恋を知ったわたし

にのみや朱乃

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 ついに終業式がやってきてしまった。明日からは夏休みだから、真島くんと普通に会えるのは今日が最後になる。せめて今日だけは真島くんと一緒に帰りたかった。もし夏休み中に一度も会えなくてもよいように。
 だというのに、わたしは去年同じクラスだった羽鳥くんから校舎裏に呼び出されていた。話があるから来てほしい、なんて言っているけれど、いったい何の話があるというのだろう。去年仲が良かったわけでもなく、わたしが顔を覚えているのが不思議なくらいだ。それくらい、わたしと羽鳥くんには接点がなかった。
 あーあ。羽鳥くんに呼び出されてなかったら、真島くんと一緒に帰れたのにな。わたしは帰りのホームルームが終わる時にもそんなことを考えていて、小鳩先生の話なんてまったく聞いていなかった。みんなが席を立つ音を聞いて、ホームルームが終わったのだとようやく気づいた。
 面倒だけれど、呼び出されてしまったのだから仕方ない。わたしは重い腰を上げて席を立った。真島くんも鞄を持って歩き出そうとするタイミングだった。
「お、夏未、帰る?」
 これなら、一緒に帰ろう、と言えるはずだったのに。わたしは羽鳥くんを恨めしく思った。
「ううん、帰れないの」
「なんで?」
「校舎裏に呼び出されたから」
 本当は秘密にしておいたほうが羽鳥くんのためなのだろう。けれど、わたしは羽鳥くんが恥ずかしい思いをすればいいやと思って、正直に真島くんに話した。
 予想通り、真島くんは面白いおもちゃを見つけたみたいな顔をした。校舎裏に呼び出されるイコール告白ではないと思うのだけれど、真島くんはそうではないようだった。
「マジで? 校舎裏? 誰に?」
「羽鳥くん」
「どうすんだよ、付き合うのか?」
 付き合うと言ったら、真島くんはどんな顔をするのだろうか。残念がってくれるだろうか。今の真島くんの表情からは、何も読み取ることができなかった。
 でもわたしにはそんな駆け引きの才能はない。思わせぶりな態度を取れるわけでもない。わたしにできるのは、今の感情を真島くんに伝えることだけだ。
「この態度で付き合うって言うと思う?」
 真島くんはわたしの口調から察してくれたようで、どこかほっとしているようにも見えた。
「なあんだ、そっかあ。羽鳥、残念だったな」
「そもそもそういう話じゃないかもしれないよ」
「いや、夏休み前に校舎裏に呼び出すなんて、告白以外の用事なわけないだろ」
「経験者は語る?」
 わたしがいたずらっぽく訊くと、真島くんはにやっと笑った。
「そうだな。俺の経験上、間違いなく告白だ」
「真島くんの経験談なら当たりそうだね。今日は誰にも呼ばれてないの?」
「ああ、うん、最近はかなり減ったな。なんでなのかは知らないけど」
 よかった。夏休みを前に、真島くんに彼女ができてしまったらどうしようかと思った。彼女がいる人と遊びに行くのは気が引けてしまう。というか、それは許されないだろう。
「じゃあ、また連絡するよ」
「え? う、うん」
 真島くんはさらっとそう言って、鞄を持って教室を出て行った。
 また連絡するよ。これは、夏休み中にも連絡してくれるってことだよね。ちょっと前に話していたけれど、夏休み中に遊びに行くっていう話を覚えていてくれたんだよね。
 羽鳥くんのせいで下を向いていた気持ちが一気に上向きに変わった。やった、夏休み中も真島くんに会えるんだ。
 わたしは緩んだ頬を戻しながら、羽鳥くんに呼び出された校舎裏へ向かう。梅雨も明けて夏本番、強い日差しが照りつける外はとても暑い。校舎裏は日陰になっているからまだ少し涼しいけれど、じめっとして暑いことに変わりはない。羽鳥くんはどうして冷房の効いていない場所を選択したのだろう。何も考えていなかったのだろうか。
 おそらく告白されるというのに、気持ちのたかぶりが一切ない。義務的な気持ちで来ているだけで、ときめきもどきどきもない。ほとんど知らない人から告白されるのだから当然だろう。
 わたしが告白を受けるのは初めてではない。意外なことに、何度か告白されたことがあるのだ。しかも、決まってほとんど知らない相手に。好きでもない相手と付き合うつもりなんてないから全部断ってきたけれど、わたしは知らない人を惹きつける何かでもあるのかと疑ってしまう。
 わたしが校舎裏に着くと、羽鳥くんはもう待っていた。メガネをかけた、ひょろっとした男子生徒。わたしの記憶にある羽鳥くんとは、少し違っているような気がした。背が伸びたのだろうか。それとも、今日のためにどこかおしゃれでもしてきたのだろうか。
 こんなに暑い中、待たせてしまったことを申し訳なく思う一方で、こんな暑いところを選んだほうが悪いという気持ちもあった。
「ごめん、遅くなって」
 わたしがそう言うと、羽鳥くんはハンカチで額の汗を拭った。
「いや、いいよ、大丈夫」
 羽鳥くんは緊張しているようだった。その雰囲気で、わたしは告白されるんだなと直感した。
「それで、話って何?」
 話を早く終わらせたい一心で、わたしは先を促した。こんな暑い中で長話をされては困る。
「そ、その、話っていうのは」
 うまく言葉が出てこなくなっているようだった。それくらい緊張しているのだろう。わたしは辛抱強く待つことにしたけれど、本心は早く帰りたかった。
「ぼ、ぼくは、水島さんのことが、す、好き、です」
 羽鳥くんは俯きながら小さな声で告げた。
 こういう時、どういう反応を返すのが正解なのだろう。笑顔を浮かべながらありがとうと言えばよいのか、普通の表情を浮かべてごめんなさいと素直に返すのがよいのか。知らない人なんて好きになるわけないだろうが、と怒鳴るのは間違いなくアウトだとはわかるけれど。
 わたしが取る態度は、いつも困惑だった。だって、どうしてわたしを好きになるのかが全然わからないからだ。話したことがない相手を好きになるって、まあ一目惚れとかいうのもあるけれど、現実にそういうことはあるのだろうか? わたしにはわからない。
 今回も、わたしは困ってしまった。誰か正解を教えてほしかった。
「そう、なんだ。それで?」
 結果、わたしは早々に断るための言葉を引き出そうとした。付き合ってください、と言ってくれれば、ごめんなさいと断ることができる。わたしにはその言葉が必要だった。
 羽鳥くんは少し動揺を見せて、わたしが欲しかった言葉を言ってくれた。
「つ、つ、付き合って、ください」
 今、わたしはどんな表情を浮かべているのだろうと気になった。憐れみが外ににじみ出ていないかどうかが心配だった。
 もっと堂々としてくれていたら、聞く側の女子の心を動かすこともできるかもしれないのに。わたしはそう思ってしまった。
「ごめんね。羽鳥くんの気持ちには応えられない」
 わたしは努めて優しい声で羽鳥くんに言った。できるだけ羽鳥くんの傷を浅くしようとした。
 けれど羽鳥くんは、自ら自分の傷を広げに来た。
「どうして?」
 ああもう、面倒だなあ。理由なんてたくさんあるんだから、説明していられないよ。
 と言いたい気持ちを我慢して、わたしは静かな声で言った。
「わたし、好きな人がいるから」
 こう言えば、誰もが引き下がる。経験上、わたしは知っている。好きな人がいなかろうと、こう言ってしまえば引き下がるしかないのだ。
「真島か?」
 羽鳥くんは怒りすらこもっている声で言った。わたしは怖くなって、一歩後ろに引いた。
「やっぱり、真島が好きなのか?」
 やっぱりと言われたのがかちんと来て、わたしは言い返した。
「誰だっていいでしょ。羽鳥くんには関係ない」
「水島さんは真島と付き合ってるのか?」
「それも、羽鳥くんには関係ない」
 わたしは肯定も否定もしなかった。話したところで、羽鳥くんの話が何か変わるわけでもない。どうでもいいから早く羽鳥くんの前から立ち去りたかった。
「真島が好きなんだろ? 見てればわかる」
「どうだっていいでしょ。わたし、帰るね」
 わたしは逃げるようにその場を去った。羽鳥くんは追いかけてこなかった。
 真島が好きなんだろ。その言葉がわたしの頭の中で反響する。
 そうだ。わたしはいろいろ考えた結果、ひとつの結論に行き着いている。
 わたしは、いつの間にか真島くんに恋をしたのだ。
 だから毎日会いたいと思うし、会えたら嬉しくなるし、誰かが真島くんと話していると苦しくなる。会えない時間も真島くんのことを考えて過ごしている。会えない時間が長く続くと心がぎゅっと押し潰されたようになる。ただの友情では片付けることのできない感情。これを恋と言わずして、何を恋と言うのか。わたしはついに恋を知ってしまったのだ。
 ああ、真島くんに会いたい。羽鳥くんのせいでかき乱された心を、真島くんに癒してもらいたい。真島くんの笑顔を見れば、このストレスなんて吹き飛んでしまうだろう。
 教室に戻ったら真島くんがいた、なんてことはない。わたしは教室に戻って自分の鞄を取り、さっさと家に帰ることにする。学校にいたって真島くんに会うことはできないのだ。だったら早く家に帰って自分の時間を過ごすほうがよい。
 早足で下駄箱に行き、靴を履き替える。早く帰りたい。その思いが強すぎて、わたしは人影が目に入らなかった。
「夏未」
 いきなり物陰から声をかけられて、わたしは手に持っていた靴を落としそうになった。振り返ると、わたしがいちばん会いたかった人がそこにいた。
「どうだった? 告白だっただろ?」
 真島くんはにやにやしながらわたしに尋ねてくる。わたしは真島くんに会えたことが嬉しくて、でもそれを表に出すのは恥ずかしくて、ふいと顔を背けた。真島くんのほうは見ずに、持っていた靴を靴箱に戻す。
「そうだよ。告白だった」
「断った?」
 真島くんは面白半分で聞いてきているのかと思ったら、意外と真剣そうな表情だった。まるでわたしの答えを本気で知りたがっているかのように。
「断ったよ。羽鳥くんのこと、何も知らないし」
「そっか。断ったのか」
「残念?」
「いや、そんなことないよ。夏未が誰かと付き合ったら誘いにくくなるしな」
 真島くんもわたしから視線を逸らしてそう言った。
「ていうか、真島くん帰ってなかったんだね。何してたの?」
 何か用事があったのだと思ったわたしは、何も考えずに真島くんに訊いた。けれど、真島くんは歯切れの悪い返事をした。
「いや、その、なんていうかさ、夏未が」
「うん?」
 わたしが? わたしがいったいどうしたのだろうか。言いにくそうにしている真島くんの言葉を待つ。
「夏未が何て返事したのか気になって、帰れなかった」
 真島くんは珍しく小さな声で言った。どこか、照れ臭そうに。
 それは、どうして? わたしが誰かと付き合ってほしくないってことは、真島くんもわたしのことが好きってこと?
 いやいや、それは飛躍しているだろう。真島くんは仲の良い女友達であるわたしを失いたくないだけだ。異性の友人というのは真島くんにとって有用なのだ、きっと。
 わたしは膨らんできた期待を無理にしぼませて、言った。
「最初から断るよって言ってたじゃん」
「いや、でもさあ、押しに押されて断れなかった、とかあるかもしれないだろ」
「あるかな、そんなこと?」
「ある。断るの大変だったことあるんだよ」
「なにそれ。経験者は語る?」
 今日二回目の経験談だ。わたしは面白くて笑ってしまった。真島くんもふっと表情を崩した。
「じゃ、夏未の返事も終わったことだし、帰ろう」
「うん。なんか、待たせちゃったみたいで、ごめんね」
「いいんだよ、俺が勝手に待ってただけなんだから」
 真島くんは爽やかに笑った。その笑顔を見て、わたしの心臓が強く拍動する。
 ああ、やっぱり、わたしは真島くんが好きなんだ。それ以外に、今のわたしを説明できる感情は存在しない。
 夏休み前に真島くんともう一度会えてよかった。わたしはスキップでもするような気持ちで、真島くんの横を歩いて帰った。

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