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はじまり
040 教室事変・2
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「さてと…」
穂は教室内を見渡した。
自分の判断が間違っていれば、それに越した事はない。
むしろ、間違いであって欲しいとさえ思う。
そうなれば騒動を起こした張本人として、土下座でも何でもして赦しを乞うだけだ。
問題は、想像通りであった場合だ。
教室内には、穂以外に圭と眞尋、三人のみが残っていた。
「あら。要さん、まだ居たのね。皆と一緒に避難してくれてよかったのに」
今気付きましたよとばかりに、大仰に肩を竦めてみせる穂。
「ぶーっ。圭ちゃんを残して行けるワケないじゃないの。それに、私にだってできる事くらいあるもん」
頬を思い切り膨らませる眞尋を見て、穂は微笑む。
ここまで純粋に圭を慕う姿勢は、穂の想いとは違ったところに位置しているようだ。
負けてあげる気など持ち合わせていないが、少しだけ羨ましくもある。
「それじゃあ、ちさ…桂木先生を探してきて貰えるかしら。もう戻っている筈なんだけど、私はまだコレだから」
微かに汚れを帯びたギプスを示し、穂は自嘲にも似た苦笑いをみせた。
「そうだな。今、こんな事を頼めるのは眞尋しかいないからな」
問題の現象を唯一視認できる圭がこの場を離れる訳にはいかず、結果として動ける者は限られてしまう。
眞尋も、自身に課せられた任務の重要性を理解したらしい。
圭と離れる事に不満を覚えつつも、その圭本人の希望とあれば引き受けない訳にはいかない。
「それじゃ、すぐに戻ってくるからねっ!」
軽く飛び跳ねるようにステップを踏むと、返事も聞かずに一気に教室を飛び出した。
まさに脱兎の如きフットワークだ。
「さて、こっちもやれる事をやらないとね。ちょっと机を片付けて貰えるかしら」
眞尋の気配が遠のいた事を確認すると、穂は書棚の片隅に置かれている箱を手にした。
蓋を外すと、中には白い紙束が詰まっている。
一掴みだけ取り出した紙束の状態を確認する間にも、圭は指示された通りに机を移動させて可能な限りの空間を確保する。
多少乱雑に扱ったせいで机の中の物が転がり出たりしているのは、緊急事態という事で目を瞑って貰おう。
「それは?」
穂が手にした紙束と書棚を見比べるようにして、圭は疑問を口にした。
書棚には各種授業で使用する参考資料や辞書といった書籍が置かれているが、穂が手にしている紙束はもちろん、それが収められていた箱も圭には見覚えのないものだった。
「緊急用の退魔符ね。まさか本当に使う事になるとは思わなかったけど」
言われて見れば、ただの紙片かと思われた表面には毛筆による文字と文様が施されているのが見て取れた。
各教室に同じ箱が設置されていると穂は付け加えたが、本来は生徒ではなく退魔師が使うためのものだ。
圭は知らなかったが、ギガンティックシティでの事件直後に千沙都の判断で設置したものである。
圭が保健室で眠っている間に行われていた作業だ。
「稀なケースだけど、こういう事もあるって聞いた事があるわ」
圭が視認した現象は、侵蝕者によるものなのだという。
学校施設には強固な結界が張られている事は広く知られているが、時に結界の僅かな綻びを抜けられる強力な個体がいるらしい。
この場合は、自身を粒子化して潜り込んだ後に実体化するのだという。
「結界を抜けられるのか……」
自分の目で見ながらも、やはり尋ねずにはいられなかった。
物量に頼って侵攻するしかできない侵蝕者であれば、結界面に近付いただけで己の形を保てなくなる。
それを壊そうとするでもなく、隙間を探り当てて内部に入り込むとなれば、どれほどの力を有しているのか見当もつかない。
力の優劣で言えば、結界を正面から壊す侵蝕者こそ強力なのだろうが、誰に気付かれる事なく潜り込もうとする方が恐ろしいと圭は考える。
「ここが中心でいいのね?」
今も謎の粉が落ち続けているポイントを中心に、放射状に退魔符を並べてゆく。
記憶にある話をするうちに、疑念は確信へと変わったのだろう。穂の動きには欠片ほどの迷いもない。
それにしてもと、圭は改めて穂を見る。
忙しなく手を動かしているにもかかわらず、退魔符を整然と並べ揃えてゆく様はかなり手慣れたものだと見受けられた。
身内に千沙都という現役の退魔師がいればこその話なのだろう。
「形だけは、それなりに教え込まれてきたからね」
だが、どんなに優秀な指導者がついていたのだとしても、対侵蝕者の実技が授業に組み込まれていない普通科の生徒ができる事など、たかが知れているというものだ。
それを突然の事態にここまで対処できる穂の優秀さに、感嘆の声を洩らさずにはいられない。
いざとなれば自らの中に眠る知識が助力してくれるだろうと考えていた圭だったが、そんな不確かなものに頼らずとも、穂だけで事足りてしまうのではないだろうか。
「……でも、ここまで。
退魔符の配置とかいくら覚えても、効力を発現・持続させるための霊力が乏しいのよ」
ひと仕事終えた穂が溜め息と共に肩を落とす。
それで普通科なのかと、圭は妙に納得しながらも足元へと視線を向けた。
一糸乱れず並べられた退魔符は、ある種の芸術を思わせる。
このような場面でなければ、参考資料として写真に収めたいくらいの出来栄えだ。
とりあえずは退魔師が駆けつけた時の下準備は整った事になるが、二人がここを離れて良いのかどうかは微妙なところだ。
クラスメイトに応援要請を頼んだとはいえ、誰が来るのかは分からない。
本当に千沙都が来てくれれば良いのだが、彼女以外にこの学校に籍を持つ退魔師は引退して久しいか、事務系の資格しか持っていない者ばかりだと思い至って舌打ちする。
中には緋美佳のように現役の退魔師として活動している生徒もいる筈だが、侵蝕者絡みの緊急事態だと告げていない以上、そういった事情に疎いクラスメイトは教師から探してゆくに違いない。
場合によっては緋美佳と同じく登校していない可能性すらあり、退魔師の肩書きを持つ者に要請が届くのか不安ばかりが残ってしまう。
生徒達の退避を敢行したまでは良かったが、言葉が足りなかったのは失敗だったと、穂は己の行動を振り返る。
「なぁ……」
足に負担がかからないようにと、近くの椅子に腰を下ろした穂に圭は声を掛けた。
「さっきの……千沙都さんが帰ってきているっての、嘘だろ?」
疑問を投げかけながらも、その表情には確信めいた色が浮かんでいる。
「…あら、バレちゃってた?」
悪びれた様子もなく、穂は小さく舌を出した。
千沙都が帰ってきているのならば緋美佳も同じ筈であり、そうなれば圭になんらかの連絡があって然るべきなのだ。
まったく期待していなかったと言えば嘘になるが、穂が眞尋を遠ざけようとした理由は見当がついていたので調子を合わせてみたのだった。
その理由とは、目の前に存在している侵蝕者だ。
今はまだ結界を通り抜けて侵入している途中だが、それが次の段階に移行した時に近くに居れば一方的に被害を受けるだけだ。
そんな明らかに危険な場所に、眞尋を置いておく事はできない。
「委員……穂も、早く避難した方がいいぞ」
二人きりだという状況を思い出し、圭は穂の呼び方を言い直した。
ちょっとしたご機嫌取りのようなものだが、そうすれば素直に従ってくれるのではないかと考えたのだ。
「そうねぇ……」
形の良い顎に指を添え、穂は考えた。
圭と二人きりの空間から辞すのは残念で仕方がないが、手伝える事がない以上は歩行が不自由なだけ眞尋以上に足手纏いなのだと理解してもいた。
圭一人ならば、事態が悪い方へ流れていったとしても切り抜けられるに違いないからだ。
穂は教室内を見渡した。
自分の判断が間違っていれば、それに越した事はない。
むしろ、間違いであって欲しいとさえ思う。
そうなれば騒動を起こした張本人として、土下座でも何でもして赦しを乞うだけだ。
問題は、想像通りであった場合だ。
教室内には、穂以外に圭と眞尋、三人のみが残っていた。
「あら。要さん、まだ居たのね。皆と一緒に避難してくれてよかったのに」
今気付きましたよとばかりに、大仰に肩を竦めてみせる穂。
「ぶーっ。圭ちゃんを残して行けるワケないじゃないの。それに、私にだってできる事くらいあるもん」
頬を思い切り膨らませる眞尋を見て、穂は微笑む。
ここまで純粋に圭を慕う姿勢は、穂の想いとは違ったところに位置しているようだ。
負けてあげる気など持ち合わせていないが、少しだけ羨ましくもある。
「それじゃあ、ちさ…桂木先生を探してきて貰えるかしら。もう戻っている筈なんだけど、私はまだコレだから」
微かに汚れを帯びたギプスを示し、穂は自嘲にも似た苦笑いをみせた。
「そうだな。今、こんな事を頼めるのは眞尋しかいないからな」
問題の現象を唯一視認できる圭がこの場を離れる訳にはいかず、結果として動ける者は限られてしまう。
眞尋も、自身に課せられた任務の重要性を理解したらしい。
圭と離れる事に不満を覚えつつも、その圭本人の希望とあれば引き受けない訳にはいかない。
「それじゃ、すぐに戻ってくるからねっ!」
軽く飛び跳ねるようにステップを踏むと、返事も聞かずに一気に教室を飛び出した。
まさに脱兎の如きフットワークだ。
「さて、こっちもやれる事をやらないとね。ちょっと机を片付けて貰えるかしら」
眞尋の気配が遠のいた事を確認すると、穂は書棚の片隅に置かれている箱を手にした。
蓋を外すと、中には白い紙束が詰まっている。
一掴みだけ取り出した紙束の状態を確認する間にも、圭は指示された通りに机を移動させて可能な限りの空間を確保する。
多少乱雑に扱ったせいで机の中の物が転がり出たりしているのは、緊急事態という事で目を瞑って貰おう。
「それは?」
穂が手にした紙束と書棚を見比べるようにして、圭は疑問を口にした。
書棚には各種授業で使用する参考資料や辞書といった書籍が置かれているが、穂が手にしている紙束はもちろん、それが収められていた箱も圭には見覚えのないものだった。
「緊急用の退魔符ね。まさか本当に使う事になるとは思わなかったけど」
言われて見れば、ただの紙片かと思われた表面には毛筆による文字と文様が施されているのが見て取れた。
各教室に同じ箱が設置されていると穂は付け加えたが、本来は生徒ではなく退魔師が使うためのものだ。
圭は知らなかったが、ギガンティックシティでの事件直後に千沙都の判断で設置したものである。
圭が保健室で眠っている間に行われていた作業だ。
「稀なケースだけど、こういう事もあるって聞いた事があるわ」
圭が視認した現象は、侵蝕者によるものなのだという。
学校施設には強固な結界が張られている事は広く知られているが、時に結界の僅かな綻びを抜けられる強力な個体がいるらしい。
この場合は、自身を粒子化して潜り込んだ後に実体化するのだという。
「結界を抜けられるのか……」
自分の目で見ながらも、やはり尋ねずにはいられなかった。
物量に頼って侵攻するしかできない侵蝕者であれば、結界面に近付いただけで己の形を保てなくなる。
それを壊そうとするでもなく、隙間を探り当てて内部に入り込むとなれば、どれほどの力を有しているのか見当もつかない。
力の優劣で言えば、結界を正面から壊す侵蝕者こそ強力なのだろうが、誰に気付かれる事なく潜り込もうとする方が恐ろしいと圭は考える。
「ここが中心でいいのね?」
今も謎の粉が落ち続けているポイントを中心に、放射状に退魔符を並べてゆく。
記憶にある話をするうちに、疑念は確信へと変わったのだろう。穂の動きには欠片ほどの迷いもない。
それにしてもと、圭は改めて穂を見る。
忙しなく手を動かしているにもかかわらず、退魔符を整然と並べ揃えてゆく様はかなり手慣れたものだと見受けられた。
身内に千沙都という現役の退魔師がいればこその話なのだろう。
「形だけは、それなりに教え込まれてきたからね」
だが、どんなに優秀な指導者がついていたのだとしても、対侵蝕者の実技が授業に組み込まれていない普通科の生徒ができる事など、たかが知れているというものだ。
それを突然の事態にここまで対処できる穂の優秀さに、感嘆の声を洩らさずにはいられない。
いざとなれば自らの中に眠る知識が助力してくれるだろうと考えていた圭だったが、そんな不確かなものに頼らずとも、穂だけで事足りてしまうのではないだろうか。
「……でも、ここまで。
退魔符の配置とかいくら覚えても、効力を発現・持続させるための霊力が乏しいのよ」
ひと仕事終えた穂が溜め息と共に肩を落とす。
それで普通科なのかと、圭は妙に納得しながらも足元へと視線を向けた。
一糸乱れず並べられた退魔符は、ある種の芸術を思わせる。
このような場面でなければ、参考資料として写真に収めたいくらいの出来栄えだ。
とりあえずは退魔師が駆けつけた時の下準備は整った事になるが、二人がここを離れて良いのかどうかは微妙なところだ。
クラスメイトに応援要請を頼んだとはいえ、誰が来るのかは分からない。
本当に千沙都が来てくれれば良いのだが、彼女以外にこの学校に籍を持つ退魔師は引退して久しいか、事務系の資格しか持っていない者ばかりだと思い至って舌打ちする。
中には緋美佳のように現役の退魔師として活動している生徒もいる筈だが、侵蝕者絡みの緊急事態だと告げていない以上、そういった事情に疎いクラスメイトは教師から探してゆくに違いない。
場合によっては緋美佳と同じく登校していない可能性すらあり、退魔師の肩書きを持つ者に要請が届くのか不安ばかりが残ってしまう。
生徒達の退避を敢行したまでは良かったが、言葉が足りなかったのは失敗だったと、穂は己の行動を振り返る。
「なぁ……」
足に負担がかからないようにと、近くの椅子に腰を下ろした穂に圭は声を掛けた。
「さっきの……千沙都さんが帰ってきているっての、嘘だろ?」
疑問を投げかけながらも、その表情には確信めいた色が浮かんでいる。
「…あら、バレちゃってた?」
悪びれた様子もなく、穂は小さく舌を出した。
千沙都が帰ってきているのならば緋美佳も同じ筈であり、そうなれば圭になんらかの連絡があって然るべきなのだ。
まったく期待していなかったと言えば嘘になるが、穂が眞尋を遠ざけようとした理由は見当がついていたので調子を合わせてみたのだった。
その理由とは、目の前に存在している侵蝕者だ。
今はまだ結界を通り抜けて侵入している途中だが、それが次の段階に移行した時に近くに居れば一方的に被害を受けるだけだ。
そんな明らかに危険な場所に、眞尋を置いておく事はできない。
「委員……穂も、早く避難した方がいいぞ」
二人きりだという状況を思い出し、圭は穂の呼び方を言い直した。
ちょっとしたご機嫌取りのようなものだが、そうすれば素直に従ってくれるのではないかと考えたのだ。
「そうねぇ……」
形の良い顎に指を添え、穂は考えた。
圭と二人きりの空間から辞すのは残念で仕方がないが、手伝える事がない以上は歩行が不自由なだけ眞尋以上に足手纏いなのだと理解してもいた。
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