ジャイロスコープ

碧井永

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 今日の遼子とおこは黒いスーツを着ていた。茉莉まつりが読んでいる雑誌に載っているような、完璧なコーディネートだった。別れさせ屋と知った今でもピンとこない、どこかのキャリアウーマンにしか見えないのだ。
 茉莉に、とにかく別れさせ屋の連絡先を教えてほしいと頼むと、渋々ではあるが教えてくれた。数日悩んでからその会社に電話をかけて、遼子と会う約束をとりつけた。本当は会社に行って、どんな人間と働いているのか見たかったのだが。もしその人間が席をはずした場合、二人きりになると遼子が嫌がるだろうと思って、彼女の会社が入っているビルのエントランスで待ち合わせをしたのだった。
 電話口の遼子は拍子抜けするくらいあっさりしていた。
「どうせ、この会社のことも婚約者がしゃべったんでしょ? なんかそんな感じがしたのよね。バカ正直っていうか。しゃべったら違約金をもらうことになってるんだけど」
「その違約金、俺がもつよ。会ったときにその場で支払うから」
 ふうん、と唸っただけで、とくに遼子はなにを言うでもなかった。
 小規模ながらもオフィスビルだけあってエントランスは広く、適度に人もいる。打ち合わせにも使えそうなテーブルセットの対面に、遼子は腰かけて足を組んだ。
 綺麗だな、と思った。

 近くの自動販売機で買ってきたカップのドリンクを差し出すと、遼子は眉根を寄せた。僕が「睡眠薬なんか入ってないよ」と言うと、「それも聞いたのね」と答えながらカップを受け取った。その手は、あの日とかわっていない。細く、白いまま。
「あの弁当のデリバリー、俺のことを調べるためにバイトしてたんじゃないのか」
 茉莉が報告書のことを話しているときに思ったのだ。同僚のことも知っているくらいなのだから、相当に身辺調査をしたのだろう。後輩に確認してみたが、最近はあの弁当を頼む部署が増えているらしい。ということは、会社に入れる機会も増えるということだ。
 遼子は考えるように黙って、それから口を開いた。その口唇くちびるには昔にはなかった色がのっている。赤を抑えた、モーブよりのピンク色が。
「それもあるけど、それだけじゃないわ」
 ややこしい仕事だから言えないことも多いのだろう。遼子の視線がこちらに向けられた。
「で。あんたなにしに来たのよ。仕事が休みの土曜にわざわざ出てくるくらいなんだから、それなりの要件なんでしょ? 動画を削除しろとか、そういうこと?」
「削除してくれたらありがたいけど、そうじゃないよ。あれから由利ゆりはどうしてたのかな、って」
「あれから?」
「……中学のとき、転校しただろ? そのあとのことさ。なんで別れさせ屋をやってるのかとか」
 ほんのわずか、遼子は目を見開いた。が、すぐにもとに戻って舌打ちをした。
「そんなこと訊いてどうするの?」
 うまく説明できる自信がなくて、僕は沈黙するしかできない。僕も、どうしてここまで遼子にこだわるのか、よくわからないのだ。ただひとつ言えること――それは、茉莉との関係はうやむやにできないということ。茉莉は茉莉なりの誠意をもって、僕に逢いにきてくれた。今、僕は、二度目の答えを求められている。茉莉とは本気で付き合って婚約したが、それは僕ら二人が導き出した正しい答えだったと、迷わずに頷けるなにかがほしかった。そのなにかを、遼子は隠しもっているような気がするのだ。
 なにも返さない僕に焦れたのか、遼子はとつとつと話し出した。
「……私ね、会社勤めできるような柄じゃないのよ。大学を卒業してもなにができるわけでもないって、就活もぼうっとやり過ごしてたら、連れに一緒に会社を立ち上げないかって誘われてね。で、今に至るの」
 大学時代の連れということは、かれこれ8年の付き合いだろう。そこをもっと聞きたかったのだが、遼子が話し出してしまった。
「最初はなんでも屋みたいなわけわかんないことをやってたのよ。探偵業みたいなこともしたし。そのひとつが別れさせ屋で、これが私に一番合ってたから、連れがこの仕事に絞ってくれたってわけ」
「一番合ってるって?」
 トントンッと、遼子がテーブルを指で叩いた。癖なのか、繰り返し叩いていた。
「嫌いなのよ、男。言っとくけど、バイってわけでもないから。男が嫌いで触られると吐くの。……だから、まともな会社勤めができないって言ったのよ。まず満員電車の通勤がムリだし、長時間男と二人きりにさせられると熱が出るし」
 テーブルを叩く音のせいだろうか。
 心音が、どんどん激しくなっていく。
「ちょうどいいのよ、この仕事。男の人生をズタボロにできるんですもの、楽しくてやめられないわ。あんたのときみたいに、ベッドに二人きりにされると気分が悪くて仕方ないけど、その時間を過ぎれば男には転落の人生しか残されていない。そう思えば我慢もできるし、なによりその男の相手――依頼者が喜んでくれると、こっちも嬉しいのよね。あんたの婚約者……檜山ひやまさんだったわよね? 檜山さんみたいに感謝されると、堪らなくなるっていうか」
 僕を見つめる、遼子の視線が強くなる。
「檜山さんが、あんた絡みのことでうちにきたとき、因果律って本当にあるんだって思ったわ。原因があれば結果があって、それが連鎖していく一定の関係性。今度はあんたの人生が狂えばいい、あんたの番だって、そう思ったわ」
 人生が狂う?
 僕の?
 なにを言っている?
 僕の人生はとっくの昔に狂っているのに。
「……充分に狂ったさ、お前のせいで。国立大にもいけず、」
 言葉は途中で遮られた。
「あんたのことは徹底的に調査したもの、知ってるわ。親の望んだ国立大へいけずに、以来親とは疎遠になってるらしいじゃない。いい気味ね、あんたの全部はそのまま壊れちゃえばいいのに。沈淪する世界でのたうちまわればいいのよ。呪い殺せるものならとっくの昔にやってたけど、憎まれっ子ナントカっていうじゃない、あんた死にそうにないものね」
「お前、俺に……恨みでもあるのか?」
 目玉が転げ落ちるんじゃないかというくらいに目をみはった遼子は、呆れたような乾いた笑い声をあげた。低く、暗い、じっとりと身体からだにまといつくような笑い声。――そのとき、なんでか風鈴の音を聞いた気がした。
「あんたサイテイじゃなかったのね。最低っていうのはね、あくまで人としてのランク付けがされることを言うの。あんたは人じゃないわ、クズなのよ、カスでしかないなのよ。今ここで死んで、生まれなおして、人生をもう一回やらないと、ゼロ以下でしかないあんたの感情は人として構築されることはないのよ」
 遼子の発する言葉の是非は別として。
 嘲りは、僕の頬を打っていく。
 自分に非はないと思っていても、面と向かって突きつけられれば逃げ場もなくて、殴られたような痛みを覚える。決して激しくもなく大きくもない声に、何度も頭を揺さぶられる。
「頭のワルイあんたにも、わかるようにはっきり言ってあげる。人間じゃないのよ、あんた。だから人を人とも思わない。自分がなにをしたのか理解できない。犯罪者である自覚がない」
 また言葉に殴られた。
 遼子と話していると、この感覚をよく味わう。
「犯罪者だって? 俺が? お前は俺のことをなにも知らないくせに、でまかせを言うのはやめてくれ」
 冷静だと思っていた。いつも他の人間にしているように、話を合わせて、顔の筋肉を動かし、すべてを受け入れ自分の内側で消化する。嫌われてはいけない、不満をもたれてはいけない、でなければ模範たる存在にはなれない。
「頭が悪いと言ったが。それだけは訂正しろ、今すぐに!」
 なのに手は伸びて、遼子のスーツの襟をつかみ上げていた。
「ふふっ、これだけのことだって警察を呼べるのよ」
 ハッとして、僕は手を引っ込めた。ちらと周囲に目をやれば、ちらほらと僕らを見ている人がいた。
「これがあんたの本質よ、認めなさいよ。教育者であるご両親は、あんたに一番になれと言い続けたんでしょ? それは勉強だけじゃなく、生活態度についてもそう申し渡されていたんじゃなくて? イイ子ちゃんでいなさいって、言われ続けた。でも、できなかった。あんた本当はイイ子なんかじゃないもの。あんた、腐ってるんだもの。そこにたまたま出くわしたのがあたしなのよ。たまたま成績があんたよりもよかったから、あんたの憎悪はすべてあたしに向けられた」
 人を見下す、あの目で睨まれた。凄絶な眼差しに、一瞬、息が詰まった。
「転校したそのあとのことを知りたい? あまりにバカで、可哀想で、笑いたくても笑えないわ。あんたのせいで女子校に転校したに決まってるじゃない。どうしてあたしが男嫌いになったと思うの? あんたのせいに決まってるじゃない。なんで別れさせ屋をやってると思う? あんたのせいなのよ。全部。あんたのせいで、あたしの人生は狂ったの。あたしの二回目の人生の始まりは、中学3年の夏なのよ。ここまで言わないと理解できない、あんたはバカでしかない。だから頭がワルイと言ったことは訂正しない、絶対に」
 本気でこの女の言っていることが理解できなかった。
 中学生時代に人生を狂わされたのは、僕のほうだ。
 窮地に陥っていたのは、僕だった。
 中学の2年と数ヵ月の長い時間、僕は夜に閉じ込められた。
 それだけの時間をもぎ取られた僕にしてみれば、あの夏の一日の、たったの数時間で人生を狂わされたと言い張る、この女が恨めしくて仕方ない。
 ずっとずっと、脳裏から離れなかった女。
 消えてほしいのに、人生の転換期に僕につきまとう、暗い影。
 対極の存在。
「…………あたし、……傘を持ってたのよ」
 ぼそっと、遼子が呟くように言った。
 それで僕は、我に返った。
 僕は目の前に座る遼子ではなく、中学のころの遼子を見ていたとこのとき気づいた。
 もて余し気味にうろうろと視線を彷徨さまよわせ、ガラス張りのエントランスから外の歩道を見れば、霧と紛うような雨が降り始めていた。それで僕は、道行く人のさす傘のことを言っているのだろうと思って、訊いた。
「傘? なに?」
「……夕立が降ったあの日。あんたが先生のところへ行ったのは知ってたから、雨が降り出したのに気づいてないだろうと思って。帰り、困るだろうと思って、あたしは待ってたの。でも、あんたは傘を持ってた」
 遠い過去、時の記録。
 記憶と呼ばれるその中から、ひとつのシーンが浮かび上がる。
 その途中だ、交換日記をするノートを二人で買ったのは。
「……言えなかったのよ。あたしも傘を持ってるって」
 言葉は耳に入っていたが、頭には入っていかない。いや――入っているのかもしれないが、理解するまでにタイムラグが生じているような感覚だった。理解しきる前に、次の言葉が与えられてしまう。積み重なる、言葉。処理が、どんどん遅れていく。
「待ってたって、……言えなかった」
 あのとき。
 天から垂れる雨糸をつかむように手を伸ばし、引っ込めて、遼子はじっと立ち尽くしているだけだった。――僕が声をかけるまでは。
「待ってたと、言えばよかった。あんたは逆らわないあたしに興味があった」
 記憶から、心が乖離かいりしていく。……違う、と。
「あたしが無口なのを利用して近づいた」
 違う。
「どんなふうに振る舞ってなにをしたとしても、友だちが一人もいないあたしなら、誰にも言うことはないだろうと計算していた」
 違う。
 そうじゃない。
 僕は、ただ……。
「待ってたと言えば、自己主張のできるあたしには興味がなくなって、あんなことにはならなかった。たったの一言でその後の人生がかわってしまう。あたし、後悔したわ。高校受験を控えたあんな切羽詰まった時期に転校したんだもの、中学のクラスメイトにはいろいろ陰口を叩かれてね。これみよがしに酷いことを言われたわ。前の学校で問題を起こしたんじゃないかとか、いじめられたんじゃないかとか。最初は我慢した、でもこれじゃダメって、繰り返してしまうって思ったのよね。だからね訓練したのよ、高校のときに。せっかくかわった環境なんだもの、有効活用しないテはないわ。友だちなんかできなくてもいい、でも、人と話すことは面倒くさがらずちゃんとやろうって。自分の意見をしっかりもって、なにがしたいのかしたくないのかはっきり言うようになったのよ。……不思議よね、そうしたらいつの間にか友だちがいた」
 遼子は歩道を見ていた。彼女の視線をたどるように僕もそちらを見ると、中学生くらいのあどけないカップルが、相合傘をして歩いていた。鮮やかな、オレンジ色の傘の中で。
「少ないけれど、友だちができて気づいた。あんたがバカで可哀想な人間だってことに。確かにあんたの周りには人がたくさんいた。でもあんた、その中には素で話せる人がいないでしょ。本性見せて、気楽に会話なんてできないでしょ。うまいこと取り繕って、体裁の悪いところを必死に隠して生きていく。それしかできない。自分だけを見て、自分だけが大切。所詮あんたは他人を理解しきれない、……あんたは人を愛せない。こんな人間だったなんて……。だからあたしは……、諦めたのよ」
 静かに遼子が立ち上がった。
「婚約者の違約金をあんたが支払うって言ったとき。あんたも少しはマトモになったのかしらって思ったわ、それなりに彼女を大事にできるようになったんだって。……でも、違った。あんたは、どこまでもあんたなのよ」
 テーブルに置いて滑らせるように、こちらに差し出されるなにか。よくよく見れば、それは携帯のmicroSDだった。
「恵まれているのに憐れな男。……自分を守るためには本気の人付き合いも必要なのよ」
 そのまま、遼子は行ってしまった。

 傘もない僕は、秋を彩る霧雨に濡れて思う。

 雨の季節に再会して、雨の季節に別離があって。
 再会や別離という言葉を使えるほど、親しい間柄ではないけれど。
 でも、確かに僕らは付き合った。
 付き合った時間は1ヵ月もなかったけれど、過去に存在した時間軸を共にした。
 重なる、その部分の記憶は、同じ。
 遼子に訊いてみたかった。「あの日の傘は何色だった?」、と。
 思い出せない。
 訊いてみたい。
 だって、知っているのは遼子だけだから。




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