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15. 瀧本くんの家
しおりを挟むその日、わたしは朝からずっと緊張していた。悠夏に何かあったのか聞かれるくらいだ。
ついに瀧本くんに誘われたのだ。俺の家に来ないか、と。
男子の家になど行ったことがない。まして、好きな人の親になど会ったことはない。お母さん宛に何か買っていたほうが良いか瀧本くんに聞いたら、そんなことまで求めていないと言われてしまった。手ぶらで訪問するのも気が引けるけれど、断られてしまったのなら仕方ない。
別に、彼女として会いに行くわけではないのだ。瀧本くんにもまともな友人がいるということをアピールするために、お母さんに姿を見せるだけ。わたしは先生にいつもやっているように、おとなしくて物静かな優等生を演じていれば良い。あとはきっと瀧本くんが場を繋いでくれるはずだ。わたしはおそらくにこにこ笑っているだけで良い。
そうは言っても、好きな人の親だ。好きな人の部屋だ。緊張しないほうがどうかしている。これならいっそ彼女にしてもらってから行くほうが良かったかもしれない。まったく好意がないなら友人として行けただろうけれど、現実はそうではない。わたしはこの破裂しそうな恋を隠したまま、お母さんに会わなければならないし、瀧本くんの部屋に入らなければならないのだ。どちらかにこの気持ちを気づかれやしないだろうか。不安だ。
放課後になると、わたしの緊張感は増した。胃が締め付けられるような思いがする。高校受験の日だって、これまでのテストの日だって味わったことのない緊張がここにある。
「ねぇ詩織、ほんとにどうしたの? 今日何かあるの?」
ホームルームが終わって解放されると、悠夏が心配そうにわたしのところへ来る。瀧本くんの家に行くのだとは言えず、わたしは曖昧に笑って誤魔化した。
「ちょっとね。瀧本くんと出かける予定があって」
「あぁ。デートね。それで緊張してるの?」
「まあ、そんな感じ。明日また話すね」
「なるほどぉ、事後報告ですかぁ。うまくいくといいね。応援してる」
何か噛み合っていないような気がしたけれど、わたしは頷いてその場を去る。瀧本くんとはいつも通り、図書館での待ち合わせだ。たぶんもう待っているだろう。
わたしが教室を出ると、廊下で瀧本くんが待っていた。そこにいると思っていなかったわたしは、急に瀧本くんが出てきて驚いてしまう。
「うわ、どうしたの。図書館で待っててよかったのに」
「並木からお前の様子がおかしいって聞いたから。どうせ緊張してんだろうなと思って」
「わざわざ迎えに来てくれなくても。逃げないよ?」
「早いとこお前の緊張を解してやろうと思ったんだろうが。俺がいたら楽になるだろ」
普段はそうかもしれないが、今日に限っては微妙だ。ある意味では瀧本くんのせいで緊張しているのだ。瀧本くんの顔を見るだけで、部屋に入ったらどうしたら良いのかとか、お母さんに失礼のないようにしなければならないとか、そんなことが頭を駆け巡ってしまう。
けれど、その気遣いは嬉しい。わたしは瀧本くんと並んで歩き出し、騒がしい廊下を抜けていく。最近はわたしが瀧本くんと歩いていても視線を集めないようになってきた。みんな、わたしたちの関係にも慣れてきたか、もう飽きたのかもしれない。
「今日は詩織と一緒に勉強することになってる。母さんにはそう言ってある」
「そうなんだ。じゃあ、ちゃんと勉強しないとね」
「着いたらすぐ部屋に行けばいいんだから、母さんに会うのなんて数分だ。そんなに緊張することもねえよ、ただの中年なんだから」
瀧本くんはわたしの緊張を察して励ましてくれる。でも、わたしの緊張の原因はお母さんだけではない。瀧本くんの部屋で二人きりというのも問題なのだ。漫画で読むような良からぬ妄想ばかりが広がって、わたしは慌てて打ち消す。朝からこの繰り返しだ。
今日は想いを告げる絶好の機会なのではないだろうか。この傷痕のことも全部話して、わたしが隠してきたことを打ち明けることができるのではないだろうか。誰の邪魔も入らないし、彼の部屋で告白というのも雰囲気がある。
わたしは瀧本くんの横顔を見る。瀧本くんなら、傷痕があるわたしでも受け入れてくれるのではないか。そんなもの関係ないと言って、笑って抱き締めてくれるのではないか。こんなに醜い傷痕があっても、わたしを愛してくれるのではないか。
瀧本くんがわたしの視線に気づく。わたしはつい視線を逸らした。
「なんだよ。何か言いたげだな」
言いたいことはある。伝えたいことがある。こんなところで言えるはずもないけれど。
「別に。瀧本くんにもわたしの緊張感が伝わればいいのになって思っただけ」
「何に緊張してんのかもわかんねえからなあ。友達の家に行くだけだろ、友達の」
無駄に友達を強調してくるものだから、わたしはじろりと瀧本くんを睨んだ。瀧本くんに何の効果もないことはわかっていた。
「詩織だって並木の家とかは行ってるんだろ? 友達の家が初めてってことはねえだろ」
「悠夏の家は遠いから行ったことない。友達の家も、高校入ってからは初めてかも」
「意外と行かねえんだな。まあ、遊ぶなら外行くほうがいいか」
「そうだね。誰かの家で勉強するのって初めてだから、なんだか新鮮」
「まあ、誰かと勉強するなら図書館のほうがいいけどな。部屋だと遊んじまう」
「今日はちゃんと勉強するよ。お母さんにも真面目な子って思われたいし」
「部屋で何してても母さんにはバレねえぞ。見に来ないから」
瀧本くんは笑いながら不穏なことを言う。勉強する気なさそうだなあ。わたしが思い描いてしまうことがますます現実味を帯びてきて、わたしは頭を振ってその妄想を追い出す。
二人で歩いていると、校舎から校門まではあっという間だ。校門をくぐり、いつもならわたしの家に向かう分かれ道で、いつもとは違う方向に歩いていく。今更ながら、わたしの家に向かう道は本当に帰り道ではなかったということを実感する。全然逆の方向だ。
こちらのほうは詳しくないけれど、大きい家が並ぶ住宅街だったはずだ。いわゆる高級住宅街とまではいかないものの、それなりに値が張りそうな一軒家が立ち並んでいる。この並びに瀧本くんの家があるのだろうか。いきなり大豪邸が出てきたらどうしようか。
「ねえ、瀧本くんの家って一軒家って言ってたよね? 大きいの?」
「それほどでもねえよ。周りにはもっと大きい家はたくさんある」
「周りが全部大豪邸だったとかいうのはやめてよ?」
「ねえよ。普通の一軒家なんだから、そんな緊張しなくても大丈夫だって」
瀧本くんは笑っている。いまひとつ信用ならない。大きな家に住んでいる人は、基本的には自分の家を大きいとは言わない。慣れてしまっているからだろう。お父さんが厳格な人だというのも、もしかしたらお金持ちだからとか、そういう事実が隠されているかもしれない。
目の前にすごく立派な家が見えてくる。いったい何人が住めるのかと思うくらいの建物と、それを守る大きな門。犬が走り回れそうなくらい広い庭には、様々な植物が育てられている。わたしにとっては異世界のような家だ。こんなところに住んだら広すぎて落ち着かない。
瀧本くんはその家の前で足を止めて、わたしに告げた。
「ここだ」
「えっ? こ、ここ?」
わたしは瀧本くんの顔と家の門を見比べる。緊張感が一気に増した。こんなところ、人生で一回入るかどうかじゃないか。こんな家に住んでいるなんて、実は瀧本くんは大金持ちの息子だったのか。全然そんな雰囲気ないのに。
わたしが慄きながら表札を見ると、表札には安田と書かれていた。
「嘘だよ。こんなすげえ家に住んでるわけねえだろ」
瀧本くんはさらりと種明かしをして、また歩いていく。わたしはその背を慌てて追いかける。
「ち、ちょっと! そういうの、ほんとにやめてくれる? びっくりするでしょ?」
「詩織の緊張を取ってやろうと思ったんだよ。ほら、ちょっとは楽になったか?」
「ならない。むしろ余計に緊張した」
「そうかよ。さらっと母さんに会ったら終わりなんだから、そんなに緊張すんなって」
「瀧本くんの部屋に入るのも緊張するの。男の子の部屋って初めてだから」
わたしがそう告白すると、瀧本くんはよくわからないと言わんばかりに首を傾げた。
「そういうもんか。俺は別に詩織の部屋でも緊張しねえけどなあ」
「瀧本くんとは違うの。わたしは繊細なの」
「はいはい。部屋に入ったら緊張しなくなるって。そんな特別な部屋でもねえしな」
ただの友人ならそうだろう。でも、瀧本くんはもうただの友人ではない。わたしにとっては、瀧本くんの部屋は特別な場所なのだ。そんなことは彼には言えないけれど。
大きな家が立ち並ぶ区画が終わったと思ったら、今度は気品のある白壁が特徴の区画に入った。一斉に建てられたのか、どの家も壁が真っ白に塗られている。形も似ているから、きっと同じ時期に施工されたのだろう。決して小さな家ではなく、家族数人で暮らしても不自由がなさそうな外観だった。それぞれに駐車場も付いている。
瀧本くんはその一画に入っていき、ある家の前で足を止めた。二階建てで、壁が白くて広そうな家だった。わたしはつい見上げてしまう。
「ここだ。今度は嘘じゃねえぞ」
「綺麗なお家だね。広そう」
「そうでもねえよ。中は散らかってるし、大して広くもねえ」
瀧本くんは家の鍵を開ける。わたしの緊張感が高まる。ついに着いてしまった。しっかりしろ、わたし。ある意味では受験のようなものなのだ。お母さんにわたしの人間性を判定してもらうのだ。どうか、どうか、うまくいきますように。
わたしは瀧本くんに続いて玄関に入る。二人立っても余裕がある玄関だった。靴も綺麗に整頓されていて、ゴミひとつ落ちていない。玄関から続く廊下も広くて明るく、全体的に開放感がある家だった。瀧本くんはこんな家で生活しているのか。
部屋の奥から中年の女性が出てきた。優しそうな顔立ちで、にこやかに微笑んでいた。
「いらっしゃい」
わたしは背中に金属の棒でも入ったのかと思うほど背筋が伸びていた。これが瀧本くんのお母さんか。まったく似ていない。雰囲気も、顔も、瀧本くんとはまったく異なっている。瀧本くんはお父さんに似たのだろうか。
「二場詩織です。たき……一葉くんとは、いつも、仲良くしてもらっていて」
「そう。一葉にもこんな可愛い女の子のお友達がいるなんて、知らなかったわ」
「だから言っただろ、不良ばかりと付き合ってるわけじゃねえんだって」
瀧本くんは自慢げにわたしを見せびらかす。そうだ、それが目的だった。瀧本くんにもこんな真面目そうな友人がいますよ、ということのアピールのために呼ばれたのだ。わたしは優等生の仮面を被り、穏やかに微笑んでみせる。
「詩織ちゃんが一葉の髪の色を戻してくれたんだって?」
「え? ええ、まあ、わたしはそのほうがいいんじゃないって言っただけですけど」
そんなことまでお母さんに言っているのか。いや、聞かれたのか。瀧本くんも適当に誤魔化せば良いのに、どうしてわたしに言われたから染めたと答えたのだろう。まさか、わたしが家に呼ばないとか言ったことまでお母さんに話していないだろうな。
「最近、一葉がよく勉強しているのも、詩織ちゃんのおかげなの?」
「ええと、そう、みたいです。大学もちゃんといいところ行けるようにって」
「一葉がそんなことを? 一葉、そうなの? 大学に行ってくれるの?」
「うるせえよ。詩織も余計なこと言うんじゃねえ」
瀧本くんはそのままお母さんの横を通って、階段を上がっていってしまう。瀧本くんの部屋は二階にあるのだろう。わたしをここに置いていかないでほしい。
「ねえ、詩織ちゃん。一葉は学校だと不良なの? 先生方から時々連絡があるの」
「見た目は悪いですけど、とても優しいですよ。あとはピアスさえ外してくれれば、先生方から何か言われることもないと思います」
「詩織ちゃんが一葉を変えてくれたのかしら。私やお父さんが何を言っても髪を染めようとしなかったのに、最近になって急に染めたでしょう?」
「どうなんでしょう。わたしは、一葉くんと一緒にいるだけですから」
自分が瀧本くんを変えたのだと言えるほど、わたしは自分に自信がない。事実、わたしがきっかけで髪を染めたのだから、わたしが変えたと言ってもおかしくはないかもしれない。でもそれを自分で言うのは気が引けた。お母さんが自由に判断してくれれば良い。
お母さんは本当に嬉しそうに笑っていた。とりあえず、大丈夫そうだ。わたしは瀧本くんが望んでいた目的を果たすことができているようだ。
「一葉をよろしくね。あの子、お父さんに反発して不良の道に行ったんじゃないかって心配で。詩織ちゃんが普通の男の子に戻してくれるなら、とても嬉しいわ」
「一葉くんは普通の男の子ですよ。ちょっと口が悪いだけで」
「おい、何してんだよ。詩織、早く来い」
瀧本くんが二階から降りてくる。お母さんの前だからだろうか、瀧本くんはいつもよりぶっきらぼうだ。それが微笑ましくて、わたしはつい表情を緩めてしまう。
「詩織ちゃんはオレンジジュースでもいいかしら。それとも、コーヒーのほうがいい?」
「母さん、俺がやるから。もういいだろ、詩織も早く上行けよ」
「はいはい。詩織ちゃん、上がって」
「はい。お邪魔します」
わたしは靴を脱いで上がり、お母さんに小さく会釈してから階段を上がる。瀧本くんの部屋は階段の正面だった。扉が開いているから、入って良いということだろう。
わたしは様子を窺いながら部屋の中に入る。大きなベッドと本棚、それに学習机。部屋の中央には折り畳み式の背の低いテーブル。とてもシンプルな部屋だ。余計なものは何もない。衣類は全部クローゼットの中に収納されているのだろう。男の子の部屋というと散らかっているようなイメージだが、とてもよく片付いていた。わたしが来るから片付けたのかもしれない。
どうするか迷って、わたしは折り畳み式のテーブルのところに座った。ここくらいしか居場所がない。まさかいきなりベッドに座るわけにもいかないし、机の前に座るのも違うだろう。
手持ち無沙汰になって、わたしは部屋の中を見回す。本棚には漫画と教科書が並んでいる。なかなか有名な漫画だ。瀧本くん、こういうの読むんだな。
わたしは気になって、その場所からベッドの下を覗き込んでみる。特に何かが隠されているような様子はない。やはり、ベッドの下というのは定番すぎて隠さないのだろうか。もっと巧妙に見つからないような場所に隠しているのだろうか。
「何してんだよ、他人の部屋で」
扉が閉まる音と同時に瀧本くんの声が降ってくる。わたしはびっくりして飛び上がりそうになった。いつの間に上がってきたのだろう。その手には紙パックのオレンジジュースがあった。
「漁りたかったら漁ってもいいが、詩織の部屋も漁らせろよ?」
「だ、だめだよ。女の子の部屋を漁るなんてどうかしてる」
「漁られて困るものでもあんのかよ。過激な漫画とか出てきそうだな」
「ないから。ないけど、漁るのはだめ。見られたくないものとかあるでしょ」
「ねえよ。いつか詩織の部屋に行く日が楽しみだな」
瀧本くんはジュースをテーブルの上に置き、自分もわたしの隣に座る。彼氏の部屋に来たような錯覚が酷い。わたしは必死に自分の心を落ち着かせる。
わたしとは対照的に、瀧本くんはいつも通りだ。緊張も何も感じられない。わたしを部屋に呼ぶくらいでは緊張しないのかもしれない。もしかして、女の子を家に呼ぶのは慣れているのだろうか。いやいや、お母さんの反応を見る限り、そうでもなさそうだった。
「母さん、大興奮だったよ。あんな真面目そうな友達がいるのねって」
「そう。それならよかった。作戦成功だね」
「さすが詩織だよな。完璧だったよ、お前を連れてきてよかった」
瀧本くんに褒められるのは嬉しい。わたしは特に何かしたわけではないのに、もっと褒めてほしくなってしまう。
「今だから白状するんだけどな」
「ん、なに?」
「最初は詩織を利用するだけのつもりだったんだ。母さんを安心させるために」
瀧本くんは言いづらそうに告げた。その内容が理解できなくて、わたしは聞き返す。
「どういうこと?」
「誰でもよかったんだ。真面目そうで、母さんを安心させられそうな奴なら。詩織なら優等生だし、見た目もいいし、家に連れていったら母さんも喜ぶと思った。だから近づいた」
始まりのあの日のことだ。瀧本くんは初めから今日のために、お母さんの不安を取り去るために、相応しい誰かを探していたのだ。そして、わたしを見つけた。わたしでなければならなかったわけではなく、目的に合致する子なら誰でも良かったのだ。
「目的を達成できればそれでよかった。ついでに可愛い女子と仲良くなれてハッピー、その時はそれくらいにしか考えてなかった。最初は本気じゃなかったんだ。仲良くなって目的を達成したら、あとはもうただの友人に戻るつもりだった」
瀧本くんの瞳にわたしが映る。瀧本くんの表情は真剣だった。
「でも今は違う。まさかこんなに好きになるなんて思ってなかった。お前のために髪まで染めることになるとは思ってなかった。勉強しようと思うなんて想像してなかった」
わたしは今、どんな顔をしているのだろう。この先を言ってほしいのか、止めてほしいのか、わたしの本心はどちらなのだろう。最後まで聞いてしまえば、わたしたちの関係は崩れてしまうかもしれないのに。わたしが無理やり最後の一歩を踏まないといけないかもしれないのに。
「詩織。俺は」
「待って。もうちょっとだけ、待って」
わたしは瀧本くんの言葉を止めてしまった。自分が何を言いたいのかはまとまっていない。けれど、その先を聞いてしまえば、わたしはもうこの温かい場所に留まることはできない。それはだめだ。わたしはまだ、ここを喪う覚悟もできていないのだから。
「一週間待って。わたしから言わせて」
「その一週間で何か変わるのか?」
「ええと、心の準備、というか、いろいろ」
瀧本くんは優しく笑った。仕方ないな、とその顔が物語っていた。
「俺が何を言おうとしたかはわかってんの?」
「わかってる、つもり。だから、先に瀧本くんに伝えたいことがあるの。それを知っても、瀧本くんが同じ気持ちでいられるのかどうかを知りたい」
「今は言えねえってこと?」
「ごめん。今はまだ、怖くて。あっ、でも、瀧本くん以外に好きな人がいるとか、二股かけてるとか、そういうのじゃないから」
わたしが慌てて補足すると、瀧本くんは笑いを噛み殺した。口元を押さえながらくつくつと笑い、わたしのほうを見る。
「そうかよ。じゃあ、一週間な」
「うん。ありがと。ちゃんとわたしから言うから、待ってて」
「待ってる間のアピールはあり?」
「いいよ。何のアピールかわかんないけど」
瀧本くんはわたしに近寄ってきて、わたしの肩を抱いた。わたしだって、もうこれくらいでは驚かない。瀧本くんの身体に身を預けて、その温もりを感じる。
そのまま、瀧本くんはわたしの瞳を覗き込んできて。
「俺が何したいかわかる?」
「キス、したいの?」
「そうだよ。お前がだめって言ってもする」
そして、瀧本くんはわたしの唇を塞いだ。わたしはその優しいキスを受け入れる。充足感と幸福感がわたしの心を満たしていく。柔らかい唇の感触を味わいたくて、わたしの意識が自分の唇に集中する。もっと、もっと、長くキスしてほしい。やめないでほしい。
けれど、キスは永遠ではない。やがて唇が解放され、瀧本くんの瞳に吸い寄せられる。
「詩織」
「なに?」
「待ってるから。一週間でちゃんと心の準備してこいよ」
「うん。頑張る」
わたしは瀧本くんに身を委ねる。いつまでも、この時間が続けばいいのに。
わたしの背中に傷痕なんてなかったら、何も躊躇うことなんてないのに。
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