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四 だから人は後悔する

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四 だから人は後悔する

     1

 弼戈ひつかに呼び出された緗綺しょうきは、北里遊郭を訪れていた。
 ここは馴染みの老舗妓楼だが、奎羅けいらを預かるようになってからは遊ぶ回数を減らしていた。
 今宵は弼戈が「どうしても」と言い張った上、「支払いは任せろ」と懐が広いことを言ったので、諾々と登楼してしまった。
 妓女が来る前の一室で男二人で酒を酌み交わしていると、
「例の報告のことで、お前に話しておきたいことがあってな」
 弼戈の言う報告とは、緗綺が投壺とうこの賭けの支払いのかわりにと頼んだ「奎羅の周辺調査」のこと。弼戈は信頼できる麾下きかに、ここしばらくは奎羅に張り付くよう命じてくれていた。
「いや、あれだ。武官たちも、むさい悪人に張り付くよりはノリノリでいたんだがな」
「若い娘に張り付くのは楽しいだろうね。確かに至れり尽くせりの痛快な報告だったよ」
「その報告な、一部をわざと削ってお前に渡してたんだ」
 酒杯を傾けたままで、緗綺は眉をひそめた。
「実はその娘には親しくしている男がいる」
「ンがっ!?」
 緗綺は衝動的に卓子をひっくり返しそうになった。
 しかし妓楼の物を破壊するわけにもいかず、衝撃の事実に頭を抱えた緗綺は椅子ごと後ろへひっくり返るにとどめた。
「君っ、責任とってくれたまえよ! うちの娘の純潔がどこの馬の骨とも知れぬヘタレ男に奪われていたらどうしてくれるッ」
 頭を抱えたまま緗綺が床をごろんごろん転がってのたうち回っていると、
「お前はお父さんかっ。だぁからお前には隠してたんだっつーの」
「やはりそうじゃないかと疑っていたんだっ。この前なんて彼女、朝帰りをしたからね」
 壊れた緗綺を冷たく見下ろして、弼戈は煙管きせるをくわえた。
「俺、思ったんだが。お前のヨタ話と麾下の報告をあわせて聞く限り、その娘、男に抱かれた経験があるんじゃないか? それも一度や二度じゃなく」
「む」
「どうもその娘は生娘らしさに欠ける。人並みの羞恥心がないように思えてならん」
「そっ、それは記憶がないからじゃ――」
「ンなわけあるか。頭が忘れても身体からだは憶えてるだろうよ」
「じゃあ彼女は十代半ばにして同心結どうしんけつを交わした人妻だというのかぁ」
 人妻――なんという卑猥な響き。
 と、そこで、緗綺の脳裏にパッとひらめいたのは銀製の腕輪。
「……君、豚の骨の素姓は調べたんだろうな」
「馬の骨、な。未練たらしくそう言うと思った。調べたから、今夜お前を呼び出したんだ」
 緗綺はいそいそと椅子に座る。
 弼戈の顔が、すうっと真面目なものにかわった。
「そいつが大理だいりに入ったのは、ふた月前。これまでは宿に泊まってる。長逗留できるってことは、それだけの大金を持ってるっつーことだろ? で、どこのお大尽かと大理に入ったときの公験旅券を調べたんだが、ヤツが所持していたのは玉製の公験こうけんだった」
 片眉を跳ね上げる緗綺。
「玉製? 州侯の血縁者か?」
「いいや、そいつの生業なりわい巫祝ふしゅくだ。筆頭貴族が巫祝になることは、まず有り得ない」
「……そうだな」
 緗綺は「巫祝か」と独り呟いて腕を組んだ。ひとつ、思い当たることがある。
 百年の昔、武王ぶおうが認めた家にはその証に玉でつくられた通行札を与えた、と聞いたことがあるのだ。
 これは一部の貴族しか知らない事実で、現在は知る者はほとんどいない。緗綺がこれを知り得たのは当時、とう家が筆頭貴族だったからであり、昔から寒門かんもんであったせつ家の弼戈が知らないのは当然のこと。
 弼戈に二、三確認していると、房室へやの扉が開かれる音がした。そこから楽の音や妓女と客が戯れる声が洩れ聞こえてくる。
「お。やっとお出ましだ。お前、こっちが迷惑するから落ち込むな。今夜は床入りしてけ」
 ちらと視線を寄越した弼戈が、入ってきた妓女の柳腰をとって膝の上に抱き上げる。どうやら妓楼に誘ったのは緗綺への気づかいだったらしい。
 悪夢から逃れるように、緗綺も妓女へと腕を伸ばした。

 川沿いを歩いていた礼寿れいじゅの足に、ふんわりとしたなにかが触れた。
 見下ろせば、奎羅のもとから戻ってきた猫だった。屈み込んで猫を抱き上げながら、礼寿は西日を浴びてちらちらと輝く水面を見遣った。
 日が長くなっているので、董家の門前まで奎羅を見送ろうと思えばできないこともない。が、分家とはいえ董家の邸に近づくのは、どうにも気が進まないのだ。
 帰るな――と、彼女の気持ちを無視して、無理矢理に引き止めてしまいそうで……。
 猫の顎を撫でていると、いくらか心が凪いできた。
 礼寿はふっと微笑する。
 書肆本屋が休みの日に訪ねてきてくれた奎羅を思い出せば、自然と頬が緩んでしまう。
「意地を張った強気なところも昔のままだ」
 昔、奎羅に言われたことがある。
 それはまるで昨日の出来事のように色鮮やかに甦る、胸に焼きつけられた言葉。
『貴方の右目がなんだっていうの? 宝玉のように輝く綺麗な目をもって生まれておいて自分が不幸だなんて笑わせないで。私のほうが貴方よりもずっと不幸だわッ!』
 普通なら女にそんな小生意気なことを言われればムカッ腹の立つところだが、彼女に言われる分には、ああそうかもしれないな、と妙に納得できた。
 その強気に、こちらが強く惹かれたことは事実だ。
 それから礼寿は、右目に怯えない奎羅と共に暮らすようになった。
 暮らしはじめてからは驚きの連続だった。
 彼女は見事に家の雑事というものができなかったのだ。
 炊事掃除洗濯、どれもからっきしで、それは大爆笑の日々。筆頭貴族の侍女として仕えていたこともあって着替えくらいはできたものの、ものすごく時間がかかった。帯を締めるのも一苦労で、あまりにもたもたしているから男の自分が何度か手伝ったほどの不器用さだった。
 彼女へと心が傾いていく毎日の中、彼女のつむぐ言葉が呪いのように身体からだに刻まれて……。
『貴方がうらやましいわ。その右目も、その能力も。稀代の巫祝と謳われた貴方ほどの力があれば、一族を処刑したあのおとこを女の細腕でも殺せるというのに』
 いくつもの夜を共にした頃には、彼女の口から物騒な恨み言がこぼれることはなくなっていた。
 強気でいたのは最初だけ。
 厭世えんせいともとれる言葉を繰り返し吐いていたのは、いろいろなことが一時に重なってしまった彼女の、唯一もてる心の楯だったのだろう。
 彼女は弱く脆い、感情豊かな娘だった。
 そんな彼女を救ってやりたいと思った。苦しみから遠ざけてやりたいと。
 そうして礼寿は、彼女の心の安寧のために動くことを決断した。
 彼女の言うとおり、自分ならば王を殺せる。
 王を殺したからといって彼女の一族が甦るわけもないが、少しでも心の慰めになるのならる価値は充分にあった。
 そしてその前に、彼女が気にしている額の痣をなんとかしてやりたかった。
 そうして迎えた、運命の日。
 彼女は純粋に、仕事へ出向く男を心配した。
『俺は頑丈だから、そんなに心配することはない』
 それでも彼女は納得できなかったのか、不安を抑え込むようにして胸元で両手を握り締めていた。男の身を案じる細い指はふるふると震えていて。
 彼女を安心させてやりたかった。
 これはいつもの見鬼師けんきしの仕事となんらかわりはないのだと、わかってほしくて。
 真実を隠すためにも。
 礼寿は嘘をついた。
「……俺は間違えてしまった」
 川面に反射する夕陽の残り火が、独り呟きを落とす礼寿と猫をほんのり赤く染めている。
 あのとき嘘をつかなければ。
 彼女はいつものように、一仕事終えた男を明るく出迎えてくれたに違いない。
 首に腕を回し、艶めかしく身体をすり寄せて、濡れた口唇くちびるは労いの言葉を紡いでくれたはず。
 その日……
 今でも鮮明に思い出す――自分を待っていたのは、冷たくなった彼女の身体。
 物言わぬ口唇。
 永遠に閉じられてしまった目蓋まぶた
 呼びかけても揺すってもなんの反応もなく……。
 腕の中にあった温もりが消えてしまった。
 あったのは深淵の闇と身体をきしませる静寂だけ。
 礼寿に再びの孤独がやって来た瞬間は、醒めることのない悪夢のはじまりとなった。
 その後しばらくは、自分がどうやって暮らしていたのか思い出せない。
 確かなのは、狂ったまま彷徨さまようように生きていた、ということだけ。
 とても長い時を、そうして独りで。
「二度と彼女に嘘はつかない」
 後悔はしたくない。
 嫌われてもかまわないから、今度こそ真実を告げなければならない。
 選択を間違えた言葉は人を殺す。
 それほどに人は儚く、生き抜くことは難しい。
 己の迂闊な一言が彼女を死に追いやってしまうほどに。
『――愛しているわ礼寿』
 本気の愛情を向けてくれた彼女。
 この世で愛してくれたのは彼女だけ。
 もう一度、その口から愛を囁いてもらいたい……。
「まずいな。さっき別れたばかりなのに、もう彼女に逢いたくなった」
 一度失っていることもあって、恋しく想う気持ちは止められない。
 礼寿はちらと周辺をうかがった。
 書肆が休みの日、訪ねてきてくれた奎羅が言っていたのだ。
『なんだか最近、誰かに見られている気がするのよね。イヤだな、幻視かしら』
 心配事を話してくれるのは、それだけ心を開いてくれているようで嬉しいものだ。
 それを董将軍にも話したかと尋ねれば、奎羅は首を横に振った。
 晴れやかな気分のままに、気のせいだろうと巧みに話を逸らせておいたが、礼寿にはいくつか心当たりがあった。
 立ち止まった礼寿は耳を澄ます。
 翼を休めている鳥たちの声を聞き取るために。

     2

 淡紅に色づいた艶やかな芙蓉ふようの花を、緗綺しょうきは見るともなしに眺めている。
 久しぶりの休みの午後、緗綺は芙蓉園に足を運んでいた。
 芙蓉園は、武王が当時の造園技術の粋を集めてつくらせた名園である。
 景観を愉しむために回遊できるよう小道が複雑に入り組んでいる大園林には、南北に広がる大きな池もある。湖といってもいいこの池は、切り崩した羽山うざんの裾野にあったものらしい。
 大粒の雨が降るその日の午後は人気ひとけがなく、そこはかとなく花の香りが漂う園林はひっそりと静まり返っていた。
 四阿あずまやで雨宿りをしていた緗綺は、目的の人物がこちらに来るのを見て片手を上げた。
「そこの者。そう、君。君も雨宿りをしたらどうかな」
 人好きのする笑みを浮かべて誘えば、二十歳になるかならないかの男は特徴的なまなじりり上げた。明らかに気分を害したその様子は、男が緗綺のことを知っていると暗に告げていた。
 雨に濡れるのを厭うことなく歩いてきた男は、むっつりと口唇を引き結んだままで四阿に入ってきた。
 緗綺とは程よく距離をとって立ち止まる。
「雨の芙蓉園というのも乙なものだね。雨に降られる花は美しい。君もここで花見かい?」
 如才なく尋ねても、男は黙したまま。
 男が口を開くまで、かなりの間が空いた。
「羽山で探し物があって寄っただけだ。お前、宿からずっと俺を付けていたな?」
「やはり勘づかれていたか。さすが、というべきかな」
 緗綺が肩をすくめると、礼寿れいじゅという名の巫祝ふしゅくの顔に露骨な怒気が浮かんだ。
「はっきり言っておく、董家のボンクラ若様よ。俺は董家の者とかかわりあいたくない」
「ぼ――おいおい、私たちは初対面なのに。それはないんじゃないかい」
「黙れ、ボンクラ。俺の機嫌をこれ以上損ねる前にとっとと立ち去れ」
 緗綺は妙な違和感に囚われていた。それは貴族に対する非礼な言動にではなく。
「私は君に用があるんだよ。君、うちの娘と親しくしているんだって?」
「うちの娘? ハッ、笑わせるな孺子こぞう
 緗綺は合点がいった。
 先程から感じていた違和感の正体はこれだ。見るからに歳下の礼寿が、緗綺を子どものように扱っている。なにより彼の目が、そう語っているのだ。
 明らかに大人が子どもに、否、老人が語るような、経験を積んだからこその巧みさを備えた口ぶりだった。
「愉快なアホと同居させられたせいで奎羅けいらの性格が妙な角度にズレたんだろうがッ」
「愉快なアホって、それは私のことかな。性格がかわるもなにも、彼女はずっとあんなふうだったけれど」
「いいや! 奎羅はもっと品のあるお嬢様なカンジだったんだ。や……俺はどんな奎羅でもかまわないが、お前と出逢ったせいでかわったというのが気に入らん。第一、彼女は、ふが、ふご、なんて間抜けた言葉づかいはしなかったんだぞ! おいボンクラ、よもや彼女の牀榻ベッドに潜り込むという変質者にまで成り下がってはいないだろうなッ」
 緗綺はぎくりと肩を揺らした。「臥室寝室に入るな」と奎羅から期待はずれの書簡が届いてからは、臥室に入るかわりに院子にわの窓から彼女の寝姿をこっそり覗いて楽しんでいた。
 それはまだ彼女に見つかっていないはず。
 緗綺は嘆息した。
 ボンクラからはじまって、孺子に愉快なアホに変質者。散々な言われようである。一面識もないのに列挙された言葉が示すのは、ツカエナイ男。
 ちなみに「愉快なアホ」発言をしたのは奎羅だが、緗綺に知る術はない。
「それはこちらの台詞だ。彼女、君の宿に泊まったんだってね。……いや、それよりね。君は、私――というより董家のことをなにか知っているのかい? 奎羅のことも以前から知っているような口振りだけれど、彼女とはどういう関係なのかな?」
「お前には関係のない関係だ」
「さっき羽山で探し物と言っていたけれど。なにを探していたんだろうか」
「そんなもの、お前の同輩とやらに調べさせたらどうだ。やたら奎羅を付け回しやがって、それが高位にある武官のやることか。恥をしれ!」
 目を瞬く緗綺。
 奎羅に武官を張り付かせているのが巫祝にバレているようだ――と、弼戈は妓楼で忠告してきた。まさか、その武官を動かしているのが弼戈だと気づかれているとは思わなかった。事前に調べたということか。
 この巫祝、なかなかやる。
 警戒した緗綺に反応したのか、礼寿の特徴的な眦が動く。
 停滞していた四阿内の空気は一瞬にして張り詰めた。
「少し君を試してみたいんだが――」
 言いかけて、緗綺はびくりと身体を揺らした。
 油断はしなかった。
 双眸はぴたりと巫祝に当てていた。
 にもかかわらず、彼は距離を詰め、左手は腰に佩いた緗綺の剣の柄頭を抑えているのだ。緗綺の右手が柄を握るより先に。
 なんという速業。
「やめておけ。お前のような孺子が俺に敵うわけなかろう」
 打ってかわり、それは地を這うような低声。緗綺を睨む両眼は獰猛な獣のようだった。
 得体の知れない緊張感がビリビリと体内を駆け抜けていく。
「俺を付けてきたお前は度し難いが、この際だ。ちょうどいい。羽山で拾った娘に〝奎羅〟と名づけた目的を話せ」
 緗綺も将軍職を拝命している武官だ、歳下に負けじと視線を鋭くする。しかし同時に武官の勘が告げていた。
 ――この男に刃向かってはいけない、と。
「目的もなにも、それは私が好きな名だからだよ」
 素早く身を引いた緗綺はそのまま抜刀する。だが、礼寿の動きも速い。大きく飛びのいた礼寿は、四阿から出て雨に打たれていた。
 雨に頓着することなく、剣をぶら下げた緗綺も四阿を出る。
「すごい身体能力だね、君。本当にただの巫祝なのかな」
 尋ねながらもすでに足は踏み込んでいる。
 相手はカラ手だがかまわず緗綺は下から剣を振り上げた。が、振り上げた白刃はキンッとつんざく音をたてて止められる。
 礼寿の手にも、どこから出したのか刀剣があった。
 彼が手にしているのはヒ首ひしゅというつばのない短剣で、遥か昔より暗殺に用いられてきた隠し暗器武器である。これを使いこなすということは、この巫祝はかなりな手練れということ。
「……やけに物騒なものを持ち歩いているんだな」
 斬り結んだまま、力押しの状態で緗綺が尋ねれば、
「自分の身は自分で護る、ただそれだけのこと。お前のように国の武官でありながら、庶人に刃を向ける愚か者がこの世にいる限り、決して手放すことはないだろうよ」
「誤解しないでくれたまえ。さっきも言ったけれど、私は君を試してみたいだけだ」
 力で緗綺が剣を振り切ろうとすれば、すんでのところで刃文をずらした礼寿が身をひるがえした。それは人並みはずれた瞬発力。
 距離をとった緗綺と礼寿の間には、しとしとと重い雨が降り注ぐ。その雨をうざったいと思っているのは緗綺だけか。
「少しでいい。私の相手をしてくれないか。将軍などというたいそうな職に就いてからは身体がなまっていてね。いやはや管理職なんてものは厄介事を押しつけられるだけの、ていのいい雑用係なんだ」
 緗綺が再び踏み込めば、足許の雨水が跳ねて散る。そのときにはもう刃金がぶつかり合っていた。武官でもなく、手にしているのは短剣なのに、礼寿はうまいこと交わしている。
 日の入りの時刻が迫っていて、仄暗い闇が周辺に垂れこめてきていた。ぶつかる剣の閃きは星の瞬きのよう。鋼の擦れ合う音が酷く耳障りだった。
 時刻を探るように顎を上向けた礼寿が距離をとり、激しく「ちッ」と舌打ちした。
「退け。お前とちんたらやり合っていたら日が暮れる。俺はお前ほど暇ではない」
 それなりの事情のある礼寿には急ぐ理由があった。
 そうとは知らない緗綺は、手加減されているようで微かな苛立ちを覚えた。武人が庶人に負けるなど、矜持プライドが許さない。
「男同士の勝負だよ、時に煩わされるなんて無粋じゃないかな」
 軽口を叩いてはいるものの緗綺は真剣だった。
 それほど多く斬り結んだわけでもないのに、柄を握るてのひらはじんじんと痺れているのだ。生まれてこの方、刀剣で押されたことなど一度もないというのに。
 緗綺が剣を振りかぶれば、思考を読んだように礼寿も動く。速い。回りこまれた直後、ヒ首の柄を逆手に握り直した彼にこめかみを殴られた。
「ぐッ」
 さすがの緗綺も短剣の柄頭でこめかみを殴られれば、頭がくらっとなる。
 その隙を衝いた礼寿は警戒しながら、大きく後退して地に屈み込んだ。短剣を握る手を、地べたにつけて。
「奎羅に〝旦那様〟と呼ばせているのは、さしずめ夫婦ごっこをしたいというお前の我がままといったところか。だが、彼女がお前を選ぶことはない。お前がどれほどの想いを彼女に向けたとしても。お前が次期当主である限り、否、董家の血脈である限り、お前が愛を勝ち得ることは絶対にない」
 おもむろに礼寿は立ち上がる。
「奎羅のために自ら出向いた――それは他力本願でしかなかった遥か昔の次期当主に比べれば度胸があろう。今代の二郎次期当主、そこだけは褒めてやる」
 不敵な笑みを浮かべた礼寿の指先には土がついていた。それを指と指で擦り合わせている。
 眩む視界をはっきりさせるために緗綺が頭を振ったときには、礼寿は片手の人差し指と中指を立てて手刀しゅとうをつくっていた。手刀は、巫祝が術を執行するときの動作。
 なにを仕かけられるのかと、緗綺が剣を構えた直後。
 礼寿は消えた。
 まるでそこにいなかったかのように、音もなく忽然と姿を消したのだ。
 なにが起こったのか。
 混乱する頭を整理するようにして額を押さえながら緗綺が辺りを見渡してみても、誰もいない。
 気配もない。
 緗綺は地に突き立てた剣に寄りかかりながら、足許あしもとに視線を落とす。
 そこには確かに礼寿の足跡が残っていた。
「……あれは」
 姿を消す直前、礼寿は土をすくい取って、いじっていた。
 たぶん礼寿は隠形法おんぎょうほうに連なる術、土遁どとんを執行したのだ。
 隠形法は、己の精神を宙に流れる〝気〟に統一させて、その身を隠す。
 遁甲とんこう十三術じゅうさんじゅつのひとつである土遁は、地脈に紛れて姿を隠し、ある程度の距離を移動するという。
 地脈に潜られてしまってはもう、無能の緗綺に追跡は不可能だった。
「あの巫祝……」
 本当に有能らしい。
 こちらが命がけでなければ、おそらく礼寿は術を執行しなかっただろう。試した甲斐あって、礼寿という名の巫祝のもてる業を間近で目撃することができた。だが、隠形法は主に仙人が駆使する術であり、人の身である巫祝がその術を執行するなど、緗綺はこれまでに聞いたことがない。
本物・・、ということか」
 耳許で異様に大きく響く雨音に鬱々としながら、緗綺は独り呟きをこぼして苦笑する。
 殴られていまだくらくらする脳裏には、妓楼での弼戈との会話がよぎっていった。
「玉製の札を持つ巫祝が羽山に現れた。これは、必然か……」
 緗綺の身体に、冷たい雨が針のように突き刺さっていく。

     3

 仕事が終わり、書肆しょしの裏手で奎羅けいらは猫と戯れている。
 こちらに駆けてくる礼寿れいじゅが見えたとき、奎羅の胸は高鳴った。それは見慣れたはずの長身だというのに……。
 ドキドキする。
「すまない。来るのが遅れてしまって」
 相変わらず俊足の礼寿は息を切らすこともなく詫びてくる。
「べっ、別に、……待ってたわけじゃないもの」
「そうか。でも、悪かった。気にするな、俺が申し訳なくて謝っているだけだから」
 言いながら礼寿は、奎羅の強気の思考を読んだように含み笑いしている。
 最近奎羅は、彼のそういうところがもの凄く苦手だった。頬が染まっているのが自分でもわかる。
「これをお前に渡したくて」
 礼寿がぺろんと取り出したのは細長い紙片だった。そこに連なっているのは読みづらい文字。文字というよりは模様にしか見えなくて、書かれているのは絵図といってもいい。
「これ、霊符れいふ?」
「そう。イチオウ、御守りになるから」
「え……でも、私、お金を払えないわよ。礼寿の書く霊符って幽契ゆうけいの加護があるから高いって、この間、紫媚しびが言ってたもの」
「……紫媚? またなにかされたのか?」
「あ、……ううん、違うの。はずみとはいえ川に突き落としたことを謝りにきてくれて」
 男だと思って力任せに突き飛ばしたら、胸に膨らみがあって驚いたのだそうだ。詫びにきてくれた紫媚はイイ娘なのだろう。ついでに堂々と宣言していったことを除けば、だが。
『あたし、横恋慕って前からやってみたかったの。燃えるわっ』
 どうぞ勝手に燃え尽きてください。
 奎羅は内心呆れたものの、心の片隅では、恋に一途に生きられる紫媚や峯華ほうかをうらやましく感じていた。そんな自分が意外でもあって……。
「俺が奎羅から金をとるわけないだろ」
「くれるの?」
 礼寿が頷くので、奎羅が遠慮なく霊符を受け取ろうとすると。
 なぜか礼寿はその霊符をくちゃくちゃと丸めて自分の口に放り込んでしまった。
「あーーーーッ!? なんてもったいないっ。私にくれるんじゃなかっ――」
 責める言葉は途中で遮られた。
 ぐいと腰を引き寄せられたかと思うと抗う隙も与えずに口づけされてしまったからだ。
 奪われた口唇くちびるには舌まで入れられて、容赦なく深いところまで探られる。口の中を貪られたせいで混ざりあった互いの唾液までごくんと飲み込んでしまい、奎羅は「ひっ」と悲鳴をあげそうになった。が、その悲鳴までもが重なる口唇に吸い取られてしまう。
 やっとのことで放してもらったとき、奎羅は気絶寸前だった。
「ややややっていいことと悪いことがあるでしょっ!? なにしてくれてんのよッ!」
 口づけの余韻に、息も絶え絶えになりながら奎羅が文句をつけると、
「心配はいらない。それは水に溶けやすいようにいた紙だからな」
 悪びれるどころか、礼寿は独り悦に入るように微笑んでいる。
「………………………………は?」
「今のは嚥用法えんようほうという立派な霊符の身につけ方だ。唾で溶かしての口移しは前にも一度やっているんだけど、これで安心だな」
 嚥用法とは、霊符を水などに溶かして呑み込む方法らしい。
「前にも、って……誰にやったのか知らないけどね。なら、最初からそう言いなさいよっ! まぎらわしいことするな――――っ!!」
 顔を真っ赤にして奎羅が怒れば、礼寿は心の奥を見透かすようなあの含み笑いをする。
「まぎらわしいって、なにと? ああ、奎羅は俺と純粋に口づけがしたかったのか?」
 再び腰から抱き寄せられても奎羅は逆らうことができなかった。
 ただ、言葉にならない言葉を求めて口をぱくぱくさせるだけ。
 ……苦手なのだ。
 それは男嫌いが発動したのとは微妙に異なっているようで。
 でも、気持ちのどこがどう違うのかわからずに。
 ここのところ本当に、礼寿が苦手だった。

 降り注ぐ陽射しが燦々と山の草木を照らしている。
 その日の昼下がり、峯華ほうかは慕っている羽葉うよう薬師と羽山うざんの狭い山道を歩いていた。
 大好きな人と山道を歩いているというだけなのに、そのへんの葉っぱまでがきらきらと輝いて見えるのはなぜだろう。峯華はまるで別世界に迷い込んだような気分を味わっていた。
「姫様、この辺りで休息をとりましょうか」
 背負っていた籠を置いた羽葉に呼ばれる。
 周辺には夏色に染まった花が咲き乱れていてきれいだった。
 ここをさり気なく休憩場所に選んでくれる羽葉は本当に優しいのだ。
 服が汚れないよう布を敷いてから、羽葉が手招きをする。
 峯華は頼りがいのある羽葉の気づかいにお礼を言って、彼の隣に腰を下ろした。
 垂らしたままの絹糸のような彼の髪は、さらさらと柔らかな風にあおられている。
 羽葉はパッと見では冷たい印象を受けるものの、笑みを浮かべると一瞬にして良識派という和やかな雰囲気にかわる。
「今日はずいぶんと薬草を摘みましたわね。臥せっている父様もこれで快方に向かいますわ」
 羽葉の眼差しがわずかにかげった。
「……ですが、昔に比べれば薬草はかなり減ってしまいました」
「そうなんですの?」
「武王によって羽山が切り崩される前は、もっと多くの薬草を採取できたのですよ。人もそれほど立ち入ることのない、清浄で静かな山でした」
「芙蓉園がつくられたときのことですわね。羽葉様は物知りでいらっしゃいますわ」
 懐かしむように羽葉の目は細められている。
「私は羽山に住んでおりましたから」
「え? 羽葉様は羽山に住んでいらっしゃったのですか?」
「あのときは武王に住み処を奪われたようなものです」
 あのとき――不意に低められた言葉に、峯華は小首をかしげた。
 武王が芙蓉園を造園したのは百年の昔。羽葉の話と辻褄が合わない。時間のズレがある。
 聞き間違いだろうか……
「……あの、羽葉様……?」
 おずおずと問いかければ、こちらを向いた羽葉と目が合った。
 峯華はびくりと肩を震わせる。
 もとからりぎみの目だったが、羽葉の両目は更に攣り上がっていた。背筋がぞっとなる。
「私は武王を憎みました、殺してやりたいほどに」
 片手を地についた羽葉が、ずいっと身を乗り出してきた。
 我知らず恐怖を覚えた峯華は小柄な身体からだをのけ反らせる。
「武王を殺すなど、私には造作もないこと。人の死など一瞬で、なんの苦しみも与えない。だから私は考えました――なにをすれば武王は苦しむのかと。王后を殺す? 妃嬪を殺す? 公子公主を殺す? 否、あの冷酷無慈悲の王が身内を惨殺されたところで悲しむわけもない。だとしたら、残るはひとつ。民を奪えばいいのです」
 峯華の眼前で、陽炎のように羽葉の姿がゆがんだ。
「広大な大地を支配しようとも、そこに民がいなければ。民のいない王など王ではない。孤独なひとつの個」
 だが瞬く間にもとの姿に戻る。
「ここは王都・大理だいり。手始めに私は王の住まう大理の民を狙うことにしました」
 地についていないほうの手を、羽葉が伸ばしてくる。
 峯華は反射的に逃げようとしたが、恐怖のせいで身体は固まったように動かなかった。冷たくなった指先は小刻みにがたがたと震えるばかり。かろうじて口唇は動くけれど、なにかをしゃべれば噛み殺されそうで、声を発することはできなかった。
 羽葉の節ばった手が、峯華の髪をすくい取る。そのひと房の髪に口づけた。
「愛しいとう家の姫。姫はどうして私をだましたりなどしたのです?」
「……わっ、わたくしはっ、騙してなど……っ」
貴女あなたは私を慕ってくれていたはず。にもかかわらず、貴女は私のもとに来なかった」
 峯華には、言われている意味がわからない。
 慕いこそすれ、騙すことなんてないというのに。
 責められるほどのことを羽葉にした憶えはまったくないのだ。
「薬草など取り揃えても無駄。董家の当主が長く臥せっているのは罰なのですから」
「……え?」
「私との約束をたがえた、これは呪いです」
「呪……い?」
「私は後悔しているのです。だから今度は間違えない、絶対に。据え膳食わぬは男の恥といいますでしょう、食べられるものは食べられるだけ食しておくに限る」
 息がかかるほど顔を寄せられて、怯えた峯華はぎゅっと目蓋を閉じた。
 とっさに両腕で顔を庇ったものの、男の腕力にかなうはずもなく、呆気なく腕を開かれてしまう。
 抵抗する間もなく、峯華は口づけられて押し倒された。
 角度をかえて何度も何度も繰り返される、情のない口づけ。
 自分が望んだ羽葉との結末はこんなものではなかったのに……。
 自分のなにが羽葉の気に障ったというのだろう……。
 謝りたいのに、口唇をふさがれていてはそれもできない。
 圧しかかられて両腕を押さえつけられ、想像もしなかった男の重みに峯華は呻くだけ。
 峯華の目に映るのは一変して色褪せた景色。
 その目からは、はらはらと涙がこぼれていった。




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