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第四話 豚に真珠
しおりを挟む女が一人、姿見の前に立っている。
大型の鏡に映りこむ女の歳は三十代後半といったところ。
グラマラスな体型の女で、真冬にもかかわらず胸元が大きく開いたキャリアウーマンらしいスーツを着ている。目蓋や口唇は濃い色で彩られていて、派手モノ好きそうな顔つきをしていた。
その女は先程から、豊かな胸を強調するように腕を組み、トルソーに着せられた衣裳を矯めつ眇めつ眺めている。
「……こんなものかしらね」
妥協したとでも言いたげな吐息を女が洩らせば、そこから色香がぼたぼたとこぼれるよう。
トルソーに着せられている衣裳の端を女がつまむと、赤いネイルが室内のライトを浴びて小さく輝いた。
「もう歳だもの、純白のウエディングドレスは肌にも顔にも似合わないだろうし」
誰に言うともなくそう呟いて、シルクで仕立てられた衣裳をじっと見下ろす。
どこか諦観したように女が眺めているのは、紫色をしたウエディングドレスだった。女は今月末、挙式する予定なのだ。
本当は身体のラインの出るマーメイド型のドレスを着たかったのだが、年齢的に下腹がぽっこり出ていてみっともない。エステに通い、結婚式までにダイエットをする段取りにしていたのに、夫となる男の仕事の都合で、挙式がずいぶんと早まってしまったのである。
そういうこともあって、ダイエットできなかった女は、ドレスのデザインを急遽変更しなければならなくなった。念願のボディコンシャスなタイプのものを諦め、ぽっこりお腹が隠れる裾がふわっと広がったタイプのものをつくるしかなかったのだ。
「……まあ、自前でウエディングドレスをつくれただけ、子どもの頃からの夢がかなったと言えなくもないけれど」
レンタルではなく、デザイナーに頼んだドレスを買うのが女の夢でもあった。
女が触れている紫のシルク生地は光沢を放っていて、滑らかで肌触りもいい。
このドレスの生地となった織物は、父方の祖母から譲られたもの。とはいっても、祖母に可愛がられて譲られたものではない。ほとんど口をきいたこともない祖母が半年前に他界した際、親族で遺産分けをして、女が譲り受けたものなのだ。
女の祖母はえらく変わり者で、祖父に先立たれてからは、六人の子どもたちとすら交流していなかった。それが急逝し、家に呼び戻された子どもたちは驚いた。祖母の趣味なのか、家の中にはアンティークの品々が溢れかえっていたからだ。
ほとんど値打ちのないガラクタだろうと子どもたちは話し合い、好きな品を好きなだけ持ち帰り、残りは家ごと処分しようということになった。それで孫たちも呼ばれ、女の手にこの紫絹が巡ってきたのだった。
正直言えば、女は祖母の遺品に期待していたのだ。売れば、そこそこの値がつくだろうと。結婚資金もばかにならず、その足しにしようと思っていた。しかし、父親とそのきょうだいが判断したとおり、譲り受けたどの品にも値がつくことはなかったのだった。
生地も鑑定してもらったが、判明したのは「絹」ということだけ。
鑑定料を払った分、女は損をしてしまったくらいなのだ。
「ちゃんとした絹らしいから、ウエディングドレスにはちょうどよかったのよね」
こういう使い方であれば、祖母も草葉の陰から文句を言うことはないだろうと、女はつまんでいたドレスの端を手から放した。
衣裳部屋の外に待機しているデザイナーに「これで進めてください」と返事をするため、女はドアのほうへと足を向ける。女のヒールがカツンと床を鳴らした。
と、そのとき。
黒い影のようなものが視界をよぎり、女の行く手を塞いでしまう。女は足を止めるしかなく、それを見上げて顔を引きつらせた。
「きっ、きゃあああああああああ――――ッ」
凄まじい悲鳴とともに、女がその場に崩れ落ちる。
第四話 豚に真珠
1
生活感のない、殺風景なリビングにぽつんと置かれた黒革張りのソファ。
そのソファに長い足をもて余すようにして、青年が腰をおろしている。
頬杖をついている青年は悠然と構えていて、落ち着いた風貌ではあるものの、どこか刹那的な独特の雰囲気をかもしだしていた。
三十路にいくかいかないかの青年の顔立ちは端整であり、切れ込んだ眦が特徴的。額にかかる髪が眦に翳をつくって、まとう雰囲気を際立たせている。瞳は青みがかった灰色で、この国の人間にしては珍しい。
外出するでもないのにスーツをきっちり着込んでいる青年の対面のソファには、同じくスーツを着ている男が座っている。が、こちらの男は見るからに遊び人ふうで、スーツもだらりと着崩していた。
「ほい。ちゃんと稼いできましたよーだ」
歳の頃は二十代後半といった遊び人ふうの男が華やかに笑って、男二人の間にあるガラスのローテーブルに茶封筒を滑らせた。
その男が動くたび、緩く波打つ茶髪が艶やかに揺れる。茶褐色の瞳も、妙に艶っぽいのだった。いつになくリビングが賑やかなのは、この男がいるせいである。
「ふん。それで袁洪、詳しいことは頭痛の種になるから訊かないが、マトモな生活をしてるんだろうな?」
袁洪と呼ばれた遊び人ふうのタレ目男が、「はっ」と笑って肩をすくめる。
「オレはいつもマトモだぜ」
「バカが。桃色妄想頭がマトモじゃないから訊いたに決まっているだろうがっ」
「ええぇぇぇ。女人に貢いでもらって稼いでこい、って命じたのは巫祝だろう」
巫祝と呼ばれた青年――羽張龍一郎は、苛々しながら「け」と顔を背けた。ちなみに、巫祝というのは龍一郎の職業である。
その龍一郎は以前、「貢いでもらえ」ではなく、「能力を活かせ」と言ったのだ。が、女に好かれるのが洪の能力でもあるから仕方がない。仕方がないからイラついている。
洪は人ではなく、妖猿という鬼である。
鬼は本来、人が目に映すことはできない。鬼を見るには、見鬼の能力が必要だった。龍一郎は見鬼の能力をもっていて、洪は現在、彼の役鬼となっている。役鬼である洪には使人見鬼術がかけてあるため、見鬼の能力のない無能者でもその存在を目に映すことができるのだ。
龍一郎は、ローテーブルに差し出された茶封筒を見下ろして、厚みを確認する。
「……お前、またずいぶんと稼いできたようだな」
数ヵ月前、洪により大損害を被った龍一郎は、その分の補填をさせるべく、洪を使役している。
二度目の返済をするため洪は、術の執行者のもとを訪れたのだった。
「この国の女人は優しいな。仲睦まじく過ごすだけで金をたっぷりくれるんだ」
もとから洪が嫌いな龍一郎は「む」と眉間に皺を刻んだ。
「そういうのをな、ホストっていうんだよ。というか、お前はチンピラかっ。なんだその服装はっ! イッチョマエにスーツなんか着やがって」
「買ってもらったんだ。今月、なんとかって行事があるんだろう?」
「?」
「その行事の贈り物なんだと。前に巫祝が着てるの見て、いいなって思ってたんだよな」
「さすが猿。猿マネは得意だものな」
「えへへ、いーだろ」
「えへへ、って喜色満面に笑うな気色ワルイ」
嫌みをさらりと流されて、くっきりとこめかみに青筋を浮かべる龍一郎。ここに石があれば、確実に洪に投げつけていた。
猴の精怪である洪は人になりすますのがうまく、順応性に富む。その能力を存分に活かし、買ってもらったというスーツを、生意気にもしっかりと着こなしていた。だが、もとの性格がダラッとしているせいもあって、洪は服を自分流に着崩してしまうところがあり、ものすごくよく言えばミュージシャンみたいだが、一歩間違えれば無頼漢のような恰好になってしまっている。
それがまた似合うからド突きたくなるのだ。
頭痛を抑えるようにして、龍一郎は片手で目許を覆った。
「……おい、タレ目。その女性に迷惑がかかることはしていないだろうな?」
貢いでもらっている時点でかなり迷惑をかけているのだが、龍一郎としても損失分を埋めるまで、そこは目を瞑るしかない。
「迷惑ってなんだよ? オレは女人と恋の花を咲き誇らせているだけだっつーの」
その「恋の花」とやらのせいで、龍一郎は散々な目に遭ったのだ。
こいつの頭に咲き誇っているのは恋の花でなく、バ花としか思えない。
「あまり一人の女性に負担をかけるな」
女性に対し無責任な言い種ではあるが、今の龍一郎にはそうとしか言えなかった。
「それって、他の女人とも恋仲になれってことだろう。巫祝は不誠実だな」
「六人の女性と関係をもったお前にだけは言われたくないッ」
洪の首をきゅっと絞めてやろうとして立ち上がりかけたとき、マンション入口のインターホンが鳴った。
立ち上がりかけていた龍一郎は、そのまま訪い人の確認をしにいく。そうして画面に映し出されている姿を見て、ザッと音がするほど血の気が引いた。
くるりと洪に向き直り、そのまま詰め寄って首を締め上げる。
「いいかタレ目。俺がいいと言うまで隣の部屋から出てくるなよッ!」
「なんで――ぇげふっ?」
首を絞められているせいで舌を噛みそうになりながらも、洪が訊いてくる。
「質問はイッサイ受け付けない。逆らうなら、三十階のその窓から突き落とすからなッ」
類いまれなる身体能力をもち、武術に長けている洪も、龍一郎には逆らえない。龍一郎の身体は、符籙というお札に護られている。符籙は鬼が苦手とするもののひとつ。
術の執行者に反撃できない洪は憐れにも、そのまま隣室へと引きずられていったのだった。
「どうしたんですか羽張さん」
リビングへと続く廊下を歩きながら、各務理科が問いかけてくる。
「なにが?」
「だっていつもは、オートロックは解除してやったんだから勝手に入ってこい、みたいなカンジじゃないですか。なのに今日は、玄関のドアを開けて出迎えてくれたりなんかして」
「そうだったか」と龍一郎は、あさっての方向へ視線を逸らせた。
洪がいるせいで少々落ち着きを失っているのは否めない。
微妙に視線を逸らせたままでリビングに入り、ソファに腰をおろすと、理科がなにやら包みをずいっと差し出してきた。
「これ、どうぞ」
「うん?」
匂いからして大好物のたい焼だろうとは思っていたが、いつも理科が手土産に買ってくる店と包みが違う。そこが気にはなったものの、龍一郎は有難く頂戴した。
「……あれ?」
理科が上擦ったような奇妙な声をあげた。
どういうわけか、理科も普段とは違い、落ち着きがない。
「今日はウサピ、いないんですか?」
「ウサピ? って、ああ」
なにを訊かれたのか一瞬わからず、首をかしげてから龍一郎は頷いた。
いつものリビングには、ピンク色をしたウサギのぬいぐるみが置いてあるのだ。ピンクのウサギだから、略して「ウサピ」。それを理科は気に入っていて、ここに来ると必ず膝に抱いている。抱き慣れたぬいぐるみが見当たらないから落ち着きがないのだろうと、龍一郎は都合よく解釈した。
ここにいないということは、おそらくウサギも、洪と一緒に隣室へと移動したのだ。血相をかえた龍一郎を見て、ウサギも慌ててしまったのだろう。
「……悪いな。今日はあいつ、洗濯中だ」
龍一郎がテキトーに返事をすると、「そうですか」と残念そうに呟きながら、理科がバッグから手帳を取り出した。それを眺めて、龍一郎は不自然に眉を寄せた。
「……ひょっとしてお前、また妙な話をしに来たのか?」
「そうですよ。私、ライターですから」
「自分の職業をどう言おうが自由だもんな」
「失礼ですね! 私の目標は小説家になることでライターはそれまでの修行ですけど、きちんと仕事はこなしてますから」
「理科っておもいっきり理系の名前で文系の小説家になりますって言われても全然説得力ないんだよ、というか笑えるよハハハ」
「ハイ、棒読みで笑わない! 名前は理系でも私はバリバリの文系です!!」
二十三歳になるくせに子どものように口を尖らせる理科。
彼女と龍一郎は、かれこれ一年ちょっとの付き合いになる。
幼い仕種は知り合った頃からあまりかわってはいないものの、髪を後ろでひとつに結い、シンプルなジャケットにタイトスカート姿の理科は、仕事のデキル女に見えなくもない。
万人の目を惹く美人とまではいかないが、ほどほどに整った顔立ちをしている。
「……そういう話を、なんで俺にするかな」
億劫そうに龍一郎は頬杖をついた。
「もちろん、小説のネタにするためです」
「お前はいったい、どんな小説を書こうとしているんだよ」
そこは鮮やかにスルーする理科。
「羽張さんと話をすると、小説のオチのヒントみたいなものがパッと閃きますから」
「いい迷惑だ」
龍一郎がやさぐれると、すかさず理科が微笑む。
「たい焼、もらっちゃいましたよね?」
その言葉を受けて龍一郎はぎょっとなった。
「賄賂? や、コレは貢ぎ物かっ!?」
「賄賂なんて大袈裟な。貢ぎ物でもなく、ただの手土産ですよ。羽張さん、たい焼大好きですもんね」
意味深に微笑まれて、龍一郎は片手で目許を覆った。
洪に続いて理科まで来るとは。
今日は厄日としか思えない龍一郎であった。
ひとしきり話をした理科が帰ると、ピンク色のウサギを抱いた洪がひょっこりとリビングに顔を出した。
途端に龍一郎は不機嫌になる。
「お前、……まだ、いい、と言ってないだろ」
悪びれることなく、洪がニッカと笑う。
「なかなかの美人サンだな。オレに紹介してくれてもいいのに」
「け。どうせお前は恋の花とやらを咲かせたいんだろ。残念なことにあいつはな、話の花を咲かせに来ただけだ」
すると洪は右手の人差し指を立てて振り、「ちっち」と舌を鳴らした。
「ダメだな、巫祝。お嬢さんが来たら、茶くらい出すもんだぜ」
女の扱いに慣れている洪にいくつか指摘され、誠に業腹ではあるが龍一郎も反省した。反省はしたが、指摘した洪を受け入れてやるほど心は広くなかった。
ウサギを奪い取ると、洪をしっしと追い払う。
ウサギを抱いている洪に、か。洪に抱かれているウサギに、か。自分でもよくわからないが、抱いているものと抱かれているものを見て龍一郎は心がささくれたのだ。
そんな龍一郎の心を知らないウサギは、腕の中で居心地よさそうに丸くなっている。
「お前、もう帰れよ」
「ちえぇぇぇ、もう? 一ヵ月ぶりに会ったのに、つまんねえの」
「いいから、とっとと帰れ!」
「わっかりましたよ」
素直に洪は玄関に向かったものの、ドア付近で消える間際、
「なあ。巫祝って不可能はない天才なのに、意外に鈍感だったりするのか?」
などと、意味不明な言葉を残していったのだった。
2
ガラスのローテーブルに陣取っているウサギが、鼻をひくひくさせている。
「なんかコレ、匂いが違う」
そう龍一郎に話しかけたのは、男とも女ともとれる幼い声。
「違って当然。ソレ、中身が違うからな。皮のパリパリ感もイマイチだ」
龍一郎が答えると、舌足らずな幼い声の主が「ええぇぇぇ」と不満げに呻いた。
「せっかく理科が買ってきてくれたんだ。贅沢は言ってられん」
龍一郎がなだめても呻き続けているのは、ローテーブルに陣取っているピンク色に毛染めされたウサギ。
驚くべきことにこのウサギは、人語を解して、しゃべるのだった。しゃべることを隠すため、理科を含む人前ではぬいぐるみのフリをしている。
人語をしゃべることもあって存在が人に近いせいか、ウサギの趣味や嗜好は人に近い。
龍一郎と同じくたい焼が大好物なウサギは、理科が持ってきた手土産の箱に顔を突っ込んで、神経質そうに鼻をひくつかせている。
ウサギは、兎だった頃から勉強熱心であり、龍一郎にくっついてあれこれと学んでいたので、趣味や嗜好も龍一郎に似たところが多いのだ。
「ねえ君、さっきからなに見てるの?」
たい焼を器用に箱から取り出して、パクつきながらウサギが尋ねる。
尋ねられた龍一郎の手許にあるのは、紫色の絹。
先程から龍一郎はソファに腰をおろしたまま、その織物をじっと見下ろしているのだった。
分厚い手帳をべらべら捲りながら、理科が勝手に話を進めていく。
「実は今回の妙な話って、ちょっとした事件なんですよ。もしかしたら記事になるかもしれないんですが」
ライター見習いである理科が扱っているのは、社会派のネタである。ゆえに、警察絡みの話が多くなるのは仕方のないこと。
興味のない龍一郎は半ば投げやりに相槌を打った。
「先日、結婚式場へ行ったときに、私も偶然居合わせたんですけど」
そこで身を乗り出してくる理科。
「私、結婚式場へ行ったんですけど」
「……おい。それは聞いた。二度も言わなくても聞こえてる」
すると、なにを思ったのか、理科は子どものように頬をふくらませた。
「ちょっと羽張さん、ソコはツッこまないと」
「……は? ソコってどこ?」
「結婚式場へ行ったことを、ですよ。――お前、結婚するのか? 俺に気があると思ったのに、俺じゃない男を選ぶのか薄情者! とか、礼儀としてツッこむものです」
責められて思わず絶句しかけた龍一郎であるが、自力で復活した。
「……礼儀って、どこで通用する礼儀?」
「世間一般です。覚えておいたほうがいいですからね」
今度こそ龍一郎は絶句した。
そんな男を無惨にもおき去りにしたまま、
「まあ、私は、結婚する友人が式場の下見をするって言うから、旦那さんになるヒトのかわりに付き添っただけなんですけども」
話を戻した理科は、さくさくと話を進めてしまう。
「その日、花嫁衣裳の盗難事件がありまして」
どうでもよくなった龍一郎は、理科の手土産に手を伸ばした。
ここにウサギがいれば気を遣って先に食べたりしないが、いないのなら構わないだろうと、箱からたい焼を一つ取り出して頬張ってしまう。
「む」
一口、頬張ったままで龍一郎は固まった。
そんな龍一郎を、理科が「話、聞いてますか」と言いながら、上目遣いで見ている。理科はどこか、おどおどしていた。
「……コレ、中身がつぶあんじゃないな」
「ですね。チョコレートです」
「たい焼にチョコって邪道だろ?」
それまでおどおどと落ち着きのなかった理科が、開きなおったように口を尖らせる。
「今日は何月何日の、なんのイベントの日か知っていますか?」
束の間、龍一郎は考えて、
「二月十四日。……世間はバレンタインか。俺には縁遠い行事だな」
と、頓珍漢な返事をする。
的外れな返事を受けた理科はさらにすねぐれて、逸れまくっていた話をかなり強引に引き戻した。
「盗難被害に遭ったのは由利遼子、三十八歳。今月末、挙式予定」
「おい、ちょい待て。お前……花嫁に歳を訊いたのか?」
「そりゃ訊きますよ、事件ですから」
こういう図太さはライターらしいな、と龍一郎は思った。……言わないが。
「彼女は、急遽デザイン変更した衣裳の仮縫いの確認をしに、式場に来ていたんですが。衣裳部屋に一人で入った彼女が確認している最中に衣裳が盗まれまして」
「うん? 確認中に?」
「そうなんです。衣裳部屋には出入り口が一つしかなく、しかもそのドアの外にはデザイナーを含め複数の式場関係者が待機していました」
龍一郎は首をかしげた。
「なら、犯人は衣裳部屋に最初から潜んでいたってことか? ……や、そうだとしても、ドアの外に複数の人間が待機していたなら、衣裳を盗んで逃げるなんて土台ムリだよな」
「さすが羽張さん、頭の回りが速いですね。説明が省けて楽でいいです」
おだてられてもな、と龍一郎は顔をゆがめた。
「その衣裳部屋に窓はいくつかあるんですが、すべて明り取りで、はめ殺しの窓なんです。それらは割られてもいなくて。つまり、密室」
「でも、盗まれたんだろ? 余程の花嫁衣裳なのか?」
そこなんですよね、と理科は手帳をめくった。
「私も気になって由利さんに訊いてみました。なんでも彼女は、自前でウエディングドレスを用意するのが子どもの頃からの夢だったらしくて、式場で紹介されたデザイナーにドレスの発注をしたんだそうです」
「デザイナーに頼むとなると、たとえそれが無名のデザイナーでもかなりの額だろう」
「何事もデザイン料は高くつくらしいですね。由利さんも結婚資金集めには苦労したようで。……で、経費削減のためということで、手許にちょうどいい織物があったので、その生地を使ってドレスをデザインしてもらうことになりました」
「ちょうどいい織物、って、そんな都合よく手許にあるものか?」
それは理科も疑問に思ったらしい。
「半年前に父方の祖母が他界して、その遺産分けで織物を譲り受けていました」
「そういうことなら話は簡単だろ?」
「え?」
「織物にかなりの価値がついていた。それを巡っての醜い争い。犯人は親族の誰か」
理科は首を横に振る。
「いえ。……確かに、由利さんの祖母はアンティーク好きだったらしく、かなりの品を所有していたようなんですけども。亡祖母は若かりし頃、戦争の影響で大陸暮らしをしていたそうで、中国のものと思しき品を多く所有していたんですが、鑑定結果はどれもガラクタ。値のつく品はなく、彼女が譲り受けた紫の絹も、無価値の品と鑑定されています」
「紫の、絹?」
龍一郎の特徴的な眦が微かに動いた。
「あら? 興味もちました? そういえば羽張さん、紫、似合いそうですよね。紫が似合う人って、頭ワルイらしいですけど。フフ」
「フフ、ってなんだよその笑い。紫はな、女性の肌を綺麗にみせる色だ」
「それ、どこからの情報ですか!?」
興味津々にペンを握り込んだ理科に構うことなく、龍一郎は本筋の続きを促す。
「鑑定結果では、織られた国も年代も判明していません。が、絹としては確かな生地だったので、花嫁衣裳にすることにしたんだそうです。というわけで、花嫁衣裳に争いを起こすほどの価値はありません。しかも、デザイン変更中のつくりかけの衣裳ですし」
目を伏せ、しばし黙考する龍一郎。
「……さっき、衣裳の確認中に盗まれた、と言ったよな? 彼女、犯人は見たのか?」
「バッチリ目撃してます。なにしろ目の前で盗まれたんですから。重要なのはそこなんですよ羽張さん」
今し方、理科と交わした会話を思い巡らしながら、龍一郎は片手で目許を覆った。
本当に今日は厄日ではなかろうか。
「ねえ、それ、タペストリーじゃないよね?」
たい焼をかじりながら、ウサギが興味津々で訊いてくる。ウサギがかじっているたい焼の中身も、もちろんチョコレート。
「お。お前、いつの間に〝タペストリー〟なんて言葉を覚えたんだ?」
返事をしながら龍一郎は、手許にある紫絹に視線を落とした。
「これはタペストリーじゃない。ただの絹の生地だ」
理科が話していたのも紫の絹。
これは偶然じゃないだろう。
諦めたように吐息をこぼしてから、龍一郎は左を向く。次いで、嘯を吹いた。
嘯を合図にしたように、突如その場に得体の知れないものが出現する。
音もなく現れたそれを直視して、ウサギがビクッと硬直した。
「うわわっ、……なっ、なに?」
慌てたウサギはローテーブルからソファへと跳ねて移動し、龍一郎の背に隠れた。背に、ウサギが小刻みに震えている気配が伝わってくる。
「問題ない。彼は洪と同じ俺の役鬼で、景夢鮫。鮫人という鬼だ。これから仲よくしてやってくれ」
出現したものを紹介しても、しばらくウサギは怯えていた。が、そのうちに興味を覚えたらしく、龍一郎の背をよじよじと這い登り、頭にちんまりと居座ってしまう。前肢を龍一郎の額に垂らし、後肢は肩にひっかけようとしているらしいが短くて届かない。
ウサギがそうするのには理由があった。
なにしろ鮫人は宙にふわふわと浮いているのだ。まるで、目に映らない時の波間に漂うように。
鮫人と視線を合わせるために、より高い所へとウサギは登りたかったのである。
3
ウサギが怯えたのも仕方のないことだと、龍一郎は嘆息した。
鬼を制御するには、水を張った水盤が必要不可欠である。
ところがこの水盤を、龍一郎とウサギはひっくり返してしまっていた。かれこれ一年以上前のことになる。
水盤をひっくり返してのち、鬼の制御ができなくなっている。
鬼を再び役鬼として使役するには、水盤の呪から解放され逃げてしまった鬼を捕まえて、劾鬼術をかけなおしていかなければならない。
捕まえた都度、龍一郎はその鬼の情報をウサギに与えている。しかし、目の前に現れた鮫人に関しては、ウサギになんの説明もしていない。なぜなら鮫人は、水盤の呪から解放されても、龍一郎のもとから逃げなかったからだ。
鮫人は、マンションの風呂場に隠れて水浴びしているだけだった。それを龍一郎が見つけ、さっさと術を執行してしまったために、ウサギとは初対面なのである。
余談ではあるが、妖猿・袁洪のように、遥か昔からウサギと親しくしている鬼は少ない。
鮫人・景夢鮫は、上半身が人、下半身が蛟龍という妖怪だ。
鮫人という字からして、下半身を鮫と勘違いしてしまいがちな、半人半龍の鬼である。
美しい碧眼のもち主で、肌は陽に焼けたように浅黒い偉丈夫。顔だけで年齢を判断するなら、三十代半ばといったところか。長い黒髪は頭の上部でひとつに結わえてあって、垂れた毛の束が肩の辺りで揺れている。蛟龍である下半身は、青光りする鱗で覆われていて、その長く大きい尾びれは鮫のように見えなくもなかった。
逃げもせず風呂場で水浴びをしていたことからもわかるように、鮫人はとても気が小さい。
その気の小ささが災いし、トアル理由で仕えていた主に解雇され、その後、人に拾われたという異色の過去をもつ。景夢鮫という名は、拾ってくれた景夫妻から与えられた名であり、夫妻の息子と同じ名なのだ。
とはいえ鬼である鮫人は、人が目に映すことはできない。人と暮らす夢鮫は幸せであったものの、夢の中を彷徨うような幸せは長くは続かず、彼は再びひとりぽっちになる。そんなときに、龍一郎は彼と出逢ったのだった。
龍一郎の役鬼のほとんどは、依頼を受けて祓った鬼。
鮫人のように拾われて役鬼となった例は珍しい。
「さて、鮫人・景夢鮫。お前に訊きたいことがあるんだが」
宙にふわふわと浮いている役鬼を見上げて、龍一郎は声をかけた。
用事があるとき、役鬼は嘯を合図にして、術の執行者の前に呼び出される。
嘯は、左を向いて吹くのが決まりだった。
「ここひと月ほど、俺はお前に頼み事をしていたけど。その間に、俺のもとを離れたか?」
やんわりと龍一郎が問いかけたにもかかわらず、鮫人は俯くばかり。
「怒ってるんじゃない。だから正直に言ってくれ。離れたか?」
数拍の間を空けて、「はい」と答えが返ってきた。ざらりとした野太い声だ。声音のわりに、声はか細く、ここでも気の小ささが現れている。
「どうして離れた?」
「……ワタシが織った布を見つけたので」
それを聞いて、やっぱりか、と龍一郎は項垂れた。
鮫人にこれといった〝特技〟はないが、絹を織ることが得意なのだ。趣味といってもいい。鮫人が織った絹を鮫綃といい、鮫綃は必ず紫色をしている。
鮫綃がどんなカタチにかわっていようとも、鮫人は的確に見分けることができる。その気配を察して、鮫人は龍一郎のもとを離れたのだ。
それがたとえ年月を経て花嫁衣裳にかわっていようとも。
「なんで、その布にこだわるんだ?」
人のもとから盗んでしまって今さらではあるものの、龍一郎は理由を尋ねずにいられない。
「あの布のせいで、ワタシは主のもとから追放されてしまったので」
「……え?」
龍一郎は瞠目する。
それは初耳だった。
「そうなのか?」
「はい。あれは、水晶宮へ献上するための品」
水晶宮とは、龍王が棲んでいる水底の宮殿とされている。
龍王はすべての水族を支配していて、その位は、大地を治める現実の皇帝から封じられたものである。
「献上されれば、姫の花嫁衣裳となっていたもの」
「なぜ、献上されなかった?」
「ワタシが途中で、機織りの梭を壊してしまったので。その咎により、主のもとを追放されました」
なるほど、と龍一郎は頷いた。
鮫人が勤め先を解雇されたトアル理由とは、このことだったのだ。龍一郎もはじめて知ったのだった。鬼の世界も、上下関係は厳しく、ミスは見逃してもらえないものらしい。
「織っている途中で失敗してしまった布を、取り返したかったのか?」
長い沈黙のあとで「はい」と答えが返り、その声を聞いてしまった龍一郎はなにも言えなくなってしまった。沈黙が示したように、彼は長く、失敗を悔いてきたのだ。
「……わかった。もういい」
気弱な鮫人の碧眼が惑うように揺れた。
「せっかく取り返したんだから、その布はお前の好きなようにすればいい」
「……よろしいので」
しようがないというふうに龍一郎は笑った。
「あ、それと。この布、よくできている。ありがとう、大切にするよ」
龍一郎が手許の紫絹を掲げてみせると、鮫人はホッとしたように小さく息を吐き、照れたように微笑してから姿を消した。
鮫人が姿を消したリビングで、ウサギを頭に乗っけたまま龍一郎は深くソファにもたれかかった。
「ホントにいいの?」
頭上から、ウサギの声が降ってくる。
「……ああ」
そうとしか、龍一郎は返せない。
遥か昔に織られた紫絹は、水晶宮に献上されて花嫁衣裳へとつくりかえられるはずだった。奇しくもそれが時代を経て、人の手により花嫁衣裳につくりかえられていた。
けれど、そんなことは鮫人には関係ないのだ。所詮は失敗作。たとえ花嫁衣裳にかわっていようとも、取り返したくてたまらなかったに違いない。己の苦い過去に打ち克つためにも。
「君が手にしている絹も、夢鮫が織ったものなんでしょ?」
頭からズリ落ちそうになりながら、ウサギが問いかけてくる。
「……ああ。鮫人が織った布の光沢は綺麗だからな。久々に身につけたくなって、織ってくれと頼んだんだ。ネクタイと胸を飾るチーフを、共布でつくろうと思ったんだよ」
「いいなぁ。ボクも欲しい」
「じゃあ、お前も首許を飾るリボンでもつくるか? そんなことをしたら、もっとぬいぐるみっぽくなるけどな」
龍一郎が苦笑すると、ウサギは「ふがふが」と文句を垂れた。
「鮫人が織る絹は極上だ。光沢と肌触りは、人の織ったものとは一味違う。なにより丈夫で、遥か昔に織られたものでも、たった今織りあがったような質感を保っている」
「うへ!? 時とともに布地が弱くなって破れたり、色褪せたりしないってこと?」
「そう。だから鑑定人は、織られた国も年代も判別できなかったんだ」
由利遼子の亡祖母は大陸で暮らしていたという。彼女が目利きだったかどうかは不明だが、絹としては最高級品を手に入れたことは間違いない。
絹を産業として起こしたのは古代中国で、かの国は長らくその原料と製造法を極秘にしていた。絹はまさに、アジアの秘められた謎だった。これは、その頃に織られた布。
「水晶宮に献上されようとしていたほどの鮫綃で、しかも俺たちが生まれる前に織られた絹だ。本来であれば破格の値がついてもおかしくないところだけど。人というのは哀しいな、歴史的にも貴重な品なのに、それなりの証がないと無価値と判定されてしまう」
瞑目している龍一郎の眦を、ウサギが前肢でとんとんと叩いた。その拍子にバランスを崩して、頭からズルッと落ちる。
「うわわっ、……ととと。機織りの道具を隠し持ってるってことは、鮫人の能力は高いんでしょ?」
「お。お前、鋭くなったな」
能力の高い鬼は、己の所有物を隠し持つことができるのだ。
そこを指摘したウサギを、龍一郎は満足げに見下ろした。
「あいつの本当の〝特技〟はな、……や、ま、それは……まあ」
龍一郎が言葉をにごしていると、気を遣ったのか飽きたのか、ウサギが話題を転じた。
「夢鮫が花嫁衣裳を盗むところ、人に見られちゃったんだよね?」
膝にいるウサギが、自分のことのようにしゅんと耳を垂れた。
鮫人は半人半龍の異形の妖怪だ、見れば人は悲鳴をあげるだろう。しゃべるウサギも、少なからず悲鳴をあげられるつらさを知っている。
「彼女、事件になる、って言ってたし」
ウサギの言う「彼女」とは、ライターである各務理科のこと。
理科は先程、「ワイドショーとかでとりあげられるかもしれないんです」と話していた。
「な、ウサギ。この国には〝人の噂も七十五日〟ということわざがあるだろ?」
丸くなっているウサギの背を撫でながら、龍一郎は言う。
「ええっと、……世間の噂はしばらくすれば消えてしまうもの、ってことだよね?」
「そうだ。花嫁衣裳が盗まれたとき、衣裳部屋には由利遼子一人しかいなかった。ということは、遼子しか鮫人を見ていないんだ。これを警察に訴えたとして、真実を信じる警察官が何人いると思う?」
ウサギが「うぅん」と呻く。
「花嫁衣裳が衣裳部屋から忽然と消えたことは事実だからな、盗難事件として、それなりに警察は動くだろう。けど、遼子にはつらいところではあるが、鮫人が盗んだという話を信じはしない。理科のようなライターたちが、おもしろおかしく記事を書いて、テレビでワイドショーがとりあげたとしても、それこそ人は七十五日の間に忘れてしまうよ」
「そんなもの?」
「そんなものだ。人はみな、己の目で見たものしか信じない。所詮人は、目に映らぬ鬼の存在を受け入れはしない」
龍一郎の顔を覗き込むようにして、ウサギが背伸びしている。
「なら、もう、放っておくの?」
「俺はなにもしない」と頷く龍一郎。「鬼を見てしまった遼子が、世間から好奇の目を向けられるかどうかは本人次第だ」
めいっぱい背伸びをしているのか、ウサギの四肢が物言いたげにぷるぷると震えている。
「どうした?」
「……あのさ、君も鬼が見えてつらかった?」
龍一郎は人にはない見鬼の能力をもっている。
問われた龍一郎は目を見開いた。
ウサギとは長く一緒にいるが、そこを尋ねられたのははじめてだった。
「そんなことはとうの昔に忘れてしまったよ」
しばらく目を伏せてから答えた龍一郎は、ウサギを見下ろして柔らかく微笑んだ。
4
それから数日は、龍一郎とウサギのまったりとした日常が続いていた。
しかし、この世に不変のものなどありはしない。
平穏をブチ壊したのは各務理科だった。
ムスッとしてソファにもたれる龍一郎の前で、理科はぬいぐるみのフリをしているウサギを抱いて、好き勝手に話をしている。
「いやあ、結婚式って素晴らしいですね!」
本日理科は手土産もなしにやって来たので、大好物のたい焼がない分、龍一郎もウサギも話を聞こうとする気力がない。
そんな二人(?)を取り残し、絶好調な理科のマシンガントークは続く。
「花嫁衣裳、やっぱ憧れます」
「…………」
「披露宴でのお色直しは十回くらいやりたくなりましたよ」
「…………」
「ご両親に感謝の手紙を読むところなんか、もう、私、つられて泣いちゃって」
「…………」
「私の友人である花嫁も、最後には感極まって号泣してたんですけど。その涙をとめようとして、花婿が彼女を姫抱きに抱え上げて、その場でくるくる回りだして。……あまりに幸せそうな二人を間近で見て、ウエディングケーキを投げつけてやりたくなりました」
身振り手振りで披露宴の様子を語る理科に、げんなりとする龍一郎である。
「……お前、なにしに来たんだよ?」
「涙がでるほど感動した結婚式&披露宴を語りに来たんですよ」
「涙がでるほど〝幸せな二人にムカついた〟結婚式&披露宴を愚痴りに来たんだろ」
話につきあっているうちに、苛々を軽く通り越してしまった龍一郎は、ぞんざいに言う。
そんなこんなで理科の友人は、めでたく結婚したらしい。
「存分に愚痴を聞いてやったんだから、もう気は済んだろ。お前、帰れよ」
「むむむ。羽張さん、女の子に帰れって失礼じゃないですか」
「俺の時間を食いつぶしたお前は失礼じゃないとでも? そんなコトを話すために、ここまで来たのか。お前はどんだけ暇なんだ?」
「暇は自分でつくるものですっ。それに羽張さん、ケータイとか、そういった連絡手段をもってないから。用事があるときは私が来るしかないし……」
身分を証明するものを持つことができない龍一郎は、電話の契約ができない。
龍一郎は大息した。
「今日は茶を淹れてやっただろうが」
腹が立つことこのうえないが、袁洪に指摘されたこともあって、龍一郎は客人である理科に紅茶を出してやったのだ。たとえそれが歓迎していない客人であったとしても。
「う、……まあ、そうですね。……妙だとは思いましたけれど」
さらりと失礼なことを言う理科だった。
そこで理科は、膝に置いていたウサギをぎゅうと抱き込んでしまう。
ウサギはぬいぐるみのフリをするため、禁呪で金縛り状態になっているとはいえ、さすがに窒息するだろうと、龍一郎は声をかけた。
「なんだ? ひょっとして、まだなにかあるのか?」
理科が腕の力を緩める。
ホッとする龍一郎。
「……友人が結婚式を挙げた日、由利遼子さんも式を挙げていたんです」
「由利遼子って、花嫁衣裳が盗難に遭ったっていう?」
どこか頼りなく理科が頷いた。
理科の説明によると、かなり広い式場のようで、複数の披露宴会場があるらしい。結婚式は時間差で、一日に何組も行われるのだそうだ。とくに休日と吉日が重なった日は式場は人でごった返すとのこと。
「ほんのちょっとでしたけど、由利さんと話ができて。……彼女、ウエディングドレスをつくるのを諦めて、レンタルのドレスを身につけていました」
日数的にも予算的にも、新しくつくるのは難しかったのだろう。
「ウエディングドレスを自前で用意するのが、子どもの頃からの彼女の夢だったのに。……悔しいだろうな、って」
まるで自分のことのように理科が口唇を噛みしめる。
理科らしいな、と思いながらも龍一郎は無言を貫いた。
「……それで私、式場の中を探してみたんです」
「は? あの紫の花嫁衣裳を探したのか? お前一人で?」
「そうです。忽然と消えるなんてやっぱりおかしいから、式場内のどこかにまぎれているんじゃないかと思って」
お人好しなのか、お節介なのか、龍一郎は判断に苦しんだ。
「……実はその日、母に借りたパールの指輪をしてたんですけど」
理科はバッグをごそごそとあさり、青いビロードの小箱を取り出す。
蓋を開けたその中におさまっていたのは、プラチナの指輪。プラチナ台には小さなダイヤモンドが散りばめられてはいるものの、鉤爪だけが目立つ、妙にいびつな指輪だった。
「……消えたドレスを探すのに夢中になっちゃって、気づいたらパールを失くしちゃってたんですよね。どうしたらいいと思います、……コレ?」
いびつなはずだ。
本来あるべき真珠が、プラチナ台からとれていたのだ。
鉤爪の大きさからして、はまっていたのは大粒の真珠だろう。それを失くすとは――龍一郎はあんぐりと口を開けた。
「なんでまた、そんな高いものを借りたんだよ?」
「だって結婚式ですよ、おめでたい席ですよ、いいモノを身につけたいじゃないですか」
「なら、他人のために動き回るな」
「ですよね」と、理科はがっくりと肩を落とす。
どうやら理科は、友人の結婚式をグチりに来たのではなく、遼子に同情して来たのでもなく。本当の目的は、失くした真珠の相談をするためだったようだ。
利発な理科にしては珍しい憔悴ぶりに、思いがけず龍一郎もためらってしまう。
相談されても龍一郎にとっては迷惑でしかない。
ないが、今回は鮫人がしでかしたという負い目もある。
どうするか。
束の間沈思した龍一郎は、なにかを吹っ切るようにして、髪をわしゃわしゃと掻きむしった。
「ちょっと待ってろ」
それだけを言い残して龍一郎はリビングを出る。
しばらくして戻ってきた龍一郎の右手には、布の白い手袋がはまっていた。それは高級品などを扱うときにはめる手袋だ。
「お前、ハンカチ持ってるよな。出せよ」
「……はあ」と首をかしげながらも、理科は言われたとおりにする。
理科が両手で広げているハンカチに、ころん、と落とされた白い一粒。
その一粒からは、ミルクをぎゅっと固めたような、ぬめやかで、湿ったような温もりが伝わってくる。
「え、え、え!? コレ、って真珠じゃないですかっ?」
大きな白い粒は真円を描いて艶やかな輝きを放っている。
真珠は正円に近く、粒の大きいものが、より高く評価されるのだ。
「あ。おい、バカ。素手で触るなよ。真珠はな、熱や酸に弱いんだ。価値を下げないためにも、手汗なんかにも注意を払わないと」
それを聞いて、ギクッと肩を揺らしたのは理科。
「ちょ、待、ウソ、……ってことはコレ、ものすンごく高い真珠なんじゃ……」
「それ、やるよ、お前に」
「ひょわわわわっ」と理科が素っ頓狂な声をあげた。
「いえ、そんな。……ああっと、嬉しいですけど、こんな高いモノをどうしたらいいのか」
持ち慣れないものを手にしているせいか慌てる理科を眺めて、龍一郎は苦笑する。
「その真珠でお母さんに許してもらえ。プラチナ台をつくりかえるのに多少の金はかかるだろうけど、新しく買うよりは断然安く仕上がるはずだから」
理科は宝石を扱いあぐねるようにして、真珠の載せられたハンカチを捧げ持っている。
「チョコ入りたい焼の――や、バレンタインの礼だ」
袁洪に指摘されたこともあって、龍一郎もそれなりに反省していたのだ。
これでもう、あいつに「鈍感」とは言わせない――などと、龍一郎はこっそり思っていたのだが、洪が指摘したトコロから微妙に離れてしまっていることに、本人が気づくことはないのだった。
終
寝室に入った龍一郎はベッドに腰かけて、蓋の開けられた木箱を覗いている。
膝に乗るほどの大きさの木箱自体は古いが、螺鈿細工の施された美しい仕上がりのもの。
ほてほてと近づいてきたウサギも光沢のある箱を覗き込んだ。
「うわぁ。これ全部、真珠じゃない」
箱にびっしりと詰まっているのは、真珠。
どれも理科に譲ったものと同じに大粒で、正円に近い。最高級の真珠だ。
「さすが。君はお金持ちだもんね」
ウサギが感嘆の声をあげた。
「うん? これはな、もらったものなんだ」
「もらったの?」
「そう。遥か昔に」
自分で言っておいて、龍一郎は少し驚いた。
どこか遠くを見るように目を細める。
龍一郎にとっては昨日のことのように感じる出来事でも、「遥か昔」というほどの時が、いつの間にやら流れてしまっているのだ。
昔を思い出し、昨日を思い出せないのは、歳をとった証だという。歳をとってはいないが、妙に胸に沁みる言い回しだと思った。
時が流れれば人は変わり、景色は変わる。
悔しさも、憎しみも、あるかなきかの喜びも、変化の中におき去りにして長く生き続けてきた。
だからこそ。
この世に不変のものはなし、ゆえに懐かしむ価値もなし――
「鮫人・景夢鮫からもらったんだよ」
「うごっ!? そうなの? 彼もお金持ちなんだ?」
「違う。あいつの本当の特技はな、涙が真珠にかわってしまうことなんだ」
ウサギが目を丸くした。
「とはいってもな、すべての涙が真珠にかわるわけじゃない。真実、悲しくて泣いたときだけだ」
「ほへえぇ」
「ここにある真珠からもわかるように、あいつの目からこぼれる真珠には価値がある。それこそ人の手に余るほどの価値が。……人は価値あるものを目の前にすると、目が眩むだろ」
小さく息を吐いてから、龍一郎は目を閉じた。
職を失い、拾ってくれた景夫妻とも別れた後、鮫人は人の争いに巻き込まれた。
無能の人の目に映らない、鮫人。
だが、目からこぼれ落ちた真珠は目に映る。
真珠は人をいくらでも富ませることができるのだ。その財を巡っての争いだった。
人の醜い争いを間近にしてしまった鮫人は、疲れ果てて泣いていた。渤海に面した浜辺で。龍一郎はそこで、ひとりぽっちの鮫人と出逢ったのだ。
見鬼の能力がある龍一郎は、すぐに彼が鬼の鮫人であるとわかった。即座に術を執行しようとし、わずかに迷って、彼に声をかけてみた。
気が弱いせいもあり、声をかけられた鮫人は波間に隠れて、人である龍一郎の様子を窺うだけ。
傍にきて身の上を語ってくれるまで、龍一郎は忍耐強く待たねばならなかった。
「な、景夢鮫。自分で言うのもなんだが、俺は金持ちだ。暮らしにはちっとも困っていない。お前の真珠に頼らずとも生きていける」
龍一郎がしゃべっている間も、ぽろりぽろりと鮫人の目から真珠がこぼれ落ちていた。
「悲しみの涙を流すのは今日で最後にしてやる。だから景夢鮫、俺のところへ来ないか?」
刹那、ぽかんとしてから、涙に濡れた鮫人の碧眼が惑うように揺れた。
その双眸に映る龍一郎のほうが、碧い海で溺れたような気分になったほどに。
「今、ここで決めろとは言わない。気が向いたら俺を訪ねてくれればいい」
話をしているうちに、いつしか東の空は、夜の色を滲ませて紫に染まろうとしていた。
沈みかけた夕陽が海面を照らし、まるで艶やかな真珠のように煌めいている。
「約束しよう。お前の真珠を悪用しないし、誰にも悪用させない。どうか俺を信じて、俺の手をとってくれ」
それだけを言い残して別れた、あの夕べ。
空と海の美しさと同様に、輝きを放つ鮫人の涙が龍一郎の眼裏に焼きついている。
鮫人が龍一郎を訪ねてきたのは、出逢いからずいぶんと年月が経った頃。
普通の人間なら死んでいるかもしれないほどの時が流れていた。
そのとき鮫人は「あの海で流した涙です」と言って、龍一郎に真珠をくれたのだ。
「……ここにある真珠は、鮫人が最後に流した涙の粒だ」
ウサギがそよそよと髭を動かしている。
「鮫人には、真珠によって人を富ませるという〝大特技〟がある。その能力を奪い合って、人は争う。そのために鮫人は長く苦しんで、泣いていた」
「……よっぽど悲しかったんだね」
「ああ。あいつは鬼のためじゃなく、人のために泣くことができるんだよ。高値で取引できる真珠を生み出す、それがあいつの価値じゃない。争う人々に心を痛めて泣くことができる、そこにあいつの本当の価値があるんだ」
争いをやめてほしくて、鮫人は涙を流す。
つらすぎて涙をとめる術はない。
泣けば真珠がつくりだされ、その白い宝石を巡って人は争う。
鮫人にとっては悲しみのスパイラル。
「この真珠もそう。確かに価値のある真珠だけれど、それだけじゃない。どうしてこの真珠がつくりだされたのか、それを理解しようとしない者には相応しくない品だ」
金にはかえられない尊い価値が、この真珠にはあるのだから。
「手に余るものを持つと、その重みに引きずられて人は不幸になるだけだからな」
「だね」と、ウサギが頷いた。
「せっかく夢鮫がくれたのに、彼女にあげちゃってよかったの?」
鋭くウサギに訊かれて、龍一郎はバツの悪そうな顔をする。
「う。……だよな。俺も自分でびっくりだ。この国の漢方では真珠を使うからな、これまではカルシウム剤としてしか使ったことがなかったんだけど」
怒り半分戸惑い半分の龍一郎の脳裏にチラつくのは、妖猿・袁洪の姿。
こんなことをしたのは絶対あいつのせいだ――龍一郎は、そう恨まずにはいられない。
洪に余計なことを言われたせいで、ここのところ龍一郎は調子が狂いっぱなしだった。
今度会ったら一発殴る!
龍一郎はかたく決意した。
理科が実家の母親に電話をしたのは、花の便りが聞かれるようになった頃。
さすがにパールを失くしたとは言えず、今日こそは明日こそはと思っているうちに、どんどん日が過ぎていってしまったのだ。
「……あのねお母さん、借りていたパールの指輪なんだけど」
仕事が忙しいせいもあって、なかなかジュエリーショップに持ち込めなかったのだが。
プラチナの台座をつくりかえる見積もりを出してもらったのが、つい先日のこと。給料内でなんとかなりそうだったので、ホッとしたこともあって母親に電話をかけたのだった。
「指輪?」
電話をかけてすぐに怒られると覚悟していた理科は拍子抜けした。
母親は指輪を貸したこと自体、すっかり忘れていたらしい。
「ああ、友だちの結婚式にしていきたいって言ってた指輪? いいのよ、あんなのいつでも」
「……へ? だってあれ、高いんだよね?」
「やあね、高いわけないじゃない。イミテーションなのに」
イミテーション?
――母親の言葉を反芻した理科は自分の耳を疑った。
受話器を耳から放し、それをたっぷり十秒は見つめてから、耳に戻す。
「……もしもし、お母さん? でもあれ、プラチナもダイヤも本物だったけど?」
ショップ店員はそう言っていた。
「ダイヤっていったって、クズもののダイヤでしょ。プラチナに小粒のダイヤをあしらっただけなら、そんなに高くないわよ」
「……クズ」と理科は小声で呻く。
「あれは真珠だけが模造品なの。あんなに大きな真珠、大きな声じゃ言えないけど、お父さんの安月給で買えるはずないでしょ」
なんと言えばいいかわからず、理科は口をぱくぱくさせるだけ。
「それに本物なら、宅配便であんたに送るわけないじゃないの。バカな子ね」
確かに自分はバカだ。
理科は蒼ざめたまま通話を終えた。
唖然とする理科の目の前では、羽張にもらった真珠が艶々とキラめいている。
「まさかコレもニセモノってことは……ないよねえ」
あの日の羽張の態度から察するに、それはまずないだろうと理科は呟いた。
ホワイトデーにもらったとしても、高価すぎてドバドバおつりがくるほどのものだろう。
自分には相応しくない品だ。
恋人ではないし、婚約者だったとしても不似合いすぎて不幸になりそうな予感さえする。
やらかしてしまった……
「ど、ど、ど、どうしようっ!」
顔を引きつらせた理科は頭を抱えてその場にうずくまったのだった。
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