった。
「いくら悪政が続いたとはいえ、将軍職を賜った王陛下に叛旗をひるがえすなど……無念だ。しかし私を信頼してくれている王師二軍を裏切ることは最早できない」
 王師右軍に属する者たちは、泰家の邸が火攻めに遭ったと知るや否や、すぐさま集結して泰右軍を護った。先王の御世に反感をもつ者がほとんどだったこともあり、挙兵は素早かった。
 これに呼応して惟明も挙兵した。そんな王師二軍と王の狭間で父も苦しんでいたのだ。けれど、あのときの献之は子どもすぎて、到底父の苦悩を理解することはできなかった。
「この先、戦は更に激しさを増すだろう。これ以上、お前を巻き込みたくない。お前はここに残るのだ」
「……あの御方はどうするのです?」
 楊貴妃のことを言外に献之が訊けば、父は連れていく、というふうに頷いた。
「父上は私よりも、あの御方をとるのですかッ!」
 まだかばうのかと、献之は本気で頭にきたのだ。
 しかし父は子の非礼を責めることなく、その場に膝をついて献之の顔を覗き込んでくる。
「あの御方の腹にはお子が宿っておられるのだ。……子に罪はない。お子は紛れもなく王家の血筋。王家を護ることこそ私の使命、ゆえに楊貴妃をお護りせねばならない」
「……そんな、どうして父上ばかりが」
「お前にはつらい想いをさせる。すまない、献之」
 そう言って父は、腰に佩いていた六骸と、一枚の紙片を献之に持たせた。
 そのときに気づいた――父の目があらぬ方向を見ていたことに。
「……父上? ……もしかして、目が……?」
 父は献之を抱き締めながら、「黙っていてくれ」と耳許で懇願した。「どうやら邸の火攻めのときに煙で目をやられたようだ」と、献之の肩においた手に力をこめる。
 おそらく、視力の弱まった状態では一人息子を護りきれないと踏んで、献之を手放すことにしたのだ。
 献之は悔しくて堪らなかった。
 父を堕落させたあげくこんなふうにしたのは、あの女。平穏な生活をブチ壊した、楊貴妃が憎くてしようがなかった。
「私は決して悔いていない。お前も悔いのないように生きるのだ」
 それが父との最後の会話。
 今生の別れ。
 最後に差し出された父の掌の温もりが忘れられない。その温もりを手繰り寄せるようにして、今日まで必死に生きてきた。
 父の遺言のとおり、悔いの残らないよう生きてきたのだ。

 献之は園林に降る雪を見つめた。
 泰家の邸が火攻めに遭った夜、それは父が楊貴妃を後宮から逃した夜でもあった。
 だからあの日、楊貴妃も邸にいたのだ。
 燃え盛る火に、献之が怯えて駆け出したとき。その楊貴妃が転がるようにして目の前に現れた。
 ――ごめんなさい。あなたを、巻き添えにしてしまって。
 あの、宝珠のような美しい涙を、献之は未だに忘れることができないでいた。それは父の掌の温もりを忘れられなかったのと同じに。
 楊貴妃は、炎の中で献之を必死に護ろうとした。自分の綺麗な髪が火に燃えるのも厭わずに、幼い献之を腕の中にかくまって逃がそうとしてくれた。自分も恐怖に震えているのに、それをおくびにも出すことなく、「あなたとお父様は生きなければなりません」と、気丈に繰り返していた。
 楊貴妃は嘘偽りなく、本心から助けようとしてくれたのに……。
 献之はその後広まった噂のほうを信じて、長く楊貴妃を恨んでしまったのだ。自分のためでなく、泰家のために流してくれた純粋な涙を否定してしまった。
 そうして父との不義をも疑った。
 父上、楊貴妃、……どうか愚かな俺を赦してください。
 献之は雪に縋るようにして目を伏せた。
 カッと目の奥が熱くなり、どうしていいかわからぬままに涙を零した。
 泣いても赦されないことは承知している。
 けれど、……今だけは、涙を堪えて早く大人になるしかなかった分、子どもに戻って泣きたかった。

 乱が勃発した、その一年の後。
 江州と恵州の境付近で父が討たれたと伝えられた日も、こんなふうに雪が降っていた。
 真っ白の、鵞毛のような、優しい雪だった。
 二人の無実を証明するような――それはまるで、雪冤の雪。

 父上、楊貴妃、……今宵、あなた方の潔白は、ここに確かに示されたのです。









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