魔女化する病

にのみや朱乃

文字の大きさ
上 下
1 / 10

1. まだ平和だった頃

しおりを挟む
 爽やかな秋の風。雲ひとつない青空。

 誰にも邪魔されることない学校の屋上で、志方天翔は寝転びながら秋を感じていた。
 気怠くなる夏のじめじめとした暑さが終わり、家から出たくなくなる冬の厳しい寒さはまだ来ない。夏と冬の間、秋こそがもっともよい季節であると天翔は思っている。特に何かをするわけではないが、何かをするには絶好の季節だ。

 しかし、現実では、放課後に空を眺めて時間を潰している。この時間に何か新しいこと、自分のためになることをすればよいとは思うものの、実行には移せなかった。そう、やる気が出ないのだ。秋の風を浴びていると、このまま眠ってしまいたくなる。

 何か、面白いことでも起きればいいのに。

 天翔は心の中でそう呟いた。もう何度目かもわからない。何か、自分の人生を左右するような大事件が起これば、こうして暇を潰すこともなくなるだろうに。

 屋上の金属扉がきいいと音を立てて開く。誰か来たようだった。屋上は本来立ち入り禁止なので、ここにいることが教師に知られると問題である。天翔は身体を起こし、来訪者のほうを見た。
 来訪者は、肩にかかる焦茶色の髪を風に揺らしながら、天翔のほうに駆けてくる。天翔は来訪者を視認すると、またその場に寝転んだ。教師でも、愛の告白をしに来た生徒でもなく、天翔がよく知っている学生だった。

「てんちゃん、こんなところにいたんだ。探したよぉ」

 来訪者、美田原悠未は文句をつけるように言った。それから寝転んでいる天翔の腕を引っ張り、強引に起き上がらせようとする。やむなく、天翔は半身を起き上がらせた。

「なんだよ」
「宿題教えて。数学の宿題が全然わかんないの」

 悠未はこの高校の一年生である。三年生である天翔からすれば、一年生の数学なら問題なく解くことができる。これまでもこうして悠未に頼られることは幾度となくあった。
 二人はいわゆる幼馴染である。家は隣同士、幼い頃からずっと一緒に生活してきた。さすがに高校になったら離れるかと天翔は思っていたが、悠未が同じ高校に進学することを選択した。だから、二人の関係はいまだに続いている。悠未は兄のように天翔を慕っていた。天翔も、悠未を無下に扱うことはしなかった。

 悠未はまだ天翔の腕を引き、立ち上がらせることに成功する。ぼんやりと空を眺める時間を邪魔された天翔は、面倒臭いという感情を前面に押し出して、言った。

「友達に聞けよ。誰かいるだろ」
「いいじゃん、てんちゃんの復習にもなるでしょ? ほら、早く帰ろ?」
「わかったよ、わかったから引っ張るな」

 いつもこうやって悠未のペースに乗せられるのだ。天翔は置いてあったボストンバッグを引っ掛けながら、悠未に聞こえないように溜息を吐いた。

 上機嫌の悠未に連れられて屋上を後にして、二人並んで階段を下りていく。並ぶと悠未の背の低さが際立つ。天翔は平均的な身長だが、それでも悠未とは頭一つ分の差がある。その小ささも相まって、悠未は高校一年生というよりはまだ中学生のように見えた。中身も、高校一年生というには少し幼い面があった。

「てんちゃん、受験勉強はしないの?」

 悠未は耳が痛い話を振ってくる。天翔は悠未のほうを見ないで答えた。

「してるよ。お前が見てねえだけ」
「そうなんだ。どこ狙ってるの?」
「内緒」
「ええ、なんでー? 教えてよぉ、わたしも同じところ行きたい!」
「受かったら教えてやるよ。どこでもいいように勉強しとけ」
「そっか。すっごくいいところでも入れるようにしとかないとね。てんちゃん成績いいんだし、わたしは頑張らないとね」

 悠未は自分に言い聞かせるように言った。天翔は何も言わなかった。

 天翔の志望校は内緒なのではない。決まっていないのだ。高校三年生の秋になっても、自分は何がしたいのか、どの大学に行きたいのか、全くわからなかった。夢もなければ、やりたいこともない。ただ生きていければそれでよい。そもそも大学に行きたいとも思っておらず、親との衝突を避けるために大学に行こうとしていた。模試の志望校は適当に、家から通える範囲にある低すぎない大学の名前を書いていた。天翔の成績がよいことも、志望校の選択を難しくしている一因だった。

 だからこそ、自分の人生を揺り動かすような大事件を待ち望んでいた。そんなものが起これば、きっと自分にもやりたいことが見つかるだろうと信じていた。

 悠未と並んで歩き、校舎から出る。再び秋の心地よい風に包まれる。季節が巡るように、何もしなくても進路が決まればいいのに。天翔はそう思った。最近は考えるのも面倒になってきていた。
 門から出たところで、悠未が目の前の虫を手で追い払うような仕草を見せた。

「なんだよ。蚊か?」
「んん、違うの。最近さあ、キラキラしたものが見えるんだよね」
「は?」

 悠未が何を言いたいのかわからず、天翔は聞き返した。悠未は同じことを繰り返した。

「キラキラしたものが見えるの。世界が光ってる感じ」
「眼科行けよ。何かの病気じゃねえの」
「うぅん、そうなのかなあ」

 あまり気が乗らないような返事だった。天翔も無理に勧めることはしなかった。どうせ大したことはない、一過性の症状だと思っていた。
 悠未は少し黙ったかと思うと、ぱっと顔を輝かせながら言った。

「ねえねえ、余命一か月とか言われたらどうしよう?」
「はあ? 言われねえよ」

 天翔が一蹴しても、悠未の昂りは治まらなかった。大きな黒瞳を煌めかせて天翔を見上げてくる。

「わかんないじゃん。てんちゃん、わたしが余命一か月になったらどうする?」
「何だよ急に。ならねえだろ」
「なったら。仮定の話じゃん。ねえ、どうする?」

 天翔は目を細めた。そんな有り得ない仮定の話に乗る気はなかった。

「ドラマと漫画の見すぎだろ。そんなこと起こるわけねえ」
「でもでも、ドラマも漫画も実話をもとにしてるんだよ? じゃあわたしが急に余命一か月になることもあるってことだよ!」
「ねえよ。現実を見ろ」

 天翔がばっさりと切り捨てると、悠未は不満そうに言い返した。

「つまんないなあ。ほら、このキラキラが頭の病気の予兆でさ、検査したら大変な病気が見つかりました、とかかもしれないじゃん?」
「じゃあ病院行けよ。おじさんもおばさんも心配してくれるだろ」
「そうだよねえ。お父さんたちに心配されたくないんだよなあ」

 悠未はうぅんと唸る。その悩ましい気持ちは天翔にも理解できた。

 悠未の家庭はごく普通の家庭で、両親と悠未の三人暮らしだ。両親は共働きで、日中は家にいないが、夕方過ぎには帰ってくる。朝食と夕食は家族揃って食べるのが日課だという。
 そんな幸せな家庭の一人娘が病気かもしれないとなったら、両親はさぞ心配することだろう。天翔が軽く考えているような症状でも、重大な病の前触れかもしれないと恐れる可能性はある。少なくとも天翔が知っている限りでは、今の悠未の症状を聞いたら、悠未の両親なら心配して受診を勧めることだろう。

 一方で、天翔の両親は家にいない。朝も夜も、天翔は独りである。仕事が忙しいという理由で、両親はともに滅多に家に帰ってこない。その理由が建前で、両親がどちらも不倫しているということを知ったのは、天翔が中学三年生の頃だ。それ以来、自分は二人にとって大きな荷物なのだと思っている。捨てることもできず、相手に押し付けることもできない、重い足枷なのだと。

 天翔は大きな反抗心と、僅かな希望を持って、高校一年生で髪を染めてピアスを開けた。いわゆる不良になれば、両親のどちらかは反応してくれるのではないか。普通の学生生活を送るように注意してくるのではないか。
 そんな期待は一瞬で破り捨てられた。不良になった天翔を見ても、たった一瞥をくれただけで、両親は何の興味も示さなかった。それは、天翔を打ちのめすには充分だった。

 そんな両親でも進学先には口を挟んできて、天翔は驚いた。しかし、天翔のためを思っているのではなく、自分のためだと気づいた。一人暮らしだと金がかかるから、実家から通える範囲にしてほしい。暗にそう言われた時、自分の将来に興味なんてないのだと思い知った。
 両親にとって自分はどうでもよい存在なのだ。犯罪に手を染めなければよいのだ。そう思うと、進学先を決めるのも億劫になってくる。そうして出来上がったのが、今の天翔だ。

 天翔にとっては、隣に住む悠未の家庭は眩しく映った。ああいうふうに暮らしたいと思ったことは何度もあった。最近はそう思うことすらなくなった。現実を受け入れたのだ。悠未のような家庭は自分の手には入らないのだという現実を。

 悠未は天翔の家庭環境を知らない。だから天翔が髪を染めた時は驚いたが、すぐに受け入れた。しかし悠未の両親はよく思っていないようで、度々苦言を呈されているらしい。悠未は全く気にしていないようだが。

「ねえてんちゃん、お父さんたちに内緒で病院行けないかな?」
「無理だろ。行きたいなら相談しろよ」
「だよねえ。じゃあ行かなくていいかな、困ってないし。世界がキラキラしてて、イルミネーションみたいで綺麗なんだよ」

 天翔には悠未が見ている世界のイメージが湧かなかった。きらきら光っているのなら、目がチカチカして鬱陶しく思えるのではないだろうかと思う。だが、悠未はこの変化を楽しんでいるようだった。

 大通りを抜けて、静かな住宅街に入る。一羽の烏がじっとこちらを見つめている。縄張りなのだろうか。それとも、生ゴミを漁ろうとして周囲を確認しているのだろうか。天翔が烏を見ていると、やがて烏は飛び去っていった。
 悠未も黙ったまま烏を目で追いかけていた。その表情が気になって、天翔は口を開いた。

「どうした」

 悠未ははっとしたように天翔のほうを見て、笑った。

「おっきな烏だったなあと思って。てんちゃん、見た?」
「ああ、まあ」

 そんなに大きかっただろうか。天翔はそう思ったが、特に追及しなかった。烏の大きさなど他愛ないことだ。

「ねえ、てんちゃんのお家で勉強してもいい?」
「いいけど、お前はいいのか? おじさんやおばさんに文句言われるぞ」
「お母さんが帰ってくる前に帰れば大丈夫。バレたらちょっと、うるさいけど」
「ああ、そう。お前がいいなら」
「いいの? やったあ」

 天翔が承諾すると、悠未の表情が明るくなる。
 別にどこで勉強したって同じだと天翔は思うのだが、悠未はそうではないようだった。何かと天翔の家に来たがるのだ。勉強なら学校でやればいいのに、なぜかわざわざ天翔の家でやろうとする。まるで天翔の家が特別な場所であるかのようだった。
 こんな関係もいつまで続くだろうか。自分が大学に進学したら、これまでのようにはいかないだろう。離れて過ごす時間が多くなったら、悠未も新しい誰かを見つけることだろう。中学から高校に進学する時は変わらなかったが、今度はきっと、変わってしまうだろう。

「てんちゃん、どうしたの? ぼんやりしちゃって」

 悠未に言われて、意識が現実に引き戻される。天翔は小さく首を振った。

「別に」
「あっ、家からジュース持ってくね」
「勉強するんだったよな?」
「するよお。でもジュースは必須でしょ?」

 勉強とジュースの繋がりがわからず、天翔は首を傾げるしかなかった。


 こんな平和な時間が続くのはあと少しだと知っていたら、もっと違うことをしたのに。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

愚かな父にサヨナラと《完結》

アーエル
ファンタジー
「フラン。お前の方が年上なのだから、妹のために我慢しなさい」 父の言葉は最後の一線を越えてしまった。 その言葉が、続く悲劇を招く結果となったけど・・・ 悲劇の本当の始まりはもっと昔から。 言えることはただひとつ 私の幸せに貴方はいりません ✈他社にも同時公開

【完結】私だけが知らない

綾雅(りょうが)祝!コミカライズ
ファンタジー
目が覚めたら何も覚えていなかった。父と兄を名乗る二人は泣きながら謝る。痩せ細った体、痣が残る肌、誰もが過保護に私を気遣う。けれど、誰もが何が起きたのかを語らなかった。 優しい家族、ぬるま湯のような生活、穏やかに過ぎていく日常……その陰で、人々は己の犯した罪を隠しつつ微笑む。私を守るため、そう言いながら真実から遠ざけた。 やがて、すべてを知った私は――ひとつの決断をする。 記憶喪失から始まる物語。冤罪で殺されかけた私は蘇り、陥れようとした者は断罪される。優しい嘘に隠された真実が徐々に明らかになっていく。 【同時掲載】 小説家になろう、アルファポリス、カクヨム、エブリスタ 2023/12/20……小説家になろう 日間、ファンタジー 27位 2023/12/19……番外編完結 2023/12/11……本編完結(番外編、12/12) 2023/08/27……エブリスタ ファンタジートレンド 1位 2023/08/26……カテゴリー変更「恋愛」⇒「ファンタジー」 2023/08/25……アルファポリス HOT女性向け 13位 2023/08/22……小説家になろう 異世界恋愛、日間 22位 2023/08/21……カクヨム 恋愛週間 17位 2023/08/16……カクヨム 恋愛日間 12位 2023/08/14……連載開始

断る――――前にもそう言ったはずだ

鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」  結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。  周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。  けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。  他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。 (わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)  そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。  ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。  そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?

(完結)醜くなった花嫁の末路「どうぞ、お笑いください。元旦那様」

音爽(ネソウ)
ファンタジー
容姿が気に入らないと白い結婚を強いられた妻。 本邸から追い出されはしなかったが、夫は離れに愛人を囲い顔さえ見せない。 しかし、3年と待たず離縁が決定する事態に。そして元夫の家は……。 *6月18日HOTランキング入りしました、ありがとうございます。

【完結】もう辛い片想いは卒業して結婚相手を探そうと思います

ユユ
恋愛
大家族で大富豪の伯爵家に産まれた令嬢には 好きな人がいた。 彼からすれば誰にでも向ける微笑みだったが 令嬢はそれで恋に落ちてしまった。 だけど彼は私を利用するだけで 振り向いてはくれない。 ある日、薬の過剰摂取をして 彼から離れようとした令嬢の話。 * 完結保証付き * 3万文字未満 * 暇つぶしにご利用下さい

夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました

氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。 ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。 小説家になろう様にも掲載中です

娼館で元夫と再会しました

無味無臭(不定期更新)
恋愛
公爵家に嫁いですぐ、寡黙な夫と厳格な義父母との関係に悩みホームシックにもなった私は、ついに耐えきれず離縁状を机に置いて嫁ぎ先から逃げ出した。 しかし実家に帰っても、そこに私の居場所はない。 連れ戻されてしまうと危惧した私は、自らの体を売って生計を立てることにした。 「シーク様…」 どうして貴方がここに? 元夫と娼館で再会してしまうなんて、なんという不運なの!

私が我慢する必要ありますか?

青太郎
恋愛
ある日前世の記憶が戻りました。 そして気付いてしまったのです。 私が我慢する必要ありますか? 他サイトでも公開中です

処理中です...