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タクシーに乗っても、私の頭の中はまとまらなかった。
写真の兄は、大学生のころに違いない。私と兄は、歳が三つ離れている。私と乃木さんも三つ、ということは、兄と同級になる。ならば友人でも不思議はない。
雲雀という名も滅多にあるものではない。私が史矢の妹であると気づかないはずがないのに、どうして乃木さんが黙っていたのか、その真意がつかめないから苛々した。
それに、怖かった。
自分が生きるためにも、家族のことは忘れてしまったほうがいいと思っていた。生きることは難しく、死ぬことは簡単だから。あっけなく人は死ぬから、家族につられて死を選ばないようにと、そう思っていたのだ。
けれど、どうしてか。
乃木さんとの距離が近づくにつれ、家族のことを思い出す時間が増えてしまった。これでもし、兄と友人だったなら。それを知ったら、私は果たして平常心でいられるだろうか。
自信がないから怖いのだ。
記憶が過去へと1ページずつ捲れていく。
どうしても思い出してしまう。
仕事が忙しかった父とは、年々話す時間が減っていたが、ちょっとでも会話をすれば空いた時間はすぐに埋まった。それだけ父は、家族のことをちゃんと見ていた。どれだけ仕事で疲れていようとも、それを家族に愚痴ることなく、八つ当たりすることもなく、家のことを第一に考えていた。男同士で、しかも長男だからか、とりわけ兄とは仲がよく、兄が成人してからは二人で飲みに出かけることも多かった。
働き盛りの父と遊び盛りの兄、普通の家庭ならば個人主義真っ盛りであろう二人が、世間を無視するように肩を並べていそいそと出かけて行く。私は母に「妬けちゃうね」と笑って言ったものだが、生真面目なところがある母は「妬けてしまうくらいが、ちょうどいい家族の幸せなのよ」と、ほぼかわらなくなった二つの背中を静かに見つめていた。
母は高校生のころ華道を習っていたらしく、玄関にはいつも、家族を出迎えるように生け花が飾られていた。
ストレリチアが好きで、毎年この季節になると別名・極楽鳥花と呼ばれる派手な花が生けてあったものだった。
冬の花、ストレリチアには赤いリボンが似合うのだ。
夜のかなり遅い時間だが、構わず私は乃木さんを訪ねた。「どうしたの?」と訊かれ、私は玄関の三和土に突っ立ったままで、定期券ケースを差し出した。
「あの、定期券が私のバッグの中に混ざってしまったみたいなので」
受け取りながら乃木さんは、「見つかってよかったよ」と笑った。「わざわざ」と言いかけたところで、彼の言葉を遮るようにして私は切り出した。
「すみません、ケースの中を見てしまいました」
乃木さんは、なにを言うでもなく黙っていた。
「それ、兄です。私の」
彼はどう切り返すだろうか。
そんな戸惑いがバカみたいに感じる速さで彼は応える。
「うん、知ってた。大学時代の、俺の唯一無二の親友だから」
やっぱりか。
私は自分の至らなさを呪った。
兄が死んだとき、兄のケータイに登録されている人間には片っ端から電話をかけた。知っていることがあるなら教えてほしい、と。友人ならば、そのときには乃木さんにも連絡をしていたはずなのに。記憶から消したくて、憶えていなかったのだ。
忘れたかったのに。
もうダメだ。
考えるより先に、「お願いです」と叫んでいた。
「兄はなにかを調べていたんです。父と母があんなふうに死んでしまって。あの日まで、ずっと様子がおかしくて、私、心配していたのに」
差し延べられた乃木さんの手をつかんだ。
「いつも安全運転してたのに、事故に遭うなんておかしいです。きっとなにかよくないことを考えていてハンドル操作を誤ったに違いないんです。お願いです、あの1ヵ月で兄がなにを調べていたのか、なにを考えていたのか、知っているなら教えてください」
家までは、あと少しの距離だった。
外が騒がしくなって、嫌な予感がした私は家を飛び出した。慣れたはずのカーブを曲がりきれず、煉瓦塀に突っ込んだ兄の車がそこに停まっていた。大した事故ではないように見えたのに、運転席の兄は血まみれで。
頭から流れる血が目に入ったからか、記憶に残る兄の両眼は赤い。
薄暮に降り出した雪は、流血のせいで紫色に染まっていた。
泣いても人生はかわらない。誰も助けてくれない。ならば新しい人生を生きるしかない。
けれど、手がかりがあるのなら。
「警察に言ったのに、なんにも調べてくれなかったんです」
「俺が悪かった」
なにを謝ったのか、わからなかった。「頼むから部屋へあがってくれないか」と言われ、そこでやっと私は、泣いていることに気づいたのだった。
「電話をかけてきてくれただろ? 10年前に、史矢のことで」
ソファに座ると、乃木さんはホットミルクを出してくれた。
「俺は子どものころからずっと、人とうまく付き合うことができなくて、独りでいるのが当たり前だったんだ。かまわれると、逆にうんざりしてしまうくらいで。でもね史矢は、俺が迷惑そうにしてるのにドカズカと俺の領域に入ってきて、独りにさせてくれなかった。ほっといてくれと何度も言ったのに、しつこくまとわりついてきて。気づけば唯一の友だちになってたよ」
大学時代が懐かしいと、乃木さんは小さく笑った。
「雲雀さんが電話をくれた日、俺はケータイを忘れて出かけていたんだ。元々友だちがいないから、そういうのを持つ癖がなかったんだよ。そんなところも、よく史矢に怒られたな」
ごめん、と乃木さんは謝った。
「電話には親父が出て、伝言も預かってたのに。用件を聞いて、友人のことだからなにかしてあげたいと思った。けど、できなかったんだ」
長い沈黙のあとで乃木さんは、「その直後、親父が行方不明になったからね」と言った。
私は情けなくなって俯いた。
人には人の人生があり、そこには事情があるのに、そんなことも考えず彼に一方的に詰め寄ったのだ。
「俺は後悔したよ。なんであのとき妹さんの力になってあげなかったのか、って。たった一人の大切な友だちのことなのに、自分の事情を優先させた心の狭さに腹が立った。だから10年経って雲雀さんが面接に来たときに、今度こそって思ったんだ」
職がなく困っている私のために、強く推薦してくれたのだ。
私がたくさんの意味を込めて「すみません」と謝ると、察したらしい乃木さんは、また小さく笑った。
「兄の様子がおかしいと思ったことはなかったですか?」
「うん、ごめん。俺と史矢の後期試験の最終日がバラバラだったってのもあるんだけど、それぞれ1月の終わりから春休みに入ってしまうだろ? そのころ会ってないんだよ」
兄の交通事故は2月の終わり。すべては2月に起こったことだ。
「最初に死んだのは、父でした。服毒自殺で」
学校が終わり家に帰ると、母が書斎のドアの前で半狂乱になっていた。
驚いた私が駆け寄ると、それでも母親としての意識が働いたのか、母はドアを塞いで中を見せようとしなかった。あとで聞いた話だが、その日、父は会社を休んだらしいのだ。突然帰ってきた父に母も驚いていると、父はそのまま書斎にひきこもってしまったという。しばらくして様子を見に行った母は、吐瀉物にまみれた父の死体を見つけたらしい。あまりにも酷い姿で、私に見せたくなかったのだそうだ。
「その次が母でした。私、一緒に夕飯の支度をしてたんです。隣で野菜を切っていたのにまな板を叩く音が不自然にやんで、私がそちらを見たときには母は泣いていて。突然、包丁で髪を切り出したんです」
引きちぎるようにザクザクと、母は髪を切っていた。耳まで切れていたのに、痛みなんてどうでもいいという顔をしていた。あまりのことに、私はどうすることもできなかった。声も出ず、身体も動かず、怯えるように私は突っ立っていた。
「一瞬のことでした。止める間もなくて。握っていた包丁で、母は喉を掻き切りました」
ざっくりとあいた喉の傷から、血がだらだらと垂れていた。ひゅうひゅうとこすれるような母のか細い息遣いが、今でも鮮明に甦る。でも、それだけだ。なにをどうしてどうなったのか、よく憶えていない。目覚めとともに兄の顔が視界に飛びこんできただけだった。
「兄はそのときのことを私に思い出させたくなかったのか、なにも訊きませんでした。淡々と葬儀の準備を進めるだけで。自分だって苦しいはずなのに、私の心配ばかりしていて、どこまでも優しかった」
思えば、あのころから様子がおかしかったのだ。
「兄妹なんだからと、口癖のように呟くようになりました。最初は私が心配だから、不安にさせないようにそう言ってるんだと思っていたんですが」
考えこむように難しい顔をして黙ることが多くなった。食事もとらないようになった。「お前は大丈夫だ」「俺がなんとかする」と壊れたロボットのように繰り返すようになって、ようやく私も、兄の異変に気づいたのだった。
「なんとかするって兄が言ったとき、今後の生活のことを言ってるんだと思っていたんです。でも、きっと、違ったんです。父も母も兄も、なにか問題を抱えていて、それで」
三人は立て続けに死んだ。
そうとしか、考えられない。
「スポーツクラブもバイトも休むようになって、私が学校へ行っている間はずっと家にいたようでした。なにかを探しているふうだったんですが、訊いてもうまく話を逸らされて」
帰宅するたびに、家具がちょっとずつズレていた。それは父と母のものばかりで、明らかになにかを探していたのに、兄は「気のせいだよ」と笑うばかりだった。
「史矢はほかになにか言ってた?」
なにも言わなかったのだ。兄との最後の数日間には、それだけの会話しかなかった。
「雲雀さんはどうしたいの?」
乃木さんの口調は、責めているわけでも詰問しているわけでもない、普段どおりの柔らかいものだったが、どうしてか胸に突き刺さるような痛みを覚えた。
「前に雲雀さんがこの家に来たとき、俺は親父の話をしただろ? あれ、わざとなんだ。あの話につられて雲雀さんも家族の話をしてくれたら、きっとそのことを引きずっているだろうから力になろうと思った。でも、雲雀さんは話さなかったし、そもそも俺のことすら憶えてなかったよね? だから俺、雲雀さんは忘れようと努力してるんだと思ったんだ」
史矢のことを黙っていたのもそれでだよ、と続けた。
このとき私は、乃木さんの顔を見ていてひとつ気づいた。
話の内容と表情が時々一致しないのは、彼なりに苦しみを乗り越えて、感情をセーブできるようになったからではなかろうか。私も乗り越えたのだ、ここで、来た道を戻りたくはなかった。
「乃木さんて、鋭いですね。私の考えてることなんてお見通しって感じで、言葉が胸に痛いですよ。本当にそのとおりなんです、私は残りの人生を独りで生きていかなくちゃならないから、感情が負のほうに振れる想い出は忘れようとしてました。だから、もういいんです」
『どうしたいの?』
そう訊かれて胸が痛んだのは、忘れたかったから。
人はいつでも死ねる。
父と母のように、死ぬ日は自分で決められる。兄のように、望まずとも死んでしまうことがある。だったらもう少し生きてみてもいいではないか。所詮それが死を前提にした人生でも、生き続ければなにかがかわるかもしれないのだ。
「ずっと独りで生きていくつもり?」
「そうですね。なんやかんや言っても私、トラウマがありますので。尖端恐怖症もそうですし、料理するのも一苦労の女と付き合おうっていう度胸のある男性っていないでしょうからね。それに乃木さんには見られてしまいましたけど、これからだってなにかがキッカケとなって家族のことで取り乱すかもしれないです。それを考えたら、家族をもつことになる結婚なんて無理ですよ」
「度胸はあるよ俺」
いきなりのことで、私は返事が遅れた。「はい?」と聞き返してしまったほどだ。
「雲雀さんが取り乱すところも目撃したし、俺に遠慮することなんてもうないだろ?」
それもそうだなと、私は頷いた。
だが乃木さんは、物足りなさそうな顔をした。
「ああ、いや、ええっと」
「あ、すみません。夜も遅いのに、遠慮もナシに押しかけて。もう帰ります」
彼は「そうじゃない」と動揺まじりの大きな声を出した。
らしくないせいで、私の肩がちょっとだけ跳ねるほどの。
「俺ね、学生のころに雲雀さんと史矢が並んで歩いてるのを何度か見かけたことがあるんだ。俺は一人っ子だから、最初はすごく憧れた。仲のいい兄妹だなって、羨ましく思っていたんだ。史矢の隣で、雲雀さんはいつも笑ってて、俺は他人のことには無関心だったのに、二人には無感情でいられなかった」
史矢の妹さんだからってこともあっただろうけど、と聞き取るのがやっとの早口で付け足した。
いつもの乃木さんとは微妙に雰囲気が違ったし、なによりこちらに目を向けないことが気にかかり、私は言葉を挟むことなく黙っていた。
「ああ、いや、つまりね」
好きだったんだ、と言われた。
うまく頭が回らなかった私は、「ありがとうございます」とだけ答えた。
なんとも居心地悪そうに乃木さんが座りなおした拍子に、腕を縫った痕がちらりと見えた。それで私は、今までの彼とのやり取りを思い出し、その優しさに納得したのだ。
そして、もうひとつ納得した。
優しくされて嬉しかった理由は極めて単純明快だった。
私も彼を好きだったのだ、と。
タクシーに乗っても、私の頭の中はまとまらなかった。
写真の兄は、大学生のころに違いない。私と兄は、歳が三つ離れている。私と乃木さんも三つ、ということは、兄と同級になる。ならば友人でも不思議はない。
雲雀という名も滅多にあるものではない。私が史矢の妹であると気づかないはずがないのに、どうして乃木さんが黙っていたのか、その真意がつかめないから苛々した。
それに、怖かった。
自分が生きるためにも、家族のことは忘れてしまったほうがいいと思っていた。生きることは難しく、死ぬことは簡単だから。あっけなく人は死ぬから、家族につられて死を選ばないようにと、そう思っていたのだ。
けれど、どうしてか。
乃木さんとの距離が近づくにつれ、家族のことを思い出す時間が増えてしまった。これでもし、兄と友人だったなら。それを知ったら、私は果たして平常心でいられるだろうか。
自信がないから怖いのだ。
記憶が過去へと1ページずつ捲れていく。
どうしても思い出してしまう。
仕事が忙しかった父とは、年々話す時間が減っていたが、ちょっとでも会話をすれば空いた時間はすぐに埋まった。それだけ父は、家族のことをちゃんと見ていた。どれだけ仕事で疲れていようとも、それを家族に愚痴ることなく、八つ当たりすることもなく、家のことを第一に考えていた。男同士で、しかも長男だからか、とりわけ兄とは仲がよく、兄が成人してからは二人で飲みに出かけることも多かった。
働き盛りの父と遊び盛りの兄、普通の家庭ならば個人主義真っ盛りであろう二人が、世間を無視するように肩を並べていそいそと出かけて行く。私は母に「妬けちゃうね」と笑って言ったものだが、生真面目なところがある母は「妬けてしまうくらいが、ちょうどいい家族の幸せなのよ」と、ほぼかわらなくなった二つの背中を静かに見つめていた。
母は高校生のころ華道を習っていたらしく、玄関にはいつも、家族を出迎えるように生け花が飾られていた。
ストレリチアが好きで、毎年この季節になると別名・極楽鳥花と呼ばれる派手な花が生けてあったものだった。
冬の花、ストレリチアには赤いリボンが似合うのだ。
夜のかなり遅い時間だが、構わず私は乃木さんを訪ねた。「どうしたの?」と訊かれ、私は玄関の三和土に突っ立ったままで、定期券ケースを差し出した。
「あの、定期券が私のバッグの中に混ざってしまったみたいなので」
受け取りながら乃木さんは、「見つかってよかったよ」と笑った。「わざわざ」と言いかけたところで、彼の言葉を遮るようにして私は切り出した。
「すみません、ケースの中を見てしまいました」
乃木さんは、なにを言うでもなく黙っていた。
「それ、兄です。私の」
彼はどう切り返すだろうか。
そんな戸惑いがバカみたいに感じる速さで彼は応える。
「うん、知ってた。大学時代の、俺の唯一無二の親友だから」
やっぱりか。
私は自分の至らなさを呪った。
兄が死んだとき、兄のケータイに登録されている人間には片っ端から電話をかけた。知っていることがあるなら教えてほしい、と。友人ならば、そのときには乃木さんにも連絡をしていたはずなのに。記憶から消したくて、憶えていなかったのだ。
忘れたかったのに。
もうダメだ。
考えるより先に、「お願いです」と叫んでいた。
「兄はなにかを調べていたんです。父と母があんなふうに死んでしまって。あの日まで、ずっと様子がおかしくて、私、心配していたのに」
差し延べられた乃木さんの手をつかんだ。
「いつも安全運転してたのに、事故に遭うなんておかしいです。きっとなにかよくないことを考えていてハンドル操作を誤ったに違いないんです。お願いです、あの1ヵ月で兄がなにを調べていたのか、なにを考えていたのか、知っているなら教えてください」
家までは、あと少しの距離だった。
外が騒がしくなって、嫌な予感がした私は家を飛び出した。慣れたはずのカーブを曲がりきれず、煉瓦塀に突っ込んだ兄の車がそこに停まっていた。大した事故ではないように見えたのに、運転席の兄は血まみれで。
頭から流れる血が目に入ったからか、記憶に残る兄の両眼は赤い。
薄暮に降り出した雪は、流血のせいで紫色に染まっていた。
泣いても人生はかわらない。誰も助けてくれない。ならば新しい人生を生きるしかない。
けれど、手がかりがあるのなら。
「警察に言ったのに、なんにも調べてくれなかったんです」
「俺が悪かった」
なにを謝ったのか、わからなかった。「頼むから部屋へあがってくれないか」と言われ、そこでやっと私は、泣いていることに気づいたのだった。
「電話をかけてきてくれただろ? 10年前に、史矢のことで」
ソファに座ると、乃木さんはホットミルクを出してくれた。
「俺は子どものころからずっと、人とうまく付き合うことができなくて、独りでいるのが当たり前だったんだ。かまわれると、逆にうんざりしてしまうくらいで。でもね史矢は、俺が迷惑そうにしてるのにドカズカと俺の領域に入ってきて、独りにさせてくれなかった。ほっといてくれと何度も言ったのに、しつこくまとわりついてきて。気づけば唯一の友だちになってたよ」
大学時代が懐かしいと、乃木さんは小さく笑った。
「雲雀さんが電話をくれた日、俺はケータイを忘れて出かけていたんだ。元々友だちがいないから、そういうのを持つ癖がなかったんだよ。そんなところも、よく史矢に怒られたな」
ごめん、と乃木さんは謝った。
「電話には親父が出て、伝言も預かってたのに。用件を聞いて、友人のことだからなにかしてあげたいと思った。けど、できなかったんだ」
長い沈黙のあとで乃木さんは、「その直後、親父が行方不明になったからね」と言った。
私は情けなくなって俯いた。
人には人の人生があり、そこには事情があるのに、そんなことも考えず彼に一方的に詰め寄ったのだ。
「俺は後悔したよ。なんであのとき妹さんの力になってあげなかったのか、って。たった一人の大切な友だちのことなのに、自分の事情を優先させた心の狭さに腹が立った。だから10年経って雲雀さんが面接に来たときに、今度こそって思ったんだ」
職がなく困っている私のために、強く推薦してくれたのだ。
私がたくさんの意味を込めて「すみません」と謝ると、察したらしい乃木さんは、また小さく笑った。
「兄の様子がおかしいと思ったことはなかったですか?」
「うん、ごめん。俺と史矢の後期試験の最終日がバラバラだったってのもあるんだけど、それぞれ1月の終わりから春休みに入ってしまうだろ? そのころ会ってないんだよ」
兄の交通事故は2月の終わり。すべては2月に起こったことだ。
「最初に死んだのは、父でした。服毒自殺で」
学校が終わり家に帰ると、母が書斎のドアの前で半狂乱になっていた。
驚いた私が駆け寄ると、それでも母親としての意識が働いたのか、母はドアを塞いで中を見せようとしなかった。あとで聞いた話だが、その日、父は会社を休んだらしいのだ。突然帰ってきた父に母も驚いていると、父はそのまま書斎にひきこもってしまったという。しばらくして様子を見に行った母は、吐瀉物にまみれた父の死体を見つけたらしい。あまりにも酷い姿で、私に見せたくなかったのだそうだ。
「その次が母でした。私、一緒に夕飯の支度をしてたんです。隣で野菜を切っていたのにまな板を叩く音が不自然にやんで、私がそちらを見たときには母は泣いていて。突然、包丁で髪を切り出したんです」
引きちぎるようにザクザクと、母は髪を切っていた。耳まで切れていたのに、痛みなんてどうでもいいという顔をしていた。あまりのことに、私はどうすることもできなかった。声も出ず、身体も動かず、怯えるように私は突っ立っていた。
「一瞬のことでした。止める間もなくて。握っていた包丁で、母は喉を掻き切りました」
ざっくりとあいた喉の傷から、血がだらだらと垂れていた。ひゅうひゅうとこすれるような母のか細い息遣いが、今でも鮮明に甦る。でも、それだけだ。なにをどうしてどうなったのか、よく憶えていない。目覚めとともに兄の顔が視界に飛びこんできただけだった。
「兄はそのときのことを私に思い出させたくなかったのか、なにも訊きませんでした。淡々と葬儀の準備を進めるだけで。自分だって苦しいはずなのに、私の心配ばかりしていて、どこまでも優しかった」
思えば、あのころから様子がおかしかったのだ。
「兄妹なんだからと、口癖のように呟くようになりました。最初は私が心配だから、不安にさせないようにそう言ってるんだと思っていたんですが」
考えこむように難しい顔をして黙ることが多くなった。食事もとらないようになった。「お前は大丈夫だ」「俺がなんとかする」と壊れたロボットのように繰り返すようになって、ようやく私も、兄の異変に気づいたのだった。
「なんとかするって兄が言ったとき、今後の生活のことを言ってるんだと思っていたんです。でも、きっと、違ったんです。父も母も兄も、なにか問題を抱えていて、それで」
三人は立て続けに死んだ。
そうとしか、考えられない。
「スポーツクラブもバイトも休むようになって、私が学校へ行っている間はずっと家にいたようでした。なにかを探しているふうだったんですが、訊いてもうまく話を逸らされて」
帰宅するたびに、家具がちょっとずつズレていた。それは父と母のものばかりで、明らかになにかを探していたのに、兄は「気のせいだよ」と笑うばかりだった。
「史矢はほかになにか言ってた?」
なにも言わなかったのだ。兄との最後の数日間には、それだけの会話しかなかった。
「雲雀さんはどうしたいの?」
乃木さんの口調は、責めているわけでも詰問しているわけでもない、普段どおりの柔らかいものだったが、どうしてか胸に突き刺さるような痛みを覚えた。
「前に雲雀さんがこの家に来たとき、俺は親父の話をしただろ? あれ、わざとなんだ。あの話につられて雲雀さんも家族の話をしてくれたら、きっとそのことを引きずっているだろうから力になろうと思った。でも、雲雀さんは話さなかったし、そもそも俺のことすら憶えてなかったよね? だから俺、雲雀さんは忘れようと努力してるんだと思ったんだ」
史矢のことを黙っていたのもそれでだよ、と続けた。
このとき私は、乃木さんの顔を見ていてひとつ気づいた。
話の内容と表情が時々一致しないのは、彼なりに苦しみを乗り越えて、感情をセーブできるようになったからではなかろうか。私も乗り越えたのだ、ここで、来た道を戻りたくはなかった。
「乃木さんて、鋭いですね。私の考えてることなんてお見通しって感じで、言葉が胸に痛いですよ。本当にそのとおりなんです、私は残りの人生を独りで生きていかなくちゃならないから、感情が負のほうに振れる想い出は忘れようとしてました。だから、もういいんです」
『どうしたいの?』
そう訊かれて胸が痛んだのは、忘れたかったから。
人はいつでも死ねる。
父と母のように、死ぬ日は自分で決められる。兄のように、望まずとも死んでしまうことがある。だったらもう少し生きてみてもいいではないか。所詮それが死を前提にした人生でも、生き続ければなにかがかわるかもしれないのだ。
「ずっと独りで生きていくつもり?」
「そうですね。なんやかんや言っても私、トラウマがありますので。尖端恐怖症もそうですし、料理するのも一苦労の女と付き合おうっていう度胸のある男性っていないでしょうからね。それに乃木さんには見られてしまいましたけど、これからだってなにかがキッカケとなって家族のことで取り乱すかもしれないです。それを考えたら、家族をもつことになる結婚なんて無理ですよ」
「度胸はあるよ俺」
いきなりのことで、私は返事が遅れた。「はい?」と聞き返してしまったほどだ。
「雲雀さんが取り乱すところも目撃したし、俺に遠慮することなんてもうないだろ?」
それもそうだなと、私は頷いた。
だが乃木さんは、物足りなさそうな顔をした。
「ああ、いや、ええっと」
「あ、すみません。夜も遅いのに、遠慮もナシに押しかけて。もう帰ります」
彼は「そうじゃない」と動揺まじりの大きな声を出した。
らしくないせいで、私の肩がちょっとだけ跳ねるほどの。
「俺ね、学生のころに雲雀さんと史矢が並んで歩いてるのを何度か見かけたことがあるんだ。俺は一人っ子だから、最初はすごく憧れた。仲のいい兄妹だなって、羨ましく思っていたんだ。史矢の隣で、雲雀さんはいつも笑ってて、俺は他人のことには無関心だったのに、二人には無感情でいられなかった」
史矢の妹さんだからってこともあっただろうけど、と聞き取るのがやっとの早口で付け足した。
いつもの乃木さんとは微妙に雰囲気が違ったし、なによりこちらに目を向けないことが気にかかり、私は言葉を挟むことなく黙っていた。
「ああ、いや、つまりね」
好きだったんだ、と言われた。
うまく頭が回らなかった私は、「ありがとうございます」とだけ答えた。
なんとも居心地悪そうに乃木さんが座りなおした拍子に、腕を縫った痕がちらりと見えた。それで私は、今までの彼とのやり取りを思い出し、その優しさに納得したのだ。
そして、もうひとつ納得した。
優しくされて嬉しかった理由は極めて単純明快だった。
私も彼を好きだったのだ、と。
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葉羽
ミステリー
音響学の権威である変わり者の学者、阿座河燐太郎(あざかわ りんたろう)博士が、古びた洋館を改装した音響研究所の地下実験室で謎の死を遂げた。密室状態の実験室から博士の身体は消失し、物証は一切残されていない。警察は超常現象として捜査を打ち切ろうとするが、事件の報を聞きつけた神藤葉羽は、そこに論理的なトリックが隠されていると確信する。葉羽は、幼馴染の望月彩由美と共に、奇妙な音響装置が残された地下実験室を訪れる。そこで葉羽は、博士が四次元空間と共鳴現象を利用した前代未聞の殺人トリックを仕掛けた可能性に気づく。しかし、謎を解き明かそうとする葉羽と彩由美の周囲で、不可解な現象が次々と発生し、二人は見えない恐怖に追い詰められていく。四次元残響が引き起こす恐怖と、天才高校生・葉羽の推理が交錯する中、事件は想像を絶する結末へと向かっていく。
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