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はじまり
055 邂逅、あるいは遭遇
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「あ…あー、ごめん。桂木先生に頼まれ事があったんだ」
石段に到着したあたりで圭が足を止めた。少し時間が掛かりそうな事も併せて口にする。
「そっか。それじゃ、先に帰るぞ?」
一樹は、それが嘘だろうという事は見抜いていた。
男二人でどことなく重い空気を滲ませてしまっている事に気詰まりを感じたのだろうと察し、あえてその嘘に乗ってみせる。
軽く手を上げ小さくなってゆく後ろ姿を見送った後、圭は少し離れた山林へと身体を向けた。
一樹の察した通り千沙都の件は別行動をするための作り話だったが、その理由は一樹の想像とはまるで違っていた。
「……出てきていいぞ」
圭は木々の陰に姿を潜ませている人物に呼び掛けた。
既に一樹の姿は遠く、戻ってくる事もないだろう。
昨日の騒ぎを考えれば、他の生徒の目を気にする必要もない筈だ。
「人払いに感謝した方がいいのかな。それとも、ここは私が感謝されるべきなのかな?」
圭の言葉に応じ、雑草を踏み分け砂利の混じる芝生の上に歩を進めてきたその姿は、昨日と同じく緋色の袴のままだった。
「緋美姉……いや――ヒミカ」
よく知った筈の顔に浮かぶ表情は、我が目を疑う程に悪意が滲み出ている。
その中身が違うと知っていれば尚更だった。
妹にまで手を伸ばそうとした敵だと自分に言い聞かせるため、次に顔を見た時はそう呼ぼうと圭は昨夜から考えていた。
緋美佳が戻ってこないという現実を認めたくはないと感じながらも、侵蝕者というものを知った今では、どこかで線を引かねば死を迎えるのは自分なのだから。
「ふん、ご挨拶だな。覚悟は決めたといったところか」
緋美佳の顔をした侵蝕者――ヒミカは鼻でせせら笑った。
同じ顔でありながらも、その表情にはかつて圭が憧れた気高さは微塵もない。
ヒミカの言うところの覚悟が何を指しているのかは知りたくもなかったが、少なくとも戦うための覚悟はたった今、無理矢理に固めた。
圭自身、もう死んでも良いと思うだけの生き方をしていないし、妹の月菜はもとより親しい友人らに被害が及ぶ事など論外だ。
マンションに現れた時の様子を語った月菜の言葉からも、緋美佳の身体は既に人間ではないものに作り変えられている。
憑き物を落とせば元に戻るだとか、そういったレベルを突き抜けている。
「ひとつ、聞いておきたい」
次第に鋭くなる己の眼光を意識しながらも、気に掛かっていた事を口にせずにはいられなかった。
ヒミカは表情を落ち着かせ黙したまま。
とりあえず言うだけ言ってみろと目が語っている。
「教室で、どうして俺を助けた?」
侵蝕者が教室に現れた時、明らかに圭達の手に余る状況だった。
その圭を救い、その後の保健室でも圭が目覚めるのを待っていた。
圭が殺害目標であるザナルスィバだという事はヒミカにとっても既知の情報であり、確実に命を奪える機会を放棄しているのだ。
これが意味するところは何なのだろうか。
「貴様ら人間が侵蝕者と称する我々は――」
圭の質問に答える気がないのか、ヒミカはまるで見当外れと思われる言葉を紡ぎ出す。
しかしそれでも、その言葉を遮ろうとは思わなかった。
退魔師として侵蝕者を良く知る緋美佳の身体を、今は侵蝕者が己の肉としている。
その口から発せられる内容に興味を抱いてしまったからだ。
侵蝕者は物言わぬ殺人人形だが、言葉を繰る侵蝕者は何を語るのか。
「――我々は、個としての意志を持たない。この世に形作られてより滅するまで、人類を駆逐する事のみに動く」
世に知られる一般的な侵蝕者とは明らかに違う、五指を持つ自身の掌に視線を落とすヒミカ。
「こうして人間の身体を得た今も、どうやれば効率よく人間を始末できるか、どの闇に紛れて人間の背後を取るか、そんな事にしか思考を回さない」
細い指先を開いては握り……それを数回繰り返し、視線の先を圭へと戻す。
「…しかし、この女は相当に強固な自我を持っていたのだな。私が好機とみても、人間としての行動を取らせてしまう程に、だ」
圭は息を呑んだ。
つまり、教室に現れ、保健室で圭を見守っていた瞬間、肉体は侵蝕者であっても精神は緋美佳のままだったという事か。
「一樹が帰るのを待っていたのも?」
実をいえば、一樹と鉢合わせすると同時にヒミカの気配は察知していた。
事情を知らない一樹は間違いなく足手まといになるため、一緒のところを襲われたらどうしようかと内心焦っていたのだ。
そのような裏事情があったとなれば得心もいく。
「武士道、とでも言うのか。人間の持つ感情というものは無駄ばかりで、我々にはおよそ理解できないな」
吐き棄てるように表情を険しくするヒミカ。
話はこれで終わりだとばかりに圭に背を向けた。
「来い。この女の頑なさに免じて正々堂々と勝負してやろう」
中庭から校舎の裏手にある階段へと向かうヒミカ。
その階段はさらに上へと伸びており、生徒の間では『参道』などと呼ばれている。
山頂に小さな社が建ててある事がその名の由来となっているが、実際にそこまで登る事は滅多になく、その途中にある退魔師養成科の生徒のみが使う運動場が目的地だった。
ヒミカはそこで決着をつけようというのだ。
意志を、そして感情を持たないと語るヒミカだが、その言動には明らかに緋美佳の影響が見え隠れしている。
しかし、それは圭の闘争心に火を点ける結果になっている。
緋美佳の顔が、声が、手が。
ヒミカの一挙手一投足すべてが緋美佳を侮辱するものであり、一刻も早く自分の手で終止符を打ちたいと願わずにはいられない。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
(…なんてこった)
数段先を歩くヒミカの背を見上げながら、圭は改めてこの侵蝕者の強さを感じ取っていた。
侵蝕者には明確な弱点がある。ただの土塊を人型に保つために核を有している事だ。
その核を破壊されれば戦闘力を失い、その場で崩れ落ちる。
銃弾をいくら撃ち込もうとも核が破壊されない限りは平然と向かってくるし、針で軽く突いただけだとしても、核を捉えていればただの一撃で勝利を手にする。
核が身体のどこにあるのかは個体差のために一定ではないが、一流の退魔師は経験と勘でその部位が分かるらしい。
最前線で戦う退魔師が、ほぼ一撃で侵蝕者を屠る事ができるのはそのためだ。
哨戒部隊の持つ対侵蝕者装備や、ギガンティックシティの避難エリアの防御設備に電熱が多用されているのは、そういった背景がある。
高度な戦術を有する人材を配するよりも、核もろとも灼いてしまえばいいではないかというスタンスだ。
そして、有する核の数によって侵蝕者の強さ、格というものが違ってくる。
人間に向かって闇雲に突き進むだけの尖兵は核をひとつしか有していない。
それだけに斃す事にそれほどの苦労を強いられる訳ではないが、とんでもない数を投入してくるので始末が悪い。
翻って、出現した侵蝕者が少数であったならば、複数の核を有した強力な侵蝕者だという可能性が高い。
或いは、その身体を構築する土の量がその場に足りないかだ。
ギガンティックシティにおける初めての戦闘の際、その核の位置を見極めようとして過剰なまでに眼球を酷使してしまったのが圭が力尽きた原因だった。
ザナルスィバの力を自覚するようになり、今では苦もなく侵蝕者の核の位置を知覚できるようにはなっているのだが、今のこの場合、その能力は絶望にも似た感覚を圭に味あわせている。
七つ。
ヒミカの身体に内在する核の数を前に、圭は背筋に汗が浮くのを感じた。
複数の核を持つ侵蝕者を滅するには、同時にすべての核を破壊しなければいけない。
1~2秒程度の誤差ならばともかく、一つだけでも健在の核があれば、直ちに他の核を再生してしまうのだ。
そんな核を七つも持ち、しかも一定の位置に止まる事なく体内を移動させているヒミカとどう対峙すれば良いというのか。蠅を七匹叩き落とすのとは訳が違うのだ。
数人で一斉にかかるか、哨戒部隊が有するような広範囲をカバーする近代兵器を持ち出せば勝利に近付くだろうが、仮にこちらに有利な条件ばかり揃える事ができたにせよ、恐ろしく俊敏に動くヒミカがおとなしく討たれる筈もない。
(…やるしかないな)
無謀に過ぎるといって、何もせずに座すだけのつもりもなかった。
一度に七つは無理だとしても、何度でも核を潰しながら手を考えるしかない。
そう、核とて形を持つ存在なのだ。
理論上は無限の再生能力を誇るのかもしれないが、潰し続けるうちに綻びは必ず出る。
諦めなければ、勝機は巡ってくるに違いない。
石段を踏み締めるほどに頭上を覆う枝葉の量が増え、圭達の影をより大きな影で塗り潰していった。
石段に到着したあたりで圭が足を止めた。少し時間が掛かりそうな事も併せて口にする。
「そっか。それじゃ、先に帰るぞ?」
一樹は、それが嘘だろうという事は見抜いていた。
男二人でどことなく重い空気を滲ませてしまっている事に気詰まりを感じたのだろうと察し、あえてその嘘に乗ってみせる。
軽く手を上げ小さくなってゆく後ろ姿を見送った後、圭は少し離れた山林へと身体を向けた。
一樹の察した通り千沙都の件は別行動をするための作り話だったが、その理由は一樹の想像とはまるで違っていた。
「……出てきていいぞ」
圭は木々の陰に姿を潜ませている人物に呼び掛けた。
既に一樹の姿は遠く、戻ってくる事もないだろう。
昨日の騒ぎを考えれば、他の生徒の目を気にする必要もない筈だ。
「人払いに感謝した方がいいのかな。それとも、ここは私が感謝されるべきなのかな?」
圭の言葉に応じ、雑草を踏み分け砂利の混じる芝生の上に歩を進めてきたその姿は、昨日と同じく緋色の袴のままだった。
「緋美姉……いや――ヒミカ」
よく知った筈の顔に浮かぶ表情は、我が目を疑う程に悪意が滲み出ている。
その中身が違うと知っていれば尚更だった。
妹にまで手を伸ばそうとした敵だと自分に言い聞かせるため、次に顔を見た時はそう呼ぼうと圭は昨夜から考えていた。
緋美佳が戻ってこないという現実を認めたくはないと感じながらも、侵蝕者というものを知った今では、どこかで線を引かねば死を迎えるのは自分なのだから。
「ふん、ご挨拶だな。覚悟は決めたといったところか」
緋美佳の顔をした侵蝕者――ヒミカは鼻でせせら笑った。
同じ顔でありながらも、その表情にはかつて圭が憧れた気高さは微塵もない。
ヒミカの言うところの覚悟が何を指しているのかは知りたくもなかったが、少なくとも戦うための覚悟はたった今、無理矢理に固めた。
圭自身、もう死んでも良いと思うだけの生き方をしていないし、妹の月菜はもとより親しい友人らに被害が及ぶ事など論外だ。
マンションに現れた時の様子を語った月菜の言葉からも、緋美佳の身体は既に人間ではないものに作り変えられている。
憑き物を落とせば元に戻るだとか、そういったレベルを突き抜けている。
「ひとつ、聞いておきたい」
次第に鋭くなる己の眼光を意識しながらも、気に掛かっていた事を口にせずにはいられなかった。
ヒミカは表情を落ち着かせ黙したまま。
とりあえず言うだけ言ってみろと目が語っている。
「教室で、どうして俺を助けた?」
侵蝕者が教室に現れた時、明らかに圭達の手に余る状況だった。
その圭を救い、その後の保健室でも圭が目覚めるのを待っていた。
圭が殺害目標であるザナルスィバだという事はヒミカにとっても既知の情報であり、確実に命を奪える機会を放棄しているのだ。
これが意味するところは何なのだろうか。
「貴様ら人間が侵蝕者と称する我々は――」
圭の質問に答える気がないのか、ヒミカはまるで見当外れと思われる言葉を紡ぎ出す。
しかしそれでも、その言葉を遮ろうとは思わなかった。
退魔師として侵蝕者を良く知る緋美佳の身体を、今は侵蝕者が己の肉としている。
その口から発せられる内容に興味を抱いてしまったからだ。
侵蝕者は物言わぬ殺人人形だが、言葉を繰る侵蝕者は何を語るのか。
「――我々は、個としての意志を持たない。この世に形作られてより滅するまで、人類を駆逐する事のみに動く」
世に知られる一般的な侵蝕者とは明らかに違う、五指を持つ自身の掌に視線を落とすヒミカ。
「こうして人間の身体を得た今も、どうやれば効率よく人間を始末できるか、どの闇に紛れて人間の背後を取るか、そんな事にしか思考を回さない」
細い指先を開いては握り……それを数回繰り返し、視線の先を圭へと戻す。
「…しかし、この女は相当に強固な自我を持っていたのだな。私が好機とみても、人間としての行動を取らせてしまう程に、だ」
圭は息を呑んだ。
つまり、教室に現れ、保健室で圭を見守っていた瞬間、肉体は侵蝕者であっても精神は緋美佳のままだったという事か。
「一樹が帰るのを待っていたのも?」
実をいえば、一樹と鉢合わせすると同時にヒミカの気配は察知していた。
事情を知らない一樹は間違いなく足手まといになるため、一緒のところを襲われたらどうしようかと内心焦っていたのだ。
そのような裏事情があったとなれば得心もいく。
「武士道、とでも言うのか。人間の持つ感情というものは無駄ばかりで、我々にはおよそ理解できないな」
吐き棄てるように表情を険しくするヒミカ。
話はこれで終わりだとばかりに圭に背を向けた。
「来い。この女の頑なさに免じて正々堂々と勝負してやろう」
中庭から校舎の裏手にある階段へと向かうヒミカ。
その階段はさらに上へと伸びており、生徒の間では『参道』などと呼ばれている。
山頂に小さな社が建ててある事がその名の由来となっているが、実際にそこまで登る事は滅多になく、その途中にある退魔師養成科の生徒のみが使う運動場が目的地だった。
ヒミカはそこで決着をつけようというのだ。
意志を、そして感情を持たないと語るヒミカだが、その言動には明らかに緋美佳の影響が見え隠れしている。
しかし、それは圭の闘争心に火を点ける結果になっている。
緋美佳の顔が、声が、手が。
ヒミカの一挙手一投足すべてが緋美佳を侮辱するものであり、一刻も早く自分の手で終止符を打ちたいと願わずにはいられない。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
(…なんてこった)
数段先を歩くヒミカの背を見上げながら、圭は改めてこの侵蝕者の強さを感じ取っていた。
侵蝕者には明確な弱点がある。ただの土塊を人型に保つために核を有している事だ。
その核を破壊されれば戦闘力を失い、その場で崩れ落ちる。
銃弾をいくら撃ち込もうとも核が破壊されない限りは平然と向かってくるし、針で軽く突いただけだとしても、核を捉えていればただの一撃で勝利を手にする。
核が身体のどこにあるのかは個体差のために一定ではないが、一流の退魔師は経験と勘でその部位が分かるらしい。
最前線で戦う退魔師が、ほぼ一撃で侵蝕者を屠る事ができるのはそのためだ。
哨戒部隊の持つ対侵蝕者装備や、ギガンティックシティの避難エリアの防御設備に電熱が多用されているのは、そういった背景がある。
高度な戦術を有する人材を配するよりも、核もろとも灼いてしまえばいいではないかというスタンスだ。
そして、有する核の数によって侵蝕者の強さ、格というものが違ってくる。
人間に向かって闇雲に突き進むだけの尖兵は核をひとつしか有していない。
それだけに斃す事にそれほどの苦労を強いられる訳ではないが、とんでもない数を投入してくるので始末が悪い。
翻って、出現した侵蝕者が少数であったならば、複数の核を有した強力な侵蝕者だという可能性が高い。
或いは、その身体を構築する土の量がその場に足りないかだ。
ギガンティックシティにおける初めての戦闘の際、その核の位置を見極めようとして過剰なまでに眼球を酷使してしまったのが圭が力尽きた原因だった。
ザナルスィバの力を自覚するようになり、今では苦もなく侵蝕者の核の位置を知覚できるようにはなっているのだが、今のこの場合、その能力は絶望にも似た感覚を圭に味あわせている。
七つ。
ヒミカの身体に内在する核の数を前に、圭は背筋に汗が浮くのを感じた。
複数の核を持つ侵蝕者を滅するには、同時にすべての核を破壊しなければいけない。
1~2秒程度の誤差ならばともかく、一つだけでも健在の核があれば、直ちに他の核を再生してしまうのだ。
そんな核を七つも持ち、しかも一定の位置に止まる事なく体内を移動させているヒミカとどう対峙すれば良いというのか。蠅を七匹叩き落とすのとは訳が違うのだ。
数人で一斉にかかるか、哨戒部隊が有するような広範囲をカバーする近代兵器を持ち出せば勝利に近付くだろうが、仮にこちらに有利な条件ばかり揃える事ができたにせよ、恐ろしく俊敏に動くヒミカがおとなしく討たれる筈もない。
(…やるしかないな)
無謀に過ぎるといって、何もせずに座すだけのつもりもなかった。
一度に七つは無理だとしても、何度でも核を潰しながら手を考えるしかない。
そう、核とて形を持つ存在なのだ。
理論上は無限の再生能力を誇るのかもしれないが、潰し続けるうちに綻びは必ず出る。
諦めなければ、勝機は巡ってくるに違いない。
石段を踏み締めるほどに頭上を覆う枝葉の量が増え、圭達の影をより大きな影で塗り潰していった。
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