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貴方のためならば、永年など

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 青年は薄れゆく意識の中で願いました。
 嗚呼、あと一分だけでも、ぼくが動くことができたなら。
 嗚呼、あと一分だけ有れば、愛する人を救うことができたのに。

 青年は床に倒れ伏し、動かぬ手足を必死に動かそうと踠きます。
 けれど、熱い空気と黒煙に飲まれ、最早視界すら動かせません。
 青年は諦めません。動けずとも、願うことはできるから。

 軈て、青年は霞みゆく視界の中で見つけました。
 炎と煙に飲まれぬ異質な空間が在りました。まるでそこだけ何かが居るかのように、炎も煙も近寄ろうとしませんでした。
 青年はその空間に魔女の姿を見たのです。

 まだ幼い魔女でした。白と黒だけで彩られた、無彩色の魔女。
 赤く彩られた世界では、白黒の存在は際立っていました。

 青年は尋ねます。魔女よ、ぼくの願いを聴いてくれるのか。
 魔女は答えます。機会を与えましょう。掴み取るかは貴方次第。
 そう言って浮かべた笑顔に、稚さは在りませんでした。


 名も無き魔女は告げます。
 貴方を過去に戻します。まだ貴方が自由に動ける時代に。
 三十分の間に、街行く人々から一分を譲るよう求めなさい。その者の時間から一分を、わたしの魔を以て貴方に移しましょう。
 誰も譲らぬのなら、貴方はこのまま火に飲まれて死ぬ。
 誰かが譲るのなら、貴方は火に飲まれる前から始まる。
 わたしは貴方の最期の抵抗を見届けることとしましょう。

 青年は肯きます。それで彼女を救えるのなら。
 魔女は戒めます。これで彼女を救えるとは断じません。全ては貴方次第。
 さあ、運命を捻じ曲げるほどの抵抗を見せてください。

 青年の視界が光に飲み込まれます。そのまま、意識を失いました。



 次に青年の目に飛び込んできたのは、慌ただしい街並みでした。
 多くの人が忙しなく行き交い、誰も彼もが何も見ていない。
 青年が目を覚ました時、公園のベンチに寝転がっていても、誰一人として目を向けることさえありません。

 青年の耳に魔女の声が届きます。
 始めましょう、願う者よ。既に時は零れ落ちています。
 その時が来れば貴方の姿は靄となって消えます。それまでに一分を手にするのです。抗うための一分を。

 青年は飛び起きます。動かねばならないのです。
 慣れぬ身だとしても。自らを怪しむ他人の視線が突き刺さるとしても。
 全ては、抗うための一分を手にするために。
 全ては、救うための一分を手にするために。

 青年は叫びます。誰か、どうか、どうか、ぼくに一分をください。
 けれど、その声に足を止める者は居ません。その声に耳を傾ける者は居ません。
 誰もが彼を怪しみ、訝り、拒絶します。
 助けを求める彼に近寄る者は居ません。運命を捻じ曲げることなどできないと断言するように。

 青年は叫びます。誰か、どうか、どうか、ぼくに一分をください。
 誰でも良い。誰でも良いんだ。愛する人を救うために、どうか、どうか。

 青年は喉が裂けるほどに叫びます。その声が届く者を捜して。
 魔女は言いました。あと五分を切りました。諦めるのなら言いなさい。
 青年は答えます。諦めるものか。まだ五分も有るのだから。
 ぼくは諦めない。最期の一秒まで、彼女を救うために抗ってやる。

 無意味とも思える抵抗を続ける青年の前に、小さな少女が来ました。
 少女は言いました。お兄さん、困ってるならわたしの一分あげるよ。
 それは、青年が何よりも待ち望んでいた言葉でした。

 けれど、青年は躊躇いました。
 その少女には愛する者の面影が有ったのです。

 青年は悩みます。
 あの魔女は過去に飛ばしたはずだ。ならば、彼女が幼い頃かもしれない。
 この少女から一分を奪うことで、彼女を救えなくなるのではないか。
 あの魔女は敢えてこの少女を向かわせたのではないか。
 ぼくが一分を手にしても、彼女を救わせないために。

 青年は悩みます。
 この少女から一分を奪わなければ、彼女を救えないかもしれない。
 何のために魔女と取引したのか。何のためにここに来たのか。
 あの魔女は敢えてこの少女を向かわせたのではないか。
 ぼくが一分を手にして、彼女を救うことができるように。

 その末に、青年は決断します。少女から一分を手にする、と。
 少女は笑顔を見せました。お兄さんのお願い、叶うといいね。
 青年は何も言えませんでした。
 その笑顔には、間違いなく愛する者の面影が有りました。

 そうして、青年の意識は再び靄に包まれます。
 青年は願います。どうか、どうか、愛する人を救えますように。



 次に青年が目を覚ましたのは、煙が上がる室内でした。
 それは青年が魔女に出逢う前の時間。愛する者と暮らす家の中で、炎が部屋を這い回る直前。
 青年は悟ります。彼女を救うために、此処に戻されたのだと。

 青年は寝台から手を伸ばして杖を取ります。
 かつて自由を失った脚の代わりとなる大切な木の杖を。
 青年は苛立ちます。この脚が自由に動くなら、間に合わないはずがないのに。

 青年は声の限り叫びます。愛する者の名を。
 けれど、何かに阻まれたかのように、愛する者の声は返ってきません。
 杖を手に、青年は部屋を出ます。扉の先は既に火に飲まれていました。
 青年は訝ります。おかしい。前よりも火の回りが早いのではないか。

 黒煙が青年を襲います。熱波が青年を阻みます。
 青年は諦めません。脚を引き摺り、咳き込みながら懸命に火の中を進みます。
 一度目に倒れた場所を抜けると、青年は少し安堵しました。
 嗚呼、この場所で倒れることはない。運命を変えることができたのだ。

 青年は愛する者の部屋の扉を開けます。
 あとは、その窓から助けを呼ぶか、階下へ飛び降りれば彼女は助かる。
 前の状況なら、まだこの部屋には火の手が届いていないはずだ。
 そう思っていました。だからこそ、動くことができませんでした。

 愛する者は扉の近くで倒れていました。
 まるで、扉を開ける前に力尽きてしまったかのように。
 既に彼女の部屋には火炎と黒煙が忍び込んでいたのです。

 青年は杖を投げ出す勢いで彼女に駆け寄ります。
 その名を呼ぶと、彼女は薄く目を開けて笑いました。
 嗚呼、間に合ったのですね。今度は。

 炎が燃え上がり、窓への道を断ちました。
 煙が立ち上り、外への道を断ちました。
 自由を失った二人には、最早逃げる術は有りませんでした。

 青年は絶望します。
 どうして火の回りが違うんだ。どうして前よりも早く火に飲まれたんだ。
 彼女の一分を奪ったことで、彼女が救われなくなったというのか。

 青年は叫びます。名も無き魔女よ、応えろ。
 お前はその全てを見通していながら、ぼくに取引を申し出たのか。
 お前は彼女を助けられないと知りながら、ぼくに希望を持たせたのか。

 空間が歪み、幼い魔女が現れます。
 名も無き魔女は断じます。その表情に憐憫を湛えて。
 救うことはできましたよ。彼女以外の方から一分を奪うことができたのなら。

 そして、名も無き魔女は告げます。残酷な真実を。
 貴方が彼女から一分を奪わなければ、彼女は助かったのです。
 その一分で、彼女は救助される前に焼かれて死ぬことになるのです。
 嗚呼、貴方が望まなければ、貴方が彼女から一分を奪わなければ、死ぬのは貴方だけで済んだのに。

 青年は嘆きます。
 ぼくが願わなければ、きみは死なずに済んだのか。
 ぼくが奪わなければ、きみは死なずに済んだのか。
 嗚呼、きみを救おうとしたのに、きみを殺してしまうなんて。

 けれど、彼女は言いました。
 その一分を差し出すと決めたのはわたしです。

 青年は魔女を責めます。
 何故その一分だった。他の時間を切り出せば済むのに。
 何故その大切な一分を奪った。彼女の生を繋ぐための一分を。

 彼女は魔女を庇います。
 その一分を差し出すと願ったのはわたしです。
 だから、魔女様は悪くありません。魔女様はわたしの願いを叶えただけ。

 魔女は問います。
 何故、その一分だったのですか。他の時間でも良いと言ったのに。
 貴女には伝えたはずです。その一分を差し出せば、貴女はその先を失うと。
 何故、貴女は頑なにその一分を望んだのですか。

 彼女は微笑み、青年の手を取ります。
 愛する人を失った永年よりも、愛する人と過ごす一分を選びます。
 だから、最期の一分を笑って過ごしましょう。
 わたしは貴方に出逢えて、貴方と死ねて、幸せです。

 彼女は青年を抱き締めました。幸せそうに笑いながら。
 青年は彼女を抱き締めました。幸せそうに泣きながら。
 そうして、二人の姿は炎に飲まれていきます。


 名も無き魔女は言いました。
 せめて、苦しまずに逝きなさい。そのほうが幸せでしょう。
 そうして、二人の姿は光に包まれていきます。


 その後、焼け跡から二人の遺体は見つからなかったそうです。
 勿論、魔女の痕跡も、何一つ。


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