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第二章(3/3)
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第三景
朝夕はめっきり冷えこむようになっていた。
それでも午を過ぎた時刻は陽射しが落ち着いていて、過ごしやすい。丹緋は豈華を連れて、宮城内の園林の一つを散歩してみようという気になった。
今日までは不慣れな場所で出歩くのが怖かったのだ。社交的でない分、突然声をかけられても、どんな顔をすればいいのかわからないし、なんと応えればいいのかもわからないから。
「あれは……」
回遊できる小路を歩きながら呟く丹緋の視線を追って、豈華が筆を走らせる。手馴れたもので、書く速度は日に日にあがっていた。豈華は順応性に優れているようで、丹緋の前で粗相したことがない。いったい彼女のどこが、美信の怒りに触れたというのだろう。
「あれは紫苑様です。陛下の、五つ歳下の弟君であらせられます」
水路にかかる橋を渡る紫苑を見つめたままで丹緋が小首をかしげると、
「陛下の異母弟でいらっしゃいます。確か、お母君は妃妾、位は夫人だったかと」
字を目で追ってから、丹緋は「ありがとう」と頷いた。
遠目にも似ていないなと思ったのだ。
皇帝は目に強い印象があり、長身の身体つきからして男らしい。対して弟の紫苑は線が細く、可もなく不可もなしといった容貌をしていた。
先程から彼は表情のない顔で、秋色に染まる庭の樹木や花々を眺めている。
「詩がお好きで。一日中ふらふらしては詩作にふけっていらっしゃるのですよ」
ということは。紫苑は政治には参加していないのだ。皇家に生まれても無位無官の生き方もあるのか。丹緋はぼんやりと、これといった特徴のない紫苑を見続けていた。
「そんな顔をしてくれるな。其方を見て転ぶ男もいるのだ、私が嫉妬してもいいのか?」
少しかすれぎみの声とともに、丹緋の視界が暗く翳る。
何事かと丹緋が顔を上向ければ、近くの木の幹に片手をついた皇帝に行く手を阻まれていた。心の臓が跳ね上がって足が止まり、人と出くわしたときの習慣で豈華を捜すが、いつの間にやら頼りにしている彼女はいなくなっていた。どうやら皇帝を気づかったらしい。
(うそ……二人っきりだ。どうしたら……)
今日まで皇帝は、執務が忙しくて逢えないからと手紙を送ってくれていた。『恋文ですね』と豈華は女人らしく手を叩いて喜んでいたが、当の本人はうろたえるばかり。
男女問わず人に慣れていないのだから、いわんや恋など。――である。
体格の違いからくる圧迫感に丹緋が震えていると。
すっと頬を撫でられた。
それは触れるか触れないかの微妙な指使いで、温もりだけを肌に残して遠ざかっていく。
「そんなに怯えるな。私が悪さをしているような気分になってくる」
「あ、ええと……申し訳ありません」
しゅんと俯けば、頭のてっぺんに落ちてくる皇帝の視線を強く感じた。
「謝らなくていい。ああ、其方は庶人の出だったな。ひょっとして剣が怖いのか?」
尋ねられてはじめて丹緋は、皇帝の左手に大剣が握られているのに気づいた。緊張すると呼吸が浅くなって視野が狭まってしまう。そのせいで、ほとんど見えていなかったのだ。
「うん? これは護身用だから慣れてもらわねば困るのだが、どうも、そうではないらしいな。なあ、丹緋。私と話すのは嫌か?」
(まさか、そんな)
丹緋はなけなしの力を振り絞り、ふるふると首を横に振った。
自国の皇帝を否定など、できるはずもない。話すのが嫌ではなくて、なにをどう応えればいいのかとためらってしまうだけだった。不快にさせてしまったのかと、丹緋は慌てる。
胸の前で両手を握り合わせ、再び詫びようと口を開きかけたときだった。
「謝らなくてもいいと言ったろう」
握り締めた両手に、皇帝の右手が添えられた。
男の人の掌は大きく、丹緋の二つの手をすっぽりと包んでしまう。
「欲しいのは詫びじゃなくて。私を見てくれないか。目と目が合わないと、私も傷つく」
「……え」
「嫌われているのかと不安になる。さっきも丹緋の殿舎に寄ったんだ。そうしたら普段は出歩かない其方が散歩に出かけたらしいと聞かされて、なんて運が悪いんだと自分の間の悪さを罵ったばかりなんだ。護衛の隙をついて、せっかく執務を放り出してきたのに」
丹緋は目をしばたたいた。
皇帝がなにを言っているのか、さっぱり理解できないのだ。もちろん言語は通じているのだが……、自分はすでに皇帝の所有物、一言命令すれば済む。優しくしなくても意のままに動かせるというのに。
(傷つくって、なんで……?)
頭が回らない。言われたとおり顔を振り上げてみれば、真摯な表情でこちらを見下ろす皇帝と目が合った。
丹緋はどきっとした。
熱いというべきか。
搦め捕られて焼かれそうだった。身体の芯まで、なにもかも。
(う、わ)と丹緋は胸中で悲鳴をあげる。
「其方、睫が長いんだな。動くたび、まるで花から花へと蝶が羽ばたいているようだ」
額がくっつくほどに顔を寄せ、皇帝はまだなにかを訴えようとしたが。
「陛下を見つけて帰らないと、俺が奎樹に怒られるんですがねー」
という内容とは裏腹な呑気な声がかかった途端に、表情をあらためて「ちっ」と鋭く舌打ちした。
「あ、すまない。其方に怒ったのではないから。ほら、向こうで手を振っているあいつ。片袖を何枚か脱いでいるのは、自分流のこだわりとやらだそうで、地味なおしゃれさん――なのか? 名は彊武喬という。上から読んでも下から読んでも『きょうぶきょう』なんて回文みたいでおもしろいだろ、ってそんな場合じゃないか。もう見つけるとは、大将軍は容赦ない」
丹緋に目線を戻した皇帝は、なんとも名残惜しそうに見つめてきた。
「ではな、丹緋。近いうちに逢いにいくから」
自分自身に納得させるように言ったあとで、握り締めていた丹緋の両手に口づけを落としていく。
口唇はなかなか離れなかった。
はじめてのことに丹緋の頬はかあっと赤くなった。
突然すぎて手を引き抜くこともできず、引き抜こうとしたとしても男の力には逆らえなかっただろう。指に残るのは口唇の柔らかい感触。戸惑う丹緋の顔を満足そうに見返してから、皇帝は駆け出していく。
結局のところ丹緋には、皇帝がなにをしたかったのかわからないままだった。
『回文みたいでおもしろいだろ』
(――あれはわたしを笑わせようとしてくれたのね)
皇帝は冗談をとばして場をなごませようとしてくれたのだ。
殿舎へ戻る途中、そう豈華に指摘されて、丹緋はようやく納得したのだった。
(陛下は『私と話すのは嫌か?』と訊いてきた。真剣なお顔で。そういえば、前も)
話をしたい、と言っていたような気がしないでもないのだ。
そこまで気づかってくれるのは、たぶん、自分が妻だからだろう。二十七人のうちの一人――たとえ形式上ではあっても、仲よくしようと努力してくれているのだ。ならば自分も、皇帝の想いには応えなければならない。それが〝人と接する〟ということ。
でも。
(わたしは言葉を恨んでいるのに……)
実母はとても美しい人だったと、丹緋は聞いている。父との間になかなか子を授からず、長く悩んでいたことも聞いた。その母との死別は、丹緋が幼い頃のこと。商家を切り盛りせねばならない父は娘のためにとすぐに別の女人と結婚したが、その継母と丹緋はうまくいかなかったのだ。
(……いつからだろう。わたしの身体がこんなふうになってしまったのは)
異母妹達がある程度の歳になってからのことだと記憶しているが、継母から嫌がらせをされると身体の周辺に微風が起こるようになった。それは最初、微かな風だった。髪を揺らすほどの。そのうちに、殴ろうとする継母の腕を跳ね除けられるまでになり。
一度だけ、下の異母妹を壁に叩きつけてしまったことがある。大切にしていた書物を目の前で破かれたことが原因で風を起こしてしまったのだが、やってはいけないことをしたという自覚はあった。怒ってはだめと。自分が傷つけられても人を傷つけてはいけないと。
以来、どこからともなく湧きあがる風を制御できるよう、懸命に努力したのに……。
この件がきっかけで、継母と異母妹二人からは『気味が悪い』『化け物』と罵られるようになった。不気味だと言葉でさんざん痛めつけられて、人扱いされなくなった。
仕事で忙しい父にも、かなり迷った末に相談してみた。父とは血がつながっている、風の不思議な力について告白しても、親子なら相談にのってくれるだろうと信じていたのだ。
ところが父も、実の娘を跳ね除けた。それは、不思議な力がどうこうというよりは、なにか〝別のもの〟を疎んでのようだった。
娘の内側にすかし視た、なにか別の。
(直感にも似たなにかを、お父様から感じたのは果たして気のせいだったろうか?)
継母と異母妹達に『あの妖女を追い出せ』と責められ続けた結果だったのか……。
父の決断は非情だった。
後宮から采女の募集があったとき、父は真っ先に受け入れた。なにしろ家には朝廷からの謝礼が入るし、なによりいらない娘であったから。後宮が絶好の捨て場であったのだ。
だけではない。人は、最悪の事態の中でこそ試される。
父は入宮を待てなかったのか、付き合いのあった玄家に娘を託した。玄家は遊里でも老舗の妓家であり、妓女にまじっての妓楼であれば宮中でのあれこれを修業できるだろうと、まるで物のようにぽいっと娘を放り出してしまったのだ。
妓楼がどのような所か知っていて。
男どもの究極の遊び場所――それが妓楼だ。好きでもない相手に愛想笑いし、身体を触られても我慢するだけ。厳しい監視の中で泣けもせず、逃げ出すこともできないままに。
(連日連夜、妓楼で働かされた。不自由だけを与えられて、それでも救いだったのは)
一人の客がずっと丹緋を指名し続けたからだった。三十半ばほどの身なりのよい男は丹緋に無理強いすることなく、ただのんびりと朝まで酒を飲んで帰っていった。
(あれ? そういえば、もう一人)
上の室から落ちた男がいた。髪には霧雨が絡んで、銀の髪が輝いていて綺麗だった。あの美男も確か、見た目は三十半ばほどだったか。……落ちたのに無事だっただろうか?
(真上の階といえば売れっ子名妓の、素昂さんの室だったはずで)
十八歳の素昂は、玄家の娘である。今回の采女の募集では一緒に入宮していた。
一流の妓女というものは歌舞音曲に秀でているもの。詩を詠むこともある。技芸だけでなく、知性と教養は日々磨きあげている。貴族の姫と比べてもなんら遜色なく、素昂は豊満妖艶の美女であった。
色気はあり余るほどたっぷりあったが、お金持ちの両親に当然のように優しくされて、その愛情を当然のように受け取って育ったために、性格はねじくれているらしい。ほかの妓女達の噂によれば『欲しいものは欲しい、譲らない女』、なのだそうだ。残念ながら、あまりよい性格ではないのだろう。
(素昂さんのように華やかで自己主張できる美女は、後宮にはたくさんいるのにな……)
ぽっかりと時間ができるたび、つい、丹緋は考え込んでしまうのだった。
艶やかな素昂とは、対極にいる自分。
あまりにかけ離れていて地味な人生。
(あ、でも……。陛下は、わたしが妓楼で働いていたと知れば、どう思うかな?)
世慣れた女と誤解して、これまでのように親切にしてはくれないだろうか。
もし、感情の抑制がきかずに風の不思議な力が出てしまったら?
それならそれで、と丹緋は思うのだ。
諦めるという行為は、たくさんのものをもっている者だけができること。なにももっていない者にははじめから執着心などないのだから、諦めるという落胆などとは無縁だ。
つらい想い出しかない家族のことは忘れたい。
自分も忘れられたままでいたい。
人は、人だからこそ相容れない。人は独りだから、独りで考えたそれぞれの世界を胸の内にもっている。胸奥で描いている想いは――見ているものは、なにより言葉は、どれほど近くにいようと、肌が触れていようと伝わらない。心は通じない。
それが、人。
穏やかな皇帝に話してみたいと迫られて複雑な気持ちになったのは。
(言葉に傷つけられたせい……)
このまま言葉の少ない世界にひきこもっていたいから。
朝夕はめっきり冷えこむようになっていた。
それでも午を過ぎた時刻は陽射しが落ち着いていて、過ごしやすい。丹緋は豈華を連れて、宮城内の園林の一つを散歩してみようという気になった。
今日までは不慣れな場所で出歩くのが怖かったのだ。社交的でない分、突然声をかけられても、どんな顔をすればいいのかわからないし、なんと応えればいいのかもわからないから。
「あれは……」
回遊できる小路を歩きながら呟く丹緋の視線を追って、豈華が筆を走らせる。手馴れたもので、書く速度は日に日にあがっていた。豈華は順応性に優れているようで、丹緋の前で粗相したことがない。いったい彼女のどこが、美信の怒りに触れたというのだろう。
「あれは紫苑様です。陛下の、五つ歳下の弟君であらせられます」
水路にかかる橋を渡る紫苑を見つめたままで丹緋が小首をかしげると、
「陛下の異母弟でいらっしゃいます。確か、お母君は妃妾、位は夫人だったかと」
字を目で追ってから、丹緋は「ありがとう」と頷いた。
遠目にも似ていないなと思ったのだ。
皇帝は目に強い印象があり、長身の身体つきからして男らしい。対して弟の紫苑は線が細く、可もなく不可もなしといった容貌をしていた。
先程から彼は表情のない顔で、秋色に染まる庭の樹木や花々を眺めている。
「詩がお好きで。一日中ふらふらしては詩作にふけっていらっしゃるのですよ」
ということは。紫苑は政治には参加していないのだ。皇家に生まれても無位無官の生き方もあるのか。丹緋はぼんやりと、これといった特徴のない紫苑を見続けていた。
「そんな顔をしてくれるな。其方を見て転ぶ男もいるのだ、私が嫉妬してもいいのか?」
少しかすれぎみの声とともに、丹緋の視界が暗く翳る。
何事かと丹緋が顔を上向ければ、近くの木の幹に片手をついた皇帝に行く手を阻まれていた。心の臓が跳ね上がって足が止まり、人と出くわしたときの習慣で豈華を捜すが、いつの間にやら頼りにしている彼女はいなくなっていた。どうやら皇帝を気づかったらしい。
(うそ……二人っきりだ。どうしたら……)
今日まで皇帝は、執務が忙しくて逢えないからと手紙を送ってくれていた。『恋文ですね』と豈華は女人らしく手を叩いて喜んでいたが、当の本人はうろたえるばかり。
男女問わず人に慣れていないのだから、いわんや恋など。――である。
体格の違いからくる圧迫感に丹緋が震えていると。
すっと頬を撫でられた。
それは触れるか触れないかの微妙な指使いで、温もりだけを肌に残して遠ざかっていく。
「そんなに怯えるな。私が悪さをしているような気分になってくる」
「あ、ええと……申し訳ありません」
しゅんと俯けば、頭のてっぺんに落ちてくる皇帝の視線を強く感じた。
「謝らなくていい。ああ、其方は庶人の出だったな。ひょっとして剣が怖いのか?」
尋ねられてはじめて丹緋は、皇帝の左手に大剣が握られているのに気づいた。緊張すると呼吸が浅くなって視野が狭まってしまう。そのせいで、ほとんど見えていなかったのだ。
「うん? これは護身用だから慣れてもらわねば困るのだが、どうも、そうではないらしいな。なあ、丹緋。私と話すのは嫌か?」
(まさか、そんな)
丹緋はなけなしの力を振り絞り、ふるふると首を横に振った。
自国の皇帝を否定など、できるはずもない。話すのが嫌ではなくて、なにをどう応えればいいのかとためらってしまうだけだった。不快にさせてしまったのかと、丹緋は慌てる。
胸の前で両手を握り合わせ、再び詫びようと口を開きかけたときだった。
「謝らなくてもいいと言ったろう」
握り締めた両手に、皇帝の右手が添えられた。
男の人の掌は大きく、丹緋の二つの手をすっぽりと包んでしまう。
「欲しいのは詫びじゃなくて。私を見てくれないか。目と目が合わないと、私も傷つく」
「……え」
「嫌われているのかと不安になる。さっきも丹緋の殿舎に寄ったんだ。そうしたら普段は出歩かない其方が散歩に出かけたらしいと聞かされて、なんて運が悪いんだと自分の間の悪さを罵ったばかりなんだ。護衛の隙をついて、せっかく執務を放り出してきたのに」
丹緋は目をしばたたいた。
皇帝がなにを言っているのか、さっぱり理解できないのだ。もちろん言語は通じているのだが……、自分はすでに皇帝の所有物、一言命令すれば済む。優しくしなくても意のままに動かせるというのに。
(傷つくって、なんで……?)
頭が回らない。言われたとおり顔を振り上げてみれば、真摯な表情でこちらを見下ろす皇帝と目が合った。
丹緋はどきっとした。
熱いというべきか。
搦め捕られて焼かれそうだった。身体の芯まで、なにもかも。
(う、わ)と丹緋は胸中で悲鳴をあげる。
「其方、睫が長いんだな。動くたび、まるで花から花へと蝶が羽ばたいているようだ」
額がくっつくほどに顔を寄せ、皇帝はまだなにかを訴えようとしたが。
「陛下を見つけて帰らないと、俺が奎樹に怒られるんですがねー」
という内容とは裏腹な呑気な声がかかった途端に、表情をあらためて「ちっ」と鋭く舌打ちした。
「あ、すまない。其方に怒ったのではないから。ほら、向こうで手を振っているあいつ。片袖を何枚か脱いでいるのは、自分流のこだわりとやらだそうで、地味なおしゃれさん――なのか? 名は彊武喬という。上から読んでも下から読んでも『きょうぶきょう』なんて回文みたいでおもしろいだろ、ってそんな場合じゃないか。もう見つけるとは、大将軍は容赦ない」
丹緋に目線を戻した皇帝は、なんとも名残惜しそうに見つめてきた。
「ではな、丹緋。近いうちに逢いにいくから」
自分自身に納得させるように言ったあとで、握り締めていた丹緋の両手に口づけを落としていく。
口唇はなかなか離れなかった。
はじめてのことに丹緋の頬はかあっと赤くなった。
突然すぎて手を引き抜くこともできず、引き抜こうとしたとしても男の力には逆らえなかっただろう。指に残るのは口唇の柔らかい感触。戸惑う丹緋の顔を満足そうに見返してから、皇帝は駆け出していく。
結局のところ丹緋には、皇帝がなにをしたかったのかわからないままだった。
『回文みたいでおもしろいだろ』
(――あれはわたしを笑わせようとしてくれたのね)
皇帝は冗談をとばして場をなごませようとしてくれたのだ。
殿舎へ戻る途中、そう豈華に指摘されて、丹緋はようやく納得したのだった。
(陛下は『私と話すのは嫌か?』と訊いてきた。真剣なお顔で。そういえば、前も)
話をしたい、と言っていたような気がしないでもないのだ。
そこまで気づかってくれるのは、たぶん、自分が妻だからだろう。二十七人のうちの一人――たとえ形式上ではあっても、仲よくしようと努力してくれているのだ。ならば自分も、皇帝の想いには応えなければならない。それが〝人と接する〟ということ。
でも。
(わたしは言葉を恨んでいるのに……)
実母はとても美しい人だったと、丹緋は聞いている。父との間になかなか子を授からず、長く悩んでいたことも聞いた。その母との死別は、丹緋が幼い頃のこと。商家を切り盛りせねばならない父は娘のためにとすぐに別の女人と結婚したが、その継母と丹緋はうまくいかなかったのだ。
(……いつからだろう。わたしの身体がこんなふうになってしまったのは)
異母妹達がある程度の歳になってからのことだと記憶しているが、継母から嫌がらせをされると身体の周辺に微風が起こるようになった。それは最初、微かな風だった。髪を揺らすほどの。そのうちに、殴ろうとする継母の腕を跳ね除けられるまでになり。
一度だけ、下の異母妹を壁に叩きつけてしまったことがある。大切にしていた書物を目の前で破かれたことが原因で風を起こしてしまったのだが、やってはいけないことをしたという自覚はあった。怒ってはだめと。自分が傷つけられても人を傷つけてはいけないと。
以来、どこからともなく湧きあがる風を制御できるよう、懸命に努力したのに……。
この件がきっかけで、継母と異母妹二人からは『気味が悪い』『化け物』と罵られるようになった。不気味だと言葉でさんざん痛めつけられて、人扱いされなくなった。
仕事で忙しい父にも、かなり迷った末に相談してみた。父とは血がつながっている、風の不思議な力について告白しても、親子なら相談にのってくれるだろうと信じていたのだ。
ところが父も、実の娘を跳ね除けた。それは、不思議な力がどうこうというよりは、なにか〝別のもの〟を疎んでのようだった。
娘の内側にすかし視た、なにか別の。
(直感にも似たなにかを、お父様から感じたのは果たして気のせいだったろうか?)
継母と異母妹達に『あの妖女を追い出せ』と責められ続けた結果だったのか……。
父の決断は非情だった。
後宮から采女の募集があったとき、父は真っ先に受け入れた。なにしろ家には朝廷からの謝礼が入るし、なによりいらない娘であったから。後宮が絶好の捨て場であったのだ。
だけではない。人は、最悪の事態の中でこそ試される。
父は入宮を待てなかったのか、付き合いのあった玄家に娘を託した。玄家は遊里でも老舗の妓家であり、妓女にまじっての妓楼であれば宮中でのあれこれを修業できるだろうと、まるで物のようにぽいっと娘を放り出してしまったのだ。
妓楼がどのような所か知っていて。
男どもの究極の遊び場所――それが妓楼だ。好きでもない相手に愛想笑いし、身体を触られても我慢するだけ。厳しい監視の中で泣けもせず、逃げ出すこともできないままに。
(連日連夜、妓楼で働かされた。不自由だけを与えられて、それでも救いだったのは)
一人の客がずっと丹緋を指名し続けたからだった。三十半ばほどの身なりのよい男は丹緋に無理強いすることなく、ただのんびりと朝まで酒を飲んで帰っていった。
(あれ? そういえば、もう一人)
上の室から落ちた男がいた。髪には霧雨が絡んで、銀の髪が輝いていて綺麗だった。あの美男も確か、見た目は三十半ばほどだったか。……落ちたのに無事だっただろうか?
(真上の階といえば売れっ子名妓の、素昂さんの室だったはずで)
十八歳の素昂は、玄家の娘である。今回の采女の募集では一緒に入宮していた。
一流の妓女というものは歌舞音曲に秀でているもの。詩を詠むこともある。技芸だけでなく、知性と教養は日々磨きあげている。貴族の姫と比べてもなんら遜色なく、素昂は豊満妖艶の美女であった。
色気はあり余るほどたっぷりあったが、お金持ちの両親に当然のように優しくされて、その愛情を当然のように受け取って育ったために、性格はねじくれているらしい。ほかの妓女達の噂によれば『欲しいものは欲しい、譲らない女』、なのだそうだ。残念ながら、あまりよい性格ではないのだろう。
(素昂さんのように華やかで自己主張できる美女は、後宮にはたくさんいるのにな……)
ぽっかりと時間ができるたび、つい、丹緋は考え込んでしまうのだった。
艶やかな素昂とは、対極にいる自分。
あまりにかけ離れていて地味な人生。
(あ、でも……。陛下は、わたしが妓楼で働いていたと知れば、どう思うかな?)
世慣れた女と誤解して、これまでのように親切にしてはくれないだろうか。
もし、感情の抑制がきかずに風の不思議な力が出てしまったら?
それならそれで、と丹緋は思うのだ。
諦めるという行為は、たくさんのものをもっている者だけができること。なにももっていない者にははじめから執着心などないのだから、諦めるという落胆などとは無縁だ。
つらい想い出しかない家族のことは忘れたい。
自分も忘れられたままでいたい。
人は、人だからこそ相容れない。人は独りだから、独りで考えたそれぞれの世界を胸の内にもっている。胸奥で描いている想いは――見ているものは、なにより言葉は、どれほど近くにいようと、肌が触れていようと伝わらない。心は通じない。
それが、人。
穏やかな皇帝に話してみたいと迫られて複雑な気持ちになったのは。
(言葉に傷つけられたせい……)
このまま言葉の少ない世界にひきこもっていたいから。
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