群青の緋

竜田彦十郎

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或いは夢のようなはじまり

08 夜の一幕

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 どこか遠くで犬が吠えていた。
 遠吠えの連鎖を耳にした夜などは、自然の世界の脈動といった力を感じずにはいられない。直樹は時折、そんな風に考える。
 満月は命を持つものに、様々な影響を与えるという。残念ながら今夜は満月ではなかったが、それでもあの犬は吠えずにはいられないような感覚を覚えたのだろうか。

「犬の遠吠えってさ」

 水を切った食器を拭く手を止め、香月が口を開いた。
 テレビは点けていなかった。特に何を語らうでもなく夕食の後片付けをしていた折、不意に耳に飛び込んできた音に何かを感じるのは不思議な事ではない。
 白い泡に塗れたスポンジを握る手を休め、派手な花柄のエプロン姿の直樹は香月へと視線を向けた。
 ちなみに今夜は直樹が食器洗い、香月がそれを拭く役目を負っている。

「なにかを、仲間に報せているんじゃないかと思うのよね」

「ほう」

 平常心で返答しながらも、直樹が手にしたスポンジは大きく形を歪めた。
 大多数の人間は、当然のように香月と同じような事を口にするだろう。実際、遠吠えの持つ意味のひとつは仲間への呼び掛けと考えられている。

 しかしそれでも、その先に続く言葉に期待せずにいられない。
 何を期待しているでもないのだが、時に突飛な行動を示す少女の口からはどんな言葉が飛び出すのか。
 どうという事のない雑談ひとつをとっても、新鮮な気持ちで耳を傾けられる。
 視線を少女に向け、その先を促した。

「たぶんさ――」

「たぶん――?」

 喉が大きく動き、大量の空気を肺に送り込む。その音は香月の耳に届いてはいない。

「地球は、侵略者に狙われているのよ!」

 言い切った。

 それにしても、地球侵略説とは大きく出たものだ。

「あの犬は、宇宙人が降りてくるのを見たのよ!」

 人差し指をビシリと立てて息巻く香月を前に、直樹の右眉がピクリと震えた。

やつら・・・は地球人を奴隷や家畜にするべく、遠い遠い宇宙からやってきたのね。でも、実体を持たないエネルギー生命体であるために、普通の人間には見えないの。
 でもでも、犬の超感覚はそういった連中の存在をちゃんと知覚できてね、それで仲間達に注意を促すように呼び掛けているの」

 香月は手に握っていた布巾を解くと、人差し指でくるくると器用に回し出す。さながらピザ職人のようだ。

「人間を愛している犬達はなんとかしてそれを飼い主に伝えようとするんだけど、まったく上手くいかなくてね。こうなったら自分達でなんとかするしかないと決断するの。
 でもでもでもっ、人間に酷い目に遭わされて恨んでいる犬も多くいてね、犬同士のコミュニティも二分されちゃうのよ」

 ゆるゆると回っていた布巾がいよいよ勢いを増してくるのを見て、直樹は眉間を軽く押さえた。
 このまま放置しておけば、涙なしには語れないエンディングまで一気に突っ走ってしまうだろう。香月がどのような創作を披露するのか興味はあったが、そこに辿り着く頃には空が白んでいるかもしれない。直樹は目を細めて溜息を呑み込んだ。
 ほぼ水平に近い状態で回転を続ける布巾をつまみ取ると、香月の顔面を包み込むように放り投げた。

「うにゃっ?」

 顔を塞がれてまで口を動かし続けられる程にのめり込んでいない香月は、湿った布巾を顔から剥がして不満の混じった視線を直樹に向けてきた。

「その話の続きは、また時間がある時にでも聞かせてくれ」

 時間ができる頃にはもう忘れているんだろうなと思ったが、さすがにそこまでは口にしない。直樹はエプロンを外すと手近な椅子の背に引っ掛けた。

「戸締まりは忘れるなよ?」

 玄関口で靴を手早く履き終えた直樹は、食器を棚に戻す香月の背に呼び掛けながら鉄製の扉を押し開ける。

「大丈夫よ、そんなに子供じゃないんだから」

 香月の不満声が薄暗い通路に出た直樹の背に当たったが、重い扉の閉まる音がそんな声を完全に掻き消した。
 そして今度は、小さくなってゆく鉄扉の反響音を直樹の足音が打ち消してゆく。

 薄明かりに照らされるマンションの通路はどこか寂しげな色に見えた。
 無機質な彩りの空間は命の存在というものを感じさせない。機能性を追求したと言えばそれまでだが、いつから人の世はこんな寂しい夜を迎えるようになってしまったのか。

「……ふん」

 人の気配がなくなると愚にもつかない事を考えてしまう癖が直っていない事を実感し、呆れたように鼻息を漏らす。
 そして階段まで移動した直樹は、自分が歩いてきた通路へと視線を向けた。この空間を照らす弱い光では自分が出てきた扉がうっすらと見える程度で、そこから香月が出てきても表情までは読み取れないだろう。

(…ああ、そうか)

 どうしてこんなにも人の気配を感じないのか。それは、通路に面したどの窓も光を漏らしていないのだ。
 香月の部屋は一番奥の角部屋のために通路に面した窓は存在しないが、他の部屋は何かしらの窓が扉の隣に設えてある。奥まった部屋であったとしても照明が点けられれば、生活している人間がいるのだという気配は通路から窺い知れるようになるものだ。
 つまりは、この階の住人は誰も帰ってきていないという事である。
 時刻は22時を回ろうとしている。この時間に帰宅出来ていないなど、これもまた時代の流れというものか。

(ま、色々とあるよな)

 香月が帰宅しているからといって、他の住人も居ると思うのはあまりに短絡的だ。
 社会人であれば夜のつきあいがあるかも知れないし、夜の時間帯に働いている人もいるだろう。そういった者がいるからこそ、都心部などは不夜城の様相を見せるようにもなる。
 可能性を挙げ始めればきりが無い。ここの住人についての考察を中断した直樹は、ゆっくりと階段を降り始めた。通路と同じく控え目な蛍光灯ではあったが、閉鎖された空間のせいか妙に明るく感じられた。
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