天地狭間の虚ろ

碧井永

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第一章(1/3)

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 古今東西、人が多く集まる地には決まって歓楽街ができ、性と酒の売買がなされるものである。大陸の東にある天延てんえんの街にも遊里遊郭はあって、たいそうな賑わいをみせていた。
 遊里ゆうりは高官の住まう区画の近くにあることもあって、老舗妓楼ともなれば、連日連夜お大尽達が登楼とうろうしてくる。その夜も、げん家の営む妓楼は妓女を求める男どもで溢れていた。
 二階の一室で、少女を相手に酒杯を傾けている男もその一人。
 男の歳は三十半ばといったところか。顔にかかる部分の髪だけを結って、冠でとめている。表情がかわるたびにかげをつくる切れ込んだまなじりが特徴的であり、そのせいか、なにかの拍子に闇にとけて消えてしまいそうな雰囲気を色濃くまとっていた。
「ねえ、君。私がこんなにも繰り返しているのに」
 ここ数日、男はこの少女目当てに通っている。そして、はじめて逢ったその日から「身請けする」と繰り返し口説いているのだ。
 熱く、ときには囁いて、愛の言葉を捧げている。とにかく結婚してほしかった。
 少女は少し鈍いのか、場慣れしていないだけか。指名しているにもかかわらず、商売っ気なく小首をかしげて酌をするだけで、客に微笑みもしない。ただ、困ったように、
「……いえ、あの、……わたしはここで修業しているだけで、近々……」
 呟くように返事をするだけ。細面を俯けたままで目が合わないから余計に、男は言葉で押して、押して、最後には身体からだを押し倒したい衝動に駆られるのだ。さりとて、力づくで、と本気で思っているわけではない。そこは分別ある大人の男として、少女が目を合わせてくれるまで根気よく待つつもりであった。
 少女は極端に口数が少なく、人を寄せつけないところがある。すいと頬を寄せれば吐息がかかるほどそばにいるのに、指先が触れた途端に弾かれてしまいそうだった。美人ではあるものの、性格の暗さが顔に異様な翳をひらめかせている。顔貌が整いすぎているせいでかえって暗影が目立ち、人によっては話しかけるのが怖いと思うかもしれない。
 だからこそ、男は執拗に求婚する。少女のかもしだす〝陰の気〟に強く惚れたから。
「では、愛の証に。私の名を教えよう、私は羅翔らしょうという。この名は二人だけの秘密にして」
 君だけの胸にしまっておいて――甘く耳許みみもとで囁きながら、少女の柳腰に腕を回して抱き寄せようとしたとき。窓の上、天井のほうからドスンッとものすごい音が響いた。
 それまで冷静な態度をくずさなかった男はぎょっとなった。
 無口な少女も、開け放したままの窓の外へと視線をやって「え」と声を洩らす。
 なぜなら。
 降る秋雨と屋根瓦を巻き添えにして、一人の男が転がり落ちていったので。
 内向的な性格の少女もさすがに慌てた様子で窓へと駆け寄っていく。
 音が響いたのは上の室、つまり三階だ。男はその高さから落下したことになる。無傷でいられるはずはない。雨に濡れるのもいとわずに少女は窓にはりついて身を乗り出した。
 すると。
 落下した男は、なにもなかった様子で立ち上がりかけていた。ざわついているのは男をとり囲んでいる酔客のほう。その酔客達も幻覚でも見たのかと、酔いのせいにするかのように目をこすって笑い合っている。
「え……うそ、でしょう?」
 少女は呟く。
 その小さな声を聞きとったかのごとく、落下男が顔を振り上げた。
 男は背格好からして三十半ばくらいだろうか。玲瓏れいろうたる端整な顔をしていて、なにより印象的なのは髪の色だった。垂らしたままの長い髪は銀色に輝いている、それは舞うように降る霧雨のせいだけではなく。
 驚きで思わず少女が目をみはったとき。
 男は立てた人差し指を口唇くちびるにあてたのだった。
 まるで「秘密だよ」とでもいうように。


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