恋愛から逃げる女と結婚から逃げる男の逃避行

碧井永

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第一章(1/2)

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 第一景

 ことりと小さな音がした。
 気づいた女が振り返れば、ちょうどへやの扉が開けられるところだった。
 深緑の季節。
 青葉の匂いを含んだ夜風とともにふわりと現れたのは、長身の男。
 浴室から戻ってきたばかりの男は、長い黒髪を手巾ハンカチで拭きながら、灰色の双眸ひとみでそこにいるはずの女を捜す。額髪から垂れる滴の隙間から女を見つけると、どういうわけか、ホッとしたような表情を一瞬だけ浮かべた。
「な、昼間の件だが。おまえは」
 前触れなく話しだした男は寝台に腰をおろす。
 おまえ――そう呼びかけられたのは女で、姓をじゅう、名を礼寿れいじゅという。諸事情あって男からは「レイ」と呼ばれている。同じく諸事情あるこの湯あがり男は「ヒュウ」である。
 この男女、重なってしまった事情により、ふた月ほど逃避行を共にした仲であった。
 仲、といっても、周囲から勘繰られるような男女の関係はない。
 同じ場所から同じ日時に逃げ出し、同じ一頭の馬に揺られ、ふた月だけ同じ時間を一緒に過ごした。ただそれだけの関係だ。
 そのあたりの事情はさておき。
 二人が逃避先として落ち着いたのは、商業都市・青凄せいせいである。
 游州ゆうしゅう州都のさらに南東にあるのが商業人によってつくられた青凄であった。
 青凄は、水の都とうたわれている。
 国のほぼ中心にある皇都から南に少し、流れているのは大河・怒江どこう。怒江は西の大山脈を発源とし、東の大海まで続く。国を横断して流れる国内最長の河である。怒江の南一帯を江南こうなんと呼び、游州は江南にある州の一つであった。
 ために、水が豊富で水利には恵まれているのだ。
 怒江から水を引き込んだ小運河がいくつもつくられて、街や田畑を潤し、人や荷を運ぶ手段のひとつとして使われている。小運河によって、皇都とは直結されることになり、大量の物資と人員が皇都に吸いあげられるようになっていた。
 主だった都市をつないで縦断する運河建設はこの大国の二代皇帝によって興された大土木事業であり、怒江は大運河の起点となっている。
 大昔に青凄は、戦禍によって打ち捨てられていた。
 一度は朽ちた土地に商業人が住み着き、独自に再開発して現在に至るのだ。
 このような土地に根づいた商業人を「坐商ざしょう」といい、坐商による自治の認められた特別都市を「草市そうし」という。
 よって、ここ商業都市・青凄は、草市である。
 どうして二人が青凄を逃避先に選んだのかといえば、込み入った理由はなく、
『知己がいる』
 とヒュウが勧めたからだった。
 その知己とは青凄の豪商・盧芭瑠ろばるである。
 芭瑠は青凄の坐商で、多くの客商きゃくしょう〈他所から多くの商品を持ち込んでくる隊商〉を抱えている人物だった。基本的に客商は、坐商を通じて売買をするものなので、それだけで芭瑠のもつ力がうかがえるというものである。
 彼の歳は三十四で、仕事のできる官吏やくにんといった雰囲気だが……。
 なぜか、話し言葉は〝おネェ〟。
 肩のあたりで緩く束ねている髪をゆさゆさ揺らしながら挨拶されたとき、レイは見てはいけないものを見てしまった気がして、礼儀正しく絶句したほどだった。さりとて、彼の外見と職能のへだたりをさらりと受け流せるほど大人でもなく、『なんでよっ』とヒュウに尋ねてみると、返ってきたのは、
『清濁併せのむ図太い商人魂を隠すための個人的な設定』
 そんな設定を思いつき、設定を崩すことなく実行するとは、なんとも濃い個性である。
 見た目を裏切るおネェ言葉に、レイはいまだに慣れていない。
 そういった意表を衝かれた驚きもあって、ヒュウと芭瑠がどうして知り合いなのか(……どういった仲なのか)、レイは訊かないままでいた。
 正直レイは、青凄に長くとどまるつもりはなかったのだ。
 草市である青凄は物資が豊富である。金さえあれば、手に入れられない品はないだろう。街で充分な旅支度を整えたら、ヒュウとは別れようと決めていた。もともとなにかを約束して二人、旅を共にしてきたのではない。一緒に逃げたのはあくまでも突発的偶然であり、皇都から大きく迂回して江南に逃れた以上、そろそろ離れていい頃だと思ったのである。
 ところが、今日。
 とある訪問者によって時の流れがかえられようとしていた。
「昼間の件、って。番蓮ばんれん村正そんちょうが訪ねてきたこと?」
 寝台に腰かけたきり黙ってしまったヒュウに、レイが訊き返した。
 おまえは――の続きはなんだよっ、と心中で叫んだものの。
 尋ねたところで男が噛み合った回答を寄越すとはかぎらない。なにせこの男は巷で流行りの〝天然男〟なのだ。
 昨今、巷では【天然ボケ】というものが流行っているらしい。
 これを略して【天然】という。言動がいささか奇妙で、しかも厄介なのは、本人はそれと気づいていない。そういった人物を天然と呼ぶらしいのである。
 ヒュウは天然男、つまりは少々、変わり者。(逃避癖あり)
 旅を共にしている間、会話がずれることはしょっちゅうで、それもこれも逃避の悪癖がある自由人だからだとレイは思い込むようになった。
「うん? 私達を捜してやって来たその村正からの依頼なんだが」
 そこで髪を拭く手を止めた、ヒュウ。
 彼の、特徴的な切れ込んだまなじりが微かに動いた。
(あら? 回りくどい言い方したわね、なにかひっかかったのかしら)
 ヒュウのちょっとした表情の変化からレイは思ったものの、口にはださない。ふた月という短い期間とはいえ、朝から次の朝まで繰り返し、ずっと一緒にいたのだ。おかげで感情は多少読めるようになったが、かといって、仕事以外で人との距離をつめるつもりはないのだった。
「そうね。生きていくにはお金が必要だし、ここらでひと稼ぎしておくのもいいと思うのよね。だから、引き受けるわ」
 すると、ヒュウがびくっと肩を揺らした。
 まさかそんな反応をするとは意外で、レイはちょっとだけびっくりした。
「なんで?」
「え……なんで、って。あんた、人の話を聞いてた? お金、欲しいじゃない」
「充分に貯えはあるだろう。旅の途中でも金にはいっさい困らなかった。なにしろ私は、おまえに食わせてもらっていたようなものだ」
「ん、そう――って、人聞きの悪いこと言わないでよね。わたしがあんたを囲ってるみたいじゃないのっ。まあ、あんた一人養ったくらいじゃ、わたしの懐はちっとも寂しくならないし、貯えは減らないし……」
(今夜のヒュウ、なんか違うのよね。どこがどう、とは言えないんだけれど)
 成人男子が歳下の女に「食わせてもらっていた」のは問題ありともいえる。が、当世の女人は私的にも社会的にも活発で、それなりに発言力がある。加えて、食わせてやっていたのは、ある意味、連れて逃げてもらった礼でもあるので、金銭面に関してはどうでもいい。
 言いながら、レイは首をかしげて考え込んだ。
 今日の昼さがり、レイを訪ねてきたのは番蓮村の村正だった。

 青凄はもうすぐ、という逃避行の途次。
 レイとヒュウは小さな村を通りすぎようとしていた。そこで牡丹の花妖かようにとり憑かれてもめていた若い農夫二人に出くわした。この農夫二人のもめ事を無事に解決したのがレイであり、なんと! この一部始終を、隣村の番蓮の村正が見ていたというのだ。

 村正は、番蓮村が抱える問題をレイに解決してもらいたい、と頼みにきたのだった。
 面談した昼間には乗り気ではなかったものの、時間が経つにつれて、レイは(引き受けてみようか)という気持ちが強くなっているのを感じていた。
 わからないのは、そんな気持ちの湧いてくる理由だ。自分のことなのに、理由がどうにもつかめない。わからないから少しだけ胸の中がもやもやしている。しかも、ヒュウの顔を見ていると、さらにその想いが増してくるように感じるのだ。
(謎だ。……一晩、ゆっくり考えたいな)
 端整というよりは綺麗という形容が相応しい女顔のヒュウ。こいつと距離をとって、
「て、あんた! 今夜もここで寝るつもりっ!?」
 レイがぐるぐると思考を巡らせている間に、ヒュウは寝台に長々と身体からだを伸ばしている。自分の寝室のように振る舞っているが、まぎれもなくここは女の寝室である。
 間借りしているとはいえ、豪商である芭瑠の邸は広く豪奢で、借りているへやはいくつかある。当然、男女別々に寝室は用意されていて、同室になる必要性は皆無であった。
 余談だが、浴室つき食事つき。ほぼ食客扱いである。
「そうだ。いいだろう、べつに。旅の間はずっと一緒に寝ていたんだから」
「人聞きの悪いことばっかり言ってっ。野宿では仕方ないから並んで寝ただけじゃない」
「夜行性の獣が怖いと言って半ベソだったのはおまえだけどな」
「う。……宿でも、いつの間にかわたしの室に来てたでしょ」
「室を二つもとるなんて、もったいないからだ。金も無駄だし、ほかに泊まりたい客がいればそちらに回したほうがいい。何度もそう説明したのにおまえが聞かないから実践で示しただけだろう」
「く」
 こういうときには筋道をたてて説明する男なのだ。反論できず、レイは口をつぐんだ。しょうがない、さっさと眠るかと今宵も諦めて掛布を捲ったとき、ヒュウがなにかを見つめたまま動きを止めていることに気づいた。
「なによ?」
 彼の視線を追いながら問うてみる。
「おまえ、足が不自由なわけではないだろう。あの杖は必要なのか?」
 ああ、とレイは頷いた。ヒュウが見ているのは愛用の杖なのだ。にしても。
「今頃それを訊く?」
 逃避行の最中、杖を使っていてもそんな質問はしなかった。気になったのなら、行動を共にしたふた月の間にしたはずである。天然であり自由なこの男の性格からして、言いだしにくかった、とは思えない。
 なんで今夜、杖の話をするのだろう? レイはいぶかしみながらも答えた。
「あれは柳の木でできているんだけど。独りで旅をはじめた頃の仕事でね、樹妖じゅよう〈柳の精〉をはらったことがあるのよ。祓ってしまえば柳の木に害はないのに、そこに住まう民が気味が悪いからと木を伐ってしまったの。それだけじゃ済まなくて、伐った木もどうにかしてくれって押しつけられちゃってね。捨てるのももったいないから、以来、杖にして持ち歩いているのよね」
 杖といっても伐られた木を適当に削っただけで、歩くときに楽だから持っているだけなのだ。深い意味はなく、あるとすれば初仕事で残った品で、愛着が湧いたとでもいおうか。
「余りの木は業者に売ってお金に換えたし」
「ちゃっかりしてるところはおまえらしいな」
「いいじゃない。将来なにがあるかは誰にもわからない、貯えはわたしを裏切らないもの」
 悪びれずにふふっと笑ったとき。
 寝台に寝そべるヒュウが片手を差し延べてきた。
(なんなの、この手?)
 意味不明だ。
 じっと男のてのひらを見下ろしていれば、ヒュウもくすりと笑った。
「湯に浸かってからずいぶんと時間が経っている。この頃はいい陽気とはいえ、夜は冷える。そろそろ身体も冷えてきただろう。私の体温を分けてやるから」
 大きな掌に二の腕をつかまれ引き寄せられた。
「ほら、レイ」
 名を呼ばれ、寝台に引き込まれる。
 天然だから仕方がないのかもしれないが、こういうときには人格が切り替わる男なのだ。夜の匂いは纏っておらず、慣れた分、男女としての照れもない。とはいっても、互いの体温を感じるほどに距離が近づけば、これが正しい付き合い方なのかと複雑な気分に陥るレイであった。
 ヒュウの体温が肌から肌に伝わってきた、
 その直後。
 彼の身体が刹那硬直し、枕の下に潜ませていた剣に手を伸ばす。感情も肌から肌へ伝わるものだから身を寄せていたレイもつられて緊張し、耳を澄ませば、夜陰に回廊を走るばたばたという音が響いている。微かだった音はどんどん大きくなって。
 張りつめる全神経。
 近づいてくる、足音。
 それはレイの寝室の前で止まり、破壊されたと勘違いするほど勢いよく扉が開かれる。
「やっと、やっと追いつきましたぁ」
 息をきらせて転がり込んできた者を直視して、ヒュウが跳ね起きた。
 その者は、レイより歳下と思われる少年だった。




《次回 次週1月14日更新です》


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