干さなければならない

にのみや朱乃

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干さなければならない

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 俺の部屋の窓から見えるマンションでは、どの部屋もかなりの頻度で布団やシーツを干していた。ベッドの敷きパッドと思われるものやタオルケット、毛布、とにかく寝具を干すことが規約に定められているのかと思うほど、晴れた日にはベランダに寝具が並ぶ。それも一週間に一度ではなく、二日や三日に一度だ。特定の部屋なら不思議に思うこともないだろうが、見える範囲の十部屋が一様に干すのだから、何かあるのではないかと気になってしまう。

 誰かがその部屋を出て行っても、暫くして入ってきた新しい居住者が同じように寝具を干す。ベランダの陽当たりが良いのはわかるが、一人暮らし用のマンションで、入居する誰もがそんなに頻回に寝具を干すだろうか。少なくとも俺は違う。俺は数年間ずっと疑問を抱いていた。

 ある時、俺はそのマンションの部屋に越してきた女子大生と偶然仲良くなった。朝早くのジョギングが俺の日課なのだが、彼女も同じ時間帯に走っているようで、見かけたら挨拶するようにしていた。まあ、良くある男の下心というやつだ。なにせ彼女は明るくて可愛いし、地方から出てきたばかりのような純朴さもあった。独り身の社会人男性であれば、きっかけを見つけて可愛い女子大生とお近づきになりたいと願うのは世の常だろう。まさかあのマンションの住人とは知らなかったが。

 経緯はさておき、俺は彼女、エリカと連絡先を交換することに成功し、朝は一緒にジョギングするまで仲を深めた。その前後で他愛のない話をすることも増えた。
 エリカは近くの大学の一年生だった。慣れない都会での生活に不安を覚えていたところ、俺が彼女の地元のように気軽に挨拶してきたため、むしろ俺に親しみを感じてくれたようだった。大学で親しい友人ができるよりも先に俺と話すようになったこともあり、俺にはかなり心を開いてくれていた。俺が無理のない範囲で連絡を欠かさなかったというのも良かったのかもしれない。

 ただ、そこまで仲良くなったとしても、ベランダの洗濯物を話題にすることは躊躇われた。エリカも同じようにシーツや敷きパッドを頻回に干しているのは、彼女の部屋の位置がわかってからすぐ確かめたことだ。自分の洗濯物を遠目に見られていると知られれば良い気持ちにはならない。だから俺はずっと黙っていた。その時の俺にとっては、エリカと仲を深めるほうが優先だった。


 その日は暑い夏の金曜日だった。残業を終え、午後十時を過ぎてから家に帰ろうとすると、エリカが何も持たずに俺のマンションのエントランス近くで立っていた。肩にかかる髪は濡れ、部屋着にするようなTシャツとハーフパンツ姿で、俺を見つけると駆け寄ってきた。その目は涙を流したせいか赤くなっていた。

「ヒロさん!」

 俺の名前を呼び、人目も気にせず俺に抱きついてくる。エリカはいきなりこんなことをするような子ではない。俺は動揺を隠しつつエリカの細身を受け止める。髪からは風呂上がりのような芳香が漂っていた。

「た、助けてください! 部屋に、わたしの部屋に……!」
「どうしたんだ? 落ち着けよ」
「あの、わたしの部屋に、なんか…変なものが……っ」
「部屋? ああ、とりあえず俺の部屋で聞くよ、ここじゃ暑いだろ」

 部屋に虫でも出たのだろうか。エリカは一人暮らしだし、この時間だと他に頼る相手もいなかったのかもしれない。これはさらに仲良くなる好機だ。そんなことを考えながら、エレベーターに乗って自分の部屋までエリカを連れていく。エリカは小刻みに震え、俺の腕にしがみついていた。尋常でない怯え方だった。

 いつか来る日のために、俺は少し広めのワンルームの整理整頓と掃除は欠かさなかった。日頃の備えが役立って何よりだ。俺は悠々と自分の部屋にエリカを迎え入れる。部屋の電気を点け、明るいところで見ると、やはりエリカは外に出るような格好ではないことが窺える。財布や携帯電話すら持っていないのだ。出てきたというよりは、逃げてきたというほうが正しい。

 俺の部屋まで来ると、漸くエリカは落ち着きを取り戻した。不安そうに窓の外を見て、無言でカーテンを閉めてしまう。エリカの部屋は電気が点いたままだった。

「あ、あの、ヒロさん、泊めてくれませんか」

「は? 今日?」
「今日です。お願いします、もうあの部屋に帰りたくないんです」

 狼狽える俺に、エリカは縋りついて懇願する。一瞬もしかしてエリカもそういう下心が、などと疚しい妄想がよぎったが、その青ざめた顔は演技で作れるものではなかった。何か事情があるに違いない。

「まあ、落ち着いて。何があったのか教えてくれよ」

 俺は冷静さを欠かさないように振る舞う。エリカをベッドに座らせ、冷蔵庫から紙パックのオレンジジュースを持ってきて差し出す。エリカは俯いたままそれを受け取るが、口をつけようとしなかった。

「……何か、いるんです」

 エリカは小声で呟いた。エリカの手は小刻みに震えていた。

「何かって?」

 俺が麦茶を持ってエリカの隣に座ると、エリカは俺に身を寄せてくる。彼女の息は不規則で、つい先程の恐怖を思い出しているようだった。エリカが触れている腕からその恐怖が徐々に俺にも伝染してくる。

「もともと、あのマンションはすごく家賃が安くて。駅近で、陽当たりも良くて、ワンルームだけどそれなりに広くて、おかしいなって思ってました。でも事故物件じゃないって言われたし、それで住み始めたんです。そしたら、やっぱり何かいるんです」

「何か……って?」

「帰ってきたらベッドが濡れてるんです。人が寝ていたみたいに。そのまま放っておくと、次はベッドから玄関に向かって黒い足跡みたいなのが残ってて。シーツとかタオルケットとか、とにかくベッドで濡れたものを外で干すと、またベッドが濡れるところに戻るんです」

 俺は背筋が寒くなるのを感じていた。あのマンションの住人がこぞって寝具を干しているのは、もしかしてエリカと同じことを体験したからではないのか。異常とも言える頻度で寝具を干すのは、何かの段階をリセットするためなのではないか。
 もはやこの一連の流れをエリカの演技だと疑うことなどできなかった。エリカは間違いなく本当のことを話しているのだ。そうでなければ、あのマンション全体で、居住者が変わってもやたらと寝具が干される原因を説明できない。彼らはその何かを避けるために干さなければならないのだ。

 俺はコップの中の麦茶を飲み干す。冷たい麦茶が喉を通り、俺の火照った身体を冷やしていく。この部屋の話じゃない。俺には関係ない、ただの怖い話だ。俺は自分にそう言い聞かせる。

「干さないと……どうなるんだ」

「干せなかったんです、今日。昨日は足跡があったから、あぁ嫌だなって思いながらさっき帰ったら、黒い足跡が残ってるだけで。そこから先に進んでなかったんです。だから、別に何もしなくていいんだって思って、シャワーを浴びました」

 エリカは自分が薄着だということも忘れ、俺の腕を強く抱き締める。けれど、俺もエリカの柔肌の感触を愉しむ余裕などなかった。

 向かいのマンションの話なのだ。今、カーテンの向こうに見えるエリカの部屋から、何かがこちらを見ているとしたら。或いは、エリカに憑いてきているとしたら。俺は自分の呼吸が速くなるのを感じていた。もしかしたら安易にエリカを連れ込むべきではなかったのではないか。

「着替えて、洗面台で髪を乾かそうと思ったんです。そしたら、お風呂のドアに手形が付いたんです。真っ黒な手形が、ばん、って」
「洗面台ってことは、お風呂場ってすぐ真横……だよな」
「はい。えっ、て思ったら、鏡に黒い人影みたいなのが映ってて、もうわたしの真後ろにいて」

 エリカは幻影を振り払うように首を横に振った。俺は無意識のうちにエリカの肩を抱く。エリカを落ち着かせようとしたのではなく、俺が不安だったのだろう。それほど生々しい話だった。部屋の間取りは知らないから自分の部屋で想像してしまう。

「それで、そのまま逃げてきたんです。ぶつからなかったし、絶対人じゃないんです。何なのか全然わかんないし、怖いし、どうにもならなくて、それで……」
「だからそんな格好で俺のマンションの前にいたのか」
「ヒロさんしか思いつかなかったんです。スマホも無いし、友達はこんな話信じてくれないだろうし、ヒロさんなら助けてくれるんじゃないかって」
「いや……うん、とりあえずさ、無事でよかったよ」

 俺は努めて笑顔を浮かべ、もう一度エリカを抱き締める。エリカは涙目になりながら俺の胸に顔を埋めた。

 どうする。俺はエリカを慰めながら思考を巡らせていた。この部屋は本当に安全なのだろうか。俺はこれまで心霊的な体験はゼロだ。何をどうしたらいいのか全くわからない。その何かがエリカを狙っているなら、あの窓に黒い手形が付いてもおかしくないのだ。正体も目的もわからないのに、一体どうしろというのだ。
 しかし、エリカを見捨てるわけにはいかない。エリカには俺しかいないのだ。下心は一先ず捨てるとして、どうにか助けてあげたい。俺の欲情を晴らすのはその後だ。そもそも俺だってそんな気分になれない。

「お願いします、泊めてください。もう外に出るのも怖いんです」
「いいよ、泊まっていきなよ。何もないけど」

 俺が承諾すると、エリカの瞳から涙が流れていく。

「あ……ありがとうございます、ヒロさん……ごめんなさい……」
「気にするなよ。俺に任せて、エリカはちょっと休んだほうがいい」
「ヒロさん、どうにかできるんですか?」
「いや、正確には俺じゃないんだけど。知り合いに詳しい奴がいるから話だけ聞いてみようかと」

 こういう時に都合良く出てくるのが霊感のある友人だ。大学時代から仲が良い友人の中に、奇妙なほど心霊関係に詳しい奴がいる。そいつから貰った気味が悪い日本人形や御守り紛いの木札は今でも捨てられず飾ってある。何が楽しいのか、そういう怪しい物を集めに旅行し、お土産と称して俺の家に置いていくのだ。今だからこそ、そいつとの縁を切らなかったことが間違いでなかったと思える。
 俺はスマホを操作し、そいつの連絡先を探す。寝るにはまだ早い時間だ。電話して、事情を話して、どうすれば良いか訊くくらい許されるだろう。呼び出し音が鳴る。
 俺がスマホを耳に当てた時、それは起こった。

 あの御守り紛いと馬鹿にしていた木札が何かに弾かれたように吹き飛び、床に落ちてからんからんと乾いた音を立てたのだ。

「ひ……っ!」

 エリカが短い悲鳴を上げて身を強張らせる。俺も額から俄かに汗が噴き出す。どちらからともなく手を握り合う。
 何だ。窓はどこも開いていない。エアコンの風が当たる位置ではない。あの木札が倒れる要素は無いのだ。しかも、明らかに何かによって飛ばされたように見えた。

「なんで? なんで倒れたの? ヒロさん、ねえ!」
「落ち着け! 大丈夫、大丈夫だから!」

 俺の声は自分でも虚しく聞こえた。何が大丈夫なのかわからない。何が迫っているのかもわからないのだから。
 呼び出し音が無限に響くように感じる。自分の荒い呼吸音だけが聞こえる。早く。早く出ろよ。何してんだよ。もう遅いかもしれないんだぞ。

『もしもし。なんだこんな遅くに』
「ナオか? 頼む、助けてくれ!』
『あ? ん、何だ珍しい。お前があたしに助けてーだなんて』

 電話口の向こうの女友達は呑気に応える。俺は玄関や窓に素早く目を配り、どこも開いていないことを確かめた後に木片に視線を戻す。

「お前、霊的なものに詳しいよな? 助けてくれ、何かいるんだ」
『はぁ? そんなものいるわけないだろお前の部屋に。あたしが供えた御札と人形があるんだから』
「いやそれが何なのか知らないけど、木片がいきなり飛んでったんだよ! 何て言うか、そう、叩き落とされたみたいな」
『御札が? ……人形は無事か』

 不意にナオの声が低くなる。どうやら俺の焦りを察してくれたようだった。
 俺は慌てて人形に目を移す。日本人形は俺が毎朝見たままだった。相変わらず無表情で、髪は長く垂らされ、美しい赤の着物を着ている。

「何も変わってない。なあナオ、何なんだよあの木札は? 何でいきなり飛んでったんだよ!」
『落ち着け、人形が無事なら問題ない。ところでお前、一人じゃないな?』

「は? ああ、もうひとりいるけど、それが何だよ」
『二人か? 男か?』

 ナオに言われて俺は急いで真後ろを見る。当たり前だが見慣れた白い壁しかない。玄関にも、カーテンが閉まったままの窓にも、人影は無い。当然だ、俺の部屋は三階なのだ。そう易々と登ってこられる高さではない。

 男。電話でわかるということは、俺以外の男の声がしたということだ。この部屋には俺とエリカしかいないのに、俺以外の男がどこにいるというのか。やはりもうこの部屋に何かが入ってきてしまったのではないか?

「あ、あの、ヒロさん、大丈夫なんですか?」

 俺の様子が急に変わったからか、エリカがますます不安そうに俺に尋ねる。
 俺は急に使命感に駆られた。この子を守らなければいけない。俺を頼ってきてくれたのだ。幸い、ナオを信じるなら、あの日本人形が動かないうちは問題ないのだ。つまり今はまだ安全。俺は男として、歳上として、平常心を欠いてはならない。

 俺はエリカの潤んだ瞳を真っ直ぐ見つめて、肯いた。

「大丈夫。心強い奴に電話が繋がったから」
『女か。じゃあ、あたしが聞こえてるこの男の声が件の霊だな』

 ナオは平然とそう言う。ナオがあまりに落ち着いているからか、俺も多少冷静さを取り戻しつつあった。エリカを助けないといけないと気づいたからかもしれない。

「……俺には、何も聞こえない」
『ああ、それで良い。近いけど部屋にいるわけじゃないから安心しろ』
「この部屋は大丈夫なのか? あの木片は何で飛んでったんだよ」
『だから人形が無事なら問題ないと言っている。御札が飛んでいったのは、おそらく件の霊がお前の部屋に入ろうとして、それを防いだからだ』

 俺は危うくスマホを取り落としそうになった。既に一度侵入しようとしているということは、完全に俺たちが狙われているということだ。エリカがあの部屋からここまで連れてきてしまったのだ。ナオから貰った木片と日本人形が無ければ、今頃俺もエリカもその男の霊の餌食になっていたことだろう。

 だが、木片が飛んでいってから部屋には特に何も変化は無い。日本人形は変わらず悠然と佇んでいるし、ナオが聞こえるという男の声も俺には感じ取れない。もしかしたら大丈夫なのかもしれない。そう思った矢先だった。

 ばん、と窓を叩く音がした。エリカの肩が跳ねたのだから間違いない。カーテンで覆われた向こう、ベランダには何かがいるのだ。今にも泣き出しそうなエリカを抱き寄せ、俺はナオに助けを求める。

「ナオ! 窓が叩かれた!」
『煩いな。怖いなら人形を抱きかかえて二人でベッドで丸くなってろ。今から行くからもう少し状況を説明してくれないか』
「来てくれるのか? 人形持っていればいいんだな?」
『近いほうが人形の効果が上がるのは間違いない。で、お前の女が何をして、どうしてお前の部屋にいる?』
「ああ、ちょっと待ってくれ」

 俺はまず日本人形を取りに行く。もはや俺が縋れるのはこれしかない。これまで散々気味悪がってきたが、今はその無表情に神々しささえ感じられた。日本人形にはまだ何の変化も無い。

 エリカも何となく話の流れは理解できているのか、俺の代わりに片腕で日本人形を抱き締めてくれた。もう片方の手は俺の手を握り、ぴったりと身体をくっつけてくる。その震えは俺にも伝わる。俺の震えもきっと伝わっているのだろう。

 俺はエリカから聴いたばかりの話をナオに説明した。帰ったら何故かベッドが濡れているということ。濡れた寝具を干さなければ、玄関に向かって黒い足跡が残されること。今日はその次の段階で、黒い手形と、鏡に黒い人影が映ったこと。エリカはそこから逃げてきて、俺がこの部屋に匿ったこと。あとは、おそらくマンション全体で同じようなことが起きているのではないかという俺の想像も。時々相槌を打ちながら、ナオは黙ってその話を聴いていた。
 説明が終わると、電話の向こうから溜め息が聞こえた。

『……なるほど。あたしが着くまで耐えろ。何とかしてやる』
「ど、どうにかできるのか?」
『今日に限るなら、できる。あたしの指示を良く聴いて待ってろ。お前の女にも聞こえるようにできるか』

 ナオの声は胸に強く響いた。電話越しでも恐怖を幾分か鎮めてくれる。俺はスマホの設定をスピーカーに変えてナオの指示を待つ。

『まず、何があってもベッドから降りるな。手も足も出すな。窓が割れようがドアが破られようが、絶対にだ』
「ベッドが安全なのか? どうして?」
『良いから黙って従え。それから、お前の女の服の中、腹付近に御札を持って、お前の女が人形を抱け。お前はその女を後ろから抱け。良いか、全てベッドの上でやるんだ』
「わかった、すぐやるよ」

 言いながら、俺はまず吹き飛ばされた木片を回収する。そこでもう一度窓が音を立てた。何かが当たったような音ではなく、確実に人が叩く音だった。俺は慌ててベッドの上に逃げる。カーテンを閉めていなかったら今頃どうなっていただろうか。明日あのカーテンを開ける恐怖に打ち勝つことはできるだろうか。
 俺はエリカに木片を渡し、ナオに次の指示を促す。日本人形にはまだ何の変化も無い。

「できた。あとはどうすればいい?」
『人形はまだ無事か?』
「まだ何も変わってなさそうだ。これ、どうなるんだ?」
『直に分かる。余裕があるなら湿気っていない塩を持ってこい。女は動くなよ』
「湿気ってない塩? 新品の塩なんかないぞ」
『炙る余裕は無いな。じゃあ我慢しろ。あとは祈るしか』

 その時、ナオの声に雑音が混ざった。テレビの砂嵐のような音。ナオはまだ何か話しているようだったが、雑音が煩くて意味のある言葉には聞き取れない。

 窓が一際大きな音を立てる。窓枠まで振動しているのがわかる。次は窓ガラスが割れるのではないか。あのガラスが割れたら。次々と嫌な想像が膨らみ、俺はスマホに向かって叫ぶ。

「ナオ! おい、ナオ!」

 遂には通話が切れてしまう。画面には通話終了の文字が表示され、圏外になってしまっていた。電話以外の手段すら封じられてしまった。
 こうなればナオを待つしかない。信じるしかない。俺は天を仰ぎたい気持ちだった。

「ヒロさん、電話……切れちゃったんですか……?」
「切れた。圏外になってる」
「ど、どうしよう、ヒロさん、逃げたほうがいいんじゃ……!」

 エリカは半ばパニックに陥り、ナオの禁を破ってベッドから降りようとする。俺はエリカの細身を抱き締めて引き留めた。

「信じてくれ。ナオが大丈夫って言ったんだ、待つほうがいい」
「でも、ナオさん間に合うんですか? 窓、また叩かれてるし……っ、きゃあああぁぁっ!」

 窓が割れた。エリカは悲鳴を上げ、俺の腕の中で硬直する。俺は声すら出すこともできず、ただエリカを抱いていた。もはや俺の精神状態を保つためにエリカの温もりを利用していた。

 外から入ってくる生温かい風でカーテンが靡く。分厚いカーテンの向こうは見えない。しかし、俺たちを守ってくれていたはずの窓は粉々に砕け、床に散らばっていた。そのガラス片に黒い足跡がひとつ残る。
 入ってきた。俺には人影が見えていないが、足跡ははっきりと残った。間違いなく、そこに居るのだ。エリカが見たであろう何かが。

「あ、足跡……そこ……」

 エリカも足跡の存在に気づいてしまった。一歩だけだった足跡がまたひとつ増える。ベッドからまだ距離はあるが、時間の問題だろう。

 逃げるという選択肢は失われた。俺とエリカはこの安全地帯を信じてナオを待つしかなくなった。エリカは俺に背中を預けて日本人形を抱き締める。じっとりと湿った背中は、どちらの汗によるものかわからない。

 俺は気づいた。日本人形の長い髪がじりじりと短くなっていた。まるで火に炙られたように毛先が荒れ、少しずつ肩に近づいていく。人形が無事なら問題ない。それは裏を返せば人形が壊れたら無事が保証できないということだ。短くなっていく髪が俺たちの残り時間を示しているようで、俺は自分の鼓動が速くなるのを感じた。

 足跡はひとつ、またひとつとゆっくり増えていく。じりじりとベッドに近づいてきている。ばん、と大きな音が部屋に響いて、窓から少し離れた壁に黒い手形が浮かび上がる。まるで存在を主張されているかのようだった。自分はここに居るのだと。

「あ……ぁっ…ヒロ、さん、そこに……っ!」

 俺にはもうエリカを気遣う言葉が思い浮かばなかった。大丈夫だと、安心しろと、言ってやりたかった。そんな無責任で軽い言葉すら口から出ていかない。俺にできるのは、ただナオに言われた通りにエリカを腕の中に捕らえておくだけだった。

 見えないけれど、確実に近づいてくる恐怖。もう逃げることはできない。俺とエリカは檻に入れられているのも同然だ。眼前の恐怖がこの檻を越えられないとも限らないのに。頼みの綱の人形を祈るような気持ちで見る。もう髪の毛は肩より僅かに下まで短くなっていた。
 ばん、ばん、と壁に手形が付く。足跡がどんどん増えていく。足跡は確かにベッドを目指していた。手を伸ばせば届く距離まで、あと少し。嫌な汗が背中を流れていく。呼吸が荒くなり、瞬きすらできなくなる。

「うわ……っ!」

 部屋の電気がいきなり明滅し、消えてしまった。急に部屋全体が暗闇に閉ざされる。足跡だけでも見えていた恐怖の存在が闇に同化してしまう。至近距離まで迫っているのか、まだ余裕があるのか、それすらもわからなくなってしまう。

 ばん、と音がしたのは、ベッドのすぐ下。足を下ろす位置。

 すぐそこに、居るのだ。

「いやあああぁぁっ!」

 エリカの悲鳴が部屋中に響き渡った。エリカはぐったりと俺に寄りかかってしまう。あまりの恐怖で気を失ってしまったのだ。

 幸か不幸か、俺はまだ失神していない。エリカを守れるのは俺だけだ。消えかけた使命感が俺を奮い立たせる。ナオは絶対に来てくれる。それまでどうにか耐えるんだ。
 俺はベッドの上に投げ出したスマホを手に取る。圏外のままだから外と繋がることはできない。俺が探すのは写真だ。ナオから送りつけられた意味不明な写真の中に、何か役に立つものがあるかもしれないと思い立った。

 スマホを照明代わりに日本人形の様子を見る。髪は肩口で止まっていた。しかし、知らないうちに右手が無くなっていた。取れたというよりは、強い力で引き千切られたようだった。俺たちの身代わりになってくれたのかもしれなかった。

「おぉ……う、あぁ……」

 何だ、今の呻き声は。俺は思わずスマホから顔を上げる。視界は相変わらず暗闇が占めていた。

「うう、おぉ……ああぁ……」

 呻くような低い男声がしっかりと俺の耳に届く。なぜ急に声が聞こえ始めたのだろうか。それほどまで近くにいるということなのか。或いは、日本人形の力が弱まっている証拠なのか。いずれにせよ俺にとって良い話ではない。

 再びベッドの下を叩く音が聞こえる。それも、間隔が短くなっている。苛立ちを表すように、何度も何度も同じ場所を殴打しているように感じる。
 ベッドから何かが落ちる。それが日本人形のどこかのパーツだと察するのに時間はかからなかった。また一歩、何かが俺たちに近づいたのだ。
 探せ。探すんだ。何でも良い、この場を切り抜けるための何かを。

「おぉ……う、うう、ああぁ……!」

 ベッドが揺れる。地震ではなく、掴んで揺らされたように。俺たちを安全地帯から落とすつもりなのだ。日本人形の右足が取れ、俺の手元に転がる。

「う、うおおおぉっ!」

 俺は日本人形の右足を手に取り、闇雲に投げつけた。からんと空虚な音を立てて部屋のどこかに転がっていく。当たったのか、当たったところで意味があるのかもわからない。
 けれど、ベッドの揺れは止まり、男の呻き声も止んだ。部屋に静寂が戻ってくる。暫く待ってみても、俺の呼吸音だけが唯一の音だった。

 終わったのか? まさか、半ば自暴自棄になった行動が功を奏したのか?

 俺はスマホを見る。いつの間にかだいぶ時間が経過していた。日本人形は両手と右足を失い、左足がぽとりと落ちた。今朝と比べると無残な姿に変わってしまっていることだろう。

 大きく息を吐く。数分前まで幾度となく響いていた音はすっかり止んでいた。俺は祈るような気持ちでエリカの身体を抱く。
 頼む。どうか、このままナオが来てくれ。この恐怖からもう解放してくれ。

 どれくらいの間、俺は身動きせず待っていたのだろう。エリカの呼吸を聞いて生を感じていた。眠っていたとは思えないが、かなり長い時間押し黙っていたように思う。
 俺を現実に引き戻したのはインターホンの音だった。それに引き続いて聞こえたドアを開けようとする音。鍵がかかっているため外から開けることはできない。

「お前は馬鹿か! 何故鍵を開けておかない!」

 外からナオの怒鳴り声が微かに入ってくる。
 ナオが着いたのだ。この恐怖から解放されるのだ。俺は何も考えずベッドから降りようとして、既のところで思い止まった。

 鍵を開けるにはベッドから降りなければならない。つまり自ら安全地帯を捨てなければ、俺の安全は手に入らない。大きな矛盾だ。ベッドから降りた瞬間、息を潜めていた何かが牙を剥く可能性は高い。俺は鍵を開けることができるのか?

 どうする。待っていてもナオはここに来られない。かと言って、日本人形を手にして動けばエリカの身が危険に晒される。そもそも日本人形があとどのくらい俺たちを守ってくれるのかわからない。
 俺は暗闇の中を見渡す。多少目が慣れたからか、壁のあちこちに手形が見えた。しかし俺が探している何かの姿は依然として見つからない。諦めて出ていってくれたのならこの上ない幸運だが。

 行くしかない。俺は日本人形の千切れた左足を握り締める。僅かな効果を信じて。
 俺はそっとエリカの身体をベッドに横たわらせ、ベッドの上に立つ。玄関までは走れば二秒もかからない。唾を飲み込む。やはり部屋の中に動くものは見当たらない。

 ベッドから飛び降りる。床に降りると不自然な滑りを足の裏に感じた。それが何かを考えることもなく、俺は走り出そうとした。

 だが、何かに足を掴まれた。強い力で引っ張られ、俺は転んでしまう。

「おお、ううぅ……あああ……っ!」
「うわああああぁっ!」

 目の前に現れたのは真っ黒な男だった。頭は右半分が崩れ、手も足もどろどろに溶けているように見えた。おそらくベッドの真下に潜んで俺を待ち伏せていたのだ。俺の足首を掴み、ベッドの下に引きずり込もうとしてくる。
 俺は無我夢中で男の手を殴りつけた。握り締めた日本人形の足が手の中で崩れる。その代わりに男の手が離れた。俺は足を縺れさせながら玄関へ走る。

「うう、ううぅ、おおぉ……!」

 呻き声が追いかけてくる。ばん、ばん、と壁を叩く音が真後ろから響く。

 俺は鍵に手を伸ばし、開ける。そこで再び足を引かれ、転倒した。硬い床に全身を打ちつけてしまう。恐怖が勝り、痛みは感じなかった。

 ドアが開く。外の光と風が、ナオの姿が、俺には神の救いに思えた。
 間髪を入れず俺の上から水が降り注いだ。バケツで思いきり浴びせるような量の水が俺の全身を濡らす。

「ヒロ! 大丈夫だな、お前は後回しだ!」

 ナオはそう言って、床に倒れたままの俺を無視して土足で部屋に入っていく。手にしたペットボトルから水を撒きながら、ナオは恐れることなくどんどん進んでいく。ナオを出迎えるように、今まで力を失っていた電気が点灯した。
 良かった。助かったのだ。俺はじわりと広がっていく安堵感を噛み締める。起き上がり、荒らされた室内を振り返る。

「なんだ、これ……」

 愕然とした。部屋の至るところに赤黒い手形と足跡が残されていた。白かった壁はその面影もなく、綺麗にしていた床も赤黒く汚されてしまっていた。それが泥なのか、煤なのか、それ以外の汚れなのか、俺にはわからない。

「……逃したか。まあ、良しとしよう」

 白い袴姿のナオは悔しそうに呟く。右手には蝋燭と不思議な装飾の燭台、左手には透明な水らしき液体が入ったペットボトル、腰には予備のペットボトルらしき物を携えている。落ち着いて見るととても怪しい格好だった。
 ナオは燭台を窓辺に置き、俺に微笑みかける。

「間に合ったようだな。あたしに感謝しろ」
「あ、ああ、ありがとう。助かったよ……本当に」
「女も無事だ。折角可愛い女を連れ込んだのに、何もできなくて残念だったな」
「今そんなこと言われても何も返せねえよ……」

 俺はふらつきながらリビングに戻る。エリカはまだ目を覚まさないが、気を失っているだけのようだった。
 エリカの手の中の日本人形は満身創痍だった。着物はところどころ破け、髪は肩よりも上まで焦げ、着物から手足は見えなくなっていた。文字通り、身を以て俺とエリカを守ってくれたのだ。エリカの服の中の木片も、きっと見るも無残な容貌になっていることだろう。

 とにかく、俺は助かった。人生最悪の夜を乗り越えたのだ。
 夢でないことを示すように、掴まれた俺の足首にははっきりと跡が残っていた。


   *


 衝撃の夜から二か月。大きく変わったことが二つある。

 まず、俺の家が変わった。さすがにもうあの部屋には住みたくない。あれだけ汚されてしまったのだから退去時の清掃費用を気にしていたが、退去も引っ越しも、新たな家の敷金礼金も、新調した家具の費用も、エリカの部屋の管理会社が支払ってくれた。さらに俺の新しい家の家賃交渉まで済ませてくれた。全て所謂口止め料だ。

 エリカの部屋、いやあのマンション自体が呪われている。管理会社はそれを知っていながら、居住者に告知していなかったのだ。俺がエリカを連れて文句を言いに行った時、最初はしらばくれていたが、ナオから聞いた内容を具に伝えたところ、手のひらを返すように平謝りされた。

「あの男は寝たきりになって布団の上で死んだ爺さんだ」

 それが、ナオが語った霊の正体だった。何かの病気で寝たきりになった老人が、自分を捨てて逃げた息子に対する恨みを抱いたまま、布団の中で餓死したそうだ。見つかったときには汚物に塗れ、骨と皮だけになり、一部は腐っていた。そんな痛ましい事件が、昔あのマンションの一室で起こったらしい。その息子は今でも見つからず、独居老人の孤独死として処理された。老人が寝ていた布団には老人の体液が染み込み、床まで汚すほどだったという。

 あとはナオから聞いた話だが、あの霊は恨みを晴らすことができず、あのマンションに魂を縛りつけられてしまった。自分より幸せに暮らす居住者が憎く、同じ目に遭わせてやろうと機会を窺っているようだ。あの日エリカが自室から逃げられないか、俺が鍵を開けられなければ、きっと二度と起き上がることはできなかっただろう。ナオはそう言っていた。

 寝具を干さなければならなかった理由は、今でも謎だ。ナオもそれに関しては首を横に振った。寝具を干すことで、霊の力の源を浄化できたのかもしれない。ただ元凶を絶ったわけではないため、毎日のように寝具が湿ってしまうのではないか。そう説明するナオの顔は、自身でもあまり納得していないようだった。

 まあ、俺にとっては過ぎたことだ。俺もエリカもナオの紹介で正式なお祓いを受け、あの霊の呪縛からは逃れることができた。手形や足跡で汚れたものはもうどうにもならないが、綺麗に汚れを落とせたとしても、正直気味が悪くて捨ててしまっただろう。結局、殆どの持ち物を買い替えることになってしまった。


 そして、大きく変わったことはもうひとつある。エリカだ。

「ヒロさん、明日お休みでしたっけ?」

 夜、エリカはまだ新しいセミダブルベッドの上で、うつ伏せに寝転びながら俺に尋ねる。

「ああ、うん」
「ふふ。これから何します?」
「明日講義あるんだろ。早く寝たほうがいいんじゃないの」
「午前は空いてるんです。だから今日は夜更かしできますけどぉ……どうしましょうか?」

 まだあどけなさの残る黒瞳が俺を見上げる。俺は笑い、読んでいた本を閉じた。

 あの日以来、エリカは俺と一緒に住んでいる。当然エリカの部屋も汚されてしまったし、ナオが言うには霊そのものはマンションを壊さない限りどうにもできないので、あの部屋に帰るという選択肢は無かった。それで、俺が暫くホテル住まいすることになったと告げたら、エリカは付いてきたのだ。一人で住むのが怖くなってしまったのか。その時はそう思ったが、後で訊いてみれば、ただ単に俺と離れたくなかっただけだった。新しい部屋もエリカと住む前提で選び、今に至る。詰まるところ、俺もエリカもあの夜の前からお互いに好き合っていたということだ。

 最初は学生と住むなんて大丈夫かと不安だったが、エリカは良い意味で純粋だった。遊んで夜遅く帰ってくることもなく、俺のために積極的に家事をこなし、俺を支えてくれている。もはやエリカのいない生活は考えられなくなってしまっていた。


 ということで、俺はあの霊を恨むことはできない。
 あの一夜のおかげで、俺は可愛い恋人を手に入れたと言っても過言ではないのだから。


   †
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