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第一集 脅されて ~天媛の真珠(6/8)
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夏の前、寿寧の雨期はひと月続く。
その日は久々のカラッとした晴天で、日没後も雨は降らなかった。月も久しぶりに大地を照らしたからだろう、まるで宵闇に月光が惑っているふうだった。
下弦の月を見上げていた桃之は視線を戻し、街の様子をうかがう。
朱王朝時代、日没後の人の動きは極端に減っていた。しかし、現在の寿寧は安寧というまどろみの中にあり、民は心も懐も豊かであった。夜中から早暁まで営業している店もあって、市以外の場所でも店が開業し昼夜を問わず賑わっている。
とはいえ。
なんといっても、雨期。いつ雨が降りだすともしれぬ夜だから、今宵の街路はしんと静まりかえっている。巫術を駆使したい桃之にとっては好都合だった。
街東が高級階層区で貴族の住む区画となる。その街東も、北から南へと貴族の格および官吏の位が高い順に邸が並ぶ。連夜、峯美人の結界をはってきたので、今夜はもう、街の東南まできてしまった。東西にはしる街路の南側は、区画四つ分の予備地があって視界が大きく開けている。
桃之は左手の甲に口づけた。
そこに出現したのは一輪の、大輪の花。
男の掌を広げたほどの大きさで、紫色から桃色にかけての濃淡があり、花片は二重になっていて一枚が長く外側へと垂れている。花片を一枚引き抜けばもう一輪の花へと変化して、望むところにとどめておくことができた。
今宵、一輪を紫耀のもとに置いてきた。
こうすることで、一時的ではあるが彼女の見鬼の能力を借りることができる。
「さて」
気合を入れるため、誰に言うでもなく桃之は呟いた。
意念を峯美人に集中する。
一気に潜在能力を引き上げれば、峯美人から四方へと放たれた〝気〟が世の出来事に相感応して、人を含むすべての動きを共時的に読むことができる。
その場にいながら、遠方の動きまで知ることができるのだ。
これが峯美人の結界だった。
桃之は見鬼の能力をもっていないため、結界内に鬼を取りこむことができなかったが。紫耀に峯美人を与えた今夜は怪しい気配も追える。
鬼が見えるのだ。
桃之の切れ込んだ眦が動く。
目と目が合ったような奇妙な感覚が肌をなでた。
「あれは」
独り言が夜陰に消える間もなく鋭い斬撃が繰り出されてきた。
「なッ」
驚いて、桃之は後方へと飛びすさる。速い。まるで強風に身体をなぶられたかのような一撃だった。
意念を左手の峯美人に集中し、大剣へと変化させる。右手に持ちかえたところで、やっと、それまで気配でしか感じなかった相手の存在を目視することができた。
「おまえ、……鬼か」
バカ正直に訊いてしまったのも仕方のないことといえよう。
対峙する偉丈夫は戦袍に身を包んでいて、鎧も立派なものだった。手にする剣も宝物並みの荘厳な装飾が施してあり見事である。ちょっと見には位の高い武官なのだ。ただ……。
赤髪赤眼。
赤の強い黒髪をもつ者は鼎国にもいる。が、この男のように眺めているだけで火傷しそうな赤い髪を見たのははじめてだった。なにより、その双眸。明らかに人ではない。
異質の存在。
反射的、桃之は「く」と苦い息を吐いた。
(峯美人があっても互角、か)
これは鬼だ。
さらに峯美人の結界を広げて、鬼を使役する見鬼師を突きとめたかった。見鬼師をつぶせば役鬼は止まる。だが、余裕がない。見鬼師の追跡は即座に断念し、桃之は眼前の鬼に集中する。
またも一筋の斬線がはしる。
かろうじて桃之はよけたものの、連撃が繰り出されてきた。連日の雨だ、刃を受けた打撃で両足がぬかるんだ泥に埋まり、足許から円を描くようにして周囲に衝撃波が広がった。土と草がはじけ飛んでいく。
さすがは鬼、尋常でない威力だ。
とはいえ桃之も弱気になっていられない。人生、敗北を認めたら終わりである。
「おまえが悶香の回収者か?」
斬り結んだまま、鬼はなにを返すでもない。硬そうな頬はさらに固まってぴくりとも動かない。
「名は?」
鬼は自ら名のることをしない。
鬼の名字は知られてしまうと、その妖力を失ってしまう。ゆえに、名字を知るのは紫耀のような召鬼法の執行者のみ。
なんとか反撃の糸口を見つけたい。ダメモトで桃之は根気強く質問したが、返ってくるのは無言ばかりだった。
「なにか言えって!」
力で桃之が剣を振りきろうとすれば、すんでのところで刃文をずらした鬼が身をひるがえした。瞬発力も人並みはずれている。
距離をとった桃之と鬼の間にさらりと滴が落ちた。雨が降りだしたのだ。峯美人に護られているとはいえ、霧雨をうざったいと思っているのは桃之だけかもしれない。
それほど多く斬り結んだわけでもないのに、柄を握る掌はじんじんと痺れている。
(化け物か)
呆れる空気も与えられず、驚異的な速さで鬼が斬りかかってくる。
斜めにはしる剣尖を桃之は防いだ。
交わる両者の白刃からは火花が散り、発せられた火が消える間もない二合目、体勢を整えた鬼の目に雷光がひらめいて容赦なく踏みこんできたところで――
「――ッ」
動きを封じられたかのように鬼がピタリと固まった。指一本動かせないという不自然な体勢だ。
わずかに桃之は躊躇する。
鬼は人とは相いれない存在。人の形をとっていたとしても、人とは隔たったもの。これが鬼の妖術であったなら、攻撃をしかけたとしても、こちらの命が奪われかねない。
得体の知れない緊張感が場を支配する。
どうするか? ――次の瞬間。
目蓋をあげていられないほどの眩い光が鬼の体を包みこんだ。桃之が額に手をかざしている間に光の色は真紅へと変色し、鬼の姿を消してしまう。
「なん――だ?」
桃之の呟きだけがそこに漂って。
最初からいなかったかのように音もなく鬼は忽然と消失したのだった。
すかさず峯美人で気配をたどるが追えない。混乱する頭を整理しながら桃之が目線を落せば、そこには確かに二者の激突した足跡が残っていた。
これでは悶香の回収者は不明のまま。
「ああ、うん、失敗だ。紫耀にはなんと説明したものか……」
ガラにもなく桃之はうなだれた。
口ベタ無表情を装っている手前、彼女にどう報告するか真剣に悩んでしまう。
女人にまくしたてられると男は弱い。ご多分に洩れず桃之も、である。
鬼との遭遇から受けた疲労ではなく、このあとに受けるだろう疲労で、しばらく桃之はその場から動けなかった。
紫耀は扇子でとんとんと掌を叩く。
戻ってきた桃之は妙に疲れた様子で肩が落ちていた。珍しい。そこまでたいへんな一夜だったのかと、ちょっと同情してしまったほどだ。
今は、夜明けの茶を二人で飲みつつ報告を聞いているところ。
「赤い髪、赤い眼……」
とんとん、と扇子を叩く音だけが室内に響いていた。
「んで、赤い光に包まれて、消えた、と」
「そう」
桃之がずずっと茶をすすった。
「悪いな、悶香の回収者は不明だ」
「いいのよ」
「えっ!?」
「えって、なによ?」
あ、いや、と茶をふき出しぎみに、これまた桃之にしては珍しく言いよどむ。
「いいのよって言ったのは、鬼を逃したことについてよ。回収者を捕まえられなかったのはイタイわね」
「? 同じだろ」
違うわよ、と紫耀は榻に座りなおした。
「あたしが思うに、あんたが遭遇したのは孔雀の精よ。鬼の分類としては妖怪ね。いつも人の形をしていて、剣の扱いにも長けている。厄介な鬼のうちの、手強い部類に入るの。その孔雀の精の扱う妖術が真紅の光を放つことでね」
「ものすごい光の量だったぞ。目がくらむとはまさにあの現象だ」
「だと思うわ。師匠の蔵書で読んだことがある。妖術は発紅といって、光の中に人だろうが物だろうが狙ったものを取りこんでしまうのよ。峯美人の護りがなければ、あんたも今頃は孔雀の精に捕らわれてしまっていた。だから、鬼を逃したことについては『いいのよ』って言ったの」
「いちおう心配してくれたのか」
「いちおう、ね」
そのような鬼とまともにやりあっていたら朝が何回くるかわからない。
おそらく孔雀の精もそう考えたのだろう。やりあう途中で体をピタリと止めたのは、桃之が互角の相手と判断したからだ。で、争うのが面倒になって発紅した。諦めが早いというのが、この鬼の特徴でもある。
「でも、……となると困ったわね。十中八九、孔雀の精が悶香の回収者だとして、悔しいけれど、あたしじゃその鬼を制圧できないわ」
「なんで?」
「鬼の名字を知らないのよ」
「知らない、なんてことがあるのか? それこそ知らなかったぞ」
「孔雀の精は異例なの。……あの鬼は遥か昔に仙人に連れていかれてしまったから、人の世に鬼の名字が伝わっていないってわけ」
まずい事態になったと紫耀は、お疲れの桃之をほうって沈思黙考のし放題である。
(鬼の名字が知られていないのに、鬼を使役する見鬼師がいるってこと?)
できっこないと紫耀は首を振る。
だが実際、桃之は遭遇している。
(理解できない……)
ひとまずよかったのは、桃之が孔雀の精と互角に戦えるということだ。結果、引き分けたのなら、今後の対策もたてられるというもの。
回収者が鬼であると判明しても、悶香のありかは不明のままで……。
紫耀は扇子で掌を叩き続けていた。
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