ユルサレタイ紫〈死〉

碧井永

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1 ~近づく距離

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 1 ~近づく距離



 扁額へんがくのない門の前に一台の車が停まった。
 時は夜、丑の刻深夜2時頃
 どこにでもあるような二輪の車だが、不思議なことに馭者ぎょしゃは乗っていない。どころか、その前方に馬がつながれていない。それでも車は傾くでもなく、ここまで走ってきた。
 よく眺めてみれば、二つの車輪からは青白い火花がひらめいている。筋状の光は屈折するのか、時折、折れ曲がったように鋭く光を放つ。
 まるで地上に落ちた雷がからみ、これが原動力となっているかのようであった。
「また今夜も収穫がなかったわね」
 こめかみを押さえて嘆きつつ車から降りる者がある。
 その者に寄り添って手を引いているのは、少女。
「諦めず、がんばりましょう」
 大人と子供、二人は連れだって邸に入っていった。

 この日、扶霊ふれいは子供達に〝〟の話をしていた。
「これは[酉陽雑俎ゆうようざっそ]という本です。怪事件や珍談奇談などが分類して収録されています」
 子供達を怖がらせようとしたのではない。
 この書物には、衣食風習など百般の事柄について考証、見聞したものが記されている。識字率の低い庶人しょみんが広い知識を蓄えるのは難しい。が、小説を読みながらであれば多少は頭に入るだろうと、選んでみた一冊だった。
 怯えるかとちょっと心配していた扶霊であったが、今も昔も人は都市伝説が大好物である。不思議の話に対して興味津々らしい子供達の目はキラッキラしていた。
(純粋さが眩しい)
 悪いコトをしているわけでもないのに扶霊の笑みはぎこちない。
(期待しないでほしい)
 正直、子供は苦手なのだ。
「先生、早く。続きはー?」
 次々と子供達に催促されて、扶霊はあるかなきかの微笑で本心をごまかす。
「鬼とは、すべての怪しいもののことです。鬼はおおむねみっつに分類されるといいます。
 ひとつ、人鬼――人の霊魂
 ふたつ、妖怪――動物が化けたもの、またはその霊
 みっつ、物精――無生物の精、植物の精」
 ほへぇ、と子供達は納得したのかしていないのか、よくわからないが楽しそうな声をあげた。はしゃぐ声には少しの興奮がまざっているようだ。
「今日読むのは男の左腕にできた腫れ物の不思議[人面疽にんめんその怪]というお話です」

 小説の読み聞かせが終わると、字を学びたいという子らが残った。室内でその子らに自習をさせて、扶霊は庭の四阿あずまやへ出る。ちょうど迅琳じんりんが茶を淹れたところだった。
「最近、三兄さんけいのところにお客人が来て」
 迅琳と話しているのは貴族の姫様――はい豈華がいかである。
 豈華の言う『三兄』とは、三番目の兄をさす。
「三兄とお客人が道ならぬ恋仲ではないかと、わたくし疑っているのよ」
 卓に着き茶杯を口に運びかけていた扶霊は話の展開にびっくりして、あやうく茶をこぼしそうになった。話し相手にされている迅琳はといえば、まだ九歳だからか、にこにこと頷いているだけ。
 一方通行の話は進む。
 芽吹きの季節に合わせた鮮やかな襦裙じゅくんまとう豈華は、話の流れに不似合いな、衣の色にふさわしい満面の笑みで語っている。
「嬉しいわ。これで[女人女性向け男同士の友情恋愛ブロマンス小説]を書けますもの」
「んん?」
 さすがに迅琳も、おかしい、と思ったらしい。疑問符が頭上に浮かんだ。
「とても長い題ですね」
 指摘するトコロが微妙に違う。
 と、扶霊はツッコミたくなったが、迅琳ののほほんとした声音が可愛かったので、茶をすすって気をまぎらわせた。
「これは仮題です……わぁあ、そう、長い題名であれば表紙を見ただけである程度の内容が把握できますし。宣伝効果アリでよいかもしれません。友情に重きをおいた男色の小説、重要なのはあくまで女人向けというところで、紙が普及し木版印刷技術が向上したこれからの世には女人の需要も増えると考えていますの。わたくしが自ら筆をとりますので」
 お二人のご意見をうかがいたくて、という豈華の声にかぶせて、門の方角から別の声が響いた。見れば、仕立てのよい袍衫ほうさんの大袖に両手をつっこんだ男が歩いてくるところ。
(初めて見る顔だ)
 扶霊は思う。男は若い、歳は二十代前半くらいか。
「勢力を増す裴氏の娘であれば皇太子妃の座に就けるのに。十三という結婚適齢期でありながら、結婚には無関心とは」
 そっと、豈華の背後に立つ。まるで護衛官のような機敏な足の運びだった。
三郎サンランが泣くな」
「あら、宇月うげつの兄様」
 細い顎を上向けて背後を確認した豈華は、すぐに扶霊と迅琳に向きなおった。長い睫を揺らして「これが男色のネタです」という目配せをするが、当然、お子ちゃまな迅琳は気づいていない。黙々と青年に茶を淹れている。
 扶霊はそれとなく自分が日陰にいることを確認し、長く垂らした前髪を整えた。
「こちら、ズレ者な三兄の貴重なご友人」
 豈華の紹介はあっさりしていた。彼女の性格そのものである。
「ズレ者?」
 訊き返したのは、紹介された宇月だった。
「だって三兄は標準的な感覚からズレていますもの」
(わー無自覚?)
 反射的にぽかんとなったのは扶霊だ。
 豈華自身も貴族の標準から大幅にズレているのに本人は気づいていないらしい。
「三兄ったら、結婚していましたのに、何事にも欲がないところを嫌われて夫人奥さんに捨てられましたの。離縁りこんされるなんて。まさに独身貴族になったのですわ」
「三郎が離縁されたのは、裴氏がまだ寒門かんもんだった頃の話だろ。ま、今はこれぞ独身貴族で人生を謳歌してるけどな。元妻は悔しがってるんじゃないか」
【独身貴族】とは今代の流行り言葉であり、時間も銭も余裕のある自由人に対して使う。貴族でなくても使われるので、豈華の兄は皮肉られているといってもいい。
 その独身貴族との逢瀬を小説の題材にされるのに、知らないとは幸せである。宇月と豈華は相性が良いのか、ここにはいない三兄の話題で盛りあがっている。
 そもそも。
 豈華が気安く庶人の邸を訪ねてくるのは、つい数年前まで裴氏が寒門だったからである。『寒門』とは非門閥をさし、簡単に言ってしまえば没落途中の貴族のこと。官界とは縁の薄い貧乏暮らしだったので、今でもざっくばらんに会話ができる。
「いつの時代も女は賢い男を待っているというのに。不倫が珍しくなくなった昨今、女が強くなったのではなくて、殿方が平均よりも弱くなっているのですわ。この現状に気づかないなんて世も末、国も傾くというものです」
「だからって小説で表現?」
「目指しましょう、文明の促進! わたくしは筆の力で時代を超越するのです」
 宇月は立ったまま。茶を出されたのに座ろうとしないのは、すぐに帰るという意思の表れだろうか。そんなことを考えながら、扶霊は二人の会話を聞くともなしに聞いていた。
 元々口巧者おしゃべりなほうではない扶霊は、頭で考えていることの三分の一も口にしない。
(この青年、なにをしに来たのか)
 時折、宇月がこちらを見ているのはわかったが、目と目が合わないよう眼差しを前髪に隠していた。まともに視線が交わらなければ、声をかけられることもないだろう。
 豈華の身を案じて迎えにきたのかとも思ったが。世間話に花を咲かせて宇月は帰っていった。
 結局のところ、彼がなにしに寄ったのか、この日はわからないままで終わった。





《次回 勾死人こうしにん
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