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第二景 その正体は

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第二景 その正体は

     1

 永氏の邸に滞在して、三日目の夜。
 小さな灯りのともる手燭を片手に、夜着姿の紘里は扉を叩いている。しばらくすると、なんの返事もないままに扉が開けられた。
「や、……あ、あのさ、そろそろマズいかなって」
 どもりながら紘里が告げても、房室の主は仁王立ちに突っ立っているだけ。
 紘里としては、邸の人間に見られるのはよろしくないと焦っているので、早く房室に入れてもらいたいのだが、房室の主である瑶はぶすっとしていて扉から退こうとしない。
 瑶はタレ目だ。だから微笑するだけですごくイイ人に見える反面、タレ目が不機嫌を露にすると滅茶苦茶怒っているように見えて、更に倍、怖い。――というか、今宵は怖すぎた。
「ええっとぉぉぉ」
 不機嫌の理由はなんとなくわかるような気もした(わからないような気もする)ので、なにを言えば房室に入れてくれるのか、紘里はとっさに思いつかないのだ。
「私が浅はかでした、申し訳ありません」
 これは紘里の声ではない。若干棒読みではあるが瑶が言ったのだ。
傍若無人な瑶が謝るなんて! ――そう紘里が呆気にとられていれば、瑶は続けて、
「と、詫びれば房室に入れてやらんこともない」
「ンな、……はあぁぁぁ!? あたしなにも悪いことしてないじゃないっ」
「こんな夜更けに上目遣いで人の房室の扉を叩いた時点で、悪いことをしたと自ら認めたようなものだ。この愚か者がッ」
 くっ、と紘里は息をつめ、敗北を認めた。
「わ、わ、わかったわよっ。あたしが悪かったから房室に入れてくださいぃ」
 すると瑶は、トドメの一発とばかりに睨みつけてから、紘里に背を向ける。入室を許されたことに心底ホッとして、紘里は周囲の廊下をうかがいつつ房室に足を踏み入れた。
 瑶の房室は、ここから少し離れた紘里に用意されたものと大差なかった。
「やっぱさ、……句容より許昌は暑いよ……ね?」
 雨季の季節は肌寒いとはいえ、季節は夏に向かっている。冬の寒さほどではなく、許昌の雨季は句容のそれと違い、湿気で蒸す日があったのだ。
今夜がそうだった。
 とにかく早く(、、)して(、、)ほしくて(、、、、)、紘里はとっとと本題に入ったのだが。瑶は腕組みしたままで、紘里を見下ろすばかり。そんな瑶の白髪は、灯りを浴びてきらきらと輝いていた。
 舜国の者の髪は、黒か茶か赤で歳をとれば白くもなるが、瑶のように銀糸の如く光る髪を紘里は未だに見たことがなかった。瞳の色も黒か茶なのに、瑶の双眸は灰褐色。不思議な色だなと、まじまじと紘里は見つめてしまう。 そんな紘里に、瑶が静かに告げた。
「私は恵侯に房室は一緒でかまわないと言った」
 それは紘里も聞いていたので、返す言葉はなにもない。
「私は恵侯に房室は一緒でかまわないと言った」
 しつこく二度も瑶に繰り返されて、ここ三日の不機嫌の理由はこれだったのかと、紘里は潔く謝ることにする。
「ごめんなさい。だから抱っこしてくださいっ」
 観念した紘里が頭を下げた瞬間、細い身体がふわりと浮いた。一気に天井が近くなって安定しない身体に怯えるものの、瑶に姫抱きにされているのなら不安も吹き飛ぶ。
「冷たくて気持ちいい」
 瑶の首に腕を回し、その肩口に顔を埋めると、瑶が「莫迦(ばか)者が」と低く呟いた。

 実は、紘里は雪女なのだった。
 そして瑶は雪男。
 なんでこうなったのかといえば、それは十六年前まで遡ることになる。
 生まれたばかりの紘里は、馬嵬山に捨てられていたのだとか。これを見つけたのが瑶なのだが、彼が見つけてくれたとき、すでに紘里は死んでいた。瑶は散々迷ったものの、赤子を埋めるのはしのびなくて、うっかり生命を分け与えてしまったという。
 そうして紘里は雪女として、この世に生き返ったのだった。
 しかし生粋の雪女ではない紘里は、生粋の雪男である瑶の身体から冷気を分けてもらえないと、身体が腐ってしまうのだ。なので、寝るときは毎夜、瑶にひっついて眠っていた。
 十二の歳の頃、近所のおばさんと世間話をしていて、なんの話の流れからかおばさんに「女の子は好きな男としか一緒に寝ちゃいけないんだよ」と言われ、紘里は悩んだ。瑶は好きだけど、なんとなくおばさんの言った「好き」とは違う気がしたのだ。
 ちょうどこの頃、周囲の人間と大差ない自分は本当に雪女なのかと疑っていたこともあって、「今夜からは瑶と一緒に寝ない!」と堂々と宣言し、紘里は一人で床に転がって眠ることにした。家に臥牀(しんだい)は一つしかないので、瑶が臥牀で寝れば、紘里は床に転がるしかなかったのだ。
 十二といえばそれなりに歳頃で、男女ひとつ屋根の下で暮らすのも、何気に気恥ずかしくなっていたのもあった。そんな紘里の乙女心も知らず、瑶はかわらずぶっきらぼうに「好きにしろ」と言って、大人気なく臥牀を独り占めして、とっとと寝てしまう毎日だった。
 そうして三日が過ぎたのだが……。
 三日目のその夜は、季節はずれの雪がやんで大気が澄んでいた。満月ということもあって、木を組んだ格子の隙間から明るい月の光がさらさらと洩れてきていた。寝つけなかった紘里は、その月明かりに触れてみたくて手を翳して動きが止まり、目を見開いた。
 指先から肘のあたりまで、肌が赤黒く変色していたのだ。ぎょっとした。
 慌てて半身を起こし、身体を確認する。見れば膝下も同じように変色していた。
 なんだこれ! ――なにが起こったのかと指で触ってみたけれど、いつもと感覚が違う。ふにゃっとしていて、指も、触れた足も、それ以上動かせば皮膚の一部がぽとんと落ちそうになっていた。身体が腐ってきていると理解するまでに、そう時間はかからなかった。
 ホントに雪女だったんだ、と理解したときには遅くて、どうしたらいいかと泣きたくなった。瑶には言い切ってしまった手前、起こしてすがることもできなくて、そのままの恰好でぶるぶると震えていた。その震えだけで、皮膚ははがれそうにたるんでくる。
 心細かった。身体がどんどん熱をもって腐っていくようで、堪らなく怖かった。人じゃないんだとわかってしまったのも淋しかった。夜の闇が余計に気持ちを追いたてた。
 助けて――心の中だけで何度かそう呟いたとき。ふっと視界が翳った瞬間に、紘里は高々と抱き上げられていた。
「不細工な顔でびーびー泣くくらいなら、さっさと起こさんか馬鹿たれめ」
 抱えてくれている瑶が、耳許で囁く。それは初めて聞く低い声だった。
 瑶の身体の冷たさが、そのときは心に沁みた。この人が傍にいる限り生きていけるんだと思えば、次から次へと感謝の念が溢れてきて、紘里はとても心強かった。こんなときでも平然と「不細工」と罵って普段は意地悪でも、頼って本気で助けてくれるのは瑶しかいないんだ、と実感した。
「瑶、ごめんなさい」
 身体が腐る苦しみから救い上げてくれるのは瑶だけだ。
 この人しかいないのだ。
 その冷たい腕に囲われて「ふがふが」泣き続けていると、瑶がひとつ溜め息をつく。
「お前は私から離れられない。憶えておけ」
 そう言った。
「これは運命だ。逃れられない宿命だ」

 あの夜から四年経ち、身体の腐る恐怖が薄れてきているからか、なにが逃れられない宿命よ! ――と思ってしまっていた紘里は、甘かったのかもしれない。
 いや、甘かったのだ。
 許昌行きが決まってから瑶が不機嫌だったのは、北の句容から南下すればそれなりに気候がかわるのは当然のことで、身体の腐蝕を憂慮していたからだろう。生粋の雪男である瑶はどこにいても平気らしいが、紘里はそうはいかない。実のところ紘里は、「琅邪郡から出るな」と厳しく躾けられていたし、「許昌でも私の傍を離れるなよ」としつこいほど申し渡されていた。
 とはいえ、それなりの歳の男女が一緒の房室に寝泊りすれば絶対に誤解されるので、永氏の邸では房室を別々にしたのだ。しかし結果がこれだった。
 ――下僕は私から離れられないのですよ。
 瑶が恵侯に言った言葉は、(下僕は余計だが)真実なのだ。
「三日が限界だ。これで頭の悪いお前にも理解できただろう」
 牀榻に横たわる紘里に添い寝して、腕枕をしてくれている瑶が言い放つ。
 たぶんそうなんだろうなと、紘里も思っていた。四年前も三日が限度だったのだ。けれど今(、)の(、)紘里(、、)に(、)とって(、、、)、三日が限界という現実はかなりな問題だった。
「人前で腐られたら、さすがの私もかばいきれん。これ以上、阿呆なことはするな」
「んぁ、……うん」
 腕枕をしてくれている腕の、ちょうどいい位置を探して紘里がもぞもぞしていると、さらりと瑶の髪が垂れてきた。いつもの癖で一房を指にくるくると絡め、瑶の顔を覗き込む。
「その間抜けた面(ツラ)はなんだ?」
「仕事は順調?」
「私がヘマをやらかすとでも思うのか?」
 思わないけど、間をもたせるために訊いてみただけだ。瑶の髪を指に巻きつけてもてあそびながら、紘里は彼の双眸を見つめた。
 この灰褐色の双眸に、一人だけ映しだされる自分を見るのが紘里は好きだった。十六年前にも、こうして瑶の目が自分を見つけてくれなければ、紘里は今、生きていることはなかったのだ。一度は死に、生まれなおした命であるからこそ、たとえ雪女としてでも精一杯生きてみたかった。それが育ててくれた瑶への恩返しになるだろうから。
「そんな目で見るな」
 瑶が目を細めた。
「そんな目って、どんな目よ?」
「……お前の目はきょとんとしているからな。目玉が落ちそうになっているんだ」
 目玉が落ちそう? ……って、
「ひょええっ!? ちょ、やだ、なに? 顔が腐ってきてるってこと!?」
 紘里が焦って顔に手をやれば、瑶は「冗談だ」とくすりと笑った。
 気のせいかもしれないが、添い寝してくれる瑶はちょっとだけ優しくなる。今も彼の片手が、するりと紘里の頬を撫でていた。
「太平の世とはいえ、貴族の邸の造りは複雑だ」
「ホント、迷いそうだよね。でも、なんで?」
「政敵にいきなり攻められても、奥まで入り込めないような造りになっているんだろう。邸の増設の手助けを頼まれた私でも、立ち入れない場所が多い」
 急襲されても逃げたり隠れたりできるようにするため、ということだろうか。
「からくり邸のようなものだ。お前、用心しろよ」
「なんでよ?」
「馬嵬山で迷子になって、洟だらけで泣いていたのを忘れたのか。あの顔は汚かった」
 いつの話ですかっ――と紘里が怒りにまかせて暴れる前に。
 背を撫でおりた瑶の腕に、なだめるようにして腰を引き寄せられた。

     2

 延之の話し相手を順調にこなしていた紘里ではあるが、何分、その延之は忙しい身の上だ。時間をもてあます紘里は、午前は瑶と自室の掃除や洗濯を手伝わせてもらい、午後の早い時刻は読書にあてていた。「書物は高い」と聞いた延之が気を遣ってくれたのか、どこからか書物を借りてきてくれて、ここ数日は紘里の好みのものを揃えてくれている。
 ――掃除も洗濯も下僕がしますので。
 結局はその瑶の言葉どおりになってしまい、ちょっと悔しい紘里だった。
 今日も今日とて書物をぺらぺらと捲っていて、ふと紘里は思いついた。せっかく書家の献之と同じ敷地内にいるのだ。思い切って、話しかけてみようか……。
 迷子になって恥をさらすなと瑶に言われた手前、ふらふらと一人で歩き回ることを紘里は遠慮していた。なので、挨拶をして以降、献之とは顔を合わせていなかった。
 延之と歩いた所なら迷わないだろうと回廊を歩いていると、園林の脇の茶房(ちゃしつ)のようなところに献之が座っているのを見つけた。だらりと片足を池のほうへと垂らして、のんびりしている。忙しくなさそうかなと紘里が近づいていくと、なにやら献之の呟くような声が耳に届いた。それは少しかすれているが、低くなるにつれて伸びやかな声音だった。

 花開不同賞 花開くも同(とも)に賞(め)でず
 花落不同悲 花落つるも同に悲しまず
 欲問相思處 問わんと欲す 相思の処
 花開花落時 花開き花落つるの時

 五文字から成る句で構成された詩を五言(ごごん)詩(し)という。おそらくは恋心を詠んだもので、切ない五言詩だなと紘里の足は知らずしらずのうちに止まってしまう。
 献之の口ずさむ詩は心を震わせた。空から降る雨粒が涙に見えてきて、大気が泣いているように感じられた。
 雨音の似合うその詩を耳にして、出直そうかと踵を返しかけたとき。
献之が振り返った。
「紘里師」
 師とからかうようにして言った献之が、口許に笑みを浮かべた。
 馬嵬山での出逢いの際にも思ったが、彼の表情は乏しい。眦の切れ込んだ目許が特徴的なせいもあって、笑顔でいてもその感情は読みとりにくいものがある。
「師……なんて。紘里でいいです」
 そう紘里が言えば、垂れた黒髪を揺らしながら、献之が隣に座るよう勧めてくれた。紘里と同じように顔にかかる部分の髪を後ろでとめているが、とめているのは紐ではなく、銀細工の美しい簪だ。
「俺も名のままでいい。馬嵬山では世話になってしまって」
「世話だなんて、……あたし、なにもしていないのに。太原、見れなくて残念だったね」
 一度逢っている気安さからか、貴族に対して砕けた口調になってしまう紘里だった。
 それをとがめるふうもなく献之が「ああ」と呟いたとき、池の魚がぱちゃんと跳ねた。
「暇つぶしに太原で書でもかこうかと思ったんだよ。まあ、また行けばいいさ」
 貴族が暇つぶし? ――そう首を傾げる紘里に、献之が苦笑する。
「俺は仕官してないんだ」
 紘里は目を瞠った。
 職業選択の自由がないこの時代、官僚となることは、生まれたときから貴族の男に与えられた運命だ。
庶民は官吏となることができず、貴族は貴族だけで形成される輿論(よろん)(これを清議という)によって推挙され、それぞれの位に応じて官職に就くことになる。
 九品(きゅうひん)中正法(ちゅうせいほう)という官吏任用制度であるが、各州郡におかれた中正官が人物の品評を九品に分けて推挙するものの、一人の中正が貴族の資格審査を行っていくのは至難の業で、中正は清議を参考にして、貴族はそれぞれの官職に推挙されるのだ。
 仕官していないということは、輿論の評判が悪かったのだろうか? ――なにを言うべきか、目を回すようにしてぐるぐると紘里が考え込んでいると、再び献之が苦笑した。
「誤解しないでくれよ、推挙はされたけど断ったんだ。今も断り続けてる」
「……あ、そうなの。でも、なんで?」
「運命に逆らってみたかったのかもな」
 呟くように言う献之は、遠くの雨雲を見つめている。
「俺は州侯の息子だろ? 州侯は世襲制だから、このままいけば俺は将来州侯だ。でも、より州侯に相応しい人間がいるのなら、そっちに譲ったほうがいいと思わないか?」
 正直、紘里にはよくわからなかった。どんなに努力しても庶民が官吏になれることは絶対にないので、官界というものがバッサリと頭から抜け落ちている。
 けれど、ひとつだけわかったこともあった。
「譲るって、延之くんに?」
 懸命に延之が勉強していることは、傍にいる紘里には伝わってくる。その小さな身体には青痣もできていることがあって、武術の鍛練も日々努力しているのだろう。
「うん、……あれは優秀な弟だ。それもあるけどね」
 延之もそうだったが、この兄弟は互いの存在を話すとき、ためらいのようなものがでる。
「俺が興味あるのは書だけなんだ。そっちを究める時間がほしい。片手間に官吏をやるなんて、州の復興に尽力してくれた民に失礼だと思わない?」
 紘里は目をしばたたいた。
 恵州の役人は比較的能吏が多いが、州によっては未だ安逸をむさぼって民を虐げ、私腹を肥やすのに夢中な官吏も多いと聞く。献之だって、書の道に明け暮れながら官職に就くこともできるのに、その行為を恥ずべきことと捉えているのだ。
 永氏の治める恵州って本当にいいところなんだなと、改めて紘里は思った。

 回廊の途中で立ち止まり、瑶が園林を眺めていると、恵侯に声をかけられた。
「これは風水師殿。こちらでの生活はいかがですか、不自由などありませんか?」
「いいえ。みなさんは私の質問に的確に答えてくれるので、お役目をまっとうするのに助かっています」
 恵侯は破顔する。
「失礼ですが、この時刻は州城においでになるのでは?」
 常々気にかかっていたことを、瑶は訊いてみた。執務をする州城は邸から近いとはいえ、ここ数日、恵侯の戻りは早いのだ。
「はは、政事をおろそかにしているわけではありませんよ」
「……申し訳ありません。そういう意味では」
 かまわないというふうに、恵侯が片手を振った。
「妻が王都での生活を望んだので、これまでは別々に暮らしていたのですが」
 それも妙な話なのだ。しかしそこは、あえて訊かない瑶だった。
「今年の年賀の折に、王陛下にそのことを衝かれましてね」
「……はあ」
「お前は仕事ばかりしているから、妻は王都住まい、息子は出仕もしないと王陛下に言われたのですよ。民に心を配るのもいいが、もっと身内に目を向けろと。なるほどな、と思いました」
 恵侯も、瑶の見ていた方角へと顔を向けた。
「その際に陛下から、少し休みをとったらどうだと――まあ、申しつけられたのです」
「休み、……ですか」
「というわけで、私は今、休暇中なのです」
 言葉とは裏腹に州城へ出向き、それなりに執務をこなしている様子だった。
「……あの二人」
 言いさした恵侯の視線の先には、紘里と献之が並んで座っている。
 瑶もそれを見ていたのだ。
「あの二人を見ていると、若き日を思い出すのです」

 池の魚を目で追っていた献之が、体勢を崩して池に落ちそうになった。隣に座る紘里のほうがぎょっとして、必死で彼の二の腕をつかむ。馬嵬山でも崖から落ちたことといい、この人は運動神経が鈍いのだろうか? 紘里は腕をつかんだまま、ぜいぜいと息を切らす。
「ちょっと、危ないじゃない!」
「ああ、ごめん」
 当の本人は、まったく呑気に笑っている。
「風水師殿だけど」
 献之が脈絡もへったくれもなく話題をかえた。
「二人は兄妹?」
「へ? なんで?」
「いや、厲という姓からして兄妹なんだろうけど、……その、さ」
「似てない?」
 紘里は笑う。
 瑶は白髪だけど見目麗しいイイ男なのは承知しているので、血のつながりを疑われるのは仕方ないのだ。紘里は冗談でも美人とは言えないから。
「あたしね、拾われっ子なの」
 献之が目を見開いた。
 拾われた顛末をかいつまんで話すと、献之は「ん?」という顔をした。
「なら、風水師殿が紘里を拾ったのは十代の頃?」
 ヤバっ、と紘里は慌てる。
 歳を逆算すればそうなるし、もともと雪男は歳をとらないんだろうと勝手に解釈していたこともあって、容姿のかわらない瑶を自然と受け入れていた紘里ではあるが、他人から見れば怪しすぎる話だ。冗談でも「雪男だから」とは言えない。うぅ、どうすれば……
「……ええっと、……その、瑶の巫祝としての腕は若い頃から優れていたから」
 と、曖昧にもほどがある答え方をしてしまう紘里だった。
「ふうん。……で、紘里も巫祝を目指すのか?」
 聞き流してくれた献之を心中で拝みつつ、紘里は隠れて息をついた。
「ん、それがね。やっぱり、いつまでも瑶に頼るのはいけないと思うのよね。だからあたし、一人暮らしをしてみたいの。それには当面、一人で生活するお金がいるじゃない? そういうのもあって、今回も瑶にひっついて許昌まで出てきたんだよね」
 三日で身体が腐ってしまうことを考慮するなら、このまま一緒に暮らすほうが便利だとは紘里にも理解できる。けれど紘里は気づいてしまったのだ――瑶が独り身でいるのは、自分が傍にいるせいではないか、と。
 なんせ瑶はイイ男だ。それに生粋の雪男である瑶は、普通の人間と違いはない。おそらく結婚できるはずだ。ならばもう、瑶を自由にしてあげたい。
 延之の話し相手としての仕事がうまくいけば、給金をくれると瑶は約束してくれた。これを元手にして、どこかに家を借りられたらいいと、紘里はずっと考えていた。
「今のあたしの目標は一人で暮らせるようになることなんだ」
「その志は立派だけど。……家族はね、一緒に住んだほうがいい」
 池で羽を休めていた鳥が飛び立つのを眺めて献之が言う。
 そんなものかな、と思った。
 そして献之と話した紘里は、生きるうえで最も重要なことを失念(、、)していたと、ハッとさせられたのだった。

 紘里が献之の腕をつかんだのを見て、瑶はいささかおもしろくなかった。こめかみに浮いた血管がぶちぶちとはち切れる音がする。園林の石をとって投げてやりたい衝動に駆られたが、恵侯の手前それはできない。睨んで呪殺というものができるなら、全力で試してみたい気分だった。
「邸を見せていただきましたが、恵侯の住まいにしては護衛官が少なくありませんか?」
 気をとりなおすようにして、瑶は訊いた。
 州侯は州師軍を掌握する。本来であれば、その武官が邸の護りを固めている。
「そうかもしれないですね。ですが私は、家にまで仕事をもって帰るようで、官に付き纏われるのは好かないのですよ」
 太平の時代であれば、それも許されるのだろうと瑶は思った。
「ここだけの話、家のことは息子の献之に任せきりだったのです。あれは華美を好みませんからね。おかげでのんびりできます。今回、邸を増設すると私が言いだしたときも、風水師殿をお招きして見てもらったらどうかと助言してくれたのは献之でして」
「はあ、……献之様に」
 話の途中で、その献之と紘里の姿がちらちらと視界に入り、瑶はムカムカしていた。
 すると恵侯が、脈絡もへったくれもなく話題をかえた。
「風水師殿は馬嵬山の麓にお住まいでしたね? 馬嵬山を越えれば太原です。太原には天地を創世した神が住んでいるのでは?」
「…………は?」
 いきなり恵侯に問われ、瑶は素っ頓狂な声をあげた。

     3

 四季折々の花が植えられた園林を眺めながら、紘里は回廊を歩いていた。
「それにしても延之くんのおうちって広いわよねぇ」
 紘里を先導するようにして手を引いてくれている延之が、「そう?」と振り返る。
「紘里のおうちはもっと狭いの?」
「う、うーん、……あたしの家だけじゃなくね、庶民の家は狭いんだよ。造りはだいたい同じで、起居(いま)が一つ、臥室(しんしつ)が二つ、厨房(だいどころ)が一つだね。あたしのところは臥室の一つを、瑶が薬を煎じる房室にしているのよ」
「おへやが三つしかないのか。王都のおうちもここと同じくらいだったから……」
 延之が言いかけた途中で、目指していた四阿に着いてしまった。
 王都のおうち? ――と紘里が尋ねる前に、にこにこと延之が口を開いた。
「今日はね、盤古(ばんこ)真人(しんじん)のお話がしたい」
「万物の元となって天地を創世したという神様のこと?」
 日々学問に取り組んで疲れているのか、延之は、神話のような民に流布している気軽な話を好む。紘里にせがむのは、ほとんどが物語のようなものだ。
「混沌の中から盤古が生まれると、それがきっかけになって天と地ができたの。やがてその盤古は死んでしまうんだけど、息は風と雲に、声は雷に、左目は太陽に、右目は月になったのよ」
 延之は楽しそうに聞いている。
「流れる血は河川に、肉は土に、髪と髭は星に、体毛は草木に、歯や骨は石に、汗は雨になったの」
「手足とからだは山になったんでしょ? 太原には、そのからだが復活して盤古真人が住んでるっていうけど、ほんとかな?」
 延之の言葉が、紘里には意外だった。
 舜国の者は、生きているこの瞬間に願いをかなえたいと望む。よって、呪術を扱える巫祝に金を積んで願いをかなえてもらうか、福禄寿を保証してくれる仙人の廟に祈りを捧げるかだ。
 其は現世(げんぜ)利益(りやく)。
 いくら天地を創世したという格式の高い神であっても、願望をかなえてくれない神は人々から慕われず、忘れられていく。その忘れられた神である盤古真人の存在を信じるような発言を、貴族の延之がしたことが、紘里には驚きだったのだ。

 永氏の邸に入って以降、雨はしとしとと降り続いている。
 なかなか乾かない洗濯物を取り込んで抱えながら、紘里は柄にもなく溜め息を吐いた。
 何日か前に献之と話してから、気持ちはズドンッと落ち込みっぱなしだった。一人暮らしを目標に意気揚々と許昌に来たものの、紘里は重要なことを失念していたからだ。
 念願かなって一人暮らしができたとしよう。
 じゃあ、そのあとは……?
 今は瑶が巫祝をしているからご近所が食べ物をくれるので不自由しないが、一人になれば当然、食べ物は分けてもらえなくなる。今までどおり畑を耕すにしても、一人ではそうそう収穫できるものではない。ならば金を稼ぐしかないのだが。
 献之は貴族なのに出仕していないという。やっぱり貴族ってお気楽でいいなと紘里は羨んだものの、献之は自分の書を売って収入を得ているのだ。やることをやっている献之と紘里では、根本的に違っている。
 なにか職を見つけなければ、一人暮らしをしても野垂れ死ぬしかない。身体が腐るよりもこっちのほうが問題だ! ――抱えている洗濯物にぼすっと顔を突っ込む紘里だった。
「あたしのやりたいこと、……できることってなんだろう?」
 顔を突っ込んだままでもごもご呟いていると、突然に後ろから羽交い締めにされた。
「ふがっ、苦し――ぃ、って瑶!?」
 絞めている手が緩んだ隙に顎を上向ければ、紘里を見下ろしているのは瑶だった。
 本日もバリバリに目がタレている。
「前を見てみろ」
「は? なんで前?」
 見れば柱に激突寸前だった。
「あー、ごめん」
「お前はどれだけドンくさいんだ。ふらふらしているから腐りかけているのかと思った」
 言いながら、瑶の腕が腰に絡められる。
「ちょ、待、……冷やしてほしいけど、ここじゃダメ! 献之に見られるかもっ」
 途端に瑶が不機嫌になった。紘里を抱く腕にも力がこめられる。
「は? なんであの男がここででてくる?」
 トゲトゲしい瑶の声を紘里は無視する。目と鼻の先にある瑶の房室まで、背中にひっついたままの彼を、有無を言わせず引き摺っていった。扉を閉めてすぐ、紘里は憤慨する。
「だって誤解されたらどうすンのっ?」
「ふん、仲のいい主従と思わせておけばいいだろう」
「しゅ、……せめて兄妹にしてよッ。……や、でもさ、……瑶とあたしじゃ全然」
 似てないじゃん――と続けようとして、紘里はやめた。美形の瑶と比べて、哀しくなったのだ。顔がよくて、巫祝としてお金も稼げる、天から二物も与えられた瑶に、ちょっと嫉妬してしまう。
 悩める紘里の気持ちも知らず、相変わらず瑶は不機嫌そうにして片方の眉を跳ね上げた。
「今夜は三日目だ。必ず来いよ」
 三日しか離れていられないこの問題も、なんとかせねばならない紘里だった。

 いつものように、瑶の冷たい腕枕が心地よくて頬ずりしていたら、なんの気なしに五言詩を口ずさんでいた。
「その詩は?」
 顔に垂れた紘里の髪を後ろへ梳くようにして、瑶に尋ねられる。
「ん。この前ね、献之が詠んでたのを覚えちゃったんだ。なんとなく切ないよね、献之って好きな人でもいるのかな?」
 瑶が呆れたような顔をした。
「あの男に好きな女がいてもかまわんのか?」
「んん? 別に」
 気のせいか、瑶の機嫌がよくなった。
「お前がニブいお子ちゃまで助かった」
 と、わけのわからんことを呟きながら、「お子ちゃまってバカにしてるのっ!」との紘里の喚きをさらりと聞き流して瑶は続ける。
「その詩は六雄国の争乱時代に、女流詩家の薛濤(せつとう)が詠んだ五言詩で春望(しゅんぼう)という」
「うへ? 献之の作品じゃないんだ? 女流ってことは女の人ってことだよね?」
「そう、薛濤は才と美貌溢れる名妓だった。春望は、愛する者に相逢うことのできぬもどかしさと、片時も胸裡を去らぬ恋心を表した、秀逸な作品だ」
 訊けば、薛濤は貴族の娘だったらしいが家が零落して妓女になったそうだ。苦労した女人なのに詩才を謳われ、後世に名を遺すなんてすごいな、と紘里は尊敬してしまう。
 ここでも美貌をだされてちょっとやっきりしたものの、同じ女として、見習うべきものがあるなと紘里は思った。

     4

 邸内の気の流れ方を説明していると、不意に恵侯が話題を転じた。自然の発する気は人に影響するので重要な部分なのに、聞いているのかいないのか、恵侯はゆったりと笑っている。どうも先日から、恵侯のこういうところがひっかかっている瑶だった。
「延之は随分と紘里さんを気に入ったようで」
「……はあ」
「紘里さんから聞いた話を私にしてくれる延之は、とても楽しそうなのです。昨夜も破れた稽古着を自分で繕ってみたいと言いだしまして」
 貴族が縫い物とは――怒られるかと、瑶は身構えた。
「息子にとってはよい傾向です。なにせ着る物もタダではありませんから」
「……はあ、そう言っていただけると」
「ひとつ確認しておきたいのですが。風水師殿と紘里さんの姓は同じですよね?」
 似てないと言われるのは慣れているので、瑶が心の準備をしていると。
「二人、厲姓を名乗っておられるのは、つまり、結婚するつもりはないということですか?」
「!!?」

 延之は午後、武術の稽古がある。この時刻ならと紘里は、献之を捜して邸の中を走り回っていた。
どうして書家になろうと思ったのか、書家になるにはどれだけの苦労があったのか、訊いてみたかったのだ。
 なにしろ紘里の周りにいるのはフツーの庶民ばかりで、唯一天才肌である瑶は多くを語らない。許昌にいるうちに、才能ある献之とできるだけ接触をもっておきたかった。
 園林にいるのかなと、そちらの方向へ顔を向けていた紘里は、前から人が歩いてくるのに気づけなかったらしい。ドスンッとぶつかって、鼻がもげそうになった。
「うごっ、鼻がとれたッ!?」
「ああ、これは私としたことが。怪我はありませんか?」
 優しいその声は恵侯のもので、とれるわけもない鼻を押さえたままで、紘里は髪まで震えて固まった。
「や、えっと、あの……申し訳ありませんっっっ」
 一歩退がって深々と頭を下げれば、「いいのです」と恵侯にやんわりと肩を抱かれた。
「ずいぶんと急いでいたようですが、風水師殿に用事でも?」
「あ、……いいえ。献之……様を捜していたんです」
「献之を?」
「う、……ああっと、そのですね、書家の献之様は私の憧れでもあったので」
 捜していた理由をどう説明したらいいかと迷い、結局紘里は無難な答え方をした。
 すると恵侯は「ふうむ」と顎に指を添えて、考え込む素振りをする。
 その姿は、今日も全開に年齢不詳だった。
「では、献之のところへは私が連れていきましょう。ですがその前に、ちょっと寄り道してもかまいませんか?」
 肩に置かれていた恵侯の手が腕を滑り落ち、いつの間にやら紘里の手は、恵侯の掌に包まれていた。流れるような仕種は、思わず延之と重なってしまう。
 恵侯と延之の丸っこい目許はよく似ていた。
そういえば、献之だけが顔つきも人間性も異なっている気がする。口数の少ない献之は、どちらかといえば美男の部類に入るのだ。
 州侯のお誘いを断れるわけもなく、売られる牛のようにして紘里が手を引かれていると、回廊の反対側に、瑶と恵侯の妻の登綺が肩を並べて座っているのが見えた。
 どうやら登綺に茶を勧められているようで、その美男美女っぷりは傍から見ていてはらわたが煮えくり返るほど似合っている。登綺にしなだれかかられている瑶は、遠目にも満更ではない様子で、鼻の下を伸ばしているように目に映った。どうしたって男というものは美人が好きなんだなと、呆れてしまう。
 そういえば挨拶をしたとき、登綺の視線を感じたが、あれは自分を見ていたわけではなく、瑶をじっと見ていたのかもしれない、と紘里は思う。
 瑶ってば、へらへらしちゃってさ! ――と、内心でド突いたあと、紘里はハッとした。
 胸の奥がざらっとしたのだ。
 すごく嫌な気分だった。
 けれどそのことは、あまり考えてはいけない気がしていた。

「ああああのですね、恵侯、……こっ、これはなんでしょうか?」
「ふふ、私の趣味です」
 どんな趣味ッ!? ――とツッこめるわけもなく、紘里は相も変わらず恵侯に手を引かれて廊下を歩いていた。その恵侯はとある房室の前で止まると、扉を叩いて、返事を待つことなく開けてしまう。
 その房室にいたのは献之で、窓枠に片足をかけて外を眺めていた。片手には筆、片手には蚕繭紙(さんけんし)を持っているところを見ると、書をしたためていたようだ。
 貴族の邸の窓には薄い玻璃(がらす)が入っている。それらを開け放してあるせいか、房室には雨の匂いが満ちていて、湿気を含む緩い風が髪を揺らしていった。
「父上ですか、また勝手に入っ――ッ」
 文句のようなものを口にしながら振り返った献之の手から、ころんっと筆が落ちた。
 アホみたいに口を開けたままの献之は、紘里を見て固まっている。
「どうだい、息子よ? 私の趣味はなかなかのものだろう?」
 自慢げに恵侯が言っても、献之は応えることなく硬直していた。
 その射貫かれそうなほどの視線に耐え切れず、紘里はいたたまれなくなった。窓を飛び越えてトンズラしたかったが、恵侯に肩を抱かれているのでそれもできない。
 なぜなら紘里は今、恵侯の指示によってごちゃごちゃと着飾らされているのだった。爪は磨かれ、薄く化粧を施されて、結い上げられた髪には玉のついた花鈿(かんざし)をいくつも挿し込まれていた。
「……美しい」
 ぽつりと献之が洩らせば、恵侯も「そうだろう」と独り悦に入るように頷いた。
「本当に美しいです、父上」
 その褒め言葉は聞き違いではなかったようで、紘里は耳まで真っ赤になった。生まれてこのかた、そんな言葉を自分に向けられたことはなく、着ている物や簪のせいで誤魔化されているのだと承知していても、やはりこそばゆくて堪らない。
「お呼びですか、あなた」
 ちょうどそこへ、妻の登綺がやって来た。
 隣には瑶がいなくてなぜかホッとする紘里だったが、登綺のほうは驚いたように目を見開いた。艶めく紅唇がふるふると震えているように映るのは、気のせいだろうか?
 その微かな震えに恵侯も気づいたのか、
「安心しなさい。これはお前のものではないから」
 と言った。
 紘里は、あれっ? と思った。
 この邸にいる女は登綺だけなのに、では誰の衣裳なのだろう?
 顔を赤く染めたままで紘里が考え込んでいると、恵侯が続けて突拍子もないことを言う。
「せっかくだから献之、お前が紘里さんの相手をしなさい」
「ふがっ」
 思わず頓狂な声をあげた紘里は、慌てて両手で口を塞いだ。この恰好を見られただけでも顔から火を噴きそうなのに、気楽に世間話なんてできるはずもない。
「おや? 献之では役不足ですか?」
 とぼけた調子で恵侯に笑われ、紘里は首がもげそうなほどに横に振って否定した。
 そもそも献之と話がしたくて捜していたのは紘里なのだ。引き合わせてくれた恵侯には感謝するが、この状況はどうしたものか……。
 役不足なのはあたしですっ! ――そう反論したくても、今の姿が恥ずかしいせいか、舌がうまく回らないのだ。身体には汗が噴き出し、汗染みでもつくって汚したらと焦れば焦るほどに、ガチガチに緊張してしまう。
 これはなんの罰デスかっ! ――と内心で悲鳴をあげた紘里は、窒息で倒れる寸前になっていた。
「ほら献之も。早く来なさい」
 恵侯が手招きすれば、それにつられるようにして、頬を引き攣らせた献之が歩いてきた。
「雨の回廊を散策するのも乙なもの。さあ、若い二人で青春を謳歌してきなさい」
 青春を謳歌って……。あまりの恵侯の言いように、紘里が茫然とたたずんでいれば。
 先を歩き出した献之が、前を向いたままでゴンッと壁にぶつかった。かなりの音だったので、びくっとした登綺が、思わずといった様子で恵侯の袖をつかんだ。
「うっ、鼻が……とれた」
「鼻はそう簡単にはとれないよ。ほらほら息子よ、しっかりしなさい」
 つい今し方聞いたような会話を、ボケボケ親子が繰り広げている。
 既視感を覚えつつ、献之のとろくさい動きを見ていたら、紘里も落ち着いてきた。
「紘里さんに見蕩れるのは仕方ないけれどね。前はちゃんと見て歩かないと。お前はどこかヌけているところがあるから」
「ぬけ……はい、父上」
 落ち着いたものの、恵侯の言い回しはいちいち恥ずかしい。
「いいかい献之、男は女人の手をとって導いてやるものだよ」
 背後から事細かに恵侯の指示が入り、頬が引き攣りまくっていた献之も最後には苦笑していた。





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