天地狭間の虚ろ

碧井永

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終章(2/2)

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 皇宮こうきゅうの裏――北の方角には泰山たいざんがある。
 その奥には、小さな湖と表現するのが相応しい池があった。静かな畔にたたずんでいるのは一人の男。大袖に両手を入れて立つ男の髪には降りだした雪が絡み、銀糸のような見事な長髪は普段以上に輝きを放っていた。
 鵞毛がもうに似た雪が水面に落ちるさまは、空へ羽ばたいていく鳥の落とした白い羽根が深淵に吸い取られていくようで、とても幻想的だった。ここにいる目的を忘れ、しばし男は池を眺める。
(これだから始末が悪い)
 下界の美しさに男は魅了されている。
 その男の顔貌のほうがはるかに美しいにもかかわらず。
 記憶と現在の景色が重なり交錯する。
 かつて男はこの場所で、一人の女人女性と出逢った。
 それは男の感覚にしてみれば然程前のことではない。
 女は言った。
『子が欲しいのです。ここには、会えば子を授けてくれる仙人がいると聞いていましたので』
 街の噂を信じてわざわざ願掛けにやって来たのだ。
 浸かれば子を授かる池があっただけで、仙人が棲むというのはまた別の話であった。男はほろりと笑う。それは、信じた女を滑稽に思ったからではない。
 一目惚れしたのだ。
 男の立場からすれば、まさに〝禁断の〟一目惚れであった。
 それまで男の目には〝人〟の女というものは、成長の違いはあるにせよ、みな同じふうに映っていた。こだわりなどなかった。なのに、どうしてか。その女だけは光り輝いて見えたのだ。魅了されていた下界の景色がかすむほどに。初体験だった。目を伏せたかげりのある表情は美しく、そんな彼女の美貌に目が眩み、足を踏みはずしたような衝撃を味わった。否、事実、足を踏みはずし地に堕ちた。
 なにがどう異なっていたのか――正直、未だにわからない。
 それでも確かなのは、愛した、ということ。
(わからないからこそ愛を求めるのか……)
 結果的、女は望みをかなえた。
 逢瀬を重ねるうち、愛欲に溺れ、迂闊にも男が手をだしてしまったことによって。相手は夫ではないが、身籠ったのだ。胎内はらに宿ったのが女児だと、男にはすぐにわかった。
 罪に溺れていく我が身を救うこともできず、自重で泥沼に沈んだまま窒息してしまいそうな日々だった。朝から次の朝まで彼女のことだけを追っていた果てのない、想い。人類の繁栄は恋なくしてはあり得ない。だがしかし、自分はその外側にいる存在。頭では理解できていても、心が止まらない。
 愛しているから心を壊されてもかまわない、狂おしくそう想った。
 ああ、これこそが――
(人というもの)
 この世にはもう存在しない、彼女。
 儚く散ってしまった命。それでも血を受け継ぐ者がいるのなら。
「――――」
 男は、愛しい我が子の名を呼び続ける。
 ただ、名を、呼び続ける。
(彼女の夫は、気づいたのだろうか……?)
 手許に抱いているのが自分の子ではないと。
(だから遊興と性の売買がなされる妓楼へと、娘を放りだしたのか)
 妻の不義を罪と責め、遊興の末に生まれた子の捨て場として。
(平然と追いやったのは、それが理由か?)
 彼女が夫のもとへ帰りたいと願ったから、その手を離した。
 ゆるした。
 離れた瞬間からなにかが、どこかが、更に狂ってしまったのだろうか……。
(なにかが不足したから、二人、その分だけなにかを手に入れようとして)
 狂ってしまったのか。
 捨てられた娘が心配で、男は毎晩妓楼に通い続けた。
 入宮するまで自分が指名すれば、娘は汚されることはない。後宮に入れば、手紋しゅもんをもつ皇帝が娘の夫となる。自分以外の男に託すなど不本意ではあるが。いや、むしろ皇帝も憎い。いつか皇帝に「お義父さん」と呼ばれるのかと世間一般の想像をするだけで殴ろうとする掌を抑えられないが。(あの孺子こぞうならば娘を見出すだろう)そんなふうに望みをつないで登楼とうろうしているうち。
 またしても事態は、男の思考の更に先をいった。
 あろうことか、あの冥王が、娘に目をつけたのだ。(こいつ見る目あるじゃないか)と冥王の趣味を褒める反面、とっ捕まえて(なにさまだッ)と頭をひっぱたいてやりたい衝動に駆られた。に見初められるならさっさと娘をかっさらって手許に囲っておけばよかったと、理性を失うほどの後悔の波だけが繰り返し押し寄せる。……でも。
(だめだ。できない。愛した彼女の遺志に反するから)
 護りたいと思えるものがあるうちは後悔から目を逸らすしかない。
 男はじっと耐えた。
 とある妓女に『身請けしてくれ』とすがられ、断って、室から飛び降りるまで。
 そうして予想外の事態は続き、娘と冥王にそろって目撃されてしまった。そこは自分の失敗であるがどうにも我慢がならず、男は片足でばんばんと地面を蹴った。冥王は姓をえん、名を羅翔らしょうという。俗称・閻羅王えんらおうを狙ってのことであるが蹴りが地獄まで到達するはずもない。傍から見れば融通のきかない子供の所業である。

 ままならぬは浮き世かな。
 ほろりと、男は笑う。
 ――だから人はおもしろい。

「父親、か。……呆れるほど人らしくなったものだ」
 雪、舞い踊る池の畔。
 空から降る無垢な色はたたずむ者を照らしだす。
 笑いまじりに呟くのは、天帝の使役神の一。
 風の使役神である彼は地上に棲むとき福禄寿ふくろくじゅと名のっている。



 なぜ十二神将と張り合ったのか。
 ――忘却の彼方とは、このことか……。
 裁判の合間、ぽっかりと空いてしまった時間をもてあまし、閻羅王は執務室の机案つくえに頬杖をつき、残りの手で筆を揺すっている。
 暇とは厄介なものである。
 ついうっかり意味もなく、過ぎた時に想いをはせてしまうのだ。
 そうしていらんことを思い出す。
 神将と争って大地をめちゃくちゃに破壊したのは、人の時間でいうところの遥か昔。冥王の率いるの軍団が陽間〈この世〉に溢れるのを恐れた人間は、冥王に争いを忘れさせるために〝花嫁〟を与えることにした。
 花嫁を与えて恋に溺れさせれば争いを忘れるだろう――そう考えたのだ。
(なんて芸のない思考か。だが……)
 単純だが、男には実に効果的な方法である。
 そうして地上の皇帝は、皇后を死出の道連れとするようになった。なぜ皇后かといえば、陰間〈あの世〉の冥王と陽間の皇帝が同等位であるからだ。低い身分の女では冥王には釣り合わない。これが陰陽間で婚儀が行われることになった習わしのはじまりである。
 最初は不文律であってものちに定着し、慣習化する、それが歴史というものだ。何事にも原因があり、問題が起こる理由がある。だが、本来の原因と理由は時の狭間に埋没し、意味不明の伝統儀礼だけが遺されていく。
 争いを忘れた今代の冥王に花嫁は不要であるというのに……。
 そういう意味では、生きた女人を犠牲にしないという現皇帝の判断は正しかったのだ。
 先の皇帝が冥界に墜ちたのを機に、ふっと陽間へ行ってみようという気持ちが湧いた。これといった原因も目的もない。今に飽きて気まぐれを起こしたとでもいえばいいだろうか。
 そうしてふらりと寄った妓楼で丹緋たんひを見つけてしまったのだ。
 にえがどうこうではなく、彼女を欲した。
 陰の気を色濃く纏っていた。
 人特有の孤独ゆえに鬼になりかけていた。
 そんな彼女に。
 美醜も年齢も関係ない。陰性の強烈さ、それが一目惚れした理由だった。
 人が踏みこんではいけない闇の領域まで生きたまま墜ちようとしていたのに、まさか陽間の頂点に立つ皇帝が彼女に執着するとは。
(笑える)
 まったく退屈というものは思考と感覚を狂わせる。
(次に彼女と出逢ったら)
 譲らない。
(目を瞑っている間にすべてを済ませてやる!)
 身体からだも心も、目線も、逃げ場をなくして。揺さぶり、どんな顔をしたらいいのかわからなくなるほど甘やかして――
 そこで、慎重に紡いできた糸が切れるようにふつりと思考が途切れる。
 扉の外から冥官めいかんに声をかけられた閻羅王は、愉しく描いていた未来予想図の展開を遮られて、ちょっぴり乱暴に筆を放りだした。
「その身に流れる混血は冥界でこそ活かされる」

 ちなみに。
 皇帝に問うた答えは――
 解きがたい謎であるが、強いて解く必要もなく。
「鬼に歳などない」
 それだけのこと。
 鬼は、歳などかぞえないのだから。
 話し合いなんぞ要求せずに「わからん」と答えれば、まあ、正解だったのだが。
 なにについても考えすぎる、それが人というものか――。



 血を吐くほどの哀しみも、胸を焦がすほどの喜びも、すべてはここにあるのが現実。
 刹那に不要のものなどありはしない。
 天と地の狭間で人は確かに生きている――

 史館監修国史しかんかんしゅうこくし郭彪之かくひょうしによって綴られた史書の書きだしである。
 れい王朝大統だいとう三年の幕が開く。





《長い間読んでくださってありがとうございました》


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