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綺麗な名前
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ゆのかは、深くて暗い海の底で横たわっていた。
(でも…あったかくて……気持ちいい…
どうして、苦しくないの…?)
あるはずのない空気を、吸って吐く。
体が、ゆらゆら揺れて、心地いい。
(ずっと……ここに…いられたら……)
一筋の光が見えて、ゆのかは思わず目を細める。
(もう何も…苦しまずに……もう誰も…傷つけずに……済むのに………)
ゆのかがもう一度、目を開けると、ランプのついてる天井が、ぼんやり見えた。
カーテンの隙間から、僅かに光が漏れている。
(朝……
また、1日が…始まるんだ……)
ゆのかは、満たされた気分から一転して、酷く気怠くなった。
なかなか起き上がれず、ベッドに寝ていたが…徐々に違和感が芽生えてきた。
(私の部屋の天井…こんなに、低かったっけ……?
ていうか…あんなランプ、ついてた…?)
自分がまだ寝ぼけているように思えたゆのかは、手を開いて閉じて…また、開いて…次は、頬をつねって……今が夢でないことを、確認する。
(…そうだ。
私、家出して……海を泳ごうとして…溺れたんだった…!)
ようやく状況を少し理解したゆのかは、ゆっくりと起き上がって、辺りを見回した。
(私の部屋じゃない…?)
薄い水色と紺のツートーンの部屋。
家具は、広い机と椅子が1つ、ゆのかが寝ているベッドに、本がぎっしり詰まった本棚。そのすぐ下に、収まりきらない本が積んである。ベッドに背を向けたソファーと、隅の方には服を入れるためのクローゼットがある。
(ここ…どこ……?)
考えていたその時だった。
「ん…」
人の声。もちろん、ゆのかではない。
(誰か…いるの…?!)
辺りを見渡したものの、人の姿は見えない。しかし、気配はする。声もした。
(もしもの時はっ…逃げなきゃ……!!)
ゆのかは、ベッドから降りようとした。その時だった。
突然、ソファーの背中から…ムクッ、と何かが飛び出てきた。
「!?」
ゆのかは思わず、息を飲んだ。
少しクセのある茶色い髪。髪の間から出ている耳には、金色のピアスがついている。
長い腕に大きい手。顔立ちは、端麗でかなり大人っぽい。鼻筋は高く、眠そうな目は綺麗な深い青色をしている。
ソファーから飛び出してきたのは、ゆのかが見たこともない男だった。
歳はおそらく、20歳前後くらい。男は、上半身を起き上がらせている。
「んっ……あ。」
逞しい腕を上げ、伸びをしている男と、目が合った。
ゆのかの体が、一瞬で強張る。
(この人……誰…?
この部屋の…人?じゃあ…私を、助けてくれた人…?
でも、良い人なの…?信用…できる人…?)
掛けられている布団を握る手に、汗が滲む。
(それとも…私の、家の人……?
私を……追いかけていた人………?)
男は、ソファーから降りて、ゆのかのいるベッドに近づいてきた。
背は高く、ベッドに上半身を起こしているだけのゆのかにとって、彼は巨人のように見えた。足が長くて、スラッとしている。
アイドルやモデルを職業にしてもおかしくないような、美貌とスタイルの持ち主だった。だが、ゆのかが彼に見とれてしまうことは、決してなかった。
(この人…普通の人じゃ、ない……)
筋肉隆々というわけではない。むしろ、背格好だけで見ると、少し背が高いことに目をつぶれば、どこにでもいそうな男だった。
だか…至る所についている筋肉や、隙のない身のこなしが、内に秘めた強さを全て物語っている。
男は、ベットの端に座った。ギッ…と軋んで、少しだけ傾く。
男の強さに圧倒されたゆのかは、すっかり体が固まって、動けなくなってしまった。
男はそんなゆのかを、ジッ…と見つめた。
「おはよ。」
男は澄んだ瞳を、ゆのかに合わせて…穏やかに笑った。
必死に身構えていたゆのかは…まるで、朝、友達に言うような何気ない挨拶に、戸惑ってしまう。
「気分はどう?
どこか痛いところ、ある?」
男は、ゆのかの挨拶を聞かないまま、ゆのかの顔を覗き込んだ。
(なんで…どうして、そんなこと……聞くの…?
なんで、この人は…ちょっとだけ、心配そうな顔をしているの…?)
見ず知らずの人。そんな人から心配され、優しくされる理由が、ゆのかには見当たらない。
“大丈夫です”と返事をしようとも、萎縮してしまい、声が出ず…迷ったゆのかは、代わりに首を横に振った。
「よかった…」
男は、心の底からホッとしているようだった。
それから優しい顔で、ゆのかに笑いかける。何も話さないゆのかに、気を悪くしている様子はないように見えた。
(よく…考えたら……もし、この人が、私の家の人か、雇われた人なら……今頃私は、自分の家にいるはずだよね…?
じゃあ、この人は…私の家の人じゃないし…雇われた人でもない…?)
ゆのかは、チラリと男の方を見た。
明らかに、強いオーラが漂っているが…ゆのかを捕らえようとする意思は、全く見えてこない。強すぎる故、本気を出さなくてもゆのかを捕える余裕があると言ってしまえば、それまでだが…
「…君を傷つけるようなことは、絶対しないよ。」
「…!?」
まるで、ゆのかの心を読むような男の言葉に、ゆのかは目を丸くした。
「あ。君の服は、女の人が取り替えたから。
もうそろそろ、乾くと思うけど。」
ゆのかが着ていたのは、闇夜に紛れるための真っ黒な服ではなく、雲のように白いワンピース仕様のルームウェアだった。
(服…変わってる……)
ゆったりしていて、着心地がとてもいい。すべすべした素材に、腕を触ってしまう。
おそらく、海に入って濡れてしまったため、その“女の人”が着替えさせたのだろう。
(この家には…この人以外の人も、いる……
多分…溺れた私を助けて、服も、このベッドも貸してくれた……)
ゆのかは、男が狭いソファーで丸まって寝ていたのを、きちんと見ていた。
(これ以上…この人に、迷惑、かけられない……
今すぐ、服を返してもらって…早くここから、出て行か)
「…は、何?」
男の声が聞こえる。ゆのかは、ハッと我に返った。
思わず、男の方を見ると、明らかにゆのかが何かを言うのを待っている。
(今、この人…私に、何か聞いた……?)
ゆのかの頭が真っ白になった。
(どうしようっ…何も、聞いてなかった…!
謝って…聞き返すべき…?でも…話、聞いてなかったの?…って、怒られたら……?
この人の、機嫌…悪くなったら……それで、もし…取り返しが……つかなくなったら………?)
ゾクッ……と、ゆのかの背筋が凍った。
男は何も言わない。見ていられなくて俯くと、涙が溢れそうになった。
(泣いちゃ駄目っ……今は、この状況……何とか…しなきゃ……泣いちゃ…駄目!)
そう思いながらも、解決法が見当たらず…ゆのかは、ギュッと目を閉じた。
「俺の名前は、うみ。」
そんな時、男が沈黙を破った。
「君の名前は何?」
思わずゆのかが、顔を上げると…男は笑っていた。
怒っているようには見えない。だが…どことなく、寂しそうな目をしていた気がした。
「う……み…………?」
「うん。2文字で、うみ。」
引いては押し寄せる波の音が、耳に届いた。
潮の香りが、鼻腔をくすぐる。
それは…ゆのかにとって、思い出の詰まった大切な場所で
ひとりぼっちだったゆのかを、受け入れてくれる…唯一の優しい場所。
(大好きな場所と…同じ音……)
零れかけた涙は、いつの間にか乾いていた。
「綺麗…な……名前……」
心の中で言ったつもりが…ゆのかは思わず、口に出してしまっていた。
(私も早く…名乗らなきゃ…)
同じ失敗を繰り返さないように、気持ちを素早く切り替える。
「私、は………ゆのか…です。」
ほ…と、溜めていた息を、吐き出した。
(緊張…した……)
うみと名乗るこの男の前で、ゆのかは初めて声を出した。
もう体は震えてないし、心臓も速く動いていない。少しだけ、安心してしまう。
(………………。
……あれ?)
名前を告げたはずなのに、沈黙は続いている。おそるおそる、男の顔を見ると…目が丸くなっていた。
(聞こえて…なかったのかな……?
ううん……この顔は、びっくりされてる…?)
驚かれる理由が、ゆのかには分からない。
(私の名前…珍しいから、よく聞き取れなかった……とか?
もう一度…名乗るべき…かな………?)
その時、ギッ!とベッドが傾いて、少しバランスが崩れる。
「…え?」
傾いた方に手をついて、バランスをとる。
そのまま、顔を上げると…視界いっぱいに、男が映りこんだ。
「ねぇ、」
「ひっ…!」
いつの間にか近くなっていた距離に、体がビクッ!と震える。
「あ…ごめんね。」
強ばるゆのかを見た男は、元の位置に戻る。
(び…っくり……した………
今の…何……?)
ゆのかは当然、大丈夫です。なんて言えるはずもなく…“気にしないでください”の意味を込めて、首を横に振った。
「実は、会わせたい人がいるんだけど…
君さえよければ、連れてきていいかな?」
ゆのかの顔に、警戒の色が走る。
(まさか…私の家の人?)
あからさまな怖がり方に、男は苦笑いした。
「この“家”の責任者なんだけど…実は、君を部屋に泊めたこと、まだその人達に言ってないんだよね。
遅かれ早かれ、事情を説明しなきゃいけないし……だったら実際に、君を見せた方が、早いかなって思って。」
“事情を説明”…その言葉に、ゆのかは素早く反応した。
「あ……のっ……わ…たし……」
「君が言う必要はないよ。」
「…!」
私は何も言えない。そう言おうとして、先に越されてしまった。
驚いて、固まっていると…男は楽しそうに、クスクス笑った。
「驚きすぎだって。何か訳ありだって、想像つくでしょ。」
「で…も……」
「禁海法に背いてまで海に飛び込んだこと、もう忘れたの?」
「!!!」
図星だ。心臓が、ヒヤリと縮こまった気がした。
「私……溺れ…て……
もし…かし…て……」
「その後すぐに、俺が助けた。」
「ごっ…ごめんなさい……」
「謝るくらいなら、もう夜の海に飛び込んじゃ駄目。俺がいなかったら、君は死んでたよ?」
男は優しく言う。ゆのかは、コクリと頷いた。
「何でそんなことをしたのか、追及するつもりはないし、誰かに言いふらすつもりもないけど……見ず知らずの女の子を一晩預かっちゃったって、責任者に報告だけはしないといけないんだよね。
怖い人じゃないから。ちょっとだけ、会ってくれないかな?」
海に飛び込むというだけで、厄介なはずなのに…溺れたゆのかを助け、服を貸し、部屋に泊めてくれた。
満足に会話できないゆのかに、持っている力で怯えさせることなく…ずっと、優しい雰囲気で、接してくれた。
(この人からしたら…私の方が正体不明で
危ない人かもしれないのに……ううん。実際、私と関わったら、大変なことになるのに…それでも、私を助けてくれたんだ……)
ひとまずゆのかは、男を信じることにして…もう一度、首を縦に振った。
「ありがと。ちょっとくつろいでて?」
男が部屋から出ていき、ゆのかは1人になった。
「はぁ………」
気の抜けた息が漏れる。脱力感が生まれた。
(“これから”のこと…考えないと。)
ゆのかの心が、ズン、と重くなる。
運が良いのか、悪いのか……“うみ”と名乗る男に助けられて、死ぬことはなかった。
(問題は、これから……追手に見つかったら、間違いなく、家に連れ戻される……
そうなったら…私は、また………人を…)
背筋が、ゾッと凍る。
(それだけは駄目。
何があっても、それだけは………)
ゆのかは、気持ちを落ち着かせるように、深呼吸した。
(まずは、“責任者”って人に会って…
事情を説明……とまでは、いかないけど……『私に会ったことは内緒にして欲しい』って、お願いして…
服、返してもらって…早くここから、出ていく…)
優しくしてくれた人達に、迷惑かけるわけにはいかない。
ゆのかの胸が、キリッと痛んだ。悲しくなっている暇はない。首を振って、ネガティブな感情を頭から追い出す。
(ここを出たら…少しでも遠くに、逃げる。)
持ってきたお金は、紙幣を4、5枚。履いていた黒のズボンのポケットの中にある。
だが、ゆのかは、財布なんて持っていない。そのまま海に入ったため、紙幣が使えるかどうか、あまり期待はできない。
より早く遠くに行くためには、交通機関だって使わなくてはならない。手持ちが底を尽きるのなんて、あっという間だろう。
(そうしたら私…働くのかな……?
身分、明かさなくても…働けるのかな…?)
“家にいるくらいなら死んでもいい”
そう思っていたゆのかにとって…これから先を、たった1人で生きることは、途方もなくて
(もし無理なら…私、死ぬしかないの…?
まだ……ののかに…会ってないのに………?)
不安要素を挙げると、キリがなかった。
ゆのかは、気を紛らわすように、机の上に目を向けてみた。
机には、大きなビンが飾ってあり、ビンの中に何か入ってる。
(白い、三角形の帆…船かな?
ビンの中に船……じゃああれは、ボトルシップ…かぁ……)
ゆのかの思考が停止した。
「え……えぇっ?!」
ホペ州では禁海法が実施されている。ボトルシップを置いたのを見つかった日には、直ちに逮捕されるだろう。
禁海法は、浜辺や海に入ったり…海、砂浜、船、魚、貝、イルカやクジラのような、海に関する単語を発言したりするだけでも、罰金や懲役が課せられる。海と関わるだけで、理不尽に罰する法律なのだ。
ホペ州では、禁海法に反する者は、かなり厳しく取り締まっており……軽い罪だったとしても態度次第ではすぐさま死刑となってしまう。
(それなのに…ボトルシップを、飾ってるなんて……あの人、何者なの…?
しかも、名前…うみ、って言ってたよね…?すごく良い名前だと思うけど…禁海法に、引っかからないのかな……?)
モヤモヤしていると、ゆのかは別の考えがひらめいた。
(もしかしてここって…ホペ州じゃなくて、別の州?)
トワの半分以上の州は、禁海法を実施しているが、実施していない州もある。禁海法を実施するか否かは、トワの王ではなく、その州の長である禁海法に決定権があるからだ。
(溺れた後、流されて…運良く、禁海法を実施していない別の州に辿り着いたのかも…
でも、ホペ州の周辺に…禁海法実施してない州なんて、あったっけ……?)
気づいたらゆのかは、ベッドから降りて、光が零れるカーテンへ近づいていた。
シャアッッ!!
失礼なのは承知の上で、閉じていたカーテンを思いっきり開ける。
輝く朝日が、目にしみる。
必死に目を開けて、窓の外を見ると…そこには、ホペ州の砂浜と海があった。
(う…嘘っ………
ここ…ホペ州なの…?!!)
驚くと同時に、ゆのかには別の疑問が芽生え始めた。
(この砂浜に、こんな立派な部屋は…絶対なかったよね…?
いくら、誰も近づかないからって…もし誰かが浜辺に住んでいたら、この辺に住んでいる人は、絶対気づくはず……)
ゆのかがホペ州に来て7年。記憶の限りでは浜辺に家なんて建っていなかったし、家を建てた日には、ホペ州中が混乱に陥る騒ぎになるだろう。
(でも……そんな騒ぎもなかった……
じゃあ…“ここ”は…この家は…一体、何…??)
疑問が、どんどん膨らんでいく。その時だった。
ドドッドドッドドッドドッ!!
地鳴りのような音。心なしか、床が揺れている気がする。
音は、徐々に大きくなっていった。
(誰かが…こっちに、来る…?!
っ、カーテン!)
シャッ!と、慌ててカーテンを閉めたのとほぼ同時に、勢いよくドアが開いた。
(でも…あったかくて……気持ちいい…
どうして、苦しくないの…?)
あるはずのない空気を、吸って吐く。
体が、ゆらゆら揺れて、心地いい。
(ずっと……ここに…いられたら……)
一筋の光が見えて、ゆのかは思わず目を細める。
(もう何も…苦しまずに……もう誰も…傷つけずに……済むのに………)
ゆのかがもう一度、目を開けると、ランプのついてる天井が、ぼんやり見えた。
カーテンの隙間から、僅かに光が漏れている。
(朝……
また、1日が…始まるんだ……)
ゆのかは、満たされた気分から一転して、酷く気怠くなった。
なかなか起き上がれず、ベッドに寝ていたが…徐々に違和感が芽生えてきた。
(私の部屋の天井…こんなに、低かったっけ……?
ていうか…あんなランプ、ついてた…?)
自分がまだ寝ぼけているように思えたゆのかは、手を開いて閉じて…また、開いて…次は、頬をつねって……今が夢でないことを、確認する。
(…そうだ。
私、家出して……海を泳ごうとして…溺れたんだった…!)
ようやく状況を少し理解したゆのかは、ゆっくりと起き上がって、辺りを見回した。
(私の部屋じゃない…?)
薄い水色と紺のツートーンの部屋。
家具は、広い机と椅子が1つ、ゆのかが寝ているベッドに、本がぎっしり詰まった本棚。そのすぐ下に、収まりきらない本が積んである。ベッドに背を向けたソファーと、隅の方には服を入れるためのクローゼットがある。
(ここ…どこ……?)
考えていたその時だった。
「ん…」
人の声。もちろん、ゆのかではない。
(誰か…いるの…?!)
辺りを見渡したものの、人の姿は見えない。しかし、気配はする。声もした。
(もしもの時はっ…逃げなきゃ……!!)
ゆのかは、ベッドから降りようとした。その時だった。
突然、ソファーの背中から…ムクッ、と何かが飛び出てきた。
「!?」
ゆのかは思わず、息を飲んだ。
少しクセのある茶色い髪。髪の間から出ている耳には、金色のピアスがついている。
長い腕に大きい手。顔立ちは、端麗でかなり大人っぽい。鼻筋は高く、眠そうな目は綺麗な深い青色をしている。
ソファーから飛び出してきたのは、ゆのかが見たこともない男だった。
歳はおそらく、20歳前後くらい。男は、上半身を起き上がらせている。
「んっ……あ。」
逞しい腕を上げ、伸びをしている男と、目が合った。
ゆのかの体が、一瞬で強張る。
(この人……誰…?
この部屋の…人?じゃあ…私を、助けてくれた人…?
でも、良い人なの…?信用…できる人…?)
掛けられている布団を握る手に、汗が滲む。
(それとも…私の、家の人……?
私を……追いかけていた人………?)
男は、ソファーから降りて、ゆのかのいるベッドに近づいてきた。
背は高く、ベッドに上半身を起こしているだけのゆのかにとって、彼は巨人のように見えた。足が長くて、スラッとしている。
アイドルやモデルを職業にしてもおかしくないような、美貌とスタイルの持ち主だった。だが、ゆのかが彼に見とれてしまうことは、決してなかった。
(この人…普通の人じゃ、ない……)
筋肉隆々というわけではない。むしろ、背格好だけで見ると、少し背が高いことに目をつぶれば、どこにでもいそうな男だった。
だか…至る所についている筋肉や、隙のない身のこなしが、内に秘めた強さを全て物語っている。
男は、ベットの端に座った。ギッ…と軋んで、少しだけ傾く。
男の強さに圧倒されたゆのかは、すっかり体が固まって、動けなくなってしまった。
男はそんなゆのかを、ジッ…と見つめた。
「おはよ。」
男は澄んだ瞳を、ゆのかに合わせて…穏やかに笑った。
必死に身構えていたゆのかは…まるで、朝、友達に言うような何気ない挨拶に、戸惑ってしまう。
「気分はどう?
どこか痛いところ、ある?」
男は、ゆのかの挨拶を聞かないまま、ゆのかの顔を覗き込んだ。
(なんで…どうして、そんなこと……聞くの…?
なんで、この人は…ちょっとだけ、心配そうな顔をしているの…?)
見ず知らずの人。そんな人から心配され、優しくされる理由が、ゆのかには見当たらない。
“大丈夫です”と返事をしようとも、萎縮してしまい、声が出ず…迷ったゆのかは、代わりに首を横に振った。
「よかった…」
男は、心の底からホッとしているようだった。
それから優しい顔で、ゆのかに笑いかける。何も話さないゆのかに、気を悪くしている様子はないように見えた。
(よく…考えたら……もし、この人が、私の家の人か、雇われた人なら……今頃私は、自分の家にいるはずだよね…?
じゃあ、この人は…私の家の人じゃないし…雇われた人でもない…?)
ゆのかは、チラリと男の方を見た。
明らかに、強いオーラが漂っているが…ゆのかを捕らえようとする意思は、全く見えてこない。強すぎる故、本気を出さなくてもゆのかを捕える余裕があると言ってしまえば、それまでだが…
「…君を傷つけるようなことは、絶対しないよ。」
「…!?」
まるで、ゆのかの心を読むような男の言葉に、ゆのかは目を丸くした。
「あ。君の服は、女の人が取り替えたから。
もうそろそろ、乾くと思うけど。」
ゆのかが着ていたのは、闇夜に紛れるための真っ黒な服ではなく、雲のように白いワンピース仕様のルームウェアだった。
(服…変わってる……)
ゆったりしていて、着心地がとてもいい。すべすべした素材に、腕を触ってしまう。
おそらく、海に入って濡れてしまったため、その“女の人”が着替えさせたのだろう。
(この家には…この人以外の人も、いる……
多分…溺れた私を助けて、服も、このベッドも貸してくれた……)
ゆのかは、男が狭いソファーで丸まって寝ていたのを、きちんと見ていた。
(これ以上…この人に、迷惑、かけられない……
今すぐ、服を返してもらって…早くここから、出て行か)
「…は、何?」
男の声が聞こえる。ゆのかは、ハッと我に返った。
思わず、男の方を見ると、明らかにゆのかが何かを言うのを待っている。
(今、この人…私に、何か聞いた……?)
ゆのかの頭が真っ白になった。
(どうしようっ…何も、聞いてなかった…!
謝って…聞き返すべき…?でも…話、聞いてなかったの?…って、怒られたら……?
この人の、機嫌…悪くなったら……それで、もし…取り返しが……つかなくなったら………?)
ゾクッ……と、ゆのかの背筋が凍った。
男は何も言わない。見ていられなくて俯くと、涙が溢れそうになった。
(泣いちゃ駄目っ……今は、この状況……何とか…しなきゃ……泣いちゃ…駄目!)
そう思いながらも、解決法が見当たらず…ゆのかは、ギュッと目を閉じた。
「俺の名前は、うみ。」
そんな時、男が沈黙を破った。
「君の名前は何?」
思わずゆのかが、顔を上げると…男は笑っていた。
怒っているようには見えない。だが…どことなく、寂しそうな目をしていた気がした。
「う……み…………?」
「うん。2文字で、うみ。」
引いては押し寄せる波の音が、耳に届いた。
潮の香りが、鼻腔をくすぐる。
それは…ゆのかにとって、思い出の詰まった大切な場所で
ひとりぼっちだったゆのかを、受け入れてくれる…唯一の優しい場所。
(大好きな場所と…同じ音……)
零れかけた涙は、いつの間にか乾いていた。
「綺麗…な……名前……」
心の中で言ったつもりが…ゆのかは思わず、口に出してしまっていた。
(私も早く…名乗らなきゃ…)
同じ失敗を繰り返さないように、気持ちを素早く切り替える。
「私、は………ゆのか…です。」
ほ…と、溜めていた息を、吐き出した。
(緊張…した……)
うみと名乗るこの男の前で、ゆのかは初めて声を出した。
もう体は震えてないし、心臓も速く動いていない。少しだけ、安心してしまう。
(………………。
……あれ?)
名前を告げたはずなのに、沈黙は続いている。おそるおそる、男の顔を見ると…目が丸くなっていた。
(聞こえて…なかったのかな……?
ううん……この顔は、びっくりされてる…?)
驚かれる理由が、ゆのかには分からない。
(私の名前…珍しいから、よく聞き取れなかった……とか?
もう一度…名乗るべき…かな………?)
その時、ギッ!とベッドが傾いて、少しバランスが崩れる。
「…え?」
傾いた方に手をついて、バランスをとる。
そのまま、顔を上げると…視界いっぱいに、男が映りこんだ。
「ねぇ、」
「ひっ…!」
いつの間にか近くなっていた距離に、体がビクッ!と震える。
「あ…ごめんね。」
強ばるゆのかを見た男は、元の位置に戻る。
(び…っくり……した………
今の…何……?)
ゆのかは当然、大丈夫です。なんて言えるはずもなく…“気にしないでください”の意味を込めて、首を横に振った。
「実は、会わせたい人がいるんだけど…
君さえよければ、連れてきていいかな?」
ゆのかの顔に、警戒の色が走る。
(まさか…私の家の人?)
あからさまな怖がり方に、男は苦笑いした。
「この“家”の責任者なんだけど…実は、君を部屋に泊めたこと、まだその人達に言ってないんだよね。
遅かれ早かれ、事情を説明しなきゃいけないし……だったら実際に、君を見せた方が、早いかなって思って。」
“事情を説明”…その言葉に、ゆのかは素早く反応した。
「あ……のっ……わ…たし……」
「君が言う必要はないよ。」
「…!」
私は何も言えない。そう言おうとして、先に越されてしまった。
驚いて、固まっていると…男は楽しそうに、クスクス笑った。
「驚きすぎだって。何か訳ありだって、想像つくでしょ。」
「で…も……」
「禁海法に背いてまで海に飛び込んだこと、もう忘れたの?」
「!!!」
図星だ。心臓が、ヒヤリと縮こまった気がした。
「私……溺れ…て……
もし…かし…て……」
「その後すぐに、俺が助けた。」
「ごっ…ごめんなさい……」
「謝るくらいなら、もう夜の海に飛び込んじゃ駄目。俺がいなかったら、君は死んでたよ?」
男は優しく言う。ゆのかは、コクリと頷いた。
「何でそんなことをしたのか、追及するつもりはないし、誰かに言いふらすつもりもないけど……見ず知らずの女の子を一晩預かっちゃったって、責任者に報告だけはしないといけないんだよね。
怖い人じゃないから。ちょっとだけ、会ってくれないかな?」
海に飛び込むというだけで、厄介なはずなのに…溺れたゆのかを助け、服を貸し、部屋に泊めてくれた。
満足に会話できないゆのかに、持っている力で怯えさせることなく…ずっと、優しい雰囲気で、接してくれた。
(この人からしたら…私の方が正体不明で
危ない人かもしれないのに……ううん。実際、私と関わったら、大変なことになるのに…それでも、私を助けてくれたんだ……)
ひとまずゆのかは、男を信じることにして…もう一度、首を縦に振った。
「ありがと。ちょっとくつろいでて?」
男が部屋から出ていき、ゆのかは1人になった。
「はぁ………」
気の抜けた息が漏れる。脱力感が生まれた。
(“これから”のこと…考えないと。)
ゆのかの心が、ズン、と重くなる。
運が良いのか、悪いのか……“うみ”と名乗る男に助けられて、死ぬことはなかった。
(問題は、これから……追手に見つかったら、間違いなく、家に連れ戻される……
そうなったら…私は、また………人を…)
背筋が、ゾッと凍る。
(それだけは駄目。
何があっても、それだけは………)
ゆのかは、気持ちを落ち着かせるように、深呼吸した。
(まずは、“責任者”って人に会って…
事情を説明……とまでは、いかないけど……『私に会ったことは内緒にして欲しい』って、お願いして…
服、返してもらって…早くここから、出ていく…)
優しくしてくれた人達に、迷惑かけるわけにはいかない。
ゆのかの胸が、キリッと痛んだ。悲しくなっている暇はない。首を振って、ネガティブな感情を頭から追い出す。
(ここを出たら…少しでも遠くに、逃げる。)
持ってきたお金は、紙幣を4、5枚。履いていた黒のズボンのポケットの中にある。
だが、ゆのかは、財布なんて持っていない。そのまま海に入ったため、紙幣が使えるかどうか、あまり期待はできない。
より早く遠くに行くためには、交通機関だって使わなくてはならない。手持ちが底を尽きるのなんて、あっという間だろう。
(そうしたら私…働くのかな……?
身分、明かさなくても…働けるのかな…?)
“家にいるくらいなら死んでもいい”
そう思っていたゆのかにとって…これから先を、たった1人で生きることは、途方もなくて
(もし無理なら…私、死ぬしかないの…?
まだ……ののかに…会ってないのに………?)
不安要素を挙げると、キリがなかった。
ゆのかは、気を紛らわすように、机の上に目を向けてみた。
机には、大きなビンが飾ってあり、ビンの中に何か入ってる。
(白い、三角形の帆…船かな?
ビンの中に船……じゃああれは、ボトルシップ…かぁ……)
ゆのかの思考が停止した。
「え……えぇっ?!」
ホペ州では禁海法が実施されている。ボトルシップを置いたのを見つかった日には、直ちに逮捕されるだろう。
禁海法は、浜辺や海に入ったり…海、砂浜、船、魚、貝、イルカやクジラのような、海に関する単語を発言したりするだけでも、罰金や懲役が課せられる。海と関わるだけで、理不尽に罰する法律なのだ。
ホペ州では、禁海法に反する者は、かなり厳しく取り締まっており……軽い罪だったとしても態度次第ではすぐさま死刑となってしまう。
(それなのに…ボトルシップを、飾ってるなんて……あの人、何者なの…?
しかも、名前…うみ、って言ってたよね…?すごく良い名前だと思うけど…禁海法に、引っかからないのかな……?)
モヤモヤしていると、ゆのかは別の考えがひらめいた。
(もしかしてここって…ホペ州じゃなくて、別の州?)
トワの半分以上の州は、禁海法を実施しているが、実施していない州もある。禁海法を実施するか否かは、トワの王ではなく、その州の長である禁海法に決定権があるからだ。
(溺れた後、流されて…運良く、禁海法を実施していない別の州に辿り着いたのかも…
でも、ホペ州の周辺に…禁海法実施してない州なんて、あったっけ……?)
気づいたらゆのかは、ベッドから降りて、光が零れるカーテンへ近づいていた。
シャアッッ!!
失礼なのは承知の上で、閉じていたカーテンを思いっきり開ける。
輝く朝日が、目にしみる。
必死に目を開けて、窓の外を見ると…そこには、ホペ州の砂浜と海があった。
(う…嘘っ………
ここ…ホペ州なの…?!!)
驚くと同時に、ゆのかには別の疑問が芽生え始めた。
(この砂浜に、こんな立派な部屋は…絶対なかったよね…?
いくら、誰も近づかないからって…もし誰かが浜辺に住んでいたら、この辺に住んでいる人は、絶対気づくはず……)
ゆのかがホペ州に来て7年。記憶の限りでは浜辺に家なんて建っていなかったし、家を建てた日には、ホペ州中が混乱に陥る騒ぎになるだろう。
(でも……そんな騒ぎもなかった……
じゃあ…“ここ”は…この家は…一体、何…??)
疑問が、どんどん膨らんでいく。その時だった。
ドドッドドッドドッドドッ!!
地鳴りのような音。心なしか、床が揺れている気がする。
音は、徐々に大きくなっていった。
(誰かが…こっちに、来る…?!
っ、カーテン!)
シャッ!と、慌ててカーテンを閉めたのとほぼ同時に、勢いよくドアが開いた。
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