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5 ~飛び跳ねる老人
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5 ~飛び跳ねる老人
国都の人口はおよそ百万。
街づくりはこの当時、世界最高である。各居住区は真っ直ぐな街道によって区切られた方形状になっている。区内の住居は整然と分布していた。
街の中軸線は、南北にはしる朱雀門街。この大路をはさんで東西対称となった構成で、街東が高級階層区、街西が庶人階層区と色分けされている。ちなみに、東が格上なのは風水学の影響によるものであり、朝陽が昇るほう〈陽がより長くあたる〉を重視するからである。
扶霊の邸があるのは街東――国都の真ん中らへんの区画、朱雀門街に近いあたり。
この夜、扶霊と迅琳が歩いているのは街西。
朱雀門街を越えてかなり時間が経っていた。
国都は不夜城であり、夜市なども活発に開かれている。飲食店をはじめとする店が市ではない場所にも広がっていて、夜店も多く営業中である。空の雲に街の灯りが反映して、夜の時刻であっても街路はほんのりと明るい。しかし今、向かっているのは庶人の居住する区画である。就寝中、家々の灯りは消えているだろうから、迅琳が提灯を棒にぶらさげて足許を照らしてくれている。
「悪いわね、琳。遅い時刻だし、付いてくることなかったのよ」
あまり出歩かない扶霊がどうして邸を出たかというと。
夢の中でしきりに『死になさい』と促されるお婆の話が引っかかっているからである。決して、七歳の女児を心配し、同情し、お悩み相談にのったからではない。
相談を受けるということは、その子の人生を少しだけ引き受けるということになる。ただでさえ自分の諸々の問題で手一杯なのに、余分な荷物なんて担いでいられない。そのような慈悲深い心を、扶霊はもち合わせていなかった。
女児の親は商品生産にかかわる専門職人で、民間の作業場で働いているという。職業をそれとなく聞きながら、家の場所を確認しておいた。
迅琳も子供だから留守番させるつもりでいたが。今は泰平の世で城内は安全、〝最悪の場合〟助けにもなるので、本人の意思を尊重したうえで連れている。日常、好きなように衣を着させているが、今夜は身を護るため孺子の恰好をしてもらっていた。女の子であるから用心するに越したことはない。
扶霊は普段どおりに男装で、折り返し襟の長袍を纏っている。色は夜の闇にまぎれる濃紺。足には虫除けと防水効果のある、革の長靴を履いている。
「墨を落とした紙は持ってきましたか?」
おっとりした声が下から問いかけてくる。
隣を歩く迅琳はまだ九歳、身体は小さく頭は扶霊の腰あたりにあった。
「ちゃんと持ってきたわよ、ていうか、いつも持ってるし」
任せとけと言わんばかりに扶霊は胸を叩く。折り返した襟の下には数枚の紙がしのばせてあって、紙には一枚一枚、墨が一滴垂らしてあった。
(便利な墨よね)
時々ではあるが、雨が降った後、邸の庭に黒い小石が落ちている。石は小指の先ほどのおおきさで豆粒のような形、これを砕いて粉にしたものを墨に混ぜていた。
紙に垂らしてあるのはこの特殊な墨で、迅琳が磨ってくれたものだ。
(琳が一緒にいてくれるおかげで)
迅琳と暮らしはじめて三年。何度か、奇跡かと目を瞠るような出来事と遭遇している。黒い小石もそのひとつで〝雨あがりの報酬〟とでもいおうか、扶霊からすれば好事なのである。
「先生、そろそろではありませんか」
聴取どおりであれば、路地の先に件の女児の家があるはずである。この区内に並んでいるのは庭のついた典型的な民家ばかりだ。
「ねえ琳、たぶん大丈夫だけど。危なくなったらとっとと逃げるのよ」
「はい。先生を車に押しこんで逃げます」
にこっと迅琳は笑った。とにかく可愛い。
(可愛いけども)
「ん、えーと、そうね……お願いシマス」
(あたしをおいて逃げなさい、という意味だったんだけどな)
助けになる大人であることを強調したかったのだが、伝わらなかったようだ。
(役立たずだな、あたし)
邸のこと全般、取り仕切っているのは迅琳である。炊事、掃除、洗濯、買いだし、座ったままの針仕事ですらまともにこなせないのだから仕方がない。が、これではどちらが邸の主人なのかと首をひねりたくなることがある。年長なのに情けないという自覚があるからこそ、夜歩きのときくらい頼られたかった。
(ただ)
実際のところ、扶霊には家の中のあれこれがわからない。子供の頃は家の隅っこにいて家族と接する機会がほとんどなかったから、人間関係にも疎いところがある。
意思の疎通もままならず、迅琳には不便をかけていると思う。
(あたしに価値があるだろうか)
斜め前を歩く迅琳の頭のてっぺんを、扶霊は力なく見つめている。
会話をほとんどしない、二人。
喜怒哀楽といった人らしい感情を言葉に変換できない、ダメな大人と。
(生活を共にする価値が)
胸にわだかまる。
この思いはきっと、虚しさだ。
庶人の住居はたいてい低い垣根で囲われている。正面には小さな門があって、女児の家の門扉に錠はかかっていなかった。古びて傷んではいるものの丁寧に修繕されているようで、貧しい家庭ではないだろう。
扶霊と迅琳の二人は、するりと門を抜けていく。
民家なので敷地は狭い。首を振るだけで見渡せる。建物の配置はどこも同じようなものであり、祖母が使っているのはと、あたりをつけながら歩いていく。提灯の灯りは消しているので、目が暗闇に慣れるまでしばらくかかり、二人は手をつないで歩を進めている。
意表を衝くほど簡単に見つけられたのは、
「クソ爺っ」
と、大きな声が聞こえてきたからである。扶霊と迅琳は思わず顔を見合わせた。
「この建物から聞こえましたね。『クソ爺』とはなんでしょうか、家族にお爺様はいないというお話だったかと」
小首をかしげて迅琳が言う。もちろん小声で。
「声はお婆のものみたいだし、とりあえず」
応じる扶霊も、もちろん小声。
二人、怪しみつつ建物の壁に耳を寄せてみれば、中から魘される程度ではすまない呻き声がしている。女児から聞いていなければ、目覚めていると慌てていたところだ。
(ここだ、間違いない)
入ろうとした扶霊だがしかし、扉には留め金がかかっていた。ガタッと音がして扶霊と迅琳の動きが止まる。侵入を阻まれて、またも顔を見合わせた。
迅琳は目を丸くして固まっている。心臓がすくんだのかもしれない。
「大丈夫よ、すぐに開ける」
扶霊が声をかければ、迅琳はそうだったという安心顔で頷いた。それを見下ろして扶霊もホッと息を吐く。
(緊張させちゃってたのね)
当然だ、これは不法侵入である。しくじったら南衙に捕まり朝には牢の中だ。
やはり子供を連れてくるべきではなかったと悔やみながら、扶霊は呼吸を整えた。さらに意識を集中するには視界をせばめるのがいい、両目を細めながら右手の人差し指を立てる。間をおかず指先から伸びてきたのは、柔らかい糸のようなもの。
糸に見えるそれは、太さを増すにつれ蝋燭からでる煙のように立ちのぼっていく。が、煙ではない。触れれば肌には空気の流れを感じた。煙だと空気中を浮遊するだけだ。
風だった。
指の先からふわりと湧きあがった風は紫に色づいている。だから風の流れが目に見えるのだ。指を動かせば、風も自在に変形し、操られて、扉の隙間をするすると入っていく。
ほどなくしてカチャンと音が響いた。
扶霊の異能ともいうべき風が物体を吹き動かし、内側から留め金をはずしたのだ。
「ふふ、便利でしょ」
迅琳を振り返ってばちんと片目を瞑る。見慣れている迅琳も、さすがですという目線を向けてくれている。
(いいな)
扶霊は思う。こんなときになんだが、迅琳とのこんなやりとりは好きだった。隠し事のない、ありのままの自分を見せても、怯えて遠ざけられることはないのだから。
(さて、いくか)
室内に視線を移せば、奥の壁際には質素な寝台がある。敷かれた布団がこんもりしているから誰かが横たわっているはず。扉越しに確認して、さっそく二人は入りこんだ。
「くたばれクソ爺っ」
絶妙の間合いで呻き声がしたのはそのとき。おまけに掛布がはねのけられる。
果たしてそこには夢に魘される老婆がいた。
《次回 続・飛び跳ねる老人》
国都の人口はおよそ百万。
街づくりはこの当時、世界最高である。各居住区は真っ直ぐな街道によって区切られた方形状になっている。区内の住居は整然と分布していた。
街の中軸線は、南北にはしる朱雀門街。この大路をはさんで東西対称となった構成で、街東が高級階層区、街西が庶人階層区と色分けされている。ちなみに、東が格上なのは風水学の影響によるものであり、朝陽が昇るほう〈陽がより長くあたる〉を重視するからである。
扶霊の邸があるのは街東――国都の真ん中らへんの区画、朱雀門街に近いあたり。
この夜、扶霊と迅琳が歩いているのは街西。
朱雀門街を越えてかなり時間が経っていた。
国都は不夜城であり、夜市なども活発に開かれている。飲食店をはじめとする店が市ではない場所にも広がっていて、夜店も多く営業中である。空の雲に街の灯りが反映して、夜の時刻であっても街路はほんのりと明るい。しかし今、向かっているのは庶人の居住する区画である。就寝中、家々の灯りは消えているだろうから、迅琳が提灯を棒にぶらさげて足許を照らしてくれている。
「悪いわね、琳。遅い時刻だし、付いてくることなかったのよ」
あまり出歩かない扶霊がどうして邸を出たかというと。
夢の中でしきりに『死になさい』と促されるお婆の話が引っかかっているからである。決して、七歳の女児を心配し、同情し、お悩み相談にのったからではない。
相談を受けるということは、その子の人生を少しだけ引き受けるということになる。ただでさえ自分の諸々の問題で手一杯なのに、余分な荷物なんて担いでいられない。そのような慈悲深い心を、扶霊はもち合わせていなかった。
女児の親は商品生産にかかわる専門職人で、民間の作業場で働いているという。職業をそれとなく聞きながら、家の場所を確認しておいた。
迅琳も子供だから留守番させるつもりでいたが。今は泰平の世で城内は安全、〝最悪の場合〟助けにもなるので、本人の意思を尊重したうえで連れている。日常、好きなように衣を着させているが、今夜は身を護るため孺子の恰好をしてもらっていた。女の子であるから用心するに越したことはない。
扶霊は普段どおりに男装で、折り返し襟の長袍を纏っている。色は夜の闇にまぎれる濃紺。足には虫除けと防水効果のある、革の長靴を履いている。
「墨を落とした紙は持ってきましたか?」
おっとりした声が下から問いかけてくる。
隣を歩く迅琳はまだ九歳、身体は小さく頭は扶霊の腰あたりにあった。
「ちゃんと持ってきたわよ、ていうか、いつも持ってるし」
任せとけと言わんばかりに扶霊は胸を叩く。折り返した襟の下には数枚の紙がしのばせてあって、紙には一枚一枚、墨が一滴垂らしてあった。
(便利な墨よね)
時々ではあるが、雨が降った後、邸の庭に黒い小石が落ちている。石は小指の先ほどのおおきさで豆粒のような形、これを砕いて粉にしたものを墨に混ぜていた。
紙に垂らしてあるのはこの特殊な墨で、迅琳が磨ってくれたものだ。
(琳が一緒にいてくれるおかげで)
迅琳と暮らしはじめて三年。何度か、奇跡かと目を瞠るような出来事と遭遇している。黒い小石もそのひとつで〝雨あがりの報酬〟とでもいおうか、扶霊からすれば好事なのである。
「先生、そろそろではありませんか」
聴取どおりであれば、路地の先に件の女児の家があるはずである。この区内に並んでいるのは庭のついた典型的な民家ばかりだ。
「ねえ琳、たぶん大丈夫だけど。危なくなったらとっとと逃げるのよ」
「はい。先生を車に押しこんで逃げます」
にこっと迅琳は笑った。とにかく可愛い。
(可愛いけども)
「ん、えーと、そうね……お願いシマス」
(あたしをおいて逃げなさい、という意味だったんだけどな)
助けになる大人であることを強調したかったのだが、伝わらなかったようだ。
(役立たずだな、あたし)
邸のこと全般、取り仕切っているのは迅琳である。炊事、掃除、洗濯、買いだし、座ったままの針仕事ですらまともにこなせないのだから仕方がない。が、これではどちらが邸の主人なのかと首をひねりたくなることがある。年長なのに情けないという自覚があるからこそ、夜歩きのときくらい頼られたかった。
(ただ)
実際のところ、扶霊には家の中のあれこれがわからない。子供の頃は家の隅っこにいて家族と接する機会がほとんどなかったから、人間関係にも疎いところがある。
意思の疎通もままならず、迅琳には不便をかけていると思う。
(あたしに価値があるだろうか)
斜め前を歩く迅琳の頭のてっぺんを、扶霊は力なく見つめている。
会話をほとんどしない、二人。
喜怒哀楽といった人らしい感情を言葉に変換できない、ダメな大人と。
(生活を共にする価値が)
胸にわだかまる。
この思いはきっと、虚しさだ。
庶人の住居はたいてい低い垣根で囲われている。正面には小さな門があって、女児の家の門扉に錠はかかっていなかった。古びて傷んではいるものの丁寧に修繕されているようで、貧しい家庭ではないだろう。
扶霊と迅琳の二人は、するりと門を抜けていく。
民家なので敷地は狭い。首を振るだけで見渡せる。建物の配置はどこも同じようなものであり、祖母が使っているのはと、あたりをつけながら歩いていく。提灯の灯りは消しているので、目が暗闇に慣れるまでしばらくかかり、二人は手をつないで歩を進めている。
意表を衝くほど簡単に見つけられたのは、
「クソ爺っ」
と、大きな声が聞こえてきたからである。扶霊と迅琳は思わず顔を見合わせた。
「この建物から聞こえましたね。『クソ爺』とはなんでしょうか、家族にお爺様はいないというお話だったかと」
小首をかしげて迅琳が言う。もちろん小声で。
「声はお婆のものみたいだし、とりあえず」
応じる扶霊も、もちろん小声。
二人、怪しみつつ建物の壁に耳を寄せてみれば、中から魘される程度ではすまない呻き声がしている。女児から聞いていなければ、目覚めていると慌てていたところだ。
(ここだ、間違いない)
入ろうとした扶霊だがしかし、扉には留め金がかかっていた。ガタッと音がして扶霊と迅琳の動きが止まる。侵入を阻まれて、またも顔を見合わせた。
迅琳は目を丸くして固まっている。心臓がすくんだのかもしれない。
「大丈夫よ、すぐに開ける」
扶霊が声をかければ、迅琳はそうだったという安心顔で頷いた。それを見下ろして扶霊もホッと息を吐く。
(緊張させちゃってたのね)
当然だ、これは不法侵入である。しくじったら南衙に捕まり朝には牢の中だ。
やはり子供を連れてくるべきではなかったと悔やみながら、扶霊は呼吸を整えた。さらに意識を集中するには視界をせばめるのがいい、両目を細めながら右手の人差し指を立てる。間をおかず指先から伸びてきたのは、柔らかい糸のようなもの。
糸に見えるそれは、太さを増すにつれ蝋燭からでる煙のように立ちのぼっていく。が、煙ではない。触れれば肌には空気の流れを感じた。煙だと空気中を浮遊するだけだ。
風だった。
指の先からふわりと湧きあがった風は紫に色づいている。だから風の流れが目に見えるのだ。指を動かせば、風も自在に変形し、操られて、扉の隙間をするすると入っていく。
ほどなくしてカチャンと音が響いた。
扶霊の異能ともいうべき風が物体を吹き動かし、内側から留め金をはずしたのだ。
「ふふ、便利でしょ」
迅琳を振り返ってばちんと片目を瞑る。見慣れている迅琳も、さすがですという目線を向けてくれている。
(いいな)
扶霊は思う。こんなときになんだが、迅琳とのこんなやりとりは好きだった。隠し事のない、ありのままの自分を見せても、怯えて遠ざけられることはないのだから。
(さて、いくか)
室内に視線を移せば、奥の壁際には質素な寝台がある。敷かれた布団がこんもりしているから誰かが横たわっているはず。扉越しに確認して、さっそく二人は入りこんだ。
「くたばれクソ爺っ」
絶妙の間合いで呻き声がしたのはそのとき。おまけに掛布がはねのけられる。
果たしてそこには夢に魘される老婆がいた。
《次回 続・飛び跳ねる老人》
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