黎明の残滓

入江瑞溥

文字の大きさ
上 下
12 / 13

しおりを挟む
「見よ。
 ほんに、この世は美しい」
 尊君とうとぎみの到来に打ち震えるように、
花が
木が
草が
鳥が
虫が
風が
地が——

光が

ここにありとあらゆるものが

うた
 
 わたしの耳にも、聞こえた
 
 その、ほのかな調べが
 
 ここは、禁庭きんてい
尊君の格別のちょうを得た者しか立ち入ることが許されないと風に聞く、禁裏きんりにあって最も秘された場所だ。
 さんと満ちるいろどられたそこは、まぶしいほどに輝いて見えた。
 うず——
いや、洪水こうずい
 きたさかえの季節に向けて、生命いのちはその内にある活気をほとばしらせていた。
 
 彩と音とと。
 
 視覚も、聴覚も、嗅覚きゅうかくも。

 卑小ひしょうな私という個は、満ちうねり奔流ほんりゅうのように押し寄せるそれらに圧倒され、
まれ、
あわつぶと流されてしまいそうになる。
 尊君のそそぐ寵がここにるものに一層の活力を与え、これほどまでにこの場を、浮世離うきよばなれした場所にしていた。
 あるいはここが、これこそが、かみの世の姿であったのかもしれない。
 
 ……知っている。

 これが、あるべき形容かたちなのだ。
 尊君が、在る。
 ただ、それだけで、それはよろこびなのだ。
 だから、万象ばんしょうはどんな理不尽りふじんさらされようと尊君をたたえ、うやまうことをめない。
 
 それは、甘美かんびな悪夢。

 見果てぬ夢。

 きっともう、二度とこの女の心はかえっては来ないというのに……。
 
 だからもう、終わらせるべきなのだ。

 幻像げんぞう何時いつかではなく、今。
 自分たちの手で切りひらくのだ。
 新たなる、あるべき楽土らくどを。
 決めたではないか。
 私は、
この道にけると。
 
 からみつくものを振り切り、私は口にした。
「ええ、本当に——
霓蜃楼ゆらゆり様」
 つとめて優しく、柔らかく。
 
 余人よじんの耳に届かぬ時、私はこの女のことをそう呼ぶよう命じられていた。
誰一人、呼ぶことのない名を。
 実にまらない、そして、くだらない恋人ごっこだ。
 
 私の命も、この女がくまで。
 
 つまりは、そういう事。
 そういう事に過ぎないのだから——。
 
 霓蜃楼は微笑ほほえんで、かろやかに踏み出した。
 玉唇ぎょくしんから、歌がこぼれ落ちる。
 それは先の奏でと和をなし、一つのがくとなる。
 その斉唱せいしょうは、
どんな楽士がくしの奏する旋律せんりつよりも、
どんな妙手みょうしゅの歌唱よりもたえなく——

引きずり込まれてしまいそうな——

絶唱ぜっしょうであった。
 
 ああ…………
 
 この恍惚こうこつの境地にひたり、全霊ぜんれいゆだねてしまえば、どんなにか心地ここちの良いことだろう……。
 
 しかし。

 うらめしいほどに、我が内の消し得ない熱と、ナープムの面影おもかげと、しのばせた重みとが、私を正気しょうきに引きめた。
 
 今ではないのか。
 
 じゅうはこの距離では確実ではない。
 だが——。
 
 隠し持っていたやいばに、服の上から触れる。
 形ばかりとはいえ警護をつかさどる身分であるというのに、こうしたものを堂々と持ち歩けないというのは事をすに当たって小さくはない障害であった。
 尊君は争乱と共に、このような武器の類も好まない。
 ゆえに、得手だろうと不得手だろうと近衛このえくものは霊言符れいげんふに限られていたのだ。
 
 心臓が早鐘はやがねを打つ。
 
 女はこちらに背を向け、歌い入っていた。
 そしてこの充満する歌声は、
さやを払う音を、
気配を、
きっと、消してくれるに違いない。
 
 上着の下に秘していたものを素早く引き抜くと、私は、戻れない一歩を記した。
 
 叛意はんいを感じ取ったのか。
 にわかに楽のが乱れ、ざわつき始めた。
 
 ほど

 積み重ねられてきた失敗の原因もとは、これにもあったのか。
 
 万象は尊君に忠実で、尊君は万物ばんぶつ言葉こえを聞くことができるのだから。
 警告は常に、やいばが届くその先にあったのだろう。
 
 私もまた、その例にならうことになるのか。
 それはこの、あとわずかなにかかっていた。
 
 女はまだ、気付いていない。
 
 体重を乗せると——
私は、
ひと思いにその体を貫いた。

 歌が途切れ、体がかしぐ。

 ゆっくりと、女がこちらを振り返る。
 そのかおには……………………

やわらかな笑みが、たたえられていた。

 かすかなを描いていた口元が、動く。
 
 力をふるおうとしている!
 
 私を殺す?
 
 それとも、もっと厄介やっかいで取り返しのつかない何事かか。
 
 そうはさせじと、無我夢中むがむちゅうで私は銃身じゅうしんをその口にじ込み——
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

小さなことから〜露出〜えみ〜

サイコロ
恋愛
私の露出… 毎日更新していこうと思います よろしくおねがいします 感想等お待ちしております 取り入れて欲しい内容なども 書いてくださいね よりみなさんにお近く 考えやすく

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

淫らに、咲き乱れる

あるまん
恋愛
軽蔑してた、筈なのに。

【1/23取り下げ予定】愛されない妃ですので。

ごろごろみかん。
恋愛
王妃になんて、望んでなったわけではない。 国王夫妻のリュシアンとミレーゼの関係は冷えきっていた。 「僕はきみを愛していない」 はっきりそう告げた彼は、ミレーゼ以外の女性を抱き、愛を囁いた。 『お飾り王妃』の名を戴くミレーゼだが、ある日彼女は側妃たちの諍いに巻き込まれ、命を落としてしまう。 (ああ、私の人生ってなんだったんだろう──?) そう思って人生に終止符を打ったミレーゼだったが、気がつくと結婚前に戻っていた。 しかも、別の人間になっている? なぜか見知らぬ伯爵令嬢になってしまったミレーゼだが、彼女は決意する。新たな人生、今度はリュシアンに関わることなく、平凡で優しい幸せを掴もう、と。 *年齢制限を18→15に変更しました。

どうも、死んだはずの悪役令嬢です。

西藤島 みや
ファンタジー
ある夏の夜。公爵令嬢のアシュレイは王宮殿の舞踏会で、婚約者のルディ皇子にいつも通り罵声を浴びせられていた。 皇子の罵声のせいで、男にだらしなく浪費家と思われて王宮殿の使用人どころか通っている学園でも遠巻きにされているアシュレイ。 アシュレイの誕生日だというのに、エスコートすら放棄して、皇子づきのメイドのミュシャに気を遣うよう求めてくる皇子と取り巻き達に、呆れるばかり。 「幼馴染みだかなんだかしらないけれど、もう限界だわ。あの人達に罰があたればいいのに」 こっそり呟いた瞬間、 《願いを聞き届けてあげるよ!》 何故か全くの別人になってしまっていたアシュレイ。目の前で、アシュレイが倒れて意識不明になるのを見ることになる。 「よくも、義妹にこんなことを!皇子、婚約はなかったことにしてもらいます!」 義父と義兄はアシュレイが状況を理解する前に、アシュレイの体を持ち去ってしまう。 今までミュシャを崇めてアシュレイを冷遇してきた取り巻き達は、次々と不幸に巻き込まれてゆき…ついには、ミュシャや皇子まで… ひたすら一人づつざまあされていくのを、呆然と見守ることになってしまった公爵令嬢と、怒り心頭の義父と義兄の物語。 はたしてアシュレイは元に戻れるのか? 剣と魔法と妖精の住む世界の、まあまあよくあるざまあメインの物語です。 ざまあが書きたかった。それだけです。

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

王子を身籠りました

青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。 王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。 再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。

処理中です...