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第五章(1/3)
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第五章
その感情は唐突に湧きあがった。
ここ数日、あまり眠れていない緋逸は早い時刻に起床していた。朝議がはじまるまで、まだかなりの余裕がある。することもないのでもそもそと着替え、朝焼けと星のまたたきが混ざる空へと何気なく視線を転じて――。
ふと脳裏によみがえったのは、玉が触れ合うようなさやかな声音。
『まるで、今宵の星空を映したようにきれいですね。とても……素敵です』
城壁に登った夜、丹緋が口にした言葉だった。
それはたどたどしく語られた彼女の想い。
無口な彼女にしては珍しく、だからこそ余計に胸にずんっと響いた。そんなふうに見てくれていたのかと嬉しくて。
嫌われることの多い三白眼から目を逸らさずに伝えてくれた。
(だというのに、私は詫びもせず突き放した)
こめかみのあたりがカッと熱くなる。
突然に身体を支配した情動は、もう、抑えきれない。
欲望のままに叫んでいた。
「誰かッ、馬を引いてこい!」
第一景
早朝の澄み渡る空気がひときわ、しんと静まる周囲に寒さを伝えていた。
緋逸は手綱をたくみに操り園林の点在する宮城内を突っ切っていく。馬術と速度に護衛の武官達が追いついてこられないがかまわずに、丹緋の殿舎を目指して馬を飛ばした。
目的の殿舎の前庭で馬を降りる緋逸の視界に入ったのは、季節はずれに咲く一輪の牡丹だった。この大輪の花をはじめて見てから随分と日が経つが、未だ枯れることなく、紅い牡丹は自己主張するように花開いている。
(奇妙な牡丹だ。これをここに植えかえたのは侍女だと丹緋が言っていたな……)
人の優しさに触れて嬉しそうにしていた丹緋を思い出し、そういえば、と緋逸は両目を眇めた。
丹緋の殿舎で一度も侍女を見ていない、と思ったのだ。権力におもねらない美信に人選を任せたので万に一つも間違いはないはずだが……。
一抹の不安が緋逸の心をよぎったものの、丹緋に逢いたいという気持ちがまさった。逸る想いは最早制御できずに、住まいへと続く石段を二段飛ばしで駆け上がっていく。
「くそっ。なんでこんなに広いんだ」
物理的な距離が、等しく、丹緋との心の距離を表しているようで。二人を別つ原因が自分にあると、自分で自分の首を絞めている苦い気分を味わいながら、己が所有する建物に小声で毒づいた。やりきれない想いをぬぐえないまま、室内へ至る回廊を渡る。
妙な風が吹きはじめていた。
決して強くはないが建物をなめるように風が吹き込んでくる。
(こんな日に火災が起こると面倒だな)
皇城は密集地だ。肩越しにちらと皇城の方角を振り返りつつ、室の中へと足を踏み入れる。丹緋、と名を呼ぼうとして、まだ寝ている時刻であることにやっと気づいたのだった。
恋する者は厚かましくなる。
どうするか。
そう考えた一瞬ののち、緋逸は目を見開いた。
吸い寄せられて目が離せない。
二人で夜を越した榻で、片腕を枕にしてもたれていたのは丹緋だった。
「丹緋っ」
吼えるように名を呼べば、頬に落ちる睫の影が揺れる。どうやら眠ってはいなかったようで丹緋はすぐに半身を起こした。纏っているのは襦裙で、結い髪もほどかれていない。
「なんだ、なにしてる? こんなところで……まさか、寝ていたのかっ」
反射的に駆け寄れば、丹緋の小さな身体は寒そうに震えていた。贈った毛皮を掛布がわりにしていたらしいが。狐白裘の白さがいっそう、彼女の顔を蒼白く見せていて。
針を呑み込んだような痛みを覚える。
「なんなのだ? 風邪をひいたらどうするっ」
感情のまま怒鳴りつけて、直後、失敗したと落ち込んだ。
これではあの夜と同じになってしまう……。
怯えさせないよう、緋逸はそうっと丹緋の隣に腰をおろした。触れてもいいか迷い、結局は背もたれに片腕を伸ばして彼女を懐に囲うようにしただけ。
「なにがあった? 侍女はどうした?」
「……あ。いえ、あのっ、……まだ朝早いですから」
「そうか。いなくて当然か。で? 眠っていた様子ではないが其方は――うっ」
言いかけて、緋逸は息がつまった。
こちらを仰ぎ見る丹緋の双眸が、あまりに純真で、無垢で、気圧されてしまったのだ。心の臓を射抜かれて、強く感じる。丹緋は美しいだけの女人ではない。内に秘めた、心惹かれずにはいられない特別ななにかが、彼女には備わっているのだと。
これまで緋逸は心のどこかで(丹緋とは歳が離れているから)と、大人ぶっていた。けれど、間違っていた。そうと気づいてしまった。丹緋はひとつの個、立派な女人なのだ。
「緋逸様は、……そのっ」
「うん?」
「なにしにこの殿舎にいらっしゃったのですか」
「なにしに、って。其方に逢いたくて、私が酷いことをしたからと反省し……て」
言い終わらないうちに、丹緋の美貌がくっとゆがんだ。その頼りない姿がなぜか緋逸には、居場所を探し求めた子供の頃の自分と重なって見えて、差し延べられた繊手を思わずつかんでしまう。
「そ……う、ですか。よかった。わたしはてっきり殿舎を、……いえ、お逢いできて」
嬉しいです――安堵したようにそう続ける彼女の口唇は動いただけで声にはならない。
緋逸はたまらない気持ちになった。
こんな切ない感情を味わったのははじめてで。
よくも今朝まで顔を見ずにいられたものだ。眠れなかったのは、きっと、丹緋も同じ。名が似ているように、二人には似ているところが多い。遠い日に失った心の欠片もまた、同じ形をしているのかもしれない。だから彼女が必要なのだと改めて思い知った。
丹緋の肩に狐白裘をかけてやる。そうしてから緋逸は、徐々に力をこめて胸の中へと引き入れた。怪力で丹緋を抱きつぶさないように。毛皮は厚く柔らかい、抱き込む衝撃をやわらげてくれるだろう。
「独りにして、すまなかった。……其方には嫌われたくなくて黙っていたが、私には」
細い首筋を撫でながら、秘密を打ち明けようとした。けれど、しっとりと吸いつく柔肌に触れてしまえば、魂魄から震えが起こる。欲情を止められなかった。
「私は其方に転んだのだ、落ちるだけ落ちよう。その責任を、とってくれないか」
え――と問う丹緋の淡い声までもが胸を震わせる。
丹緋の柳腰を引き寄せた緋逸は、背中へと回していたもう片方の手を伸ばして顎をすくい上げた。暴かれた彼女の白く細い首筋に、口唇を這わせる。
首は人の急所だから、いきなり触れられれば人は怯える。恐れを感じたらしい丹緋の身体も逃げを打った。しかし、それを許さない。肌から肌へと口唇を少しずつ這わせていく。
最後にそっと、彼女の丹唇に口づける。
重ねた口唇は触れただけ。
「丹緋」
互いの吐息が混ざるほどの至近距離で名を呼べば、彼女は従順に頷いて目を伏せた。
長い睫が揺れるのを見下ろして、緋逸は冷たい滴に打たれたようにハッとなった。
(言うべきなにかを飛ばしてしまったような……)
今日まで順序よく慎重に進めてきたのに、最も重要な部分を抜かして先に移ってしまったような気がしたのだ。男としてそこに気づけたのは正しいが、このときの緋逸にはなにを言えば正解なのか判然としなかった。
(これ以上はまずいな。自制しなければ)
少しだけ身体を離し、緋逸はうろうろと視線を彷徨わせた。
気を紛らわそうと別の話題を見つけようとして、室の向かい側の円卓に目がいった。卓上に置かれているのは白磁の一輪挿しで、白い花が咲き誇っている。
(さっきも季節はずれに咲く牡丹を見たばかりだが)と首をかしげつつ、
「あの花も侍女が?」
深い意味をもって訊いたのではない。甘い感情に流されそうになる雰囲気をかえたくて適当に話を振っただけだった。緋逸は油断していた。
そして、予想外の答えが返される。
「あれは南方に咲く水仙というのだそうです。先日、蒼呉様がくださいました」
「なッ――んだと。……蒼呉に、会ったのか? なにかされなかったか?」
あの弟は〝恋魔〟と呼ばれるほど恋多く、女にだらしない。民の血税をすべて己の快楽につぎ込む男だ。美女の多い皇宮から追放され、南方の幽閉生活で女に飢えているだろう。
緋逸の焦りを知ってか知らずか丹緋は首を振った。
「なにも。護衛の武官さんが間に入ってくれましたので。蒼呉様は水仙をくださっただけで、とくにこれといったお話も」
緋逸は内心で舌打ちしながら立ち上がった。大股で室を横切り、円卓の前まで行く。
女人に花を贈るなど、派手好き女好きの蒼呉がやりそうなことだと呆れながら、わずかに身を屈めたときだった。鼻先をかすめるものがあった。
「うん? ……この匂いは」
「なにか匂いが? お花の手入れは侍女がしてくれていたのですけれど。あ!」
急に態度のかわった緋逸を心配したのだろう、いつの間にか、丹緋が傍に来ていた。小さく声をあげて同じように身を屈め、記憶を手繰っているのか目をしばたたかせている。
「この匂い、これは花の香りではないですね。異国の、西方の油の臭いです」
「油? 確かか?」
「思い出しました。父が取り引きしている隊商の荷の中に、量はわずかでしたけれどもこれと同じ臭いの油がありましたから」
「へえ」
「売り物ではなかったので詳しくはありませんが、鼎国内で使われている灯火用の油とは異なるらしく、よく燃えるのだと聞きました」
「其方、なかなか物知りだな。彪之みたいでびっくりした」
(なんだ、今なにか……)
丹緋の説明を聞きながら、頭の片隅でなにかがひっかかった。
緋逸は黙考する。
南方の水仙は、蒼呉が皇宮に持ち込んだ花だ。皇太后の墓前に供えたいとのことだったが、実弟の持ち込んだ数は千余。花の量は花壇がつくれるほどであった。実際、蒼呉はつくりたいと訴えていたようで、土ごと素焼きの箱に詰めて運び込んでいた。
(花を供えたい――亡き母を偲んでの親孝行が蒼呉の希望であったから許したのだが)
花壇を造園するかどうかは宰相の奎樹と話し合っている最中であった。
水仙は箱に五輪ずつ植わっていたらしい。なので、皇城の南側に少しずつかためて置いてあると、武喬が報告していた……
「まさかッ」
一言叫んで、緋逸は室を飛び出した。
勢い扉を開ければ風が身体をなめるように吹き込んでくる。先程から吹きはじめた風はかわりなく、南から北へと建物を包んで吹き抜けていく。
「陛下ッ、南をご覧ください」
護衛官達が叫んでいた。
時、すでに遅かった。
皇城の方角で黒煙があがっている。
燃えているのだ。
(やられたッ)
蒼呉が持ち込んだ素焼きの箱には西方の油が仕込まれていたのだろう。長く放置したことによって、油の臭いが花へと移ってしまった。おそらく蒼呉も放つ臭いには気づいたはずだ。だから今朝の風を見逃さなかった。
あれは行動を起こしたのだ。
皇太后の墓前に花を供えるなんて殊勝な心がけではない。
本来の目的を達するために!
「私には弟を追いやったという負い目があった。……だから、弟を受け入れたのに」
内乱を起こしたのは、自分。蒼呉も皇帝となる器ではなかった。
けれど。
父母に愛された弟を、嫉妬していなかったと言い切れようか。
あれを羨ましいと思ったことはなかったか?
怪力という秘密をもたずに生まれた男を妬ましく思わなかったか?
自分こそが皇帝に相応しいという気持ち――それこそが驕りだったとしたら?
驕りも、秘密も。人を孤独にするという。
これは天罰か。
(私の本心は……? つまるところ私は、存在を認めてほしかっただけではないのかっ)
奥歯を噛みしめ葛藤を抑え込む緋逸の隣に、丹緋が並ぶ。そっと左の袖をとられた。
「緋逸様、……どうされたのです?」
こちらを気づかう声につられ、緋逸の双眸には自分の左手の甲が映る。
(落ち着け)
そう、美信が言っていたではないか。
『黎緋逸様は、黎王朝八十年の中でも稀にみる、臣下に選ばれた君主であることを』
忘れてはならない。
『貴方様こそが鼎国の国主たるに相応しいと、みな、信じてここに集っているのです』
内乱の前夜、自分を信じてくれた〝仲間〟を裏切ってはならない。
問題にすべきは後悔したことではない、後悔によって未来への道を塞いでしまうことだ。
(くじけるな! 選んだ道を進むしかないのだから)
「いいか、丹緋。皇城で火災が起きた。これは周到に準備して起こされたものだ、おそらく蒼呉の仕業だろう」
丹緋の薄い両肩に手をのせて、緋逸はゆっくりと言葉を吐き出す。
半分は自分に言い聞かせるようにして。
深呼吸するように。
「……そんな」
「大丈夫だ。これが叛乱だとしても、皇宮内には蒼呉に味方する者はいない。だが、火災はまずい。皇城は建物が密集している、この風だから喰い止められるかどうか」
加えてこの時刻、多くの官吏が出仕している。犠牲になる官は少なくないだろう。それこそが蒼呉の目的。皇帝から一人でも多くの優秀な側近を奪うことこそが。
(私に味方した官吏を殺して、私を孤立させるために)
丹緋の言ったとおり西方の油が使われていたら、予想よりも早く火が回ることになる。北側の宮城も安全ではないのだ。蒼呉の動きも読めない。あれは気性が荒い。
緋逸は迷った。
そして、すぐに決断する。
「其方をここへ残してはいけない。一緒に来い、丹緋」
返事を待たず、緋逸は片腕で丹緋を抱きかかえた。
その感情は唐突に湧きあがった。
ここ数日、あまり眠れていない緋逸は早い時刻に起床していた。朝議がはじまるまで、まだかなりの余裕がある。することもないのでもそもそと着替え、朝焼けと星のまたたきが混ざる空へと何気なく視線を転じて――。
ふと脳裏によみがえったのは、玉が触れ合うようなさやかな声音。
『まるで、今宵の星空を映したようにきれいですね。とても……素敵です』
城壁に登った夜、丹緋が口にした言葉だった。
それはたどたどしく語られた彼女の想い。
無口な彼女にしては珍しく、だからこそ余計に胸にずんっと響いた。そんなふうに見てくれていたのかと嬉しくて。
嫌われることの多い三白眼から目を逸らさずに伝えてくれた。
(だというのに、私は詫びもせず突き放した)
こめかみのあたりがカッと熱くなる。
突然に身体を支配した情動は、もう、抑えきれない。
欲望のままに叫んでいた。
「誰かッ、馬を引いてこい!」
第一景
早朝の澄み渡る空気がひときわ、しんと静まる周囲に寒さを伝えていた。
緋逸は手綱をたくみに操り園林の点在する宮城内を突っ切っていく。馬術と速度に護衛の武官達が追いついてこられないがかまわずに、丹緋の殿舎を目指して馬を飛ばした。
目的の殿舎の前庭で馬を降りる緋逸の視界に入ったのは、季節はずれに咲く一輪の牡丹だった。この大輪の花をはじめて見てから随分と日が経つが、未だ枯れることなく、紅い牡丹は自己主張するように花開いている。
(奇妙な牡丹だ。これをここに植えかえたのは侍女だと丹緋が言っていたな……)
人の優しさに触れて嬉しそうにしていた丹緋を思い出し、そういえば、と緋逸は両目を眇めた。
丹緋の殿舎で一度も侍女を見ていない、と思ったのだ。権力におもねらない美信に人選を任せたので万に一つも間違いはないはずだが……。
一抹の不安が緋逸の心をよぎったものの、丹緋に逢いたいという気持ちがまさった。逸る想いは最早制御できずに、住まいへと続く石段を二段飛ばしで駆け上がっていく。
「くそっ。なんでこんなに広いんだ」
物理的な距離が、等しく、丹緋との心の距離を表しているようで。二人を別つ原因が自分にあると、自分で自分の首を絞めている苦い気分を味わいながら、己が所有する建物に小声で毒づいた。やりきれない想いをぬぐえないまま、室内へ至る回廊を渡る。
妙な風が吹きはじめていた。
決して強くはないが建物をなめるように風が吹き込んでくる。
(こんな日に火災が起こると面倒だな)
皇城は密集地だ。肩越しにちらと皇城の方角を振り返りつつ、室の中へと足を踏み入れる。丹緋、と名を呼ぼうとして、まだ寝ている時刻であることにやっと気づいたのだった。
恋する者は厚かましくなる。
どうするか。
そう考えた一瞬ののち、緋逸は目を見開いた。
吸い寄せられて目が離せない。
二人で夜を越した榻で、片腕を枕にしてもたれていたのは丹緋だった。
「丹緋っ」
吼えるように名を呼べば、頬に落ちる睫の影が揺れる。どうやら眠ってはいなかったようで丹緋はすぐに半身を起こした。纏っているのは襦裙で、結い髪もほどかれていない。
「なんだ、なにしてる? こんなところで……まさか、寝ていたのかっ」
反射的に駆け寄れば、丹緋の小さな身体は寒そうに震えていた。贈った毛皮を掛布がわりにしていたらしいが。狐白裘の白さがいっそう、彼女の顔を蒼白く見せていて。
針を呑み込んだような痛みを覚える。
「なんなのだ? 風邪をひいたらどうするっ」
感情のまま怒鳴りつけて、直後、失敗したと落ち込んだ。
これではあの夜と同じになってしまう……。
怯えさせないよう、緋逸はそうっと丹緋の隣に腰をおろした。触れてもいいか迷い、結局は背もたれに片腕を伸ばして彼女を懐に囲うようにしただけ。
「なにがあった? 侍女はどうした?」
「……あ。いえ、あのっ、……まだ朝早いですから」
「そうか。いなくて当然か。で? 眠っていた様子ではないが其方は――うっ」
言いかけて、緋逸は息がつまった。
こちらを仰ぎ見る丹緋の双眸が、あまりに純真で、無垢で、気圧されてしまったのだ。心の臓を射抜かれて、強く感じる。丹緋は美しいだけの女人ではない。内に秘めた、心惹かれずにはいられない特別ななにかが、彼女には備わっているのだと。
これまで緋逸は心のどこかで(丹緋とは歳が離れているから)と、大人ぶっていた。けれど、間違っていた。そうと気づいてしまった。丹緋はひとつの個、立派な女人なのだ。
「緋逸様は、……そのっ」
「うん?」
「なにしにこの殿舎にいらっしゃったのですか」
「なにしに、って。其方に逢いたくて、私が酷いことをしたからと反省し……て」
言い終わらないうちに、丹緋の美貌がくっとゆがんだ。その頼りない姿がなぜか緋逸には、居場所を探し求めた子供の頃の自分と重なって見えて、差し延べられた繊手を思わずつかんでしまう。
「そ……う、ですか。よかった。わたしはてっきり殿舎を、……いえ、お逢いできて」
嬉しいです――安堵したようにそう続ける彼女の口唇は動いただけで声にはならない。
緋逸はたまらない気持ちになった。
こんな切ない感情を味わったのははじめてで。
よくも今朝まで顔を見ずにいられたものだ。眠れなかったのは、きっと、丹緋も同じ。名が似ているように、二人には似ているところが多い。遠い日に失った心の欠片もまた、同じ形をしているのかもしれない。だから彼女が必要なのだと改めて思い知った。
丹緋の肩に狐白裘をかけてやる。そうしてから緋逸は、徐々に力をこめて胸の中へと引き入れた。怪力で丹緋を抱きつぶさないように。毛皮は厚く柔らかい、抱き込む衝撃をやわらげてくれるだろう。
「独りにして、すまなかった。……其方には嫌われたくなくて黙っていたが、私には」
細い首筋を撫でながら、秘密を打ち明けようとした。けれど、しっとりと吸いつく柔肌に触れてしまえば、魂魄から震えが起こる。欲情を止められなかった。
「私は其方に転んだのだ、落ちるだけ落ちよう。その責任を、とってくれないか」
え――と問う丹緋の淡い声までもが胸を震わせる。
丹緋の柳腰を引き寄せた緋逸は、背中へと回していたもう片方の手を伸ばして顎をすくい上げた。暴かれた彼女の白く細い首筋に、口唇を這わせる。
首は人の急所だから、いきなり触れられれば人は怯える。恐れを感じたらしい丹緋の身体も逃げを打った。しかし、それを許さない。肌から肌へと口唇を少しずつ這わせていく。
最後にそっと、彼女の丹唇に口づける。
重ねた口唇は触れただけ。
「丹緋」
互いの吐息が混ざるほどの至近距離で名を呼べば、彼女は従順に頷いて目を伏せた。
長い睫が揺れるのを見下ろして、緋逸は冷たい滴に打たれたようにハッとなった。
(言うべきなにかを飛ばしてしまったような……)
今日まで順序よく慎重に進めてきたのに、最も重要な部分を抜かして先に移ってしまったような気がしたのだ。男としてそこに気づけたのは正しいが、このときの緋逸にはなにを言えば正解なのか判然としなかった。
(これ以上はまずいな。自制しなければ)
少しだけ身体を離し、緋逸はうろうろと視線を彷徨わせた。
気を紛らわそうと別の話題を見つけようとして、室の向かい側の円卓に目がいった。卓上に置かれているのは白磁の一輪挿しで、白い花が咲き誇っている。
(さっきも季節はずれに咲く牡丹を見たばかりだが)と首をかしげつつ、
「あの花も侍女が?」
深い意味をもって訊いたのではない。甘い感情に流されそうになる雰囲気をかえたくて適当に話を振っただけだった。緋逸は油断していた。
そして、予想外の答えが返される。
「あれは南方に咲く水仙というのだそうです。先日、蒼呉様がくださいました」
「なッ――んだと。……蒼呉に、会ったのか? なにかされなかったか?」
あの弟は〝恋魔〟と呼ばれるほど恋多く、女にだらしない。民の血税をすべて己の快楽につぎ込む男だ。美女の多い皇宮から追放され、南方の幽閉生活で女に飢えているだろう。
緋逸の焦りを知ってか知らずか丹緋は首を振った。
「なにも。護衛の武官さんが間に入ってくれましたので。蒼呉様は水仙をくださっただけで、とくにこれといったお話も」
緋逸は内心で舌打ちしながら立ち上がった。大股で室を横切り、円卓の前まで行く。
女人に花を贈るなど、派手好き女好きの蒼呉がやりそうなことだと呆れながら、わずかに身を屈めたときだった。鼻先をかすめるものがあった。
「うん? ……この匂いは」
「なにか匂いが? お花の手入れは侍女がしてくれていたのですけれど。あ!」
急に態度のかわった緋逸を心配したのだろう、いつの間にか、丹緋が傍に来ていた。小さく声をあげて同じように身を屈め、記憶を手繰っているのか目をしばたたかせている。
「この匂い、これは花の香りではないですね。異国の、西方の油の臭いです」
「油? 確かか?」
「思い出しました。父が取り引きしている隊商の荷の中に、量はわずかでしたけれどもこれと同じ臭いの油がありましたから」
「へえ」
「売り物ではなかったので詳しくはありませんが、鼎国内で使われている灯火用の油とは異なるらしく、よく燃えるのだと聞きました」
「其方、なかなか物知りだな。彪之みたいでびっくりした」
(なんだ、今なにか……)
丹緋の説明を聞きながら、頭の片隅でなにかがひっかかった。
緋逸は黙考する。
南方の水仙は、蒼呉が皇宮に持ち込んだ花だ。皇太后の墓前に供えたいとのことだったが、実弟の持ち込んだ数は千余。花の量は花壇がつくれるほどであった。実際、蒼呉はつくりたいと訴えていたようで、土ごと素焼きの箱に詰めて運び込んでいた。
(花を供えたい――亡き母を偲んでの親孝行が蒼呉の希望であったから許したのだが)
花壇を造園するかどうかは宰相の奎樹と話し合っている最中であった。
水仙は箱に五輪ずつ植わっていたらしい。なので、皇城の南側に少しずつかためて置いてあると、武喬が報告していた……
「まさかッ」
一言叫んで、緋逸は室を飛び出した。
勢い扉を開ければ風が身体をなめるように吹き込んでくる。先程から吹きはじめた風はかわりなく、南から北へと建物を包んで吹き抜けていく。
「陛下ッ、南をご覧ください」
護衛官達が叫んでいた。
時、すでに遅かった。
皇城の方角で黒煙があがっている。
燃えているのだ。
(やられたッ)
蒼呉が持ち込んだ素焼きの箱には西方の油が仕込まれていたのだろう。長く放置したことによって、油の臭いが花へと移ってしまった。おそらく蒼呉も放つ臭いには気づいたはずだ。だから今朝の風を見逃さなかった。
あれは行動を起こしたのだ。
皇太后の墓前に花を供えるなんて殊勝な心がけではない。
本来の目的を達するために!
「私には弟を追いやったという負い目があった。……だから、弟を受け入れたのに」
内乱を起こしたのは、自分。蒼呉も皇帝となる器ではなかった。
けれど。
父母に愛された弟を、嫉妬していなかったと言い切れようか。
あれを羨ましいと思ったことはなかったか?
怪力という秘密をもたずに生まれた男を妬ましく思わなかったか?
自分こそが皇帝に相応しいという気持ち――それこそが驕りだったとしたら?
驕りも、秘密も。人を孤独にするという。
これは天罰か。
(私の本心は……? つまるところ私は、存在を認めてほしかっただけではないのかっ)
奥歯を噛みしめ葛藤を抑え込む緋逸の隣に、丹緋が並ぶ。そっと左の袖をとられた。
「緋逸様、……どうされたのです?」
こちらを気づかう声につられ、緋逸の双眸には自分の左手の甲が映る。
(落ち着け)
そう、美信が言っていたではないか。
『黎緋逸様は、黎王朝八十年の中でも稀にみる、臣下に選ばれた君主であることを』
忘れてはならない。
『貴方様こそが鼎国の国主たるに相応しいと、みな、信じてここに集っているのです』
内乱の前夜、自分を信じてくれた〝仲間〟を裏切ってはならない。
問題にすべきは後悔したことではない、後悔によって未来への道を塞いでしまうことだ。
(くじけるな! 選んだ道を進むしかないのだから)
「いいか、丹緋。皇城で火災が起きた。これは周到に準備して起こされたものだ、おそらく蒼呉の仕業だろう」
丹緋の薄い両肩に手をのせて、緋逸はゆっくりと言葉を吐き出す。
半分は自分に言い聞かせるようにして。
深呼吸するように。
「……そんな」
「大丈夫だ。これが叛乱だとしても、皇宮内には蒼呉に味方する者はいない。だが、火災はまずい。皇城は建物が密集している、この風だから喰い止められるかどうか」
加えてこの時刻、多くの官吏が出仕している。犠牲になる官は少なくないだろう。それこそが蒼呉の目的。皇帝から一人でも多くの優秀な側近を奪うことこそが。
(私に味方した官吏を殺して、私を孤立させるために)
丹緋の言ったとおり西方の油が使われていたら、予想よりも早く火が回ることになる。北側の宮城も安全ではないのだ。蒼呉の動きも読めない。あれは気性が荒い。
緋逸は迷った。
そして、すぐに決断する。
「其方をここへ残してはいけない。一緒に来い、丹緋」
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