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10月に入り、会社では下期がスタートした。
期が移れば担当する仕事もかわる。私は来年度の新卒者向けパンフレットを制作するグループのサポートにつくことになった。
乃木さんとはあれから顔を合わせることはなかったが、この担当になって、打ち合わせに来る彼を見つけることが多くなった。どうやら人事部サイドの担当者は乃木さんらしいのだ。私はあくまでサポートなので打ち合わせに同席することもなく、時々その姿を見つけてはこっそり喜ぶという、なんともマヌケな日々を過ごしていたのだった。
「乃木さんて、噂どおりだったわね」
「そうそう。打ち合わせのときは結構しゃべるのに、終わるとすぐに席を立っちゃって。あわよくば飲みに誘おうとしてたのに、あれじゃ、話しかけてくれるなオーラを出しまくってる感じよね」
斜め前の席で、マンゴーのときの同僚が二人で話しこんでいた。聞くつもりはないのだが、どうしても耳に入ってしまう。聞いていて、私の知っている乃木さんとはずいぶんと印象が違うので、同姓の別人かと思ってしまうほどだった。
なにしろ、マンゴーマンゴーと、給湯室まで追っかけをする人である。
「恰好いいのに、残念ね。あの髪も染めてるんじゃなくて地毛でしょ? 魅力的なのに」
「恰好いいから油断してるんじゃなくて? 乃木さんが上から目線で私たちを見てるとは思わないけど、ガツガツしなくても女は選べるとか思っているんじゃないのかしら」
確かに、恰好のいい人なのだ。
しかし、そういう匂いはしなかった。
「なら、もう、彼女がいるとか? 結婚間近とか?」
「そんなふうでもないけど。あー、でも男って、いつの間にか結婚するからね」
なんとなく聞いていた私は、乃木さんにはそういった女性はいないと勝手に決めつけていたことに、我ながら意表を衝かれて、愕然としたのだった。
それから半月後。
乃木さんが打ち合わせにこなかったらしい。それは彼がポカをしたわけではなく、人事部で急な会議が入ったからだと聞かされた。
「乃木さんは、今の時間は空いてるらしいんだけど。私たちは業者の打ち合わせが入ってるのよ。でも、この色指定は四時までに済ませて印刷会社へデータ入稿しないといけないから、人事部へ行って、どの色がいいのか訊いてきてくれないかな」
指示を受け、私は色見本を持って、人事部のフロアへ向かった。
普段から私は、3フロア程度の移動であれば、エレベーターではなく階段を使う。とくに意味はないのだが、兄がデパートなどでそういうことをする人だったので、それを真似たまま今に至っているらしい。今日も階段を使い人事部のフロアまで下りると、昇降口のドアを開けたところに乃木さんが立っていた。
ネクタイのノットを触りながら、片手で書類をはらはらとめくっている彼に話しかける。
「ちょうどお伺いしようとしてたところでした」
「連絡はもらってるよ。こちらの都合で雲雀さんのお手間をとらせて申し訳なかったね。そこの小会議室を押さえてあるから」
「あの、ずっと気になっていたのですが、腕の具合はどうですか?」
「なに? 腕? 俺が忘れてるくらいだから、もう全然平気だよ」
会議室に入る直前、「なにか飲む?」と訊かれた。では、と私が自販機へ行こうとすると、「迷惑をかけたお詫びに奢るから」と笑顔を向けられた。
やはり噂とは違う。
席に着くなり、私は仕事の話を進めた。時間をとらせたくなかったのだ。
「今回決めていただきたいのは、パンフレット全体に使われるカラーです。まだ時間はありますので、大体のところを決めていただくだけでいいです。これをベースにして束見本を作製し、掲載写真を選んだり、文字組みを決めたりしていくことになります」
イメージがつかみにくいかなと、私は自分のノートを破って「パンフレットはこのくらいのサイズになる予定なんですが」と付け足した。
乃木さんは笑った。
「あ、すみません。わかりにくかったですか?」
「ううん逆だよ。わかりやすいなと思って」
ホッとするのも束の間だった。
「雲雀さんだったら、何色を選ぶ?」
逡巡していると、「派遣だからって意見を言ってはいけないってことはないよ」と、また笑われた。でも、その言葉に救われたのだ。私が迷っていたのは、まさにそこだったから。
「俺の勘違いだったら、ごめん。雲雀さんは、こういったクリエイティブな仕事に向いてるんじゃないのかな? さっきの説明だって、いいものをつくりたいから丁寧に説明をしてくれたわけでしょ? デスクワーク専門の俺にもちゃんと伝わるように、って」
クリエイティブな仕事に向いているかは別として、説明がしっかりと伝わっていることは嬉しかった。
「書店に並ぶ書籍ではないので、目を引く色にしなくてもいいと思います。これを手にとる新卒者は、初めて社会に触れるという意味でも緊張して開くことになるので、安心させるような色をもってくるのがいいかなと。たとえば暖色系の淡い色なら落ち着きますし」
R(赤)からG(緑)の色見本を何色か差し出すと、「じゃあそれで」と即決されてしまった。
忙しくて時間がないのは承知しているが、「もっと慎重に選んだほうが」と、私は慌てた。
「慎重に選んだよ。雲雀さんの説明を聞いて納得したから決めたんだ」
そう返されてしまうと、なにも言えない。私は手早く片づけを始めた。
「今日は打ち合わせをキャンセルして申し訳なかった。お詫びに食事でもどうかな?」
「食事、ですか? でもさっき、ドリンクを奢ってもらいましたよ?」
「ドリンクで済ませるセコいヤツと思われたくない」
思わず私がふき出すと、乃木さんもゆったりと笑った。
「あまりにサクサクと話を進めるから、俺と打ち合わせをするのが嫌なのかと思ったよ。実をいうとね、賭けをしたんだ」
「賭け、ですか?」
「雲雀さんが階段で来たら食事に誘おう、って。だから勝者の俺と食事をしてくれたら嬉しい」
意味不明の理屈だったが、「はい」と返事をして私は自分のフロアへ戻った。
店内はカウンターを除く三面の壁が水槽になっている、幻想的な空間だった。淡いブルーのライトが水槽を照らし、色鮮やかな熱帯魚の泳ぐ影がとても美しい。
「どう? お腹は膨れた?」
「はい、とってもおいしかったです。いつもは独りで食べているので」
淋しいと言いかけて、しまったと口を噤んだ。「一人暮らしなの?」「家族は?」と訊かれるのが嫌なのだ。けれど、そうだったとホッとする。乃木さんは、知っているのだ。
「俺も独りだから淋しいよ」
全然淋しくなさそうな顔で言うのがおかしかった。これは彼の癖なのだろうか、表情と話す内容が時々見事に一致しない。
「乃木さんは10年前におつらいことがあったと話してくれましたが、私も10年前にいろいろとあって。両親と兄を1ヵ月の間で立て続けに亡くしたんです」
せっかくの楽しい雰囲気を壊したくなかったが、乃木さんなら、そうはならないように思えた。
「家族で一戸建てに住んでいたんですけど、経済面や精神面で問題も多くて、結局大学を卒業してすぐに売ってしまいました。だから私、今はマンション暮らしなんです。乃木さんとは逆ですね」
「広い家が恋しい?」
「今となってはそう思うこともあります。でも当時はあまりに広くて哀しくて、あんなに部屋があるのに居場所がなくて耐え切れなくなったんですよ。人が消えると、灯りも消えてしまうから。でも、最近になって気づきました。住んでいる場所の問題じゃなくて、心のもちようなんだって。今はワンルームに住んでいるんですが、やっぱり居場所がないような気がしてしまう。だったら想い出のつまった家を売らなきゃよかったなって、後悔してるんです」
乃木さんが、表現し難い顔をした。怒っているような、けれど気鬱ともとれる複雑な表情だったので、なにを考えているのかわからなかった。
「そのうち旦那さんが立派な家を建ててくれるって」
「それはないと思います」
否定を強調するように、もう一度「ないです」と答えた。
親ナシで、わけありの女と、結婚しようとする男はいるだろうか。
生き続けるよう努力はするが、結婚となるとまた別の問題だ。そもそも私は、高校二年のときから、人と距離をとって付き合うようになっていて、今夜のように二人で食事へ出るなんて有り得ないことだった。会社で噂されている乃木さん評価は、そのまま私に当てはまるのだ。
唐突に、同僚の言葉を思い出した。
『あー、でも男って、いつの間にか結婚するからね』
「乃木さんも広い家でずっと独りは淋しいですよね?」
伝わっただろうか。
「ああ、そうね。でも予定はないな」
すごい、と思った。私の意を汲んで返事をしてくれたのだ。
跳ね上がる鼓動を静めるように、私は話題をかえた。
「そういえば。給湯室のパーテーション、新しくなってたんです。私としては、いつ請求がくるのかなって怯えていたんですけど」
「そんなこと心配してたんだ。言ってくれればよかったのに。俺が総務部に交渉して、会社の金で買わせたから問題ナシ」
この人は、どれだけ私を驚かせるのだろうか。そこまでしてくれていたことに、なんと言えばいいのかわからなくなってしまう。
「割ったのは俺だしね。それに俺、会社ではイイ子ちゃんだから、頼めばどうにかなったりするんだよ」
「イイ子ちゃんだなんて、そんな」
「そんなことあるよ。人付き合いが苦手だから、会社では演技をするしかない。それが俺の処世術かな」
世間では演技をして疲れてしまうから、余計にプライベートにはかかわってほしくないのかもしれない。
乃木さんのもつ不思議な面を、ひとつ解決したような気分だった。
帰宅して、私は蒼ざめた。
バッグの中に、乃木さんの定期券ケースが入っていたのだ。駅で彼が「定期を失くした」と言っていたのを間近で見ていただけに、衝撃は大きかった。
どうしてこんなことにと考えて、そういえばと思い至った。
店に入って席に着いた直後、私がバッグを落として中身を床にバラ撒いてしまった。乃木さんは一緒に拾ってくれたのだ。あのとき入ってしまったのだろう。
慌てて乃木さんの定期を取り出し、教えてもらったばかりのケータイ番号へ連絡しようとした。
だが、私の頭は真っ白になった。
二つ折りのケースの中には、定期券と一緒に写真が入っていた。
乃木さんと並んで笑って写っているのは私の兄の、史矢だった。
10月に入り、会社では下期がスタートした。
期が移れば担当する仕事もかわる。私は来年度の新卒者向けパンフレットを制作するグループのサポートにつくことになった。
乃木さんとはあれから顔を合わせることはなかったが、この担当になって、打ち合わせに来る彼を見つけることが多くなった。どうやら人事部サイドの担当者は乃木さんらしいのだ。私はあくまでサポートなので打ち合わせに同席することもなく、時々その姿を見つけてはこっそり喜ぶという、なんともマヌケな日々を過ごしていたのだった。
「乃木さんて、噂どおりだったわね」
「そうそう。打ち合わせのときは結構しゃべるのに、終わるとすぐに席を立っちゃって。あわよくば飲みに誘おうとしてたのに、あれじゃ、話しかけてくれるなオーラを出しまくってる感じよね」
斜め前の席で、マンゴーのときの同僚が二人で話しこんでいた。聞くつもりはないのだが、どうしても耳に入ってしまう。聞いていて、私の知っている乃木さんとはずいぶんと印象が違うので、同姓の別人かと思ってしまうほどだった。
なにしろ、マンゴーマンゴーと、給湯室まで追っかけをする人である。
「恰好いいのに、残念ね。あの髪も染めてるんじゃなくて地毛でしょ? 魅力的なのに」
「恰好いいから油断してるんじゃなくて? 乃木さんが上から目線で私たちを見てるとは思わないけど、ガツガツしなくても女は選べるとか思っているんじゃないのかしら」
確かに、恰好のいい人なのだ。
しかし、そういう匂いはしなかった。
「なら、もう、彼女がいるとか? 結婚間近とか?」
「そんなふうでもないけど。あー、でも男って、いつの間にか結婚するからね」
なんとなく聞いていた私は、乃木さんにはそういった女性はいないと勝手に決めつけていたことに、我ながら意表を衝かれて、愕然としたのだった。
それから半月後。
乃木さんが打ち合わせにこなかったらしい。それは彼がポカをしたわけではなく、人事部で急な会議が入ったからだと聞かされた。
「乃木さんは、今の時間は空いてるらしいんだけど。私たちは業者の打ち合わせが入ってるのよ。でも、この色指定は四時までに済ませて印刷会社へデータ入稿しないといけないから、人事部へ行って、どの色がいいのか訊いてきてくれないかな」
指示を受け、私は色見本を持って、人事部のフロアへ向かった。
普段から私は、3フロア程度の移動であれば、エレベーターではなく階段を使う。とくに意味はないのだが、兄がデパートなどでそういうことをする人だったので、それを真似たまま今に至っているらしい。今日も階段を使い人事部のフロアまで下りると、昇降口のドアを開けたところに乃木さんが立っていた。
ネクタイのノットを触りながら、片手で書類をはらはらとめくっている彼に話しかける。
「ちょうどお伺いしようとしてたところでした」
「連絡はもらってるよ。こちらの都合で雲雀さんのお手間をとらせて申し訳なかったね。そこの小会議室を押さえてあるから」
「あの、ずっと気になっていたのですが、腕の具合はどうですか?」
「なに? 腕? 俺が忘れてるくらいだから、もう全然平気だよ」
会議室に入る直前、「なにか飲む?」と訊かれた。では、と私が自販機へ行こうとすると、「迷惑をかけたお詫びに奢るから」と笑顔を向けられた。
やはり噂とは違う。
席に着くなり、私は仕事の話を進めた。時間をとらせたくなかったのだ。
「今回決めていただきたいのは、パンフレット全体に使われるカラーです。まだ時間はありますので、大体のところを決めていただくだけでいいです。これをベースにして束見本を作製し、掲載写真を選んだり、文字組みを決めたりしていくことになります」
イメージがつかみにくいかなと、私は自分のノートを破って「パンフレットはこのくらいのサイズになる予定なんですが」と付け足した。
乃木さんは笑った。
「あ、すみません。わかりにくかったですか?」
「ううん逆だよ。わかりやすいなと思って」
ホッとするのも束の間だった。
「雲雀さんだったら、何色を選ぶ?」
逡巡していると、「派遣だからって意見を言ってはいけないってことはないよ」と、また笑われた。でも、その言葉に救われたのだ。私が迷っていたのは、まさにそこだったから。
「俺の勘違いだったら、ごめん。雲雀さんは、こういったクリエイティブな仕事に向いてるんじゃないのかな? さっきの説明だって、いいものをつくりたいから丁寧に説明をしてくれたわけでしょ? デスクワーク専門の俺にもちゃんと伝わるように、って」
クリエイティブな仕事に向いているかは別として、説明がしっかりと伝わっていることは嬉しかった。
「書店に並ぶ書籍ではないので、目を引く色にしなくてもいいと思います。これを手にとる新卒者は、初めて社会に触れるという意味でも緊張して開くことになるので、安心させるような色をもってくるのがいいかなと。たとえば暖色系の淡い色なら落ち着きますし」
R(赤)からG(緑)の色見本を何色か差し出すと、「じゃあそれで」と即決されてしまった。
忙しくて時間がないのは承知しているが、「もっと慎重に選んだほうが」と、私は慌てた。
「慎重に選んだよ。雲雀さんの説明を聞いて納得したから決めたんだ」
そう返されてしまうと、なにも言えない。私は手早く片づけを始めた。
「今日は打ち合わせをキャンセルして申し訳なかった。お詫びに食事でもどうかな?」
「食事、ですか? でもさっき、ドリンクを奢ってもらいましたよ?」
「ドリンクで済ませるセコいヤツと思われたくない」
思わず私がふき出すと、乃木さんもゆったりと笑った。
「あまりにサクサクと話を進めるから、俺と打ち合わせをするのが嫌なのかと思ったよ。実をいうとね、賭けをしたんだ」
「賭け、ですか?」
「雲雀さんが階段で来たら食事に誘おう、って。だから勝者の俺と食事をしてくれたら嬉しい」
意味不明の理屈だったが、「はい」と返事をして私は自分のフロアへ戻った。
店内はカウンターを除く三面の壁が水槽になっている、幻想的な空間だった。淡いブルーのライトが水槽を照らし、色鮮やかな熱帯魚の泳ぐ影がとても美しい。
「どう? お腹は膨れた?」
「はい、とってもおいしかったです。いつもは独りで食べているので」
淋しいと言いかけて、しまったと口を噤んだ。「一人暮らしなの?」「家族は?」と訊かれるのが嫌なのだ。けれど、そうだったとホッとする。乃木さんは、知っているのだ。
「俺も独りだから淋しいよ」
全然淋しくなさそうな顔で言うのがおかしかった。これは彼の癖なのだろうか、表情と話す内容が時々見事に一致しない。
「乃木さんは10年前におつらいことがあったと話してくれましたが、私も10年前にいろいろとあって。両親と兄を1ヵ月の間で立て続けに亡くしたんです」
せっかくの楽しい雰囲気を壊したくなかったが、乃木さんなら、そうはならないように思えた。
「家族で一戸建てに住んでいたんですけど、経済面や精神面で問題も多くて、結局大学を卒業してすぐに売ってしまいました。だから私、今はマンション暮らしなんです。乃木さんとは逆ですね」
「広い家が恋しい?」
「今となってはそう思うこともあります。でも当時はあまりに広くて哀しくて、あんなに部屋があるのに居場所がなくて耐え切れなくなったんですよ。人が消えると、灯りも消えてしまうから。でも、最近になって気づきました。住んでいる場所の問題じゃなくて、心のもちようなんだって。今はワンルームに住んでいるんですが、やっぱり居場所がないような気がしてしまう。だったら想い出のつまった家を売らなきゃよかったなって、後悔してるんです」
乃木さんが、表現し難い顔をした。怒っているような、けれど気鬱ともとれる複雑な表情だったので、なにを考えているのかわからなかった。
「そのうち旦那さんが立派な家を建ててくれるって」
「それはないと思います」
否定を強調するように、もう一度「ないです」と答えた。
親ナシで、わけありの女と、結婚しようとする男はいるだろうか。
生き続けるよう努力はするが、結婚となるとまた別の問題だ。そもそも私は、高校二年のときから、人と距離をとって付き合うようになっていて、今夜のように二人で食事へ出るなんて有り得ないことだった。会社で噂されている乃木さん評価は、そのまま私に当てはまるのだ。
唐突に、同僚の言葉を思い出した。
『あー、でも男って、いつの間にか結婚するからね』
「乃木さんも広い家でずっと独りは淋しいですよね?」
伝わっただろうか。
「ああ、そうね。でも予定はないな」
すごい、と思った。私の意を汲んで返事をしてくれたのだ。
跳ね上がる鼓動を静めるように、私は話題をかえた。
「そういえば。給湯室のパーテーション、新しくなってたんです。私としては、いつ請求がくるのかなって怯えていたんですけど」
「そんなこと心配してたんだ。言ってくれればよかったのに。俺が総務部に交渉して、会社の金で買わせたから問題ナシ」
この人は、どれだけ私を驚かせるのだろうか。そこまでしてくれていたことに、なんと言えばいいのかわからなくなってしまう。
「割ったのは俺だしね。それに俺、会社ではイイ子ちゃんだから、頼めばどうにかなったりするんだよ」
「イイ子ちゃんだなんて、そんな」
「そんなことあるよ。人付き合いが苦手だから、会社では演技をするしかない。それが俺の処世術かな」
世間では演技をして疲れてしまうから、余計にプライベートにはかかわってほしくないのかもしれない。
乃木さんのもつ不思議な面を、ひとつ解決したような気分だった。
帰宅して、私は蒼ざめた。
バッグの中に、乃木さんの定期券ケースが入っていたのだ。駅で彼が「定期を失くした」と言っていたのを間近で見ていただけに、衝撃は大きかった。
どうしてこんなことにと考えて、そういえばと思い至った。
店に入って席に着いた直後、私がバッグを落として中身を床にバラ撒いてしまった。乃木さんは一緒に拾ってくれたのだ。あのとき入ってしまったのだろう。
慌てて乃木さんの定期を取り出し、教えてもらったばかりのケータイ番号へ連絡しようとした。
だが、私の頭は真っ白になった。
二つ折りのケースの中には、定期券と一緒に写真が入っていた。
乃木さんと並んで笑って写っているのは私の兄の、史矢だった。
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