めぐり、つむぎ

竜田彦十郎

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はじまり

061 緋美佳の闘い

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「後は任せて。少し休んでいて頂戴」

 心の中は激しく滾っていたが、圭に向けた言葉だけはいつも通りの声が出せていたと、微かに安堵した。

「貴様…生きていたのか」

 胸に突き立てられた矢よりも、それを放った者への興味が勝ったらしい。
 人間ならば絶命してもおかしくない姿のまま、ヒミカの視線は突然の闖入者へと注がれていた。
 目に傷を負っているのか、顔の左半分は厚く巻いた包帯によって覆われているが、それは紛れもなくヒミカと同じ顔立ちをしている。
 正確には、ヒミカがその者の姿と瓜二つなのだが。

「あの程度で死ぬような鍛え方はしていない」

 圭を手酷く痛めつけた張本人へと視線を向け終えた時には、闖入者――鴫澤緋美佳の表情は凛とした退魔師のそれへと変じていた。

 そして、今日はいつもの緋美佳とは違っていた。
 志半ばで散っていった多くの仲間の無念、その時に何も出来なかった自分への落胆。
 そして何よりも圭を傷つけられた事への怒りが、今にも溢れ出さんばかりに体内に渦巻いている。
 常に冷静沈着が信条の緋美佳だが、今日ばかりはそんな訳にはいかなさそうだ。

「………」

 無言で目の前の侵蝕者を睨め付けながら、緋美佳はほんの数日前の出来事に思いを馳せる。

 山岳地帯の奥に巣食っているという侵蝕者の討伐隊が編成されたのが、遠い昔のように思える。
 少人数での行動が常の退魔師にしてみれば異例ともいえる人員数だったが、その慣れない編成が足を引っ張ったのだとは思いたくはない。
 事前調査には限界があり、情報不足の感は否めなかった。
 そのために先制攻撃を許す領域に迂闊にも踏み込んでしまった訳だが、人数が少なければ全員が人知れず屠られていた事は確実で、結果からすれば動員数がまったく足りていなかったのだと痛感する。

 退魔師達に襲い掛かったのは、彼らを取り囲む自然そのものだった。
 地面が足を掬い、木々が倒れ込むようにして身体を打つ。
 敵の正体が知れない事には反撃のしようがなく、逃げ惑うばかりで時間が過ぎていった。

(まさか、山そのものが侵蝕者だったなんて)

 正確には山自体が…ではなく、山全体を手足とできるほどに強大な侵蝕者だったという事だ。
 その事に気付いた時には、緋美佳の周囲には誰一人として残っていなかった。
 そして緋美佳も痛烈な一撃を顔に受け、谷底を流れる激流へと叩き落とされたのだ。

 下流の河原に流れ着き、打ち上げられた状態で意識を戻したのが今朝未明の事だった。
 本部に連絡をつけたものの、やはり討伐部隊は全滅したとの事だった。
 緋美佳だけでも生存していた事を本部の者は喜んでくれたが、胸中は複雑だった。

 身体は疲弊しきり、隊も解散扱いになった以上は元の生活に戻るよりほかなかったが、谷底に落とされてからどのように事態が推移しているかなど、緋美佳は知り得てはいない。
 本来の目的であった侵蝕者は姿を消してしまったと聞いたが、何者かに討伐された訳でもなく油断はできない。

 任は解かれたが、緋美佳の中では何も終わってはいなかった。
 治療と休息は必要だったが、叉葉山町まで送り届けて貰う中での仮眠と応急処置で十分だった。
 泥のように眠るのは、気を抜いても安全だと分かってからで良い。

 万一のために装備を整えようと叉葉山高に出向いてみれば、臨時休校になっている事に驚いた。
 とんでもない事態に見舞われていると察し武器を探していたところ、修練場で戦闘の始まる気配がした。
 装束まで整える余裕はなかったが、事態の見極めは必要であり、参道を使わずに修練場まで登ってみた。

 一体、誰が何と戦っているのか。
 木立の陰から様子を窺ってみれば、圭が蹴り飛ばされ、緋美佳の前方の木へと背を預ける場面に出くわしたのだ。


 自分と同じ姿の侵蝕者を見るに至り、緋美佳はすべてを理解した。
 やはり自分の戦いは終わってなどいなかったのだ。

 圭には悪いが今少し我慢して貰おうと涙を呑む。
 決して軽度の怪我ではないが、命にかかわるようなものでもないだろう。
 ましてや、敵意を剥き出しにしている眼前の侵蝕者をどうにかしない事には手当てどころではない。

「今度は川など無いからな。二度と這い上がれなくしてやる」

 不吉な笑みを浮かべるヒミカを前にしながらも、緋美佳は揺らぐ事はない。
 矢の尽きた弓を背後に投げ捨てると、一緒に持ち出していた手甲を左腕に嵌め込む。

 指先から肘までを特殊鋼の繊維と外殻で覆った手甲は、防具としてよりも攻撃のために選んだものだ。
 装着した側の指先の細やかな動作を放棄する事になるが、それを補って十分な効果は得られる筈だ。
 圭の右手に握られていた刀を取り上げると、空を切るようにして緋美佳は構えた。

「次に奈落に落ちるのは――貴様の方だ!」

 叫ぶや否や、緋美佳は一気に詰め寄った。

「――燃えろ!!」

 緋美佳の気勢に反応し、ヒミカに突き立ったままの矢が一斉に発火した。

「ぬうっ!?」

 マグネシウムと退魔符を織込んだ特別製の矢は一瞬のうちに炎を纏った楔と化し、ヒミカの上半身を火達磨にした。

 烈火は侵蝕者が最も苦手とするものである。
 全身を構築する土から水分を奪われた侵蝕者は人型を保てなくなるばかりか、炎によって核そのものが破壊されてしまうからだ。
 それは高位の侵蝕者であるヒミカとて例外ではなく、初めて見せる驚愕の表情で、自身にまとわりつく炎を振り払う。
 矢の燃焼効率が予想以上に高く、炎は即座に打ち払われたが、緋美佳にしてみれば十分すぎる効果だった。

「せやっ!」

 表層の脆くなった右脇腹に左拳を突き入れる。
 砂場で作り上げた山にトンネルを作る時のような感触が手甲越しに伝わり、同時に一つの核を叩き潰す手応えを緋美佳は感じた。

「…ぐっ!」

 ヒミカの表情が苦悶に揺らぎ、その動きに微かな鈍りが生じる。

(なるほどね)

 緋美佳はその表情の変化を見て納得した。
 緋美佳と同じ顔でそんな表情を出されては、圭もやり辛かったに違いない。
 事実その通りで、背後で気絶してしまっている姿が結果である。

 通常、『喰われた』者であればその動きにはぎこちないものが生じるのだが、人間の動きと比べても遜色のないヒミカを前にしては、最初から侵蝕者だと気付けた者はいなかっただろう。
 攻撃を当てた際に奪った緋美佳の血肉から遺伝子情報を読み取ったようだが、そこまで高度な芸当をやってのける侵蝕者というのも記録になく、それほどまでに眼前の侵蝕者は上位の存在であるという事だ。
 学術家肌の千沙都にしてみれば、研究欲求を駆り立てられずにはいられまい。

(彼女には後で謝らないとね)

 なぜなら、この侵蝕者はここで終焉を迎えるからだ。
 後日、圭と二人で根掘り葉掘り尋問のごとき質問攻めを覚悟しなくては。

 見れば見るほどに鏡を見ているような錯覚に陥りそうになるが、鏡に映る自分とは明らかに左右逆であり、そこに生じる違和感こそが侵蝕者なのだと強く認識させる。

「…ふっ!」

 左腕を引き抜きざま、手にした刀でヒミカの右肘を斬り落とした。
 日頃から、緋美佳は一つの戦い方を思索していた。
 それは複数の核を持つ侵蝕者との戦闘である。
 核を同時に潰せない限り、侵蝕者の勝利は揺るがないだろう。

 では、核を破壊するのではなく、隔離するとしたら?
 よろめくヒミカを蹴り飛ばし、足もとに残った右腕に視線を飛ばす。
 その中には核がひとつ入っているのだ。

(…よし、いける!)

 力なく転がった腕は土に還るでもなく、ヒミカ本体に戻ろうともしていない。本体から呼び寄せるにしても、一定の距離が開くと難しいのだろう。
 ましてや修練場は学校施設内。侵蝕者を拒絶する結界の中なのだ。
 ヒミカほどに強力な存在となれば結界など蚊に刺されたようなものだろうが、単体となった核が影響を受けない筈がない。

 こうして小分けするように核を引き剥がしていけば、戦闘が進むほどに有利になるのではないか。
 過ぎた楽観は危険を孕んでもいるが、闇雲に戦うよりは有効だと判断した。
 ただ、隔離した核を放置する事もできないので、いかに核を掌握しつつ戦闘を続行するかをすぐに考えねばならない。

「…ふん。なかなか考えたじゃないか」

 起き上がったヒミカは既に腕を再生していたが、その全身から発せられる威圧感は明らかに減じている。
 体内の核が減った事により、弱体化しているのだ。

「だが、まだまだ詰めが甘いな」

 ヒミカが口の端を吊り上げると同時に、緋美佳の左足首に激痛が奔った。
 見ると、力を失ったと思われた腕が、緋美佳の足首をがっちりと掴み取っていた。

「く…っ!」

 その万力のような圧力を前にしては、人間の骨など容易く砕かれてしまったろう。
 考えるよりも先に動いた切っ先が核を貫き、崩れた土塊が爪先の上に広がった。

 迂闊だった。
 核だけを残し、身となる土は削いでおくべきだったのだ。

「さぁて。まだまだ終わりではないのだろう?」

 体内で核の再生を果たし、余裕を取り戻したヒミカが薄く微笑んだ。
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