ジャイロスコープ

碧井永

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 例の後輩と、残業で二人きりになった。
 残業飯をどうするか、あやれこれやと雑談していて、先日の弁当屋の話になった。
「ホントはあそこの弁当頼みたいんですけど。生憎と弁当のデリバリーって昼だけなんですよね。しがないサラリーマンの昼食代にしては値段はお高いんですが、味と使ってる素材は抜群なんで。いつか結婚したら財布を握られてそんな贅沢弁当食べられなくなるだろうから、今のうちに食い溜めしとかないと」
 確かにうまかったなと、僕も相槌を打った。
「夜は結構洒落た料亭になってて、店内は品もあって静かだし、婚約者さんと行くならオススメですよ。あ、だってほら、先輩のお知り合いだって美人さんだったでしょ? 店員も容姿を重視して雇ってるって噂です」
 そこで、にやっと後輩は笑った。
「なんだよ?」
「いやいやいや独り身の可哀想な後輩のために、鈴村すずむら先輩が料亭の女の子たちと飲み会を開いてくれるんじゃないかと」
 調子のいいことばかり言ってくれる。そして、またかと思った。どうも遼子とおこが絡むと紹介話になってしまう。だが……中学のころとは違う。遼子の周りの人間を紹介してほしいのではなく、遼子を紹介してほしいのだろう。それもそのはず。今の彼女は、付き合う男を自分で選べる、それなりの女になっているのだから。

 それから数日が経ち。
 僕は割り箸の入っていた小袋を握り締めて、件の弁当屋の裏口に立っていた。そこには住所と電話番号が載っていた。昼飯を挟んだ会議のとき、上司が喜びそうな弁当選びに困ったらこの店を使おうと思ってとっておいたものだが、……まさか、こんな使い方をするとは。
 僕はなんともいえない気持ちになって、苦笑するしかできない。
 今日は昼イチに外で打ち合わせがあり、それが遼子の店の近くだと気づいて、居ても立ってもいられなくなってしまったのだ。帰社後のスケジュールはすべて変更してきた、だから時間はある。勤務中にこんなことまでするとはストーカーがはいっている自覚はあっても、偶然を信じて待ち伏せせずにはいられない。
 暑さのせいでネクタイを緩めながら待つこと15分。
 普段着の遼子が裏口から出てきた。
「と……あ、由利ゆり。……この近くで仕事があって、会えたらいいなって待ってたんだ」
「待ってた?」
 訝しむように、遼子がオウム返す。迷惑と、ありありと顔に書かれていた。その表情に二の句が継げずにいると、腕時計を覗きながら遼子がひんやりとした声で言った。
「奢りなら、この先のカフェに寄ってもいいわ」

 サマーニットに膝丈デニムという、ラフな恰好だからだろうか。目の前に座る遼子は、歳よりも若く映る。いや、恰好だけのせいではない。全体的な雰囲気が、とても若々しく映るのだ。
「……あの店で働いてるのか?」
 時間をつくってもらったのはいいが、なにを話せばいいのかわからない。
 そう――僕は、これといった用があって彼女を待っていたのではないのだ。
「違うわ、バイトよ。それも昼だけね」
「バイト、って……仕事は他にしてないのか?」
 睨つけるように、遼子は僕を見た。不況で、就職難な時代だ。バイトに社会的価値がないなんて思っていないが、こんな顔をするということは誤解させてしまったのだろう。
「ああ、いや、違うんだ。と……由利は物書きの仕事に就いているだろうと勝手に想像してたから。言ってただろ? 小説家とかライターとか、そんなような仕事がしたいって」
 頬杖をついて、こちらを見ている。遼子の仕種は、充分にインテリに見えた。
「いつの話? カビの生えた話しないでよ。……にしても、あんた、あれをちゃんと読んでたのね。頓珍漢なコトを一行書いて返してただけのくせに」
 そのとおりなので、項垂れるしかできない。が、嬉しくもあった。交換日記をしていた過去は、抹殺されたわけではないのだ。
「あたしね、今、連れと二人で会社やってるのよ。この昼のバイトも、まあ、その仕事の関係ね。文を書くのが好きっていうのも、この仕事では結構役立ってるわ」
 ちらと、遼子が腕時計を見た。なんでか、それを辛く思った。
「……連れって、……どんなヤツ? 男? これからそいつと約束でも?」
 アイスティーのストローを銜えながら、上目遣いに遼子が視線を送ってくる。
「なんでそんなこと気にするのよ。あんたに関係ないじゃない」
「え? ああ、恋人とか、……もしかして結婚してて旦那さんなのかなってさ」
 アイスラテを飲みながら僕は適当なことを言ったが、遼子の視線からは逃れられなかった。突き刺さるような目の力に、僕の心は竦みあがった。
 僕はなにがしたいのだろう? ……わからない。あんな目で見られても、ここに座り続ける理由を知りたい。どうしてこんな女を待ち伏せしてしまったのか、自分のやっていることが理解できない。理解できないから居心地が悪く、あの目に怯えてしまうのだ。
 本来なら、気安く一緒にいられる対等の間柄ではない。友人でも知人でもないのに。
 つと、髪をかき上げた遼子が笑った。あの不快な、喉を鳴らすような笑い方で。
「ねえ、あんた。この前の女には会いに行った? 仲直りできたの?」
 無理矢理現実に引き戻されたような、すっと冷たい感覚に包まれた。そして、凍える頭で考えた。この女に会うことはいろいろと想い巡らせていたくせに、茉莉まつりに逢いに行こうとはちらとも想い巡らせていなかった、と。この瞬間に気づいたのだ。
 フリーズする僕に、更なる言葉の矢が放たれる。
「どうしたらいいのかわからないんじゃない? 誰かに相談したいけど、できない。違う? で、この件に絡んでるあたしに、とりあえず話をしに来た。違うかしら?」
 自分でさえ、自分のもやもやした考えに振り回されていたのに。もやもやの奥に溜まって腐蝕しかけた感情を引き出され、的確に言い当てられて、僕は黙った。
 遼子が「図星、か」と独り呟くように言って、笑う。
邪魔な・・・あたしにストーカーしなくても、あんたの周りには相談できる人間がたくさんいるはずよ。なのに、しない。そう……あんたには相談する人間がいないんじゃなくて、相談したくないだけなのよ。自分が不利になるような恰好悪い姿を周囲に見せたくないだけ。あんたのプライオリティーの一番は常に〝世間体〟なの。自分の体裁さえ守られれば、恋人がどうなろうがそんなこと知ったこっちゃないのよ」
 トントンッと、遼子がテーブルを指で叩いた。
 その音に、心音が重なっていく。
「どうせ、結婚する気になったのも、世間体を気にしてとかじゃないの? 周りがみんな結婚しているからとか、いい歳をした男の独り身は会社で差別されるとか、社会的信用度が落ちるとか、そんな傍から見ればどうでもいいことをちまちま気にして、手近にいた女に結婚を申し込んだってところでしょ? あんたみたいなロクデナシに引っかけられた女には同情するわ」
「なッ……お前、言っていいことと悪いことがあるだろうッ」
 抑えていたなにかが、腹の中でぶわっと湧くのがわかった。徐々に熱くなる身体、首筋につっと汗が垂れていく。
「ふふっ、相変わらずね、あんた。女が思うようにならないと、途端にお前呼ばわりするのよ。それで殴るの。ねえ、そういうのなんていうか知ってる? DVっていうのよ」
 僕は握っていたラテのグラスを投げつけそうになった。ここが店内でなかったら、絶対に投げていた。ガラスの破片で傷をつけて、血塗れにしてやった。
 失敗だった……やはりこの女には会うべきではなかったのだ。
「あんたのご両親は揃って教育者だったわよね? なんでそっちの道に進まなかったのかしら。当ててあげましょうか。教育者にならなかったんじゃない、なれなかったのよ。その本質のせいで」
「……お前、これ以上言ったら」
「言ったら、なに? また殴る? いいけど、ここでできるものならやってみなさいよ。度胸のないあんたには、自分にマイナスになるような暴力沙汰なんて起こせやしないでしょ。公衆の面前で人を……女を殴るなんて絶対にできない。だからあたし、立ち話じゃなくてカフェにあんたを連れてきたんだもの。やれるものならやってみれば? 殴ることができたなら、ああ、あんたもかわったのねってあたしは拍手してあげるけど、かわりにあんたは地位と名誉を失うのよ。大好きな世間体が崩れるの」
 じりじりと、焦りが身体を侵食していくのがわかった。この女を今すぐ捩じ伏せてどうにかしてやりたいのに、ここではできないのだ。やれば、この女の思う壺。僕は、這い上がれないほど深い闇に墜とされてしまう。
 一秒でも早くこの女と離れたくて、僕は椅子を蹴って立ち上がった。遼子は僕を見上げることなく正面を向いたまま、くくっと笑って続けた。
「あたし、あんたの同僚の名刺、持ってるの。みんなね、デリバリーの途中でなにかあったら困るからって、緊急連絡用に名刺をくれるのよ。この前、デリバリーのときに会議室で会った人のも持ってるわ。話しぶりからして、あの人後輩よね?」
 急に話が逸れて、なにを言われたのかわからなかった。
「名刺にはメールアドレスも載ってなかった?」
 嫌な予感がした。このまま席を離れたらロクなことにならない、そう思えてしまって、僕は椅子に座りなおした。すると、遼子が立ち上がる。
「録画したのよ」
「……なんだって?」
「あたしとあんたと恋人のやり取りを携帯に録画してあるのよ。あんた、あのとき裸だったわよね? で、恋人はいたくご立腹。そしてもう一人、裸の女。あんな動画を見たら一目瞭然、修羅場だってわかっちゃうわね」
「お前、……俺を脅すつもりか」
「脅すなんて失礼しちゃうわ。ただの保険よ。あんたがあたしになにかしたら、あの動画を会社のメールに送りつけるから。後輩くん、さぞびっくりするでしょうね。普段はクールに澄ましてるイイ子ちゃんのあんたが、女二人を手玉にとって抱きたい放題やりたい放題。会社ではいいゴシップになるでしょうね。もしかしたらクビになったりして」
 冗談じゃない。たかが恋愛ごときで、将来を潰されて堪るものか。
「……なにが望みだ。言えよ、今、ここで。お前は俺をどうしたいんだ?」
 目をすがめて、遼子は僕を見下ろした。いつもの、凍てつくような冷酷な眼差しで。
「いい加減、被害者ヅラするのやめてよ」
 彼女の声は、小さかったのに。
 周囲の喧噪は掻き消えて、遼子の声だけを鼓膜が拾った。
 ささくれたその言葉は、僕の頭を傷つけながら、胸まで落下してきたのだった。




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