群青の緋

竜田彦十郎

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或いは夢のようなはじまり

18 マンホール

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「おかえり。待ってたわよ」

 道場よりの帰路。
 駅の改札口を抜けた直樹を待っていたのは、香月だった。

「え……?」

 こんなところで香月と顔を合わせるなどと思っていなかった直樹は思考が固まってしまった。
 道場の帰りに待ち合わせをした事は何度かあるものの、今日はもちろんそんな約束はしていない。

「ほらもー、そんなとこで立ち止まるんじゃないわよ」

 改札を抜けた他の乗客が迷惑そうな顔をして避けていくのを見兼ねた香月は、直樹の手を取って壁際に引っ張ってゆく。

「え…? ……え?」

 タイミング的には希理の件で間違いないだろうが、香月の表情を見る限りでは怒っているようには見えなかった。

「服を買ったはいいんだけどさ。荷物が大きくなっちゃって、他の物が買えなかったのよね」

 直樹の手を引いたまま、香月は商店街に向けて歩を進めてゆく。
 どうやら、希理の件は誤解であった事を理解してもらえたようだ。
 些事に拘らないというか、終わった事を端から忘れていけるのは香月の特技のひとつだ。
 もちろんそれは忘却するという意味ではなく、思考の優先度を自由に変える事ができるというものだ。直樹からしてみれば、羨ましいばかりの特技だ。

 過ぎた事をいつまでも引き摺るのは精神衛生上良くないと、香月はこれまでに何度も口にしている。そういった前向きな思考もまた、重要な要素のひとつなのだろう。

「はいはい。荷物持ちでもなんでも付き合うよ」

 直樹は歩くペースを上げ、香月に並んだ。


  ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇


 買い物自体は、あっさりと終わったものだった。
 小さなコンビニ袋ひとつに収まってしまう程度のものであり、これならば直樹を待つまでもなかったのではないかと思ったが、希理の一件は水に流したという事を香月なりに早く伝えたかったのだろう。

(香月らしいというか……)

 そんな部分を微笑ましく感じてしまう直樹だった。

「それで、ユキったらね……」

 直樹が離脱した後の、友人らとの買い物の様子を熱っぽく語る香月。

「そのクレープ屋の店員さんがさー」

 着の身着の儘、新條家に転がり込んだ香月である。
 日常生活に必要な衣類調達がメインのショッピングではあったが、友人らと楽しむ事も忘れてはいないようだった。
 直樹も道場を理由に逃げ出さなければ香月らと最後まで楽しんだのだろうかと思ったが、話題に挙げられているような女子に人気の店で談笑にふける自分の姿というものがどうしてもイメージできない。
 どちらにせよ道場には行くつもりであったし、どこかでタイミングを見て中座しただろう事は想像に難くない。

「新作の水着も色々と試着してみたりねー」

「む…」

 実に楽しげにショッピングの話を続ける香月。
 水着姿が見られたのならば何を措いても優先すべきだったのではとも考えたが、男の自分が居ればそもそも水着売り場になど寄る事も無いのだろうと思うと複雑な心境だ。

「で、キィがアイスを落としちゃってさー」

 何にせよ、こうして香月が笑っていられるという事実が直樹には純粋に喜ばしい。
 今はまだ強がっている部分もあるのだとしても、いずれ時間が解決してくれるのだろう。

 街灯と店頭の照明に彩られた商店街を、談笑しながら歩く二人。

「えいっ! タックルっ!」

 香月が小さく飛び跳ねながら直樹の肩にぶつかってきた。
 落ち着きのない香月は周囲を見回しながらも、構って欲しさからかこうしてじゃれついてきたりする。
 香月にしてみれば、聞き手に回るばかりの直樹を構ってあげているつもりなのかもしれないが。
 そんなところも可愛いものだと思いながら、

「おっとっとぅ」

 などと、押されるままに蹌踉けてみせたりもする。
 誰に邪魔されるでもない二人だけの時間は、直樹にとって至福のひとときである。

 が。

「――ひゃ?」

 そんな声を残し、直樹の視界から香月が消えた。
 よろけすぎて香月に背を向けた訳でもない。香月の発した声がなによりの根拠だった。

「――香月っ!」

 状況を理解するよりも早く、左腕が伸びていた。
 しかし香月が居た筈の場所には何の手応えもなく、直樹の指先は拳を作っただけに終わる。

――間に合わなかった。

 目を背けたい結果に強く目を閉じる直樹だったが、

「むっひょ~。セーフセーフ」

 おどけた声が直樹の耳に届き、伸ばしたままの腕にかかる確かな重み。
 視線を向ければ、直樹の左腕にぶら下がった姿勢の香月があった。
 声音とは裏腹に瞠目した表情は硬く、血の気が引いた顔色をしている。
 その足下を見ればぽっかりと穴が空いており、香月の腰までが銜え込まれるように隠れていた。

(マンホール?)

 香月が落ちそうになった穴は確かにマンホールであり、専用の道具なしではおよそ動かせそうにない鉄製の蓋が外されていた。
 周囲を見ても作業中である事を示すような物は何もなく、商店街を往来する誰もが香月に起きた異変によって初めてマンホールの蓋が外れている状況に気付いた様子だった。

「早く上げて~。ワニが…ワニが大口開けて待ち構えてるぅ~」

 商店街が騒然とし始める中、香月から催促の声がかかった。
 もちろんワニなど居る筈もないが、香月の中では下水道にはワニが徘徊しているものらしい。
 左腕にかかる重みを香月を救えた事の歓びとして噛み締めていたくもあったが、香月にしてみればこのままの状態など虐待でしかないだろう。余計な振動を与えないように、香月の身体を引き上げた。

「あなた達、大丈夫? 怪我とかない?」

 地べたにに座り込んでぜーはーと息を荒げる香月に、買い物客と思しき女性が声を掛けてきた。

「……! ……!!」

 香月は今になって恐怖を認識したらしく、カチカチと歯を鳴らしながら小刻みに頷いた。

『大丈夫、ありがとう! かすり傷ひとつないし、元気元気!』

 いつもならばこんな調子で受け答えするところなのだが、マンホールに落ちかけるなどという希有な体験は想像以上にショックを覚えたようだ。

(そればかりじゃ……ないな)

 つい先日、住まいであるマンションを襲った爆発事故。
 こうも立て続けに不運に見舞われれば、さすがの香月も青褪めるばかりだ。

「ほら、いくぞ」

 香月の両脇に手を差し込んで無理矢理に立たせると、ふらつく身体を支えるように直樹は自らの背を押しつけた。
 有無を言わさずに香月を背負うと、さっさとその場を離れる。

 あのままマンホール前に残ってみたところで、2人にとって好転する要素など見当たらなかったからだ。
 場合によっては警察がやってきて、事情聴取なんて事にもなりかねない。
 警察相手に後ろ暗いところがある訳でもなかったが、有力な後ろ盾もない――有り体に言って一般人でしかない直樹らが一方的に疲弊するのは火を見るよりも明らかである。

 そんな場所にいつまでも居られるかっ! というのが直樹の私見であり、その判断は間違ったものではない。

「……ありがと」

 それが何に対しての言葉だったのか、直樹はあえて聞かずに足を動かしていた。
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