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第六章(2/3)
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第二景
一連の騒動が終息に向かいはじめた頃――
可もなく不可もない容貌の男が一つの殿舎を目指して歩いていた。
男が目立たないからか、はたまた皇宮内の騒ぎに気をとられてか。男の行く手を阻む武官はいなかった。
回廊を渡り、室へと足を踏み入れる。
そこは男の暮らす殿舎ではない。
殿舎の主が、人の気配を感じて振り返る。歳は二十半ばを過ぎているはずだが、気品と一緒に余すところなく垂れ流される少女のような愛らしさが、彼女のおかれている状況を物語っている。その顔には喜色が浮かんでいた。
「……え? 貴方、いきなり……無礼でしょう。わたくしの殿舎に許しもなく」
男は男でも、入ってきたのが〝待ち人〟ではなかったのだろう。
主は不機嫌を隠しもせず、つりぎみの目を喫驚混じりに見開いた。
男が室まで踏み込めたのは侍女がいないからだ。おそらくは、主が人払いしたせいで。
「わたくしは皇帝の妻、室に無断で侵入するなど」
ここは貴妃の殿舎であった。つまり、鄭氏の住まいなのだ。
立后のなされていない今日、皇后の位に次ぐ貴妃には相応の発言力がある。だけでなく貴妃鄭氏は、黎緋逸が皇帝になる前からの正式な妻であり地位は磐石であった。
「ああ、これはご無礼を。本当に」
男があらためて揖礼すれば、鄭氏は柳眉をひそめた。
これまで挨拶程度しか言葉を交わしたことのない男だった。こんなふうにしゃべるのか、と思ったのだ。印象と違う、と。
(いいえ、そういえば……)
鄭氏は記憶を手繰るようにして目を細めた。
以前に一度だけ――そこまで考えたところで、男に声をかけられる。感情のみえない抑揚の乏しい声だった。
「心を癒す陽に百年の夢を。身体を癒す月に千年の恋を。――これは私の書いた詩、憶えてますか?」
脈絡なく尋ねられたようにも聞こえるが、そうではない。男は、惑う鄭氏の思考を助けたのだ。絶妙の頃合いで。
「貴妃はこの詩が気に入ったと言った。あのとき私は詩を差し上げると答えた。四喜苑でのことですよね。薄紅の花片が風に煽られ宙を舞う、まるで夢のような日だったな」
四喜苑は、前王朝の皇帝が築いた宮城内の園林の一つである。四つの慶事が重なったことを祝して造園されたといわれている。ゆえに四喜〈なんでも思いどおりになるほど〉と名づけられたのだ。
この瞬間、妙な胸騒ぎがした。
たとえようのない不安が鄭氏の身体を駆けめぐる。
と同時に、身体の芯からなにかが崩れ落ちるような複雑な気持ちを味わっていた。
とはいえ。
鄭氏には、呑気に世間話をしている時間はなかった。今やるべきは男を室から早々に追い出すこと。にもかかわらず、なぜか会話を遮れない。男の紡ぐ言葉はすべて無意味に虚空へ散っていく気がするのに、そう思うのに……。
鄭氏は必死に、男の意図するところをつかもうとした。が、できない。なぜなら男の顔に感情がのらないからだった。目に意思がこもっていないのだ。目は心の鏡という。目に力がなければ心を読むのは難しい。
それなのにどういうわけか、へたに目を合わせたらこちらの事情をごっそり読みとられそうな気にさせる。
底なしの泥沼に引きずりこまれるような焦りが生じた。
「貴妃に差し上げた詩のしめくくりはこうです。――夢と恋の炎で大地を燃やしてしまおう。私と同じ名の花の咲く、大地を――あまりできのよい詩ではなかったですけれどね。あの詩、貴妃はどうしたのかな?」
「……あ」
鄭氏は思い出した。どうしたのかを……。
「誰かに、ああそうね、愛人の蒼呉にあげたんじゃないのかな」
「どうし――っ!?」
どうしてそれを、と叫びかけて、鄭氏は口を噤んだ。これまで笑ったことのない男が口唇の片端を上げて笑ったように見えたからだ。
しかし、気のせいだったらしい。
「自分の妻に愛人がいたこと、陛下は気づいていたようだね。男の勘がはたらいたのかな? あの人ああ見えて寂しがりやなんだよ、妻にかまってほしかったんだろうね。相手にしてもらえなかったものだから、可哀想に。と、他者に思われること自体が不憫で哀れ」
「……わたくしが不義を、……不徳を犯したというのですか。そのような謗り、受けるいわれは」
「内乱の前から、鄭貴妃と呼ばれる前から、貴女は蒼呉と関係があった。すでに、蒼呉の兄の妻であったにもかかわらず。そのこと、口にださないだけで陛下は気づいてたんだよ。言ったら、ほら、男として負けっていうか。ね?」
わかるでしょ、と訊かれても、鄭氏にはわかるはずもなかった。
貴妃の位を剥奪されて処罰される、すれすれのことを男は淡泊に語っているのだ。
真向かいに立つ男はかわらず無表情で、きわどいことをしゃべっているようには思えない。表情と声と話の内容の整合がうまくとれず、鄭氏は、これらのどれを信じればいいのか判断が追いついていかないのだった。
「蒼呉ね、死んだんだって。さっき軍営に伝令が届いたみたいだな」
「……え」
「飛空部に居所をつきとめられて、馬で追ってきた神策軍に包囲されたらしいんだよ。神策軍も捕縛が目的だったから、命までとるつもりはなかったようだけれど。蒼呉もよくなかったな、なまじ武の心得があったものだから反撃したんだろうね。持っていた大弓で応戦しようとして、落馬。首の骨を折って呆気なく落命したらしい」
「そ……れ、嘘……」
男の話は嘘ではないと、魂魄が訴えていた。
「弓を捨てて逃げればよかったのにな」
直感だった。
「あ……あの弓、……わたくしが手配した弓の……せい、で」
鄭氏はその場にくずおれる。
そう――約束どおりなら、今頃、彼はここにいるはず。皇城に火を放ってすぐに、自分を迎えにきてくれるはずだったのだから。
(ここにいない……、来ない……)
待ち人は来ないのだ。
「彼は弓が得意だから、……水仙を狙うのに火矢を射ればいいと思って。よかれと思って、わたくしが実家から取り寄せたのに。そんな……なんてこと……どうして……」
愛する者が死んだなどと、実感が湧かなかった。
なのに、どうしてだろう。
身体は素直に反応するのか、涙が溢れて止まらないのだ。
したたる滴はぽたぽたと虚しい音を奏でて床を叩いている。
その音を、他人事のように聞いている自分がいる。
「どうして? 皇太子だったのは彼で……蒼呉こそが皇帝になるべき人だったはずで」
「内乱に勝って帝位に即いたのは自分の夫だったのにね。夫が嫌いだったのかな?」
問われて、鄭氏は男を見上げた。
虚ろな双眸にはなにも映していなかった。
「嫌い……だったわ。だって、そうでしょう。あの人、凶相で。夫婦として一緒にいるだけで、わたくしまで悪い運勢を背負わされてしまう。それだけではなくて、すごい力のもち主なのでしょう。蒼呉から聞いたのよ、子供の頃、抱きついただけで皇太后の骨を折ったのですってね。……同衾したら、わたくしも骨折させられてしまうわ。そんなの、怖いもの。まっぴらよ。……だからわたくし、抱かれるたびに怯えていて。乱暴に扱われたくなくて。死してのちも冥府にお供しなければならないなんて、……いったいいつになったらあの人との縁が切れるというの? 気が狂いそうになっていたら蒼呉が約束してくれたのよ……自分が皇帝になったら、わたくしを兄から奪ってくれると。兄とは離縁させて、皇帝の妻として迎えてくれると」
貴族の姫として傷ひとつなく大切に育てられたために、切り傷すら負ったことがなかったのだ。骨を折られる――それは鄭氏にとって戦場へ送られるほどの恐怖となった。
想いは過去にからめとられて、誰に話しているのか、最早鄭氏はわからなくなっていた。夢をみているかのようで、罪を告白しているという自覚はない。
意識はただ、朦朧として彷徨うだけ。
「一緒に贅沢をして愉しく遊んで暮らそうと、蒼呉は約束してくれたのよ。幸せだったのに、なのに……あの夜、内乱が起きて……蒼呉は負けて、あっという間に南方に幽閉されてしまったわ」
「ああ、そのすぐあとだったね。私が、貴妃に詩を差し上げたのは」
「詩の中に花が、……南方は水仙の花が美しいともっぱらの噂だったから」
男の詠んだ詩を耳にして、鄭氏はふっと思いついたのだった。
『夢と恋の炎で大地を燃やしてしまおう。私と同じ名の花の咲く、大地を』
鼎国内では珍しいとされている水仙。なにかしら理由をつけて、この花を皇宮内に持ちこめれば。燃やして大火を起こせるかもしれない、と。
今はまだ玉座を奪い返すのは難しくとも、
「皇帝の側近が焼死すれば、官位のいくつかに空きがでるでしょう。そのどれかに蒼呉がおさまってくれれば、またわたくし達、この場所で逢瀬を重ねられる」
考えて、考えて。幽閉中の蒼呉に、苦労して手紙を届けた。
逢いたくて。
忍び逢いでも、幸せになれるならそれでよかった。
そうして蒼呉は皇太后の命日にあわせて天延入りを赦された。
「なかなか上出来です。たぶんね、蒼呉と貴妃の計画はうまくいっていたんじゃないかな」
愛する者を失った今、慰められても心には響かない。
鄭氏を支えるものはなくなった。縋るものは掌から滑り落ちて消えたのだ。
「早朝『大弓を担いで歩いている蒼呉を見た』と神策軍に伝令を出したのは私なんですよ。それだけではなくて、蒼呉が火矢を放てる絶妙の頃合いを見計らって伝令を出しておきました。だから蒼呉は筋書きよりも早く神策軍に囲まれて、逃げるしかなくなったんです」
「な――んっ」
俯けていた顔を、鄭氏は振り上げた。はずみで涙の粒が宙を舞う。
「まだわかりませんか?」
男が口の端を上げた。
今度は見間違いではない、確かに笑ったのだ。
「私が詩を差し上げたのは、四喜苑。あの豪奢なつくりの園林に立てば人は、【四喜】の名につられてなんでも思いどおりになると錯覚する。場所ってね、人の心理に結構影響するんです、不思議なことに。あとね、私は普段、あんなへたな詩は詠みませんよ。本当、心外です。〝偶然〟通りかかった貴妃の心にひっかかりさえすればよかった。詩のできも、夢も恋も、私にはどうでもいい。燃やしてくれれば、それで」
「そんな、貴方っ。大火を起こすために、わたくしを……利用したというの?」
「私は最初からそう言ってましたよ」
(なんてこと!?)
これといった特徴もなく、なにも考えていないように見えるこの男に。
はめられたというのか……?
掌上にめぐらされて……。
操られたとは信じられず、鄭氏は目を瞠る。
「なぜ、どうして。貴方の目的はなんなのですっ?」
「目的なんて」
独白するように言って男は微笑する。
男は笑ったのではない、纏う影が揺らいだだけだった。それを鄭氏が勘違いしただけ。
「ないかな。なにがしたいわけでもないですしね。そうだな、強いて言うなら、すべては生きていくための暇つぶし、といったところかな。なにもしなくても時は流れてしまうから、流れる時の狭間をちょっとでも埋めておきたいという、その程度のこと」
「……その程度のことって」
「生きているうちにどれほどの人を殺せるか。どれほどの人を殺したか、かぞえながら死にたいという程度。ああ私は生き残ったねと死人をかぞえながら笑って死ねたらいいかな」
ね?
男はそこで、また笑う。声にはださず、影を揺らめかせて。微笑みのように。
鄭氏は身震いした。
夫に骨折させられる恐怖とは比べものにならない。真の恐怖はここにある。
押し出しがいい兄弟に比べて見劣りするのは否めない。
けれど、この男こそが。
恐怖を支配する。
「蒼呉はいない。貴妃が皇帝にと望んだ愛人は死んだのだから、慣例にしたがって冥府への道づれになったらいいのでは」
うずくまる鄭氏の眼前で片膝をついた男は懐から小瓶を取り出した。
丁寧に鄭氏の手を引き寄せ、それを握らせる。
「〝酒〟ですよ、呑めば蒼呉も喜ぶでしょうね」
男の顔はいつもの無表情に戻っていた。
蒼呉は恋多き男であり、鄭氏が嫌う夫よりもはるかに気性が荒く野蛮だ。自分が皇帝になったらと声をかけていた女は運びこまれた水仙の花の数ほどいただろう。兄から奪うと約束したのも、彼にしてみれば遊戯の一種にすぎなかったであろう。【約束】という言葉は、傍から見れば憐れなほど人を拘束する。
約束の上をいく、滑稽に、人を拘束する言葉が【愛している】。
蒼呉はただ、策を練ってくれる鄭氏を便利だと思っただけ。使われていると気づけないから鄭氏は、恋する者特有の愛らしさを振りまいていたのだ。
「残念だな、燃やしてくれるのは私と同じ名の花だったらよかったのに。葬送の花として燃やして、鄭貴妃の実家にも贈りたかった。秘密ですよ、貴族をひとつ潰すまでが私の計画でした。お父上、宮中へ送り出した娘が密通したうえに謀叛に加担したなんて知ったらどうするでしょうね?」
この女は、自分がなにをしたのかわかっていない。
両親に愛され甘やかされて育ったために、女は両親の存在を軽視した。
恋をしてはいけないと気づけなかった。
女が身勝手に恋に落ちた代償は九族皆殺し。
たかが恋のせいで一族は滅びる――はずだったが……。
つまらないが、全部が思いどおりにはいかないものだ。それに、個性にすりかえられている主義主張ほどつまらないものはない。だから、こだわりなど無用。
畢竟、泰平の世に慣れるのは退屈に慣れることと同じ。
その先に待つのは混沌の時代だというのに。
そうして人は空虚な想いに駆られ、さすらって――
男は思う。
――秘密は知る者さえいなければ秘密ではない。
一連の騒動が終息に向かいはじめた頃――
可もなく不可もない容貌の男が一つの殿舎を目指して歩いていた。
男が目立たないからか、はたまた皇宮内の騒ぎに気をとられてか。男の行く手を阻む武官はいなかった。
回廊を渡り、室へと足を踏み入れる。
そこは男の暮らす殿舎ではない。
殿舎の主が、人の気配を感じて振り返る。歳は二十半ばを過ぎているはずだが、気品と一緒に余すところなく垂れ流される少女のような愛らしさが、彼女のおかれている状況を物語っている。その顔には喜色が浮かんでいた。
「……え? 貴方、いきなり……無礼でしょう。わたくしの殿舎に許しもなく」
男は男でも、入ってきたのが〝待ち人〟ではなかったのだろう。
主は不機嫌を隠しもせず、つりぎみの目を喫驚混じりに見開いた。
男が室まで踏み込めたのは侍女がいないからだ。おそらくは、主が人払いしたせいで。
「わたくしは皇帝の妻、室に無断で侵入するなど」
ここは貴妃の殿舎であった。つまり、鄭氏の住まいなのだ。
立后のなされていない今日、皇后の位に次ぐ貴妃には相応の発言力がある。だけでなく貴妃鄭氏は、黎緋逸が皇帝になる前からの正式な妻であり地位は磐石であった。
「ああ、これはご無礼を。本当に」
男があらためて揖礼すれば、鄭氏は柳眉をひそめた。
これまで挨拶程度しか言葉を交わしたことのない男だった。こんなふうにしゃべるのか、と思ったのだ。印象と違う、と。
(いいえ、そういえば……)
鄭氏は記憶を手繰るようにして目を細めた。
以前に一度だけ――そこまで考えたところで、男に声をかけられる。感情のみえない抑揚の乏しい声だった。
「心を癒す陽に百年の夢を。身体を癒す月に千年の恋を。――これは私の書いた詩、憶えてますか?」
脈絡なく尋ねられたようにも聞こえるが、そうではない。男は、惑う鄭氏の思考を助けたのだ。絶妙の頃合いで。
「貴妃はこの詩が気に入ったと言った。あのとき私は詩を差し上げると答えた。四喜苑でのことですよね。薄紅の花片が風に煽られ宙を舞う、まるで夢のような日だったな」
四喜苑は、前王朝の皇帝が築いた宮城内の園林の一つである。四つの慶事が重なったことを祝して造園されたといわれている。ゆえに四喜〈なんでも思いどおりになるほど〉と名づけられたのだ。
この瞬間、妙な胸騒ぎがした。
たとえようのない不安が鄭氏の身体を駆けめぐる。
と同時に、身体の芯からなにかが崩れ落ちるような複雑な気持ちを味わっていた。
とはいえ。
鄭氏には、呑気に世間話をしている時間はなかった。今やるべきは男を室から早々に追い出すこと。にもかかわらず、なぜか会話を遮れない。男の紡ぐ言葉はすべて無意味に虚空へ散っていく気がするのに、そう思うのに……。
鄭氏は必死に、男の意図するところをつかもうとした。が、できない。なぜなら男の顔に感情がのらないからだった。目に意思がこもっていないのだ。目は心の鏡という。目に力がなければ心を読むのは難しい。
それなのにどういうわけか、へたに目を合わせたらこちらの事情をごっそり読みとられそうな気にさせる。
底なしの泥沼に引きずりこまれるような焦りが生じた。
「貴妃に差し上げた詩のしめくくりはこうです。――夢と恋の炎で大地を燃やしてしまおう。私と同じ名の花の咲く、大地を――あまりできのよい詩ではなかったですけれどね。あの詩、貴妃はどうしたのかな?」
「……あ」
鄭氏は思い出した。どうしたのかを……。
「誰かに、ああそうね、愛人の蒼呉にあげたんじゃないのかな」
「どうし――っ!?」
どうしてそれを、と叫びかけて、鄭氏は口を噤んだ。これまで笑ったことのない男が口唇の片端を上げて笑ったように見えたからだ。
しかし、気のせいだったらしい。
「自分の妻に愛人がいたこと、陛下は気づいていたようだね。男の勘がはたらいたのかな? あの人ああ見えて寂しがりやなんだよ、妻にかまってほしかったんだろうね。相手にしてもらえなかったものだから、可哀想に。と、他者に思われること自体が不憫で哀れ」
「……わたくしが不義を、……不徳を犯したというのですか。そのような謗り、受けるいわれは」
「内乱の前から、鄭貴妃と呼ばれる前から、貴女は蒼呉と関係があった。すでに、蒼呉の兄の妻であったにもかかわらず。そのこと、口にださないだけで陛下は気づいてたんだよ。言ったら、ほら、男として負けっていうか。ね?」
わかるでしょ、と訊かれても、鄭氏にはわかるはずもなかった。
貴妃の位を剥奪されて処罰される、すれすれのことを男は淡泊に語っているのだ。
真向かいに立つ男はかわらず無表情で、きわどいことをしゃべっているようには思えない。表情と声と話の内容の整合がうまくとれず、鄭氏は、これらのどれを信じればいいのか判断が追いついていかないのだった。
「蒼呉ね、死んだんだって。さっき軍営に伝令が届いたみたいだな」
「……え」
「飛空部に居所をつきとめられて、馬で追ってきた神策軍に包囲されたらしいんだよ。神策軍も捕縛が目的だったから、命までとるつもりはなかったようだけれど。蒼呉もよくなかったな、なまじ武の心得があったものだから反撃したんだろうね。持っていた大弓で応戦しようとして、落馬。首の骨を折って呆気なく落命したらしい」
「そ……れ、嘘……」
男の話は嘘ではないと、魂魄が訴えていた。
「弓を捨てて逃げればよかったのにな」
直感だった。
「あ……あの弓、……わたくしが手配した弓の……せい、で」
鄭氏はその場にくずおれる。
そう――約束どおりなら、今頃、彼はここにいるはず。皇城に火を放ってすぐに、自分を迎えにきてくれるはずだったのだから。
(ここにいない……、来ない……)
待ち人は来ないのだ。
「彼は弓が得意だから、……水仙を狙うのに火矢を射ればいいと思って。よかれと思って、わたくしが実家から取り寄せたのに。そんな……なんてこと……どうして……」
愛する者が死んだなどと、実感が湧かなかった。
なのに、どうしてだろう。
身体は素直に反応するのか、涙が溢れて止まらないのだ。
したたる滴はぽたぽたと虚しい音を奏でて床を叩いている。
その音を、他人事のように聞いている自分がいる。
「どうして? 皇太子だったのは彼で……蒼呉こそが皇帝になるべき人だったはずで」
「内乱に勝って帝位に即いたのは自分の夫だったのにね。夫が嫌いだったのかな?」
問われて、鄭氏は男を見上げた。
虚ろな双眸にはなにも映していなかった。
「嫌い……だったわ。だって、そうでしょう。あの人、凶相で。夫婦として一緒にいるだけで、わたくしまで悪い運勢を背負わされてしまう。それだけではなくて、すごい力のもち主なのでしょう。蒼呉から聞いたのよ、子供の頃、抱きついただけで皇太后の骨を折ったのですってね。……同衾したら、わたくしも骨折させられてしまうわ。そんなの、怖いもの。まっぴらよ。……だからわたくし、抱かれるたびに怯えていて。乱暴に扱われたくなくて。死してのちも冥府にお供しなければならないなんて、……いったいいつになったらあの人との縁が切れるというの? 気が狂いそうになっていたら蒼呉が約束してくれたのよ……自分が皇帝になったら、わたくしを兄から奪ってくれると。兄とは離縁させて、皇帝の妻として迎えてくれると」
貴族の姫として傷ひとつなく大切に育てられたために、切り傷すら負ったことがなかったのだ。骨を折られる――それは鄭氏にとって戦場へ送られるほどの恐怖となった。
想いは過去にからめとられて、誰に話しているのか、最早鄭氏はわからなくなっていた。夢をみているかのようで、罪を告白しているという自覚はない。
意識はただ、朦朧として彷徨うだけ。
「一緒に贅沢をして愉しく遊んで暮らそうと、蒼呉は約束してくれたのよ。幸せだったのに、なのに……あの夜、内乱が起きて……蒼呉は負けて、あっという間に南方に幽閉されてしまったわ」
「ああ、そのすぐあとだったね。私が、貴妃に詩を差し上げたのは」
「詩の中に花が、……南方は水仙の花が美しいともっぱらの噂だったから」
男の詠んだ詩を耳にして、鄭氏はふっと思いついたのだった。
『夢と恋の炎で大地を燃やしてしまおう。私と同じ名の花の咲く、大地を』
鼎国内では珍しいとされている水仙。なにかしら理由をつけて、この花を皇宮内に持ちこめれば。燃やして大火を起こせるかもしれない、と。
今はまだ玉座を奪い返すのは難しくとも、
「皇帝の側近が焼死すれば、官位のいくつかに空きがでるでしょう。そのどれかに蒼呉がおさまってくれれば、またわたくし達、この場所で逢瀬を重ねられる」
考えて、考えて。幽閉中の蒼呉に、苦労して手紙を届けた。
逢いたくて。
忍び逢いでも、幸せになれるならそれでよかった。
そうして蒼呉は皇太后の命日にあわせて天延入りを赦された。
「なかなか上出来です。たぶんね、蒼呉と貴妃の計画はうまくいっていたんじゃないかな」
愛する者を失った今、慰められても心には響かない。
鄭氏を支えるものはなくなった。縋るものは掌から滑り落ちて消えたのだ。
「早朝『大弓を担いで歩いている蒼呉を見た』と神策軍に伝令を出したのは私なんですよ。それだけではなくて、蒼呉が火矢を放てる絶妙の頃合いを見計らって伝令を出しておきました。だから蒼呉は筋書きよりも早く神策軍に囲まれて、逃げるしかなくなったんです」
「な――んっ」
俯けていた顔を、鄭氏は振り上げた。はずみで涙の粒が宙を舞う。
「まだわかりませんか?」
男が口の端を上げた。
今度は見間違いではない、確かに笑ったのだ。
「私が詩を差し上げたのは、四喜苑。あの豪奢なつくりの園林に立てば人は、【四喜】の名につられてなんでも思いどおりになると錯覚する。場所ってね、人の心理に結構影響するんです、不思議なことに。あとね、私は普段、あんなへたな詩は詠みませんよ。本当、心外です。〝偶然〟通りかかった貴妃の心にひっかかりさえすればよかった。詩のできも、夢も恋も、私にはどうでもいい。燃やしてくれれば、それで」
「そんな、貴方っ。大火を起こすために、わたくしを……利用したというの?」
「私は最初からそう言ってましたよ」
(なんてこと!?)
これといった特徴もなく、なにも考えていないように見えるこの男に。
はめられたというのか……?
掌上にめぐらされて……。
操られたとは信じられず、鄭氏は目を瞠る。
「なぜ、どうして。貴方の目的はなんなのですっ?」
「目的なんて」
独白するように言って男は微笑する。
男は笑ったのではない、纏う影が揺らいだだけだった。それを鄭氏が勘違いしただけ。
「ないかな。なにがしたいわけでもないですしね。そうだな、強いて言うなら、すべては生きていくための暇つぶし、といったところかな。なにもしなくても時は流れてしまうから、流れる時の狭間をちょっとでも埋めておきたいという、その程度のこと」
「……その程度のことって」
「生きているうちにどれほどの人を殺せるか。どれほどの人を殺したか、かぞえながら死にたいという程度。ああ私は生き残ったねと死人をかぞえながら笑って死ねたらいいかな」
ね?
男はそこで、また笑う。声にはださず、影を揺らめかせて。微笑みのように。
鄭氏は身震いした。
夫に骨折させられる恐怖とは比べものにならない。真の恐怖はここにある。
押し出しがいい兄弟に比べて見劣りするのは否めない。
けれど、この男こそが。
恐怖を支配する。
「蒼呉はいない。貴妃が皇帝にと望んだ愛人は死んだのだから、慣例にしたがって冥府への道づれになったらいいのでは」
うずくまる鄭氏の眼前で片膝をついた男は懐から小瓶を取り出した。
丁寧に鄭氏の手を引き寄せ、それを握らせる。
「〝酒〟ですよ、呑めば蒼呉も喜ぶでしょうね」
男の顔はいつもの無表情に戻っていた。
蒼呉は恋多き男であり、鄭氏が嫌う夫よりもはるかに気性が荒く野蛮だ。自分が皇帝になったらと声をかけていた女は運びこまれた水仙の花の数ほどいただろう。兄から奪うと約束したのも、彼にしてみれば遊戯の一種にすぎなかったであろう。【約束】という言葉は、傍から見れば憐れなほど人を拘束する。
約束の上をいく、滑稽に、人を拘束する言葉が【愛している】。
蒼呉はただ、策を練ってくれる鄭氏を便利だと思っただけ。使われていると気づけないから鄭氏は、恋する者特有の愛らしさを振りまいていたのだ。
「残念だな、燃やしてくれるのは私と同じ名の花だったらよかったのに。葬送の花として燃やして、鄭貴妃の実家にも贈りたかった。秘密ですよ、貴族をひとつ潰すまでが私の計画でした。お父上、宮中へ送り出した娘が密通したうえに謀叛に加担したなんて知ったらどうするでしょうね?」
この女は、自分がなにをしたのかわかっていない。
両親に愛され甘やかされて育ったために、女は両親の存在を軽視した。
恋をしてはいけないと気づけなかった。
女が身勝手に恋に落ちた代償は九族皆殺し。
たかが恋のせいで一族は滅びる――はずだったが……。
つまらないが、全部が思いどおりにはいかないものだ。それに、個性にすりかえられている主義主張ほどつまらないものはない。だから、こだわりなど無用。
畢竟、泰平の世に慣れるのは退屈に慣れることと同じ。
その先に待つのは混沌の時代だというのに。
そうして人は空虚な想いに駆られ、さすらって――
男は思う。
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