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彼を傷付けたかっただけなのに、何故か甘やかされまくっている。
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「紹介しよう、俺の婚約者のフランシスだ」
今日の主役二人が壇上で輝く。僕はそれを、ただぼんやりと見上げていた。
知っていた、何もかも。今晩彼の隣に立てるのは僕じゃないと分かった上で、ずっと爛れた関係を続けていた。
確かに僕たちは付き合っていたけど、彼から明確な愛の言葉を聞いた事は一度もない。それでも僕は、満足だった。
大好きな彼のそばに居たい、ただそれだけだった。なのにそれすら、許されなかった。
「……あぁ、息がしにくい」
この世は何て不条理なんだろう。こんなに彼に尽くしてきた僕が選ばれず、悪い噂の絶えない彼が婚約者になるなんて。
まぁ結局は、顔なんだろうな。あの人は自分の傍に置く人間は、能力ではなく顔で決めているから。
だから、僕がそれを補っていたのだけど。仕事の出来ない奴らに代わって、僕が執務を担っていた。
今頃彼の邸は大騒ぎだ。だって、碌な引き継ぎなんてせずに荷物を纏めて出て行ったから。
ざまぁみろ、心の中で毒を吐いた。それでも僕は、変わらず彼が大好きだった。
さらりと揺れる綺麗な髪も、整った精悍な顔立ちも…形のいい唇から出る声も吐息も、僕の事を弄んで楽しんでいる性格の悪さも。
全部全部、好きだった。だから、僕を捨てた事を一生後悔して欲しい。
「…ご婚約おめでとうございます、閣下」
「あぁ、アレックスか…ありがとう、君にも良い人が早く見つかるよう祈ってるよ」
いけしゃあしゃあとそう宣う彼に、一瞬だけ殺意が湧く。
でもいいんだ、彼に死んでもらうにはまだ早い。僕がどれだけ彼を愛しているのか、憎んでいるのか…はっきりと見てもらう必要があるのだから。
「僕には、とてもとても愛する人が居るのです。彼はとても美しく、優しく、時に酷く僕を痛めつけるんです」
「…それは、別れた方が良いのではないか?」
「えぇ、分かってます。ですが、そんな彼がどうしようもなく愛おしくて可哀想で、僕が離れられないのです」
可哀想、という単語を聞いた瞬間彼の眉間に皺がよる。あぁ、本当に可哀想だ。
だって彼は、僕がこれからしようとしていることを知らない。知ってたらきっと、この会場に僕を入れたりなんかしない。
この婚約発表は、僕への当て付けだ。お前なんか自分の傍に置く気はない、今までご苦労様と主張して、僕が傷つくさまを嘲笑いたかったんだろう。
甘いなぁ、もう。そんなんだから、社交界で頭でっかちだなんて言われちゃうんだよ。
ジャケットのポケットに忍ばせておいた小瓶を取り出す。透明のとろりとした液体は、即効性のある毒薬だ。
見た目からは想像付かないが、しっかりとした違法薬物である。彼は訝しげに眉を顰めたまま此方を見ていた。小瓶の蓋を開け、彼の目の前で一気に飲み干す。
途端に指先が痺れ、何かがせり上がってくる。咄嗟に口元を片手で覆ったけど間に合わず、僕の口から大量の血液が溢れだした。
「な、なっ…!?」
周囲の人間は悲鳴を上げながら逃げ出し、彼はその場にしりもちをつく。あはは、無様だなぁ。
彼の婚約者は異変を察知してさっさと会場の奥へと退散していた。どうやら、そういう悪知恵はやたらと働くらしい。
ひゅーひゅーと細くなっていく呼吸、色が失せていく視界。僕は死ぬんだなぁなんて暢気な事を考えながらその場に倒れ込む。
でも良かった、最後に彼の痴態を拝む事が出来て。冥途の土産にピッタリだ。
「っ…駄目だ、アレックス…!」
最後に聞こえた悲痛な声は、誰のものなのか分からなかった。
◇
「…、」
ふと目を覚ますと、見慣れない天井が目に入る。いや、違うな。これはベッドの天蓋の部分か。
身体は酷く重たくて、指先一つ動かせない。あれ、僕寝る前何してたんだっけなぁ…。
そこで漸く思い出す。そうだ、僕は彼の婚約発表の夜会で毒を飲んで自殺しようとしたんだった。あれ、でも生きてるな。おかしい、あの毒は適切な処置を一定時間内に行わない限り解毒は不可能なはずなんだけど。
視線だけキョロキョロと動かして、違和感に気づく。この部屋の調度品の至る所に施されている鷲の意匠は、隣国の王家のものではなかっただろうか。
…もしかして、国際問題にまで発展した?そんな馬鹿な。僕も彼も彼の婚約者も、隣国とは何の縁も持っていない筈だ。もし王家なんかと縁深ければ、流石に覚えているだろうし。
幾ら考えても悩んでも、答えなんて出なかった。まぁ人生諦めが肝心だとも言うし、ここは大人しく諦めて沙汰を待とう。
そう決意した直後、部屋の扉が開かれた。そして、僕と彼の視線が交わる。
「アレックス!目が覚めたんだな…!」
心底嬉しそうに僕の名前を呼ぶ彼を、僕は知らない。いや、一方的に知ってはいるが。
隣国、シェヘラ王国の第二王子。名前は、ベラトリクス・シェヘラ。
龍の愛し子、聖龍の神子など国内での人気が高い方だ。そんな彼は王太子の忠実な家臣として、色々な政策に関わっている。王太子が正式に王となれば、王弟として公爵位を賜る予定だと聞いた。
そんな人が、何故僕の事を愛おしそうに呼ぶんだろう。面識だって、ない筈だ。でも何故だか懐かしい気がして、ちょっとだけ気持ち悪い。
「ふふ、私の事が分からない…という顔だね。でも今は、それは横に置いておこう」
そう言って易しく微笑む殿下は、僕の頭を大きな掌で優しく撫で始めた。
それがあたたかくて心地よくて、うとうとしてしまう。今にも寝てしまいそうな僕を、殿下は優しく見守っていた。
ゆるく細められるエメラルドの瞳。その光景に何だかデジャヴを感じるのに、思い出せそうで思い出せない。喉の奥に魚の骨が引っかかっているような、そんな感じ。
今すぐ思い出したいのに…そんな考えも虚しく、僕は心地よい眠りの世界へ潜っていった。
「アレン、私の愛しい人…絶対に君を、幸せにする」
殿下が呟いた一言は、僕の耳には届かなかった。
◇
再び目を覚ましても、僕は変わらずあの部屋のベッドに横たわっていた。
唯一違っていた事といえば、今回は殿下が最初から部屋の中に居た事だろうか。僕の片手を握り、椅子に座ったまま眠っていた。
寝起きの上手く働かない頭で、ぼんやりと殿下の端正な顔立ちを見つめる。スッと通った鼻筋に、薄くて形のいい唇。さらりと揺れる青みがかった黒髪は、角度によって藍色にも真っ黒にも見える。
今は閉じてしまっているが、瞼の奥には眩いばかりのエメラルドがはめ込まれている。僕のありきたりな茶髪や茶色の虹彩とは天と地ほどの差がある美しさだ。
…そう言えば昔、王宮の大規模なお茶会で似たような色合いの女の子と話したっけ。もしかしたら、殿下の妹君か親戚かもしれないな。
「…そんなに見つめられると、照れるんだが」
いつの間にか起きていたらしい殿下が、困ったように呟きながら目を開ける。直ぐに見えたエメラルドに思わず見蕩れてしまった。
不意に殿下の手が僕の方へと伸びてくる。不思議に思って視線で指先の動きを追っていれば、そっと頬を撫でられた。
慈しむように、宝物に触れるように…そんな繊細な動きがどうしようもなく嬉しくて、思わず笑みが浮かんでしまう。
「っ…君はまた、そんな無防備に…」
眉間に皺をつくった殿下が、何処か怒ったように呟く。その理由がいまいち分からなくて首を傾げていれば、不意に殿下の顔が近づいてきた。
ふにり、唇に柔らかな感触が触れる。視界いっぱいに映るのは殿下の端正な顔立ち。
驚いてぱちぱちと瞬きを繰り返していれば、口内にぬるりとした物が侵入してきた。抵抗する間も無く僕の舌を絡め取り、擦り合わせられる。
くちゅくちゅと響く水音がどうしようもなく羞恥を掻き立てられる。でもそれ以上に気持ちよくて、もっとして欲しいと求めてしまう。
互いの唇が離れる頃には、僕の思考はとろとろに蕩かされていた。
「アレックス、アレン…」
甘やかな声で僕を呼ぶ殿下は、酷く悲しげな顔をしていた。今にも泣き出してしまいそうなその表情に、何処か既視感があって。
気怠い腕をどうにか伸ばし、殿下の頭をそっと撫でる。さらさらと指の間を滑っていく髪を撫で付け、時折絡め取り遊ぶ。
殿下の頬を両手で包み込み視線を合わせた。くしゃりと顔を歪めた殿下は、小さな子供みたいだった。
とても大事な人を失ったような、こっちまで胸が痛むような顔。
「…でん、か…は、ぼ、くが、すき?」
服用した毒の影響なのか、一ヶ月も眠っていたからなのか。原因は分からないが、僕の喉は掠れ声帯も引き攣っていた。
そんな聞き取りづらい言葉だったのに、顔を歪めたまま殿下は笑みを作る。泣き笑いのようなそんな表情が可愛らしくて、何故だか愛おしいと感じる。
ついこの間まで彼が大好きだったのに。僕は、とんだ浮気者かもしれない。でもまぁいいか、あっちだって浮気者だったし。お互い様って事で手を打とう。
こつり、殿下の額と僕の額が重なる。そっと目を閉じた殿下は、絞り出すように声を出した。
「あぁ、あぁっ…私は、君を愛してる。何年も前から君を、アレンだけを…この先もずっと、アレンだけを」
「……ふふ、」
殿下の心からの告白に、僕の心が少しずつ満たされていくような気がした。
◇
「アレン、おはよう」
「…はよ、ご、ます…」
寝ぼけ眼で引き攣った挨拶を口にすれば、殿下は柔らかく微笑んでくれた。
あれからというものの、僕はずっとあの部屋で過ごしている。一度だけ祖国の彼の事を訪ねれば、今にも泣き出してしまいそうな顔でまだあの男が好きなのかと問われた。
正直言って、もう好きではないし愛してもいない。ただ、あの日あの場であれだけの騒ぎを起こして、僕自身を罪に問う声が無かったのかを聞きたかったのだ。正直にそう話せば、僕を抱き締めた殿下はそれはもう嬉しそうににっこりと笑った。
「大丈夫だ、アイツの罪は全て報告している」
眩いばかりのその笑顔に、釣られて笑ってしまった。然し、殿下が口にした内容は余りにも非情だ。
彼は男遊びはいざ知らず、領内の税収を一部懐に納めていた。つまるところ、横領だ。
それは全て彼の婚約者や遊び相手、自身の酒代などなど。まぁ、私腹を肥やしに肥やしまくっていたのだ。僕はそれを接待費などとしてどうにか誤魔化していたが、どうやら殿下は全て知っていたようだ。
それならば僕も罪に問われるのではないか、そう思ったけど大丈夫らしい。
「アイツの罪をバラす前に、アレンを正式に私の婚約者としたんだ。それと、アレンは騙されていただけで無関係だと…隣国の王子の婚約者を、堂々と罪に問う事は出来ないだろう?それに、証拠も不十分だ」
不適に笑う殿下に、思わずときめいてしまった。多分、それを正直に話す事はないだろうけど。
僕はいつの間にか隣国の王子の婚約者になっていて、彼との縁を完全に断ち切られて、実家とももう関わらなくてよくて…全部僕が眠っている間に根回ししたらしい。殿下は敵に回しちゃいけないなと思う。
まぁそんなこんなで、僕は今恐ろしいほど平和な日々を過ごしている。大事にされて甘やかされて、幸せすぎてちょっと怖いけど。
そんな僕の感情を察知したのか、目の前の殿下がやや不機嫌そうに眉間に皺を作った。
「…アレン、また余計な事を考えてるな?君はただ、幸せになればいいんだ。今まで辛い思いをしてきた分以上にな」
余りにも図星な問い掛けに、思わずふいと視線を反らす。無言を肯定と取った殿下は小さくため息を吐き出した後、僕の額に唇を落とした。
それが照れくさくて嬉しくて、もぞもぞと身動ぎしながら殿下の胸元に顔を埋める。頭上から聞こえる小さな笑い声はとても嬉しそうで、大きな掌で撫でられると僕は直ぐに眠くなってしまう。
本来ならば、もう起き出さなければいけない。出来立ての美味しい朝ごはんが用意されてるし、食後の温かい紅茶も出来上がっているだろう。この国のお茶は香りが豊かで後味すっきりで、とても美味しい。
起きなくちゃ、起きなくちゃ…そう思うたび、どんどん瞼が下りていく。
「二度寝したって良い。この家の人間は皆、アレンをとても大切に思っている…君は好きなだけ、甘えていいんだ」
殿下の言葉は魔法みたいに心の奥底まで沁み込んで、言う通りにしてしまう。
僕は皆に大事にされている、好きに過ごして良い…皆、優しく許してくれるから。笑顔で、僕の事を見ていてくれるから。
もう眠気が限界だった。殿下に甘えるように顔を摺り寄せ、寝心地の良い場所を探す。僕を宥めるように頭をなで続けてくれる掌にとろりと笑みを零すと、殿下も嬉しそうに笑ってくれた。
…ねぇ、お母様。僕は今、とても幸せですよ。
今日の主役二人が壇上で輝く。僕はそれを、ただぼんやりと見上げていた。
知っていた、何もかも。今晩彼の隣に立てるのは僕じゃないと分かった上で、ずっと爛れた関係を続けていた。
確かに僕たちは付き合っていたけど、彼から明確な愛の言葉を聞いた事は一度もない。それでも僕は、満足だった。
大好きな彼のそばに居たい、ただそれだけだった。なのにそれすら、許されなかった。
「……あぁ、息がしにくい」
この世は何て不条理なんだろう。こんなに彼に尽くしてきた僕が選ばれず、悪い噂の絶えない彼が婚約者になるなんて。
まぁ結局は、顔なんだろうな。あの人は自分の傍に置く人間は、能力ではなく顔で決めているから。
だから、僕がそれを補っていたのだけど。仕事の出来ない奴らに代わって、僕が執務を担っていた。
今頃彼の邸は大騒ぎだ。だって、碌な引き継ぎなんてせずに荷物を纏めて出て行ったから。
ざまぁみろ、心の中で毒を吐いた。それでも僕は、変わらず彼が大好きだった。
さらりと揺れる綺麗な髪も、整った精悍な顔立ちも…形のいい唇から出る声も吐息も、僕の事を弄んで楽しんでいる性格の悪さも。
全部全部、好きだった。だから、僕を捨てた事を一生後悔して欲しい。
「…ご婚約おめでとうございます、閣下」
「あぁ、アレックスか…ありがとう、君にも良い人が早く見つかるよう祈ってるよ」
いけしゃあしゃあとそう宣う彼に、一瞬だけ殺意が湧く。
でもいいんだ、彼に死んでもらうにはまだ早い。僕がどれだけ彼を愛しているのか、憎んでいるのか…はっきりと見てもらう必要があるのだから。
「僕には、とてもとても愛する人が居るのです。彼はとても美しく、優しく、時に酷く僕を痛めつけるんです」
「…それは、別れた方が良いのではないか?」
「えぇ、分かってます。ですが、そんな彼がどうしようもなく愛おしくて可哀想で、僕が離れられないのです」
可哀想、という単語を聞いた瞬間彼の眉間に皺がよる。あぁ、本当に可哀想だ。
だって彼は、僕がこれからしようとしていることを知らない。知ってたらきっと、この会場に僕を入れたりなんかしない。
この婚約発表は、僕への当て付けだ。お前なんか自分の傍に置く気はない、今までご苦労様と主張して、僕が傷つくさまを嘲笑いたかったんだろう。
甘いなぁ、もう。そんなんだから、社交界で頭でっかちだなんて言われちゃうんだよ。
ジャケットのポケットに忍ばせておいた小瓶を取り出す。透明のとろりとした液体は、即効性のある毒薬だ。
見た目からは想像付かないが、しっかりとした違法薬物である。彼は訝しげに眉を顰めたまま此方を見ていた。小瓶の蓋を開け、彼の目の前で一気に飲み干す。
途端に指先が痺れ、何かがせり上がってくる。咄嗟に口元を片手で覆ったけど間に合わず、僕の口から大量の血液が溢れだした。
「な、なっ…!?」
周囲の人間は悲鳴を上げながら逃げ出し、彼はその場にしりもちをつく。あはは、無様だなぁ。
彼の婚約者は異変を察知してさっさと会場の奥へと退散していた。どうやら、そういう悪知恵はやたらと働くらしい。
ひゅーひゅーと細くなっていく呼吸、色が失せていく視界。僕は死ぬんだなぁなんて暢気な事を考えながらその場に倒れ込む。
でも良かった、最後に彼の痴態を拝む事が出来て。冥途の土産にピッタリだ。
「っ…駄目だ、アレックス…!」
最後に聞こえた悲痛な声は、誰のものなのか分からなかった。
◇
「…、」
ふと目を覚ますと、見慣れない天井が目に入る。いや、違うな。これはベッドの天蓋の部分か。
身体は酷く重たくて、指先一つ動かせない。あれ、僕寝る前何してたんだっけなぁ…。
そこで漸く思い出す。そうだ、僕は彼の婚約発表の夜会で毒を飲んで自殺しようとしたんだった。あれ、でも生きてるな。おかしい、あの毒は適切な処置を一定時間内に行わない限り解毒は不可能なはずなんだけど。
視線だけキョロキョロと動かして、違和感に気づく。この部屋の調度品の至る所に施されている鷲の意匠は、隣国の王家のものではなかっただろうか。
…もしかして、国際問題にまで発展した?そんな馬鹿な。僕も彼も彼の婚約者も、隣国とは何の縁も持っていない筈だ。もし王家なんかと縁深ければ、流石に覚えているだろうし。
幾ら考えても悩んでも、答えなんて出なかった。まぁ人生諦めが肝心だとも言うし、ここは大人しく諦めて沙汰を待とう。
そう決意した直後、部屋の扉が開かれた。そして、僕と彼の視線が交わる。
「アレックス!目が覚めたんだな…!」
心底嬉しそうに僕の名前を呼ぶ彼を、僕は知らない。いや、一方的に知ってはいるが。
隣国、シェヘラ王国の第二王子。名前は、ベラトリクス・シェヘラ。
龍の愛し子、聖龍の神子など国内での人気が高い方だ。そんな彼は王太子の忠実な家臣として、色々な政策に関わっている。王太子が正式に王となれば、王弟として公爵位を賜る予定だと聞いた。
そんな人が、何故僕の事を愛おしそうに呼ぶんだろう。面識だって、ない筈だ。でも何故だか懐かしい気がして、ちょっとだけ気持ち悪い。
「ふふ、私の事が分からない…という顔だね。でも今は、それは横に置いておこう」
そう言って易しく微笑む殿下は、僕の頭を大きな掌で優しく撫で始めた。
それがあたたかくて心地よくて、うとうとしてしまう。今にも寝てしまいそうな僕を、殿下は優しく見守っていた。
ゆるく細められるエメラルドの瞳。その光景に何だかデジャヴを感じるのに、思い出せそうで思い出せない。喉の奥に魚の骨が引っかかっているような、そんな感じ。
今すぐ思い出したいのに…そんな考えも虚しく、僕は心地よい眠りの世界へ潜っていった。
「アレン、私の愛しい人…絶対に君を、幸せにする」
殿下が呟いた一言は、僕の耳には届かなかった。
◇
再び目を覚ましても、僕は変わらずあの部屋のベッドに横たわっていた。
唯一違っていた事といえば、今回は殿下が最初から部屋の中に居た事だろうか。僕の片手を握り、椅子に座ったまま眠っていた。
寝起きの上手く働かない頭で、ぼんやりと殿下の端正な顔立ちを見つめる。スッと通った鼻筋に、薄くて形のいい唇。さらりと揺れる青みがかった黒髪は、角度によって藍色にも真っ黒にも見える。
今は閉じてしまっているが、瞼の奥には眩いばかりのエメラルドがはめ込まれている。僕のありきたりな茶髪や茶色の虹彩とは天と地ほどの差がある美しさだ。
…そう言えば昔、王宮の大規模なお茶会で似たような色合いの女の子と話したっけ。もしかしたら、殿下の妹君か親戚かもしれないな。
「…そんなに見つめられると、照れるんだが」
いつの間にか起きていたらしい殿下が、困ったように呟きながら目を開ける。直ぐに見えたエメラルドに思わず見蕩れてしまった。
不意に殿下の手が僕の方へと伸びてくる。不思議に思って視線で指先の動きを追っていれば、そっと頬を撫でられた。
慈しむように、宝物に触れるように…そんな繊細な動きがどうしようもなく嬉しくて、思わず笑みが浮かんでしまう。
「っ…君はまた、そんな無防備に…」
眉間に皺をつくった殿下が、何処か怒ったように呟く。その理由がいまいち分からなくて首を傾げていれば、不意に殿下の顔が近づいてきた。
ふにり、唇に柔らかな感触が触れる。視界いっぱいに映るのは殿下の端正な顔立ち。
驚いてぱちぱちと瞬きを繰り返していれば、口内にぬるりとした物が侵入してきた。抵抗する間も無く僕の舌を絡め取り、擦り合わせられる。
くちゅくちゅと響く水音がどうしようもなく羞恥を掻き立てられる。でもそれ以上に気持ちよくて、もっとして欲しいと求めてしまう。
互いの唇が離れる頃には、僕の思考はとろとろに蕩かされていた。
「アレックス、アレン…」
甘やかな声で僕を呼ぶ殿下は、酷く悲しげな顔をしていた。今にも泣き出してしまいそうなその表情に、何処か既視感があって。
気怠い腕をどうにか伸ばし、殿下の頭をそっと撫でる。さらさらと指の間を滑っていく髪を撫で付け、時折絡め取り遊ぶ。
殿下の頬を両手で包み込み視線を合わせた。くしゃりと顔を歪めた殿下は、小さな子供みたいだった。
とても大事な人を失ったような、こっちまで胸が痛むような顔。
「…でん、か…は、ぼ、くが、すき?」
服用した毒の影響なのか、一ヶ月も眠っていたからなのか。原因は分からないが、僕の喉は掠れ声帯も引き攣っていた。
そんな聞き取りづらい言葉だったのに、顔を歪めたまま殿下は笑みを作る。泣き笑いのようなそんな表情が可愛らしくて、何故だか愛おしいと感じる。
ついこの間まで彼が大好きだったのに。僕は、とんだ浮気者かもしれない。でもまぁいいか、あっちだって浮気者だったし。お互い様って事で手を打とう。
こつり、殿下の額と僕の額が重なる。そっと目を閉じた殿下は、絞り出すように声を出した。
「あぁ、あぁっ…私は、君を愛してる。何年も前から君を、アレンだけを…この先もずっと、アレンだけを」
「……ふふ、」
殿下の心からの告白に、僕の心が少しずつ満たされていくような気がした。
◇
「アレン、おはよう」
「…はよ、ご、ます…」
寝ぼけ眼で引き攣った挨拶を口にすれば、殿下は柔らかく微笑んでくれた。
あれからというものの、僕はずっとあの部屋で過ごしている。一度だけ祖国の彼の事を訪ねれば、今にも泣き出してしまいそうな顔でまだあの男が好きなのかと問われた。
正直言って、もう好きではないし愛してもいない。ただ、あの日あの場であれだけの騒ぎを起こして、僕自身を罪に問う声が無かったのかを聞きたかったのだ。正直にそう話せば、僕を抱き締めた殿下はそれはもう嬉しそうににっこりと笑った。
「大丈夫だ、アイツの罪は全て報告している」
眩いばかりのその笑顔に、釣られて笑ってしまった。然し、殿下が口にした内容は余りにも非情だ。
彼は男遊びはいざ知らず、領内の税収を一部懐に納めていた。つまるところ、横領だ。
それは全て彼の婚約者や遊び相手、自身の酒代などなど。まぁ、私腹を肥やしに肥やしまくっていたのだ。僕はそれを接待費などとしてどうにか誤魔化していたが、どうやら殿下は全て知っていたようだ。
それならば僕も罪に問われるのではないか、そう思ったけど大丈夫らしい。
「アイツの罪をバラす前に、アレンを正式に私の婚約者としたんだ。それと、アレンは騙されていただけで無関係だと…隣国の王子の婚約者を、堂々と罪に問う事は出来ないだろう?それに、証拠も不十分だ」
不適に笑う殿下に、思わずときめいてしまった。多分、それを正直に話す事はないだろうけど。
僕はいつの間にか隣国の王子の婚約者になっていて、彼との縁を完全に断ち切られて、実家とももう関わらなくてよくて…全部僕が眠っている間に根回ししたらしい。殿下は敵に回しちゃいけないなと思う。
まぁそんなこんなで、僕は今恐ろしいほど平和な日々を過ごしている。大事にされて甘やかされて、幸せすぎてちょっと怖いけど。
そんな僕の感情を察知したのか、目の前の殿下がやや不機嫌そうに眉間に皺を作った。
「…アレン、また余計な事を考えてるな?君はただ、幸せになればいいんだ。今まで辛い思いをしてきた分以上にな」
余りにも図星な問い掛けに、思わずふいと視線を反らす。無言を肯定と取った殿下は小さくため息を吐き出した後、僕の額に唇を落とした。
それが照れくさくて嬉しくて、もぞもぞと身動ぎしながら殿下の胸元に顔を埋める。頭上から聞こえる小さな笑い声はとても嬉しそうで、大きな掌で撫でられると僕は直ぐに眠くなってしまう。
本来ならば、もう起き出さなければいけない。出来立ての美味しい朝ごはんが用意されてるし、食後の温かい紅茶も出来上がっているだろう。この国のお茶は香りが豊かで後味すっきりで、とても美味しい。
起きなくちゃ、起きなくちゃ…そう思うたび、どんどん瞼が下りていく。
「二度寝したって良い。この家の人間は皆、アレンをとても大切に思っている…君は好きなだけ、甘えていいんだ」
殿下の言葉は魔法みたいに心の奥底まで沁み込んで、言う通りにしてしまう。
僕は皆に大事にされている、好きに過ごして良い…皆、優しく許してくれるから。笑顔で、僕の事を見ていてくれるから。
もう眠気が限界だった。殿下に甘えるように顔を摺り寄せ、寝心地の良い場所を探す。僕を宥めるように頭をなで続けてくれる掌にとろりと笑みを零すと、殿下も嬉しそうに笑ってくれた。
…ねぇ、お母様。僕は今、とても幸せですよ。
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