20 / 20
終章(2/2)
しおりを挟む皇宮の裏――北の方角には泰山がある。
その奥には、小さな湖と表現するのが相応しい池があった。静かな畔にたたずんでいるのは一人の男。大袖に両手を入れて立つ男の髪には降りだした雪が絡み、銀糸のような見事な長髪は普段以上に輝きを放っていた。
鵞毛に似た雪が水面に落ちるさまは、空へ羽ばたいていく鳥の落とした白い羽根が深淵に吸い取られていくようで、とても幻想的だった。ここにいる目的を忘れ、しばし男は池を眺める。
(これだから始末が悪い)
下界の美しさに男は魅了されている。
その男の顔貌のほうがはるかに美しいにもかかわらず。
記憶と現在の景色が重なり交錯する。
かつて男はこの場所で、一人の女人と出逢った。
それは男の感覚にしてみれば然程前のことではない。
女は言った。
『子が欲しいのです。ここには、会えば子を授けてくれる仙人がいると聞いていましたので』
街の噂を信じてわざわざ願掛けにやって来たのだ。
浸かれば子を授かる池があっただけで、仙人が棲むというのはまた別の話であった。男はほろりと笑う。それは、信じた女を滑稽に思ったからではない。
一目惚れしたのだ。
男の立場からすれば、まさに〝禁断の〟一目惚れであった。
それまで男の目には〝人〟の女というものは、成長の違いはあるにせよ、みな同じふうに映っていた。こだわりなどなかった。なのに、どうしてか。その女だけは光り輝いて見えたのだ。魅了されていた下界の景色が翳むほどに。初体験だった。目を伏せた翳りのある表情は美しく、そんな彼女の美貌に目が眩み、足を踏みはずしたような衝撃を味わった。否、事実、足を踏みはずし地に堕ちた。
なにがどう異なっていたのか――正直、未だにわからない。
それでも確かなのは、愛した、ということ。
(わからないからこそ愛を求めるのか……)
結果的、女は望みをかなえた。
逢瀬を重ねるうち、愛欲に溺れ、迂闊にも男が手をだしてしまったことによって。相手は夫ではないが、身籠ったのだ。胎内に宿ったのが女児だと、男にはすぐにわかった。
罪に溺れていく我が身を救うこともできず、自重で泥沼に沈んだまま窒息してしまいそうな日々だった。朝から次の朝まで彼女のことだけを追っていた果てのない、想い。人類の繁栄は恋なくしてはあり得ない。だがしかし、自分はその外側にいる存在。頭では理解できていても、心が止まらない。
愛しているから心を壊されてもかまわない、狂おしくそう想った。
ああ、これこそが――
(人というもの)
この世にはもう存在しない、彼女。
儚く散ってしまった命。それでも血を受け継ぐ者がいるのなら。
「――――」
男は、愛しい我が子の名を呼び続ける。
ただ、名を、呼び続ける。
(彼女の夫は、気づいたのだろうか……?)
手許に抱いているのが自分の子ではないと。
(だから遊興と性の売買がなされる妓楼へと、娘を放りだしたのか)
妻の不義を罪と責め、遊興の末に生まれた子の捨て場として。
(平然と追いやったのは、それが理由か?)
彼女が夫のもとへ帰りたいと願ったから、その手を離した。
赦した。
離れた瞬間からなにかが、どこかが、更に狂ってしまったのだろうか……。
(なにかが不足したから、二人、その分だけなにかを手に入れようとして)
狂ってしまったのか。
捨てられた娘が心配で、男は毎晩妓楼に通い続けた。
入宮するまで自分が指名すれば、娘は汚されることはない。後宮に入れば、手紋をもつ皇帝が娘の夫となる。自分以外の男に託すなど不本意ではあるが。いや、むしろ皇帝も憎い。いつか皇帝に「お義父さん」と呼ばれるのかと世間一般の想像をするだけで殴ろうとする掌を抑えられないが。(あの孺子ならば娘を見出すだろう)そんなふうに望みをつないで登楼しているうち。
またしても事態は、男の思考の更に先をいった。
あろうことか、あの冥王が、娘に目をつけたのだ。(こいつ見る目あるじゃないか)と冥王の趣味を褒める反面、とっ捕まえて(なにさまだッ)と頭をひっぱたいてやりたい衝動に駆られた。鬼に見初められるならさっさと娘をかっさらって手許に囲っておけばよかったと、理性を失うほどの後悔の波だけが繰り返し押し寄せる。……でも。
(だめだ。できない。愛した彼女の遺志に反するから)
護りたいと思えるものがあるうちは後悔から目を逸らすしかない。
男はじっと耐えた。
とある妓女に『身請けしてくれ』とすがられ、断って、室から飛び降りるまで。
そうして予想外の事態は続き、娘と冥王にそろって目撃されてしまった。そこは自分の失敗であるがどうにも我慢がならず、男は片足でばんばんと地面を蹴った。冥王は姓を閻、名を羅翔という。俗称・閻羅王を狙ってのことであるが蹴りが地獄まで到達するはずもない。傍から見れば融通のきかない子供の所業である。
ままならぬは浮き世かな。
ほろりと、男は笑う。
――だから人はおもしろい。
「父親、か。……呆れるほど人らしくなったものだ」
雪、舞い踊る池の畔。
空から降る無垢な色はたたずむ者を照らしだす。
笑いまじりに呟くのは、天帝の使役神の一。
風の使役神である彼は地上に棲むとき福禄寿と名のっている。
なぜ十二神将と張り合ったのか。
――忘却の彼方とは、このことか……。
裁判の合間、ぽっかりと空いてしまった時間をもてあまし、閻羅王は執務室の机案に頬杖をつき、残りの手で筆を揺すっている。
暇とは厄介なものである。
ついうっかり意味もなく、過ぎた時に想いをはせてしまうのだ。
そうしていらんことを思い出す。
神将と争って大地をめちゃくちゃに破壊したのは、人の時間でいうところの遥か昔。冥王の率いる鬼の軍団が陽間〈この世〉に溢れるのを恐れた人間は、冥王に争いを忘れさせるために〝花嫁〟を与えることにした。
花嫁を与えて恋に溺れさせれば争いを忘れるだろう――そう考えたのだ。
(なんて芸のない思考か。だが……)
単純だが、男には実に効果的な方法である。
そうして地上の皇帝は、皇后を死出の道連れとするようになった。なぜ皇后かといえば、陰間〈あの世〉の冥王と陽間の皇帝が同等位であるからだ。低い身分の女では冥王には釣り合わない。これが陰陽間で婚儀が行われることになった習わしのはじまりである。
最初は不文律であってものちに定着し、慣習化する、それが歴史というものだ。何事にも原因があり、問題が起こる理由がある。だが、本来の原因と理由は時の狭間に埋没し、意味不明の伝統儀礼だけが遺されていく。
争いを忘れた今代の冥王に花嫁は不要であるというのに……。
そういう意味では、生きた女人を犠牲にしないという現皇帝の判断は正しかったのだ。
先の皇帝が冥界に墜ちたのを機に、ふっと陽間へ行ってみようという気持ちが湧いた。これといった原因も目的もない。今に飽きて気まぐれを起こしたとでもいえばいいだろうか。
そうしてふらりと寄った妓楼で丹緋を見つけてしまったのだ。
贄がどうこうではなく、彼女を欲した。
陰の気を色濃く纏っていた。
人特有の孤独ゆえに鬼になりかけていた。
そんな彼女に。
美醜も年齢も関係ない。陰性の強烈さ、それが一目惚れした理由だった。
人が踏みこんではいけない闇の領域まで生きたまま墜ちようとしていたのに、まさか陽間の頂点に立つ皇帝が彼女に執着するとは。
(笑える)
まったく退屈というものは思考と感覚を狂わせる。
(次に彼女と出逢ったら)
譲らない。
(目を瞑っている間にすべてを済ませてやる!)
身体も心も、目線も、逃げ場をなくして。揺さぶり、どんな顔をしたらいいのかわからなくなるほど甘やかして――
そこで、慎重に紡いできた糸が切れるようにふつりと思考が途切れる。
扉の外から冥官に声をかけられた閻羅王は、愉しく描いていた未来予想図の展開を遮られて、ちょっぴり乱暴に筆を放りだした。
「その身に流れる混血は冥界でこそ活かされる」
ちなみに。
皇帝に問うた答えは――
解きがたい謎であるが、強いて解く必要もなく。
「鬼に歳などない」
それだけのこと。
鬼は、歳などかぞえないのだから。
話し合いなんぞ要求せずに「わからん」と答えれば、まあ、正解だったのだが。
なにについても考えすぎる、それが人というものか――。
血を吐くほどの哀しみも、胸を焦がすほどの喜びも、すべてはここにあるのが現実。
刹那に不要のものなどありはしない。
天と地の狭間で人は確かに生きている――
史館監修国史・郭彪之によって綴られた史書の書きだしである。
黎王朝大統三年の幕が開く。
《長い間読んでくださってありがとうございました》
0
お気に入りに追加
4
この作品の感想を投稿する
みんなの感想(1件)
あなたにおすすめの小説
皇帝は虐げられた身代わり妃の瞳に溺れる
えくれあ
恋愛
丞相の娘として生まれながら、蔡 重華は生まれ持った髪の色によりそれを認められず使用人のような扱いを受けて育った。
一方、母違いの妹である蔡 鈴麗は父親の愛情を一身に受け、何不自由なく育った。そんな鈴麗は、破格の待遇での皇帝への輿入れが決まる。
しかし、わがまま放題で育った鈴麗は輿入れ当日、後先を考えることなく逃げ出してしまった。困った父は、こんな時だけ重華を娘扱いし、鈴麗が見つかるまで身代わりを務めるように命じる。
皇帝である李 晧月は、後宮の妃嬪たちに全く興味を示さないことで有名だ。きっと重華にも興味は示さず、身代わりだと気づかれることなくやり過ごせると思っていたのだが……
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
宮廷の九訳士と後宮の生華
狭間夕
キャラ文芸
宮廷の通訳士である英明(インミン)は、文字を扱う仕事をしていることから「暗号の解読」を頼まれることもある。ある日、後宮入りした若い妃に充てられてた手紙が謎の文字で書かれていたことから、これは恋文ではないかと噂になった。真相は単純で、兄が妹に充てただけの悪意のない内容だったが、これをきっかけに静月(ジンユェ)という若い妃のことを知る。通訳士と、後宮の妃。立場は違えど、後宮に生きる華として、二人は陰謀の渦に巻き込まれることになって――

【完結】World cuisine おいしい世界~ほのぼの系ではありません。恋愛×調合×料理
SAI
ファンタジー
魔法が当たり前に存在する世界で17歳の美少女ライファは最低ランクの魔力しか持っていない。夢で見たレシピを再現するため、魔女の家で暮らしながら料理を作る日々を過ごしていた。
低い魔力でありながら神からの贈り物とされるスキルを持つが故、国を揺るがす大きな渦に巻き込まれてゆく。
恋愛×料理×調合
後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~
菱沼あゆ
キャラ文芸
突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。
洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。
天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。
洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。
中華後宮ラブコメディ。
とあるおっさんのVRMMO活動記
椎名ほわほわ
ファンタジー
VRMMORPGが普及した世界。
念のため申し上げますが戦闘も生産もあります。
戦闘は生々しい表現も含みます。
のんびりする時もあるし、えぐい戦闘もあります。
また一話一話が3000文字ぐらいの日記帳ぐらいの分量であり
一人の冒険者の一日の活動記録を覗く、ぐらいの感覚が
お好みではない場合は読まれないほうがよろしいと思われます。
また、このお話の舞台となっているVRMMOはクリアする事や
無双する事が目的ではなく、冒険し生きていくもう1つの人生が
テーマとなっているVRMMOですので、極端に戦闘続きという
事もございません。
また、転生物やデスゲームなどに変化することもございませんので、そのようなお話がお好みの方は読まれないほうが良いと思われます。
極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~
恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」
そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。
私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。
葵は私のことを本当はどう思ってるの?
私は葵のことをどう思ってるの?
意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。
こうなったら確かめなくちゃ!
葵の気持ちも、自分の気持ちも!
だけど甘い誘惑が多すぎて――
ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。
このユーザをミュートしますか?
※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。
退会済ユーザのコメントです