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序 それぞれの邂逅

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 鵞毛のような、優しい雪が降っている。
 ここは北方の山を越えたその先に広がる、人の住まない原野。
 いつものように男は、果てのない白銀一色の雪原を散歩していた。幾月もかけて降り積もった厚い雪に足をとられることもなく、男はただひたすらに歩いている。男にはこれといってすることがないので、無心で歩くことが日課のひとつとなっていた。
 雪雲に覆われた今にも落ちてきそうな重そうな空には、降る雪にかまうことなく一羽の雀が飛んでいる。その色は青と金。時折、金色が雪に反射して、微かな輝きを放っていた。
 空を飛ぶ雀の輝きが近くなった気がして、男はふと立ち止まった。降る雪をたどるようにして空を仰げば、ちょうど雀が前方に舞い降りてくるところだった。
 珍しいこともあるものだと、男は思う。
 この雀は雪の積もった大地が苦手なのか、散歩のときは男の差し出した掌にしかとまらない。そんな雀に悪い気はしなかったので、男もそれをとがめることなく好きにさせていたのだが、今日はどういうわけか雪原に降りたのだ。
 けれど、雀の行動にそれほど興味があるわけでもないので、再び歩きだした男の歩調はかわらない。別段急ぐわけでもなく雀に近づいていくと、男は器用に片方の眉を跳ね上げた。そこに一人の女が倒れていたからだ。
 俯せで倒れている女は褞袍(うわぎ)を着ているものの、雪山に入るような恰好でもない。どうして民家のない雪原で倒れているのかわからず、女の事情に関してまったく興味がなくても、行き倒れている原因はわかった。
 空腹と凍傷だろう。
 すでに死んでいるかと、男は片膝をつく。
 覗き込んでみればなかなか若い女で、男は目を瞠った。女の下には、庇われるようにして赤子がいたのだ。どちらもまだ、生きていた。
 生まれたばかりのように見える眠る赤子と女を見比べていると、女が濃い睫を震わせて目蓋を上げた。絡み合った運命の糸をふりほどくようなその眼差しに、男の視線は知らずしらずのうちに吸い寄せられる。
「……この子を、どうかお護りくださいませ」
 たまゆらのような、さやかな女の声音。それはしかし、女の命がほどなくつきることを男に教えた。
「お願いでございます、……この子だけはどうかお見逃しを」
 男は散々迷い、結局は動かない。
 女の双眸に男が映っているのかも判断できないような死の淵で、女はいくつかを語った。
 そして最期に。
「わたくしのことはよいのです。できますことなら、あの御方をお助けくださいませ」
 女は男の声を一度も耳にすることなく、雪の中でひっそりと息をひきとったのだ。
 人の命が絶えても、想いを無視して雪はかわらず降り続く。
 それは葬送のように。
 あのときぽつりと胸に湧いた感情に、男が名をつけることのできぬまま。

 時だけがゆらゆらと流れていく――。

 琅邪(ろうや)郡の北側にそびえる馬嵬山(ばかいさん)に入って、半日が経っていた。
 左右を草木におおわれた山道は、ゆるやかな上り坂が続いていて馬に乗ったままでも踏み込んでいけるので、そう疲れてはいない。早春の柔らかな陽射しを身に受けながら、ひと気のない山道を青年はゆっくりと馬を進めていく。
 ふわりと吹き抜けた春風に額髪を煽られた直後、宙に舞うなにかが青年の視界をかすめた。それは青と金に輝くもので、なんだろうと青年は馬を降りる。
 生い茂る草にためらうことなく、青年は山道を逸れて山の奥に足を踏み入れた。しばらく歩くとそこは崖になっていて、さてどうするかと青年は崖の縁に立つ。
 先程の青と金に輝くものは、風に舞った花びらではないかと青年は思っていた。それにしても珍しい色のとり合わせだったので、どんな花なのか一目でも見たかったのだ。しかし見回してもそれらしい花はない。では崖に生えているのかと、青年は下を覗き込む。
 ほぼ垂直な険しい崖は、二階建ての建物よりも高さがあるような気がする。花はどこかと、更に身を屈めたとき、
「ちょっと貴方っ!」
 突然に声をかけられた。
 身をかがめたままで声のしたほうへ首を回すと、そこに一人の少女が立っている。互いの視線が絡んだ刹那、青年の中で時が巻き戻り、うかつにも崖の縁に立っていることを忘れて足を踏み出してしまった。
「うっ、わッ」
「ええっ、うそでしょ」
 叫んで走り寄った少女が手を差し延べてくれたものの間に合うはずもなく、青年は見事に落下した。

 ぶつけた背の痛みのせいで、しばらく青年は落下したままの恰好で動くことができなかった。やっとのことで半身を起こした頃、先程の少女が青年の馬の手綱を引いて捜しにきてくれた。
「貴方、大丈夫?」
 青年を見つけてすぐに駆け寄ってきた少女が、心配顔で覗き込んでくる。
「……ああ、平気のようだ」
 蒼ざめる少女は目を見開いた。
「あの高さから落ちて平気なんて、貴方よっぽど頑丈にできてるか強運のもち主なのね」
 つくづく感心したように言ってほがらかに笑う少女の手が、すっと伸ばされる。
「なんだ?」
 とっさによけた青年に、少女が「頬と手の甲に切り傷があるから」と言った。
「この桜草を傷にあてがっておけば、ちゃんと手当てしなくてもすむの」
「それ、……本当?」
「あ、疑ってる? あたしね、巫祝(ふしゅく)のところで働いてるから薬の知識はあるのよ。今日はね、春先の薬草をとりに来てたんだ」
 脇に置かれている籠の中を見せて、気分を害した様子もなく少女は笑った。
「巫祝って、呪術使いのことだろう?」
 巫祝といえば、仙人と同じ摩訶不思議の方術を扱える者のことだ。
「あー、まあフツーはそう思うのかもね。でも、うちの巫祝は現実的なことしかできないよ。薬草を煎じたり、占ったり、風水の助言をしたり。そっち方面の腕なら確かで、とくに風水はご近所でも評判なのよ」
「……ふうん」
「それで貴方、こんな僻地の山になにしに来たの?」
「ああ、太原(たいげん)を見たくて」
 桜草を片手に、少女が安心したような息をついた。
「なんだ、よかった。崖を覗き込んでいるから、あそこから飛び降りるつもりなのかって」
 どうやら少女は、青年が身投げするとでも勘違いしたらしい。
「馬が乗り捨ててあったから。ごめんなさい、もしかしてあたしが声をかけたから驚いて落ちちゃった?」
 青年は苦笑した。少女のせいで落ちたのだが、それは声をかけられたからではない。
 それにしても、と青年は首を傾げた。
 先程見たときは確かに似ていると思ったのに、傍で眺めてみれば彼女の顔はごく普通なのだ。
「太原ね、まだ無理よ」
「そうなのか?」
「もっと暖かくならないと。馬嵬山を越えた向こうは、たぶん、まだ雪が降ってるもの」
 ならば出直すしかないだろう――手当てをしてもらった青年は、おもむろに立ち上がる。
「……ねえ貴方、本当に平気? 実は骨が折れてました、とか言わないよね?」
 本気で心配してくる少女に、青年は心からの礼を述べる。なんとなく離れがたい気もして、怪我のないことを主張するようにして山道の途中まで少女を送っていくことにした。
 その別れ際。
 歩きだした少女が足を止め、振り返ったときの顔には、崖から落下した青年に手を差し延べてくれた刹那と同じに相手への想いが溢れていて、青年は忘れることができなかった。

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