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9 ~雷民
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9 ~雷民
国都のすぐ西側には小さな山がある。
民が日帰りで山菜や薬草を採りにいける程度の、丘といっていいくらいの山だ。陽射しがうららかなこの日、扶霊は青年の背を見つめながら緩い山道を上っていた。
(夜明けとともに来るかなフツー)
目的を達する前であるが、すでに扶霊はぜぇぜぇ喘いでいる。あまり出歩かないのだからそこは大目に見てほしいし、もう若くないからそもそも体力がない。
(命令したならちょっとは気をつかいなさいよっ)
思うだけで、声にする余裕すらないアリサマだった。
――時を戻そう。
それは今朝。
そろそろ起きようかと寝台でもぞもぞしていると、室に迅琳が駆けこんできた。宇月が訪ねてきたと言うのだ。追いかえすこともできずに出迎えてみれば、
『そうだ山、行こう』
と愉しげに提案され、無性にひっぱたきたくなった……。
そこに山があるとしてなぜ登るのかを問えば、豈華の兄である『三郎から頼み事をされたから』らしい。
宇月は無恭と再会するたび、裴氏の邸で世話になっているという。今回の国都滞在でも世話になっているらしく、宿提供の見返りを無恭に求められたというのだ。
なにを要求されたのか訊くと。
『馬の調良呪術』
これは呪術というほど怪しいものではなく、一般に知られていて習俗ともいえる。馬の体調を整えて本領を発揮させるため、馬体に植物を佩用させる方法を、呪法と捉えているだけのこと。しかし今回の依頼は、馬に佩用させる植物に難があるようなのだ。
依頼されたのは杜衡という草の鬼だという。
杜衡は馬の呪薬としては最高級品で、入手困難な品。なぜなら、鬼なので無能の者の目には映らない。土から引っこ抜いてしまえば他の草と同様に人の目に映るらしいのだが、鬼である以上、見鬼師にしか探すことはできず宇月に要求したというのだ。
(杜衡は葵に似ているというけれど)
鬼の世界は奥が深いと、扶霊は唸らずにいられない。
そして話は振りだしに戻る。
杜衡探しを命じられた扶霊に拒否権はなく。宇月と二人、えっちらおっちら山を登っているのである。
「聞いた話によると先生は、凶宅に住んでいるらしいな」
(えー今それを訊きますか)
疲労困憊の扶霊にはまともな思考力は残っておらず、適当に返事をした。
「凶を避けて吉を求める民の心理。うまく利用したな」
坂の先を歩く宇月の言葉が顔面に降ってくる。しまった!と顎を伝う汗をぬぐいつつ、扶霊は思い出す――あれは国都に暮らすようになって間もない頃だった。
街東に凶宅と呼ばれている邸があるのを知った。
凶宅とは住む者がいっぺんに貧しくなったりするいわく付きの邸のことで、民は皆、住むのを避ける。運気が下がるだけならまだマシで、最悪、病になったり死んだりもするのだ。怪事件テンコ盛りの事故物件である。
(あたしの運気はこれ以上下がらないだろうし)
投げやりな気持ちもあって寄ってみた。人目につかず、ひっそりと暮らすには良い物件だと思ったこともある。手許には南の地でもらった珍しい宝石があり、換金すれば邸を買う足しになるかもしれない。そんなことも考えていた。
だが、自分の目で見てびっくりした。
なぜ怪事件が続くのか。
それは、
(鬼の棲み処だったなんて)
棲んでいたのは金銀銭の精だった――。
「貯えられた金・銀・銭に憑く、特殊な鬼がいる。これを金銀精という」
歳上を気づかったからではないだろう、宇月が歩を止めて振り向いた。その動きに遅れて優雅に大袖が舞う。彼が纏っているのは薄い黄緑色の袍衫だった。
「金銀精は怪しい行動をする。たとえば、住む者の運気を下げる。住む者を病にしたり殺したりする。だが理由がある。どれもすべて、鬼が自ら世に出でんとするため」
わざと人目につく行動をするのだと、宇月は続けた。
「金銀精と主従の関係を結べたとしよう。主となった者は、どれほどの富貴を得るか」
(く)
と、扶霊は心中で呻くだけ。
普段あまり出歩かず邸にひきこもっていられるのは、まさにコレ。邸の地下には財が隠してあり、世から忘れ去られた財物を嘆くかのように鬼が憑いていた。これを支配して潤沢な資金を得たからなのだ。
(コイツ)
饒舌な青年を、扶霊は睨みつけた。
杜衡を探させるために山に連れだしたのかと思ったが、そうではない。
(別の目的があったのか)
金品のゆすりかと身構えるのとほぼ同時に声がかかる。
「ひとつ屋根の下に暮らすあの子供だが」
邸つながりで俎上にのせたつもりかもしれないが、全然うまくない。扶霊はさらに警戒するだけだ。
「雷民だろう」
「なっ」
なんて日だ! 迅琳のことも看破されていたのか。
(ごまかすのは……ムリか……)
「……なんで雷民だと?」
雷民とは、雷義を祖とする一族のことで、雷の子孫とされている。
雷民の見た目は今代、普通の人となんら変わらない。時折、奇跡的資質を発現させるものの、それだって周囲に害はない。街で穏やかに暮らしていける。
「[雷民伝]によれば、雷民はほとんど滅んでしまったとされている。血を継いでいるのはそう多くはないはずだ。継いでいても見極めるのは難しい。判断するとすれば、姓」
「!?」
そこで扶霊は思い出す。以前、宇月から迅琳の姓について指摘されたことを。
「迅姓について知識のある者は限られている。俺のように見鬼師とか、自然と向き合いそれなりに修練を積んだ者とか。雷民の系図に関心を示す者などいないだろうし、ま、バレないから安心していい」
安心できるかっ!
(堂々と見抜いておいて。まさかコイツ)
迅琳の身柄を、地獄へ勾引する猶予期間の条件にするつもりか。
未だ扶霊は『条件』とやらを提示されていないのだ。
「どういうつもり?」
焦る扶霊の口調はキツくなっていた。
得体の知れない緊張に炙られる。
しかし返る声は拍子抜けするほど明るくて。
「霹靂車に乗ってみたい」
なんの冗談かと扶霊はぽかんとなったのだった。
(内心は読みにくいな)
無事に杜衡を採った帰り道、話す宇月の横顔を見つめながら扶霊は考えている。
杜衡探しを命じたのはおそらく、道すがら鬼の知識を分け与えるためだったのだろう。実際のところ、金銀精の話から財物に憑く別の鬼の話をしていた。世間話にまじえてうまく流れをつくっていたようだが、意図はそこにあったように思う。
(内面が見えないのよね)
表に対して開いているものが、必ずしも心中と一致しているとはかぎらない。表情にもでていない。それが宇月という人ではないかと、この日、扶霊は強く感じていた。裏に秘めていることで相対する者を不快にさせることはないが、本心がどこにあるのか相手に読ませることは絶対にしないのだ。
もっているのは高度な処世術であり、人や物事をよく分析している結果ではないのか。
『猶予期間に見鬼の知識も分けてやろうか』
あの約束を守ってくれる、それはいい。
(とはいえよ)
猶予期間の『条件』が『霹靂車に乗ってみたい』だなんて。
冗談だろうと疑ってみたが、どうやら本気で言っているようだから始末が悪い。
(困ったわね)
霹靂車は雷民である迅琳が駆使できる乗り物だ。雷民すべてが使えるわけではないらしいので迅琳にそれなりの力があるのかもしれないが、そこはおいておく。
車を使うと天候が乱れることがあり、そこが問題だった。
電光の呪が施された呪物らしく短時間での長距離移動に便利であるから扶霊は使っているのだが、探し物のために使っているだけで、好奇心まみれの誰かを気軽に乗せてやれるような車ではないのだ。
(早く石が見つかればいいのに)
長年扶霊が探しているのは、記憶を喰ってくれるという妖しい石だった。噂を耳にするたび、出かけていって自分の目で見て確認する。そんな夜がもうずっと続いている。
ふっ、と宇月の世間話が途切れた。
その沈黙が前ほど苦にならなくなっている。
(なんでだろ?)
いっそ殺してしまおうかとも考えたのに、この日この時、青年と肩を並べて歩いているなんて。決して混ざらないものが混ざり始めたような、とても奇妙な心地がするのだ。
青年に怯えることがバカらしくなってきたから不思議だった。
そもそも宇月は走無常で生死の曖昧な人間だ。自分の過去を隠すため、迅琳の身を護るため、口封じで殺したとして、そこに意味はあるだろうか?
生と死、相反するふたつのものの境目に立つ者から逃れる術などあるのか。
(赦されたいと願う罪が足されるだけでは)
秘密は人を孤独にする。
(けれど)
秘密は知られてしまえば秘密ではなくなる。
境目に立つ者からわずかばかりの自由を与えられて、自分でも驚くほど心は軽くなっていた。一緒にいても気鬱はないし、肩の力を抜いて会話できるようになってきている。なにより紫の双眸を恐れて視線を逸らす必要のないのが楽だった。否応なく身に染みついていた習慣がこんなにも自分を閉じこめていたと知った。
「先生」
考えていたその相手に声をかけられて、扶霊はいかんと頭を振った。
(油断するとロクなことにならない)
迅琳との穏やかな生活で平和ボケしているのかもしれない。気を引き締めねば。
「送ってくれなくてよかったのに」
街東の邸の前に着いている。一日の時間の流れを早く感じたのが意外だった。
「薄暮が迫ってるのに女人を一人にさせるわけにはいかないだろ」
(どのツラ下げて言うか)
風の鬼憑きと知っていてと内心で舌打ちしながら、
「貴方も気をつけて。ありがぁ」
不自然に言葉が途切れたのは、扶霊の視界の端に男が映りこんだからだ。
「扶霊ッ」
名を叫んだのは、男。しかし宇月ではない、彼は背後にいるのだから。
「扶霊、君、君は僕という者がありながら」
叫び声のした門の中から駆けだしてきた男は石の基壇を二段飛ばしにして扶霊にがばりと飛びついた。
どうやら男は邸で待ち伏せていたらしい。
抱きつかれたままで扶霊は、自分の不運には男運の悪さも洩れなく含まれるのかと静かに人生を達観した。
《次回 酒器の妖》
国都のすぐ西側には小さな山がある。
民が日帰りで山菜や薬草を採りにいける程度の、丘といっていいくらいの山だ。陽射しがうららかなこの日、扶霊は青年の背を見つめながら緩い山道を上っていた。
(夜明けとともに来るかなフツー)
目的を達する前であるが、すでに扶霊はぜぇぜぇ喘いでいる。あまり出歩かないのだからそこは大目に見てほしいし、もう若くないからそもそも体力がない。
(命令したならちょっとは気をつかいなさいよっ)
思うだけで、声にする余裕すらないアリサマだった。
――時を戻そう。
それは今朝。
そろそろ起きようかと寝台でもぞもぞしていると、室に迅琳が駆けこんできた。宇月が訪ねてきたと言うのだ。追いかえすこともできずに出迎えてみれば、
『そうだ山、行こう』
と愉しげに提案され、無性にひっぱたきたくなった……。
そこに山があるとしてなぜ登るのかを問えば、豈華の兄である『三郎から頼み事をされたから』らしい。
宇月は無恭と再会するたび、裴氏の邸で世話になっているという。今回の国都滞在でも世話になっているらしく、宿提供の見返りを無恭に求められたというのだ。
なにを要求されたのか訊くと。
『馬の調良呪術』
これは呪術というほど怪しいものではなく、一般に知られていて習俗ともいえる。馬の体調を整えて本領を発揮させるため、馬体に植物を佩用させる方法を、呪法と捉えているだけのこと。しかし今回の依頼は、馬に佩用させる植物に難があるようなのだ。
依頼されたのは杜衡という草の鬼だという。
杜衡は馬の呪薬としては最高級品で、入手困難な品。なぜなら、鬼なので無能の者の目には映らない。土から引っこ抜いてしまえば他の草と同様に人の目に映るらしいのだが、鬼である以上、見鬼師にしか探すことはできず宇月に要求したというのだ。
(杜衡は葵に似ているというけれど)
鬼の世界は奥が深いと、扶霊は唸らずにいられない。
そして話は振りだしに戻る。
杜衡探しを命じられた扶霊に拒否権はなく。宇月と二人、えっちらおっちら山を登っているのである。
「聞いた話によると先生は、凶宅に住んでいるらしいな」
(えー今それを訊きますか)
疲労困憊の扶霊にはまともな思考力は残っておらず、適当に返事をした。
「凶を避けて吉を求める民の心理。うまく利用したな」
坂の先を歩く宇月の言葉が顔面に降ってくる。しまった!と顎を伝う汗をぬぐいつつ、扶霊は思い出す――あれは国都に暮らすようになって間もない頃だった。
街東に凶宅と呼ばれている邸があるのを知った。
凶宅とは住む者がいっぺんに貧しくなったりするいわく付きの邸のことで、民は皆、住むのを避ける。運気が下がるだけならまだマシで、最悪、病になったり死んだりもするのだ。怪事件テンコ盛りの事故物件である。
(あたしの運気はこれ以上下がらないだろうし)
投げやりな気持ちもあって寄ってみた。人目につかず、ひっそりと暮らすには良い物件だと思ったこともある。手許には南の地でもらった珍しい宝石があり、換金すれば邸を買う足しになるかもしれない。そんなことも考えていた。
だが、自分の目で見てびっくりした。
なぜ怪事件が続くのか。
それは、
(鬼の棲み処だったなんて)
棲んでいたのは金銀銭の精だった――。
「貯えられた金・銀・銭に憑く、特殊な鬼がいる。これを金銀精という」
歳上を気づかったからではないだろう、宇月が歩を止めて振り向いた。その動きに遅れて優雅に大袖が舞う。彼が纏っているのは薄い黄緑色の袍衫だった。
「金銀精は怪しい行動をする。たとえば、住む者の運気を下げる。住む者を病にしたり殺したりする。だが理由がある。どれもすべて、鬼が自ら世に出でんとするため」
わざと人目につく行動をするのだと、宇月は続けた。
「金銀精と主従の関係を結べたとしよう。主となった者は、どれほどの富貴を得るか」
(く)
と、扶霊は心中で呻くだけ。
普段あまり出歩かず邸にひきこもっていられるのは、まさにコレ。邸の地下には財が隠してあり、世から忘れ去られた財物を嘆くかのように鬼が憑いていた。これを支配して潤沢な資金を得たからなのだ。
(コイツ)
饒舌な青年を、扶霊は睨みつけた。
杜衡を探させるために山に連れだしたのかと思ったが、そうではない。
(別の目的があったのか)
金品のゆすりかと身構えるのとほぼ同時に声がかかる。
「ひとつ屋根の下に暮らすあの子供だが」
邸つながりで俎上にのせたつもりかもしれないが、全然うまくない。扶霊はさらに警戒するだけだ。
「雷民だろう」
「なっ」
なんて日だ! 迅琳のことも看破されていたのか。
(ごまかすのは……ムリか……)
「……なんで雷民だと?」
雷民とは、雷義を祖とする一族のことで、雷の子孫とされている。
雷民の見た目は今代、普通の人となんら変わらない。時折、奇跡的資質を発現させるものの、それだって周囲に害はない。街で穏やかに暮らしていける。
「[雷民伝]によれば、雷民はほとんど滅んでしまったとされている。血を継いでいるのはそう多くはないはずだ。継いでいても見極めるのは難しい。判断するとすれば、姓」
「!?」
そこで扶霊は思い出す。以前、宇月から迅琳の姓について指摘されたことを。
「迅姓について知識のある者は限られている。俺のように見鬼師とか、自然と向き合いそれなりに修練を積んだ者とか。雷民の系図に関心を示す者などいないだろうし、ま、バレないから安心していい」
安心できるかっ!
(堂々と見抜いておいて。まさかコイツ)
迅琳の身柄を、地獄へ勾引する猶予期間の条件にするつもりか。
未だ扶霊は『条件』とやらを提示されていないのだ。
「どういうつもり?」
焦る扶霊の口調はキツくなっていた。
得体の知れない緊張に炙られる。
しかし返る声は拍子抜けするほど明るくて。
「霹靂車に乗ってみたい」
なんの冗談かと扶霊はぽかんとなったのだった。
(内心は読みにくいな)
無事に杜衡を採った帰り道、話す宇月の横顔を見つめながら扶霊は考えている。
杜衡探しを命じたのはおそらく、道すがら鬼の知識を分け与えるためだったのだろう。実際のところ、金銀精の話から財物に憑く別の鬼の話をしていた。世間話にまじえてうまく流れをつくっていたようだが、意図はそこにあったように思う。
(内面が見えないのよね)
表に対して開いているものが、必ずしも心中と一致しているとはかぎらない。表情にもでていない。それが宇月という人ではないかと、この日、扶霊は強く感じていた。裏に秘めていることで相対する者を不快にさせることはないが、本心がどこにあるのか相手に読ませることは絶対にしないのだ。
もっているのは高度な処世術であり、人や物事をよく分析している結果ではないのか。
『猶予期間に見鬼の知識も分けてやろうか』
あの約束を守ってくれる、それはいい。
(とはいえよ)
猶予期間の『条件』が『霹靂車に乗ってみたい』だなんて。
冗談だろうと疑ってみたが、どうやら本気で言っているようだから始末が悪い。
(困ったわね)
霹靂車は雷民である迅琳が駆使できる乗り物だ。雷民すべてが使えるわけではないらしいので迅琳にそれなりの力があるのかもしれないが、そこはおいておく。
車を使うと天候が乱れることがあり、そこが問題だった。
電光の呪が施された呪物らしく短時間での長距離移動に便利であるから扶霊は使っているのだが、探し物のために使っているだけで、好奇心まみれの誰かを気軽に乗せてやれるような車ではないのだ。
(早く石が見つかればいいのに)
長年扶霊が探しているのは、記憶を喰ってくれるという妖しい石だった。噂を耳にするたび、出かけていって自分の目で見て確認する。そんな夜がもうずっと続いている。
ふっ、と宇月の世間話が途切れた。
その沈黙が前ほど苦にならなくなっている。
(なんでだろ?)
いっそ殺してしまおうかとも考えたのに、この日この時、青年と肩を並べて歩いているなんて。決して混ざらないものが混ざり始めたような、とても奇妙な心地がするのだ。
青年に怯えることがバカらしくなってきたから不思議だった。
そもそも宇月は走無常で生死の曖昧な人間だ。自分の過去を隠すため、迅琳の身を護るため、口封じで殺したとして、そこに意味はあるだろうか?
生と死、相反するふたつのものの境目に立つ者から逃れる術などあるのか。
(赦されたいと願う罪が足されるだけでは)
秘密は人を孤独にする。
(けれど)
秘密は知られてしまえば秘密ではなくなる。
境目に立つ者からわずかばかりの自由を与えられて、自分でも驚くほど心は軽くなっていた。一緒にいても気鬱はないし、肩の力を抜いて会話できるようになってきている。なにより紫の双眸を恐れて視線を逸らす必要のないのが楽だった。否応なく身に染みついていた習慣がこんなにも自分を閉じこめていたと知った。
「先生」
考えていたその相手に声をかけられて、扶霊はいかんと頭を振った。
(油断するとロクなことにならない)
迅琳との穏やかな生活で平和ボケしているのかもしれない。気を引き締めねば。
「送ってくれなくてよかったのに」
街東の邸の前に着いている。一日の時間の流れを早く感じたのが意外だった。
「薄暮が迫ってるのに女人を一人にさせるわけにはいかないだろ」
(どのツラ下げて言うか)
風の鬼憑きと知っていてと内心で舌打ちしながら、
「貴方も気をつけて。ありがぁ」
不自然に言葉が途切れたのは、扶霊の視界の端に男が映りこんだからだ。
「扶霊ッ」
名を叫んだのは、男。しかし宇月ではない、彼は背後にいるのだから。
「扶霊、君、君は僕という者がありながら」
叫び声のした門の中から駆けだしてきた男は石の基壇を二段飛ばしにして扶霊にがばりと飛びついた。
どうやら男は邸で待ち伏せていたらしい。
抱きつかれたままで扶霊は、自分の不運には男運の悪さも洩れなく含まれるのかと静かに人生を達観した。
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