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間
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「見よ。
ほんに、この世は美しい」
尊君の到来に打ち震えるように、
花が
木が
草が
鳥が
虫が
風が
地が——
光が
ここにありとあらゆるものが
詠う
私の耳にも、聞こえた
その、ほのかな調べが
ここは、禁庭。
尊君の格別の寵を得た者しか立ち入ることが許されないと風に聞く、禁裏にあって最も秘された場所だ。
燦と満ちる陽に彩られたそこは、まぶしいほどに輝いて見えた。
渦——
いや、洪水?
来る栄えの季節に向けて、生命はその内にある活気を迸らせていた。
彩と音と香と。
視覚も、聴覚も、嗅覚も。
卑小な私という個は、満ちうねり奔流のように押し寄せるそれらに圧倒され、
呑まれ、
あわつぶと流されてしまいそうになる。
尊君の注ぐ寵がここに在るものに一層の活力を与え、これほどまでにこの場を、浮世離れした場所にしていた。
或いはここが、これこそが、上の世の姿であったのかもしれない。
……知っている。
これが、あるべき形容なのだ。
尊君が、在る。
ただ、それだけで、それは慶びなのだ。
だから、万象はどんな理不尽に晒されようと尊君を称え、敬うことを止めない。
それは、甘美な悪夢。
見果てぬ夢。
きっともう、二度とこの女の心は還っては来ないというのに……。
だからもう、終わらせるべきなのだ。
幻像の何時かではなく、今。
自分たちの手で切り拓くのだ。
新たなる、あるべき楽土を。
決めたではないか。
私は、
この道に賭けると。
絡みつくものを振り切り、私は口にした。
「ええ、本当に——
霓蜃楼様」
努めて優しく、柔らかく。
余人の耳に届かぬ時、私はこの女のことをそう呼ぶよう命じられていた。
誰一人、呼ぶことのない名を。
実に詰まらない、そして、下らない恋人ごっこだ。
私の命も、この女が飽くまで。
つまりは、そういう事。
そういう事に過ぎないのだから——。
霓蜃楼は微笑んで、かろやかに踏み出した。
玉唇から、歌がこぼれ落ちる。
それは先の奏でと和をなし、一つの楽となる。
その斉唱は、
どんな楽士の奏する旋律よりも、
どんな妙手の歌唱よりも妙なく——
引きずり込まれてしまいそうな——
絶唱であった。
ああ…………
この恍惚の境地に浸り、全霊を委ねてしまえば、どんなにか心地の良いことだろう……。
しかし。
恨めしいほどに、我が内の消し得ない熱と、ナープムの面影と、忍ばせた重みとが、私を正気に引き留めた。
今ではないのか。
銃はこの距離では確実ではない。
だが——。
隠し持っていた刃に、服の上から触れる。
形ばかりとはいえ警護を司る身分であるというのに、こうしたものを堂々と持ち歩けないというのは事を為すに当たって小さくはない障害であった。
尊君は争乱と共に、このような武器の類も好まない。
故に、得手だろうと不得手だろうと近衛が佩くものは霊言符に限られていたのだ。
心臓が早鐘を打つ。
女はこちらに背を向け、歌い入っていた。
そしてこの充満する歌声は、
鞘を払う音を、
気配を、
きっと、消してくれるに違いない。
上着の下に秘していたものを素早く引き抜くと、私は、戻れない一歩を記した。
叛意を感じ取ったのか。
にわかに楽の音が乱れ、ざわつき始めた。
成る程。
積み重ねられてきた失敗の原因は、これにもあったのか。
万象は尊君に忠実で、尊君は万物の言葉を聞くことができるのだから。
警告は常に、刃が届くその先にあったのだろう。
私もまた、その例に倣うことになるのか。
それはこの、あと僅かな間にかかっていた。
女はまだ、気付いていない。
体重を乗せると——
私は、
ひと思いにその体を貫いた。
歌が途切れ、体が傾ぐ。
ゆっくりと、女がこちらを振り返る。
その面には……………………
やわらかな笑みが、湛えられていた。
幽かな弧を描いていた口元が、動く。
力を揮おうとしている!
私を殺す?
それとも、もっと厄介で取り返しのつかない何事かか。
そうはさせじと、無我夢中で私は銃身をその口に捻じ込み——
ほんに、この世は美しい」
尊君の到来に打ち震えるように、
花が
木が
草が
鳥が
虫が
風が
地が——
光が
ここにありとあらゆるものが
詠う
私の耳にも、聞こえた
その、ほのかな調べが
ここは、禁庭。
尊君の格別の寵を得た者しか立ち入ることが許されないと風に聞く、禁裏にあって最も秘された場所だ。
燦と満ちる陽に彩られたそこは、まぶしいほどに輝いて見えた。
渦——
いや、洪水?
来る栄えの季節に向けて、生命はその内にある活気を迸らせていた。
彩と音と香と。
視覚も、聴覚も、嗅覚も。
卑小な私という個は、満ちうねり奔流のように押し寄せるそれらに圧倒され、
呑まれ、
あわつぶと流されてしまいそうになる。
尊君の注ぐ寵がここに在るものに一層の活力を与え、これほどまでにこの場を、浮世離れした場所にしていた。
或いはここが、これこそが、上の世の姿であったのかもしれない。
……知っている。
これが、あるべき形容なのだ。
尊君が、在る。
ただ、それだけで、それは慶びなのだ。
だから、万象はどんな理不尽に晒されようと尊君を称え、敬うことを止めない。
それは、甘美な悪夢。
見果てぬ夢。
きっともう、二度とこの女の心は還っては来ないというのに……。
だからもう、終わらせるべきなのだ。
幻像の何時かではなく、今。
自分たちの手で切り拓くのだ。
新たなる、あるべき楽土を。
決めたではないか。
私は、
この道に賭けると。
絡みつくものを振り切り、私は口にした。
「ええ、本当に——
霓蜃楼様」
努めて優しく、柔らかく。
余人の耳に届かぬ時、私はこの女のことをそう呼ぶよう命じられていた。
誰一人、呼ぶことのない名を。
実に詰まらない、そして、下らない恋人ごっこだ。
私の命も、この女が飽くまで。
つまりは、そういう事。
そういう事に過ぎないのだから——。
霓蜃楼は微笑んで、かろやかに踏み出した。
玉唇から、歌がこぼれ落ちる。
それは先の奏でと和をなし、一つの楽となる。
その斉唱は、
どんな楽士の奏する旋律よりも、
どんな妙手の歌唱よりも妙なく——
引きずり込まれてしまいそうな——
絶唱であった。
ああ…………
この恍惚の境地に浸り、全霊を委ねてしまえば、どんなにか心地の良いことだろう……。
しかし。
恨めしいほどに、我が内の消し得ない熱と、ナープムの面影と、忍ばせた重みとが、私を正気に引き留めた。
今ではないのか。
銃はこの距離では確実ではない。
だが——。
隠し持っていた刃に、服の上から触れる。
形ばかりとはいえ警護を司る身分であるというのに、こうしたものを堂々と持ち歩けないというのは事を為すに当たって小さくはない障害であった。
尊君は争乱と共に、このような武器の類も好まない。
故に、得手だろうと不得手だろうと近衛が佩くものは霊言符に限られていたのだ。
心臓が早鐘を打つ。
女はこちらに背を向け、歌い入っていた。
そしてこの充満する歌声は、
鞘を払う音を、
気配を、
きっと、消してくれるに違いない。
上着の下に秘していたものを素早く引き抜くと、私は、戻れない一歩を記した。
叛意を感じ取ったのか。
にわかに楽の音が乱れ、ざわつき始めた。
成る程。
積み重ねられてきた失敗の原因は、これにもあったのか。
万象は尊君に忠実で、尊君は万物の言葉を聞くことができるのだから。
警告は常に、刃が届くその先にあったのだろう。
私もまた、その例に倣うことになるのか。
それはこの、あと僅かな間にかかっていた。
女はまだ、気付いていない。
体重を乗せると——
私は、
ひと思いにその体を貫いた。
歌が途切れ、体が傾ぐ。
ゆっくりと、女がこちらを振り返る。
その面には……………………
やわらかな笑みが、湛えられていた。
幽かな弧を描いていた口元が、動く。
力を揮おうとしている!
私を殺す?
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