ジャイロスコープ

碧井永

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 誰かが僕を呼んでいる。
 目を覚ませと、呼んでいる。
 なぜだか僕は、それ・・は違うと思った。
 霧の向こう側から届く声……けれど、それは違うと。
「――――ちょっといい加減にして。とっとと起きてよッ」
 どうやら頭を殴られたらしい。あまりの衝撃に、頭を抱えて飛び起きた。
 だが、眠りから覚めたばかりの思考では、なにがどうなっているのか判別もつかず、ひたすら頭を抱えて唸るだけ。そうして顔を上げ、ベッドサイドに立っているのが恋人だと気づいたが。
 微妙に険のある表情を浮かべているように映るのは、僕の気のせいだろうか。
「……なに? 茉莉まつり、今、何時?」
 言いながら、あれ? と思った。
 恋人は昨夜、僕の部屋に泊まっただろうか。
 少し気を抜けば睡魔にのっとられそうな頭を根気と自力で回転させながら、時を巻き戻していく。しかし恋人は、巻き戻す猶予も与えず苛々とした声をあげた。
「何時? じゃないよ、ふざけないで。その隣の人、誰?」
 隣の人――って誰?
 僕も心の中で、彼女と同じ質問を繰り返す。もう何年も独りで朝を迎えてきた。こうして恋人がそばにいることのほうが、珍しいくらいなのだ。起きぬけからヘンなことを言われて、彼女の顔をじっと見つめたときだった。
 僕の左肩に、手がかかった。
 もちろん恋人の手ではない。
 ひんやりとした掌、だが、しっとりとした感触に、その掌の持ち主が裸であることがわかった。
 その体温を感じている僕も、裸であることがわかる。
 なぜ裸で寝ているのか、驚いた僕が振り返るのと同時に、掌はすっと引かれ、かわりに柔らかい胸が二の腕に寄せられてくる。ベッドの軋む音が、いやに大きく部屋に響いた。
「あら、この女性ヒトどなた? 昨夜はカノジョなんかいないって言ってなかった?」
 僕の隣に寝ていたであろう女が言った。胸は更に寄せられて、頭が肩にもたれてくる。いったい誰なのか。角度が悪く、髪が垂れてしまっていて、顔を見ようにもできなかった。
「朝になったらまたシテくれるって言ったじゃない。約束、忘れちゃった?」
 高音に、少しだけかすれる癖のある声。
 しなだれかかりながら、女が続ける。
 女の腕が、僕の身体からだに絡みつく。
 緩くウエーブのかかった、絹糸のような髪。
 僕の身体に吸いつくような、白い肌。
 恋人である茉莉の声が、とても遠くに聞こえる。
 隣の女の声が、耳ではなく胸に響く。
 茉莉の、悲鳴に近い叫び声がする。
 恋人が、僕と女になにかを言っているのは理解できた。が、反応できない。恋人の声を易々と押し退けて、僕に絡みついている女の声ばかりを拾ってしまう。女は茉莉の言葉を受けて、くすくすと笑っていた。
 頭の奥が白くかすんでいく。血液と体温が、ベッドに吸収されていくようだ。今、息をしているのかもわからない。生まれて此の方、貧血になどなったこともないが、これがそうなのだろうか。下がる体温のせいか、なにも考えられなくなっていた。
 たったひとつを除いて。
 しばらくして聞いた茉莉の言葉は、
「サイテイね尚哉なおや。もう別れるからッ」
 だった。

 どれくらい、こうしていたのだろう。
 わからない。
 ただ暑いな、と思って携帯ケータイを手繰り寄せ表示されている時計を見れば、昼の11時を過ぎたところだった。どおりで暑いはずだ。7月の、梅雨の晴れ間ともなれば外は夏日。喉が渇いて当然だった。
 それでも身体が動かない。自分の身体なのに、喉が渇いているのに、ベッドから足を下ろすことができない。
 汗に張りつく額髪をかきあげた僕は、そろそろと手を伸ばし、シーツを撫でた。このダブルベッドは婚約したのを記念に、買い揃えたもの。シーツも枕も、すべて恋人が選んだ。一緒に暮らし始めたら毎日このベッドで眠れるのね、と茉莉は笑った。
 そう――檜山ひやま茉莉は婚約者なのだ。
 僕はなにをした?
 それすらも、わからない。
 荒々しくドアを閉めて茉莉が出ていっても、裸のままで女は笑っているだけだった。さっきからずっと気になっていたその声が、どこからともなく届く風鈴の音に重なった。それが胸に突き刺さり、心が引き攣れるように痛んだ。
 いや、……痛いのとは、少し違う感じがする。
「…………お前、遼子とおこ……か?」
 寝起きの割に、ほどよくメイクされた顔を眺める。
 随分と雰囲気がかわった。
 思えばあのころ、ちゃんと顔を見たことがなかったから違和感があるのは無理もない。とはいえ、こんな顔だったろうか。表情にも仕種にも、どことなく憂いがあって、影があって、充分に美人にカテゴライズされる。
 記憶している顔とは、全然違う。
 けれど、この髪も肌も、記憶と同じ。
 そして声も。
 この日初めて、女は僕を見た。
 目と目が合って、二人の間に漂う空気で人違いではないと確信した。
「人を名前で呼ぶのやめてくれないかしら。それも呼び捨てで。重ねて、お前って失礼じゃない。社会人としての礼儀が身についているのなら、訂正してよ」
 言外に、そのころには礼儀もなにもなかったと、突きつけられたも同然だった。咄嗟に僕はなにかを言いかけたのだが、口から出た言葉は頭に浮かんだものとは違うものに変換されてしまったみたいだ。「由利ゆり」と、僕は彼女の苗字で呼びなおしただけだった。
「昨夜は気づきもしなかったくせに。酔っ払ったら手当たり次第に声をかけるのね?」
 酔っていた? ――僕は、考え込んでしまった。
「それで目が覚めたら憶えてません、て。都合がよすぎじゃない? ナニサマよ」
 憶えていない、なんてことがあるだろうか。
 僕が言い返さないのを肯定の返事ととったのか、明らかに由利遼子は呆れた溜め息を吐いた。向けられた目は、呆れるを遥かに通り越して見下していた。人を見る目ではなかった。その視線の鎖に、僕は縛られてしまった。
 裸の彼女は立ち上がり、服を着る。そのボディラインも完璧だった。これも記憶していたものとは違う。どう違うのか、頭の中を整理しているうちに、彼女は出ていった。
 それからずっと。
 僕は独りでベッドにいる。
 昨日――金曜は、僕の担当している広告のプロジェクトが一段落したこともあって、同僚たちと飲みに出た。同僚は、僕が二ヵ月前に婚約したことを知っていたから、
鈴村すずむら、飲んでて平気なのか? 婚約者が拗ねたりしないか?」
 と気を利かせてくれたものだ。確かに、婚約してからは仕事が大詰めだったこともあり、残業・徹夜・休日出勤が続いていて、茉莉とはメールくらいしかしていなかった。
「今夜あたり、ゆっくり恋人を抱いて寝たいんじゃないの?」
 そう、同僚につつかれたとき。
 僕ははっきり自覚したのだ。
 逢えなくても平気だったと。
 別段、茉莉を恋しいとも思っていないと。
 と同時に、この感情を同僚に悟られたくないと思った。
 絶対に知られたくなかった。
 だから僕は、適当なことを言った。
「残念ながら、今夜は彼女の都合がつかないんだ」
「そりゃ悲しいね、せっかく仕事が片づいたのに。可哀想だから鈴村と飲んでやるよ」
 男同士でたあいない話をし、途中、適度に仕事の愚痴を挟みながら飲んだのが、終電にギリギリ間に合うかというくらいまで。そのあと一人になって駅まで歩いているうちに、どうせ金曜だしという気持ちになった。接待以外で酒を飲むのは久しぶりで、もう少しだけくつろげる酒を飲みたい気分だった。タクシーで帰ればいいかなと財布の中身と相談しながら歩いていて、目についたコジャレた店に入った。夕方には数日降り続いた雨もやんでいたし、夜風にあたりたかったこともあって、テラス席に座った。
 そこまでは憶えている。
 僕が酒を飲みに出るようになったのは、高校1年からのこと。それから14年近くが経っているが、たとえ酒を浴びるほど飲んでいようと、血液がすべて酒にかわっていようと、記憶をトばしたことは一度もない。どれだけ飲んでも底ナシで、酔える人間を常々羨ましいと思っていた。
 なのに、昨夜に限って……。
 仕事が落ち着いたら、必ず電話すると茉莉に約束していた。その後ろめたさがあって酔ってしまった? それとも同僚の言うように、意識せずとも身体は飢えていて軽はずみなことをしてしまった? ――どれだけ考えても、答えは見つからない。それどころか、酔っていたにせよ、選りに選って遼子に声をかけるなんてあるだろうか。しかも、こんなところでばったり逢うか? その疑問ばかりが深くなる。
 実際、今朝遼子の声に気づいた途端、頭はすぐに回りだした。記憶は昨夜のことではなく、過去まで飛んでしまったけれど、彼女の声が様々な想いを連れてきたのだ。
 遼子が出ていってから、ぐるぐるといろいろなことを想い巡らせてしまう。僕はそれを振り払うように、頭を振った。違う――今考えなければいけないのは遼子の前に出ていった、婚約者である茉莉のことだ。「別れる」と言われたが、別れるつもりは微塵もない。
 茉莉は僕が忙しかったと思っているはずだ。だから金曜なのにメールも入れなかったと思ってくれているはず……そのとき、携帯を操作していた僕の指が止まった。最後に茉莉にメールを送ったのはいつだったろうと送信画面を開いたら、昨夜の深夜2時に茉莉へ宛てたメールが残っていたのだ。
 ――土曜はゆっくりできるから。朝食を一緒にとらないか。
 僕は目を瞠った。
 全く覚えのないメールだった。
 けれどこれで納得がいく。どうして茉莉が朝っぱらから僕の部屋にいたのか……。合い鍵はずっと前から渡してある。茉莉がそれを使うことはなくそこが好きでもあったのだが、今朝に限って使ったのだ。
 焦りのあまり指がうまく操れず、なかなか恋人のアドレスを呼び出すことができなかった。これくらいのこと、大したことじゃない。大丈夫だ。そう思っても、昨夜から続く一連の不吉な出来事のせいで、嫌な予感が強くなる。そして嫌な予感ほど、高確率で的中するもの。やっとのことで茉莉にかけても、電話は見事に繋がらなかった。着信拒否にされてしまったのだ。番号非通知でかけても結果は同じ。メールも拒否されて送信できない。
 僕は、片手で目を覆った。
 こんなときに、どうすればいいのかわからないのだ。




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