天地狭間の虚ろ

碧井永

文字の大きさ
上 下
9 / 20

第三章(3/3)

しおりを挟む
第三景

 与えられた殿舎の一室で、日に二度三度と送られてくる皇帝からの手紙を読み返していた丹緋たんひは、顔を上げた。
 ふと、豈華がいかの戻りが遅いなと思ったのだ。
 豈華は今、宮城内の西の端にある洗濯場まで行っている。丹緋の着替えと、この殿舎で使っているいろいろな布を引き取りに行っているのだ。美信びしんに罰を受けたというわりには豈華の手際はよく、仕事は早いので、普段であれば姿を捜したときには戻っている。
 けれど、今日は陽も沈みかけているというのに、戻っている気配はない。
(まさか、迷ったなんてことはないわよね……)
 迷路のような城内、不慣れな者が歩けば完全に迷子になる。
 丹緋は机案つくえの前を行ったり来たりしてから、(捜しにいこう)と決心した。長く室内をうろうろしてしまったのは、あまり城内を把握しておらず、自分が迷子になって迷惑をかけるのではないかと不安になったからだった。
(わたしがしくじれば、その分、お世話係の豈華さんが美信様に叱られるもの)
 もう二度と、美信には手を上げてほしくない。なんとか豈華を護りたかった。
 大きく深呼吸してから、憶えたての地図を脳内に広げて丹緋は殿舎を出る。
 あまり出歩かないので知らなかったが、丹緋の殿舎の周辺には所々に武官が立っている。女の武官もいてどこへ行くのかと尋ねてきたので、ひょっとしたら護衛かもしれない。鈍い丹緋もここに至ってやっと、自分の恵まれすぎている環境を認識したのだった。
 皇帝が送ってくれる手紙も、とても情熱的なものばかり。日によっては楽しい物語などを書き写してくれたりしていて、丹緋を退屈させないようにという気づかいがみられた。
(陛下もお忙しいでしょうに)
 感謝を表しつつ護衛官に訊きながら、豈華が使うであろうみちを進んでいく。
 しばらく行って、小さな庭へと続く小路で途方に暮れている豈華を見つけた。
「豈華さん」
 珍しく、彼女の背中が丸まっている。見慣れぬ後ろ姿のせいか、急に、知らない人物に思えてしまった。
「遅いなと思って、来てみたんだけれど。……え!?」
 丹緋に声をかけられて振り返るその肩越しに、布が散乱しているのが見えた。数日前には雨が降っていた。雨は地面の窪みにいくつかの水溜りをつくっている。濁った水溜りに落ちているのは、衣類。どれも泥だらけになっていたのだ。
 転んだのだろう、よくよく見れば豈華の膝のあたりにも泥がついていた。
「どうしたのっ?」
 丹緋が尋ねれば、豈華は慌てて頭を下げたあとで紙と筆を取り出した。
「申し訳ありません丹緋様。近道しようと庭を抜ける途中で、水溜りに落としてしまって」
 筆を動かす仕種から、丹緋は(違う)と察した。
「これは豈華さんの不注意じゃないんでしょう? なにかあったの?」
 今日だけではない。
 実は数日前にも、豈華は頭からずぶ濡れで帰ってきた。そのときは『庭師とぶつかって桶の水がひっくりかえったんです』という言葉を疑わなかったけれど。
 この感じには覚えがあるのだ。
 継母に、異母妹に、嫌がらせされたときと同じ感覚。
 心にまでねっとりと絡みついてくるような、くらく澱んだ、痛みをともなう独特の残像。
 あまり時間をおかずに何事かが行われた場合、その気配がうっすらと周辺に残るのだ。
 わかる者にはわかってしまう、庭にはそれがあった。
 丹緋は痛みを知っている。
 喉許のどもとに不快な塊のようなものがせり上がってくる。
「……誰かに、なにかされたの?」
 ねばり強く丹緋が問えば、豈華は観念したようにこくりと頷いた。
「誰かはわからないんです。いきなり後ろから突き飛ばされて」
(やっぱりだ!)
「ねえ、豈華さん。この前もずぶ濡れで戻ってきたでしょう。あのときも、そう?」
 間をおいて、また頷きが返る。
「真横から水をかけられました」
「そ、そんな……」
 豈華が遣いに出るのは決まった時刻なので、狙って嫌がらせしていることになる。
 この季節、ひるを過ぎた申刻午後4時は外気の温度がぐんと下がってくる。冷えた空気の中で水をかければ風邪をひいてしまうかもしれないのに。最悪の場合、心の臓が凍りついて止まってしまうことだってある。
 なんで豈華を?
 憎むのは誰なのか……。
(……侍女同士で)
 そこまで考えて丹緋はハッとなった。
 前回、豈華が運んでいたのは、丹緋の身を飾る装飾品だった。玉をふんだんにあしらった腕輪や首飾りは水びたしになるだけでなく、所々が欠けたり壊れたりしていた。二人でそれを磨いてもとに戻すのは、たいへんな作業だったのだ。
 今日は、丹緋が使う衣類。ほとんどは皇帝自らが取り揃えたという衣裳だ。
(全部、わたしの物。豈華さんじゃなくて、わたしを憎んでいる……?)
 我知らず丹緋は「くっ」と呻いた。
 殿舎の周りには武装した護衛がいる。
 だから殿舎には近づけない。
 丹緋を妬んだとしても、丹緋に恨みつらみをぶつけたくても、対象の女には近寄れないからだ。
 卑怯なまねはきっと、采女さいじょの誰か。彼女達の仕業だろう。
 一緒に入宮したのに、殿舎を与えられたのは丹緋だけ。ほかの采女は未だ、一つの殿舎で共同生活している。自由に使える空間は狭く、身を飾る物も衣裳も質素な品ばかり。
 みな、皇帝に愛されるために後宮に入ったのに、夫となったその皇帝には会うことさえかなわない。年齢を重ねる前に――若く美しい頃の出会いに一縷の望みを託し、華やかに生きることを夢みているのに、夢は夢でついえてしまう女人がほとんどなのだ。
 夢幻の一夜。彼女らが縋るもの。
 たとえ両想いになれず、真実の愛を得られなくとも。皇帝の子を身籠り、出産すれば、後宮という競争社会の中で位を昇格できる。名誉と権力が手に入る。女の矜持プライドによって生き抜くことができるようになる。
 同じ采女の位にあっても、丹緋だけはいとも簡単に一線を越えた。
 誰かが幸せなら、その影で不幸を、不運を嘆く者がいる。光と影が表裏一体のように。人生の表舞台で光を浴びる者がいれば、その影に潜んで生きていかねばならない者もいて。影の中でうずくまって生きるのが自分だと思っていた。自分には闇こそが似合いだと。
 光を望んだわけではないけれど、いつの間にか憎まれて当然の存在になったのだ。
(だからって無関係の豈華さんをっ。ひどすぎるっ)
 丹緋はぎゅうっとてのひらを強く握り締めた。
(これ以上豈華さんを傷つけたくない、わたしが護るって決めたのにッ)
 丹緋の前髪がゆらゆらと揺れる。
 足許あしもとから、閉じた指先から、ふわりと風が湧きあがっていく。
(許せない!)
 煙のごとく白くたなびいて渦巻く小さな旋風せんぷう身体からだを包み、徐々に広がって――
「そこのお二方、どうされましたっ」
 武官が二人、走ってくる。後方から大声で呼びかけられて。
 吹きおこる風が唐突にやんだ。
 自分の感情が制御できるようになったときには、豈華は武官二人となにやら筆談で話しこんでいた。
 どう説明したのかはわからないが、武官は笑いながら去っていく。
「私達も戻りましょう。丹緋様がお風邪を召されたら、陛下が大騒ぎしますよ」
 冗談めかして豈華が筆を振っている。
 丹緋は、「あ……うん」と応じるのが精一杯だった。

 このときの丹緋には知る術はなかったのだ。
 ――武官が走り寄る寸前、豈華がどんな表情を浮かべていたのか、など。

 その翌日のことだった。
 丹緋を「慰めるため」と、豈華が季節はずれに咲いた牡丹を殿舎の前庭へと移してくれたのは。
 一輪だけ咲いている大輪の紅い牡丹は、とても華麗に花開いていた。
 ここにいるよと自己主張するように。
 牡丹はしおれずに咲き誇る。

 それから更に数日が経って。
 丹緋の耳に噂話が届く。
 一緒に入宮した玄素昂げんすごうも、丹緋と同じ嫌がらせをされているらしいと――。



しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

宮廷の九訳士と後宮の生華

狭間夕
キャラ文芸
宮廷の通訳士である英明(インミン)は、文字を扱う仕事をしていることから「暗号の解読」を頼まれることもある。ある日、後宮入りした若い妃に充てられてた手紙が謎の文字で書かれていたことから、これは恋文ではないかと噂になった。真相は単純で、兄が妹に充てただけの悪意のない内容だったが、これをきっかけに静月(ジンユェ)という若い妃のことを知る。通訳士と、後宮の妃。立場は違えど、後宮に生きる華として、二人は陰謀の渦に巻き込まれることになって――

イケメン彼氏は年上消防士!鍛え上げられた体は、夜の体力まで別物!?

すずなり。
恋愛
私が働く食堂にやってくる消防士さんたち。 翔馬「俺、チャーハン。」 宏斗「俺もー。」 航平「俺、から揚げつけてー。」 優弥「俺はスープ付き。」 みんなガタイがよく、男前。 ひなた「はーいっ。ちょっと待ってくださいねーっ。」 慌ただしい昼時を過ぎると、私の仕事は終わる。 終わった後、私は行かなきゃいけないところがある。 ひなた「すみませーん、子供のお迎えにきましたー。」 保育園に迎えに行かなきゃいけない子、『太陽』。 私は子供と一緒に・・・暮らしてる。 ーーーーーーーーーーーーーーーー 翔馬「おいおい嘘だろ?」 宏斗「子供・・・いたんだ・・。」 航平「いくつん時の子だよ・・・・。」 優弥「マジか・・・。」 消防署で開かれたお祭りに連れて行った太陽。 太陽の存在を知った一人の消防士さんが・・・私に言った。 「俺は太陽がいてもいい。・・・太陽の『パパ』になる。」 「俺はひなたが好きだ。・・・絶対振り向かせるから覚悟しとけよ?」 ※お話に出てくる内容は、全て想像の世界です。現実世界とは何ら関係ありません。 ※感想やコメントは受け付けることができません。 メンタルが薄氷なもので・・・すみません。 言葉も足りませんが読んでいただけたら幸いです。 楽しんでいただけたら嬉しく思います。

人生の全てを捨てた王太子妃

八つ刻
恋愛
突然王太子妃になれと告げられてから三年あまりが過ぎた。 傍目からは“幸せな王太子妃”に見える私。 だけど本当は・・・ 受け入れているけど、受け入れられない王太子妃と彼女を取り巻く人々の話。 ※※※幸せな話とは言い難いです※※※ タグをよく見て読んでください。ハッピーエンドが好みの方(一方通行の愛が駄目な方も)はブラウザバックをお勧めします。 ※本編六話+番外編六話の全十二話。 ※番外編の王太子視点はヤンデレ注意報が発令されています。

私は何人とヤれば解放されるんですか?

ヘロディア
恋愛
初恋の人を探して貴族に仕えることを選んだ主人公。しかし、彼女に与えられた仕事とは、貴族たちの夜中の相手だった…

慰み者の姫は新皇帝に溺愛される

苺野 あん
恋愛
小国の王女フォセットは、貢物として帝国の皇帝に差し出された。 皇帝は齢六十の老人で、十八歳になったばかりのフォセットは慰み者として弄ばれるはずだった。 ところが呼ばれた寝室にいたのは若き新皇帝で、フォセットは花嫁として迎えられることになる。 早速、二人の初夜が始まった。

エロゲで戦闘力特化で転生したところで、需要はあるか?

天之雨
ファンタジー
エロゲに転生したが、俺の転生特典はどうやら【力】らしい。 最強の魔王がエロゲファンタジーを蹂躙する、そんな話。

極上の一夜で懐妊したらエリートパイロットの溺愛新婚生活がはじまりました

白妙スイ@書籍&電子書籍発刊!
恋愛
早瀬 果歩はごく普通のOL。 あるとき、元カレに酷く振られて、1人でハワイへ傷心旅行をすることに。 そこで逢見 翔というパイロットと知り合った。 翔は果歩に素敵な時間をくれて、やがて2人は一夜を過ごす。 しかし翌朝、翔は果歩の前から消えてしまって……。 ********** ●早瀬 果歩(はやせ かほ) 25歳、OL 元カレに酷く振られた傷心旅行先のハワイで、翔と運命的に出会う。 ●逢見 翔(おうみ しょう) 28歳、パイロット 世界を飛び回るエリートパイロット。 ハワイへのフライト後、果歩と出会い、一夜を過ごすがその後、消えてしまう。 翌朝いなくなってしまったことには、なにか理由があるようで……? ●航(わたる) 1歳半 果歩と翔の息子。飛行機が好き。 ※表記年齢は初登場です ********** webコンテンツ大賞【恋愛小説大賞】にエントリー中です! 完結しました!

男子高校生だった俺は異世界で幼児になり 訳あり筋肉ムキムキ集団に保護されました。

カヨワイさつき
ファンタジー
高校3年生の神野千明(かみの ちあき)。 今年のメインイベントは受験、 あとはたのしみにしている北海道への修学旅行。 だがそんな彼は飛行機が苦手だった。 電車バスはもちろん、ひどい乗り物酔いをするのだった。今回も飛行機で乗り物酔いをおこしトイレにこもっていたら、いつのまにか気を失った?そして、ちがう場所にいた?! あれ?身の危険?!でも、夢の中だよな? 急死に一生?と思ったら、筋肉ムキムキのワイルドなイケメンに拾われたチアキ。 さらに、何かがおかしいと思ったら3歳児になっていた?! 変なレアスキルや神具、 八百万(やおよろず)の神の加護。 レアチート盛りだくさん?! 半ばあたりシリアス 後半ざまぁ。 訳あり幼児と訳あり集団たちとの物語。 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 北海道、アイヌ語、かっこ良さげな名前 お腹がすいた時に食べたい食べ物など 思いついた名前とかをもじり、 なんとか、名前決めてます。     *** お名前使用してもいいよ💕っていう 心優しい方、教えて下さい🥺 悪役には使わないようにします、たぶん。 ちょっとオネェだったり、 アレ…だったりする程度です😁 すでに、使用オッケーしてくださった心優しい 皆様ありがとうございます😘 読んでくださる方や応援してくださる全てに めっちゃ感謝を込めて💕 ありがとうございます💞

処理中です...